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2022年4月26日火曜日

事故や事件から何も学ばない日本:JR宝塚線脱線事故から17年

17年前の4月25日、JR宝塚線(福知山線とも言う)で快速電車が脱線する事故があり、乗客106人と運転士が死亡し、乗客562人が重軽傷を負った。その脱線事故から25日で17年経った。現場の追悼施設「祈りの杜」では3年ぶりに追悼慰霊式が営まれた。

 


この事故から日本は重要なことを学ばなかった。それは、大事故や大事件の真相究明ができない不思議な日本の体質(文化)である。つまり、宝塚線の脱線事故の直接的原因は、資質に欠ける人物を運転手にしていたことだった(補足1)が、その中心点を避けるように原因追及の議論がなされた。(補足2)

その運転手は過去何度か、列車停止のポイントを十メートル以上はなれてしまう失敗を繰り返して、研修を受けるなど資質に欠ける人物だった(補足3)。しかし、その人物を運転業務につけ続けた人事と、それに携わった人物を批判する議論は殆どなかった。

それよりも、ATSの問題、過密ダイヤ、業務員の教育などの問題の議論に終始した。この不思議ゆえに、かなり記憶力を喪失した今の私でも、鮮明に記憶しているのである。(補足4) 

この件、検察による不起訴の決定を検察審査会が覆して、会社の経営者が業務上過失致死罪で強制起訴されたが、結局無罪になった。当時のNHK午後6時のニュースで、法律の専門家と思われる人物が、刑法には枠があり、経営者を処罰することは無理なので、新しい法律を造るべきだと言っていた。この方のコメントは、全くピント外れであった。

あの事故において、業務上過失致死罪で処罰されるべきは、運転士(死去しているので無理)や不適応な運転士を業務から外さなかった現場の人事担当者だと思う。会社の最高幹部には直接関係がない筈である。会社の最高幹部には、本来別の仕事がある筈。

もちろん具体的な形で、この路線の過密ダイヤの解消は事故防止の上から大事であるとの意見が現場から出されていて、それを最高幹部が握りつぶしたのなら話は別である。(補足5)しかし、そのような形跡がないので、検察は起訴しなかったのだろう。


2)日本の企業文化の異常

上記のような検察審査会の決定は、恐らく日本の企業文化の実態と整合性を持っているのかもしれない。つまり、日本社会における最高幹部は双六の上がりのポジションのようなもの、或は、会社等組織の看板になることのようである。

何かあるとテレビカメラの前で深々と(心の中とは無関係に)頭を下げることや、会社が看板を一新する場合には首を差し出すのが組織幹部の大切な仕事なので、その日本の伝統では会社の最高幹部が責任を負って、刑務所に入るのが筋なのかもしれない。

つまり、明らかに現場が犯したミスで事故が起こったときでも、現場のみが責任(刑事)を問われることになれば(補足6)、日本社会では会社の責任逃れとなるのである。そのような文化なら、日本ではまともな機能的組織の形成は不可能ということになる。

もし、現場から幹部まで議論を通して緻密な情報交換が行われる社会であれば、現場の重大なミスのほとんどは、現場のミスとして裁かれても問題にはならない筈である。逆に、日本の大きな組織の至る所で現場の暴走が起こりえるのは、最高幹部が現場をほとんど知らないからである。(補足7)

この重大な事実は、最終的に日本の息の根を止めることになるだろう。

この件でもう一つ問題は、検察審査会という組織・制度のあり方である。法律の専門家数人(検察官、弁護士、裁判官)が証拠と論理的な討論の末に出した不起訴の結論を出したにも拘らず、素人が感情の趣くままに検察審査会を利用して、強制起訴するという馬鹿げたことになっている。

この制度や陪審員制度は、西欧文化の猿真似なのだろう。

追補: この会社幹部が責任を取るべきかどうかの問題で私の意見がまともに通じない理由が、その後の読者との議論で分かった。それは日本の多くの人は、会社などの法人を閉じた存在として把握していることである。西欧文化では、法人はオープンな組織であり、その隅々まで国家の法が優先する。従って、業務上過失致死罪の「業務」は、国家という共同体社会におけるその人物の業務であって、会社に対する業務という意味ではない。日本国は政治経済における西欧文化を受け入れたのであり、政治経済活動においては、芯から西欧文化を理解して行うべきである。
この「業務」は、国家がその基準や義務等を規定できる類型的業務である。それは、会社に利益を導く様々な行為が付随する会社の従業員としての業務とは異なる。例えば、宅配便の配達中の交通事故で問われる業務上過失致死罪における「業務」は、車の運転である。

補足:

1)運転手が既に死亡しているからと言って、その罪を問わないのは日本文化の所為である。つまり個人の責任追及は和の精神に反するという文化である。その文化は簡単に全体主義に転化する日本独特の体質である。個人が見えない日本という国に民主主義は成立しないというのが、御厨貴らがゴーストライターとなっていた小沢一郎著「日本改造計画」の主題だった。

2)事件の因果関係を日本人の多くは追及する能力がないのは、ある種の宗教的呪縛の所為だと思う。それは多分仏教的な世界観と関係している。この類の因果関係追及を忌避する日本人の姿勢は、例えば原爆碑の文章にも見られる。そこには、原爆を投下した人物も、その考え方も、それらを非難する文言もない。「安らかにお眠りください。過ちはくりかえしませぬから」この碑文を見た米国人は最初驚き、やがてそのような考え方の日本人を馬鹿にするだろう。ウィキペディアにも運転手の資質に関する記述はない。

3)私は、この運転手を非難する気持ちは全く無い。この運転手にとっても不幸なことであり、このような適材適所を実現できない文化の国に生を受けた不幸を共有する。自分に合った職業につけば、まったく別の人生があっただろうと推察する。適材適所は組織の全体としての能力を決定するので、文化として適材適所の方法論を獲得しておかなければならない。これも「日本の低迷の原因は日本文化にある」の一例である。

 

4)今回のブログ記事は、2013年の判決後に書きかけた文章を基に書いた。その時の印象が未だ頭に残っているので、加筆してアップした次第。
https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466514047.html

5)そんな現場の話が最高幹部まで到達するようでは、その会社は既に倒産しているだろう。

6)事故の民事上の責任は会社が取る。従って、会社の業務でミスをして損害を誰かに与えたとしても、補償責任は当該従業員個人ではなく、会社にある。勿論、その従業員が会社の就業規則などに反した結果のことであったなら、会社はその補償を当該従業員に要求できる。

7)現場が暴走して事故を起こし、それが会社の”体質”の問題であることが明らかだった場合は、そのトップに刑事責任(業務上過失)が及ぶだろう。

因みに、満州事変から対中戦争への暴走は、日本を消滅させる原因だったと後世に言及されるだろう。日本の最高幹部が集まった大本営と満州の秀才たち(満洲三スケなど)との議論が成立しなかったのだろう。

 

(4月28日、修正が重なり申し訳ありませんでした。)

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