言葉の進化論(3):善悪に見る言葉の壁
今回の記事の初めに、「言葉の定義域」という考えを導入する。「言葉が本来支障なく通じるのは社会の内部である」という今までの話を、「言葉の定義域は社会内部である」と言い換えるのである。つまり、言葉の壁で囲まれた範囲が「言葉の定義域」である。
この定義域という言葉を用いる利点は、言葉を社会内部以外に使用する場合などの考察に便利だからである。定義域が単語ごとに議論できるなどのメリットがある。例えば、善悪という言葉と違って、真理という言葉は社会を跨いで定義される。そのような違いが生じるのは、「真理」は「社会における団結」とは無関係だからである。
1)前回の文章で、「戦争で人を殺すことは悪か?」という疑問文を例に上げて、「善悪という概念は、社会の内部でしか明確な意味を持ちえない」と書いた。つまり、善悪の定義域は社会の内部である。
その理由として考えたのが、言葉の進化論(1)に述べた言葉の発生と進化のモデルである。つまり、言葉は元々我々個人が思考するために発生・進化したのではなく、思考のために最適化されていないと云うことである。
この考え方は、オリジナルなものかもしれない。例えば、近代哲学の偉人であるエマヌエル・カントが倫理を考えたとき、言葉は社会や善悪とは無関係に、思考の道具として与えられたと思った筈である。何故なら、カントは善悪を普遍的なものと考えているからである。
つまり、カントの人間が持つべき基本倫理である“定言命法(捕捉1)”は、絶対的であり、変遷や進化などを考えて居ないからである。
誰かが、カントの理想主義的倫理が、国際連盟や国際連合などの設立の基礎として機能したと言っていた。もしそうなら、それら国際機関が、時代の変遷に伴って機能不全に陥るのは当然の結果だろう。
この言葉に定義域があること、特に善悪が所属社会内の、しかも、その中で利益を多く得ている人間に便利な言葉であることに気づいていたと思われる偉人がいる。親鸞である。
言葉は「社会の繁栄と維持発展に最大限に寄与する個体間のコミュニケーション法」として発展してきた。一方、人間社会とは無関係に進化した言葉がある。数学である。従って数学の定義域は人間社会に限られていない。その優れた論理性により科学に用いられ、科学は全世界の研究者の参加を得て、大きく発展した。
世界の政治の混乱は、言葉が通じないことによる。利害相反や文化的反発がそのまま言葉の壁となり、互いの意思疎通ができないからである。深刻な危機にあるといえる世界政治の原因のかなりの部分は、言語が民族(社会)の境界を超えて通じないことによると考えられる。(捕捉2)
兎に角、この微妙な遷移状態にある世界で悲劇的結末を避けて生き残るためには、世界の政治家連中は、言葉に固有の定義域が存在することを十分意識すべきであると私は思う。
2)ここで、親鸞の有名なことば、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」を考えてみる。「善人が極楽往生できるのなら、悪人はより極楽往生にふさわしい」という意味である。
この親鸞の言葉は、一つの社会内部という言葉の定義域に留まっていては、理解不能である。親鸞が言う悪人とは、例えば、社会から死罪や流罪などの判決を言い渡された者である。そして善人とは、その社会から最も多くの利益を得ている余裕ある人達である。
悪人は善悪という言葉の定義域(社会)の外にいるが、善人は社会の中心にいる。従って、親鸞は敢えて言葉の定義域を超えて善悪を用い、衆生の心理的救出を考えたのだと思う。或いは、上記言葉の善悪は、すべての人間を視野にいれた阿彌陀佛の立場での善悪なのだろう。(捕捉2)
同じ善悪という言葉の概念も、定義域を大きく拡大すれば、意味が大きくことなるのである。社会内の論理でもって、親鸞の言葉がおかしいと言う前に、社会の内外を俯瞰する阿弥陀如来の視野で、善悪という言葉を用いていることに注意すべきである。
社会の外に跳ね除けた者(悪人)を、善悪という言葉で裁くのは、単にその反作用による社会の結束強化に期待するイジメに似た社会の現象である。それは中学校の生徒から存在する衆生の持つ悪しき習性だろう。
善悪という物差しは、悪人を評価する物差しではなく、攻撃する武器である。裁かれる側の者が極楽往生できないと考えるのは、社会を構成する側の傲慢である。救済を考えるのは阿弥陀さんなのだから。
世界全体を見る”阿弥陀如来の目”には、多くの善人や悪人の間に差はない。(捕捉2)むしろ悪人の方が、その生涯において十分不条理な苦労を強いられて来たのであり、阿弥陀仏の憐れみの対象としてふさわしい。“悪人”が唱える「南無阿弥陀仏」は、元居た社会での“悪行”の阿彌陀佛による評価をすべて受け入れるという合意の言葉だろう。
ここで余計な事かもしれないが一言。親鸞は極楽の存在を信じていなかった可能性がある。ある宗教があったとして、その教団の中で(不真面目なニセ信者は別にして)その宗教を信じているかどうか不明、或いは疑わしいのは、ただ一人教祖である。教祖の位置は、数学で言うところの特異点である。(捕捉3)
半野生の現代政治において、善悪を論じるのは、半ば愚かなことである。更に野生の世界(あるいは生物の世界)全体を見れば、悪とは敵の別名にすぎない。戦場での敵と味方の間を考えると、殺人さえ悪の烙印を押せなくなるのと同様である。
3)余分な追加事項:北朝鮮問題と善悪の問題
北朝鮮による日本国民の拉致は、善悪や犯罪の問題として論じるべきではない。日本と北朝鮮という二つの国家は国交のない野生の関係にある。従って、他国民の拉致は戦争行為と見るべきである。その解決には、この行為が本来戦争を意識して対応すべきことであると、両者が気づくことが大事である。
その第一ステップにも至っていないのだから、解決する筈がない。日本側の取るべきなのは、戦争を意識して北朝鮮に無条件で「返せ!」ということである。それを北朝鮮が拒否したときには開戦しかない。その緊張感を、日本も北朝鮮も持っていないのが現実ではないのか。
もし、日本は憲法上戦争できないとして、その第一ステップを取れないのなら、そしてそれが憲法改正を拒否する国民側の責任なら、その一部国民は被害者を見捨るという宣言をしたことになる。その認識を、全国民の前に明らかにすべきである。
従って、拉致被害者の会が交渉の相手にすべきは、日本国民とその代表である日本政府である。経済協力などの条件を持ち出しての北朝鮮との返還交渉などを、政府にせまるのは間違いである。
捕捉:
1)定言命法(Categorical Imperative: 断言的な強制)は、カントの倫理の中心的概念。ただ、こんな面倒な言葉を用いる哲学は、大学時代には拒否反応の対象であった。ここに書いたにわか仕込みの知識について、間違っている箇所があれば是非ご教授いただきたい。
2)この阿弥陀仏の役割と、カントを批判したヘーゲルの「絶対精神」は似た概念であるのが面白い。この絶対精神を考えることでヘーゲルは弁証法的変化(進化)を考えた。阿弥陀仏の目には、善悪も固定的でなくなるのと同様である。
3)この捕捉も本題からずれるのだが、どんな機会でも利用して言っておきたいことがある。それは世界政治でも、特異点に注意が必要だということである。特異点とは、例えばその国家のトップである。国家のトップは、常に国家のために自己犠牲的に思考し行動していると仮定できれば、世界政治の分析はもっと簡単だろう。
習近平は、トランプは、プーチンは、そして、日本の安倍晋三は、本当に夫々の国のことを第一に考えているのだろうか?
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