今朝の中日新聞一面のトップ記事のタイトルは、「平和憲法崖っぷち」である。その記事によると、「戦後の歴代政権が維持して来た現行憲法下の平和主義は岐路にたっている」らしい。現在安倍政権が進めている、現行憲法下で集団的自衛権を持とうとする「解釈改憲」に対して反対するというスタンスで記事はかかれており、同じ趣旨から「中日春秋」が自衛隊発足時の国会での議論を紹介している。法制局長官は「昔は満州が日本の生命線であるということで、(中略)満州に兵隊をだしたことも自衛権と言っていたわけであります」と国会で釘をさしたというのである。この新聞社の方向から見た現在の安倍政権のもくろみは、この記述の通りだと思う。私は、解釈改憲よりも憲法改正の方向で議論すべきだと思う。(1)
そこで憲法を改めて読んでみた。憲法前文の最初のパラグラフに、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」という文章が挿入されており、戦争責任者として罰せられた者の反省文をそのまま憲法にしていることが判る。二番目のパラグラフの始めに、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という文章が来る。これまでの壮絶なる国家間の生存競争を無視した現実性に乏しい憲法である。
「平和憲法」というのは山本七平の「日本教について」の言葉で言えば「空体語」である(注2)。ここで、空体語とは「純度の高い人」(つまり単純で理解しやすい人)が述べる言葉である。「恒久の平和を祈願し、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、安全を保持する」という言葉は、宗教における「正義を信じて善をなし、極楽往生をとげる」のようなものであり、どちらも実際には死ななければ(滅亡しなければ)到達しない世界の話である。
日本教については、別にブログに書いた。(注3)私は、日本教という考え方を用いなくても日本の諸現象は解析可能だと思う。以下、実体語と空体語という言葉をそのまま借用するが、日本教の教義は用いないで議論する。
日本において、実体語と空体語の表れ方は例えば以下の様である:何かの問題を解決するための具体策を「実体語」として練り上げたとして、それを行なった際に生じる不都合について、その解析から解決までの論理的な道筋が日本語で構築出来ない(注4)。そのため、その実体語表現を真っ向から否定する者が、より単純な理想論を持って現れる。そのことばを、「空体語」とよぶことにする。そして、空体語派と実体語派の間にまともな議論の無い、従って論理的でない戦いの末に、国家の方向が決められる。ただ、空体語の方が単純で判りやすく、国民の人気も高い場合がおおい。論理的思考により方向を適宜調節すれば、運動は曲線運動になるが、この国では「実体語派」と「空体語派」の議論により、修正案を創りだすというプロセスが無く、どちらかで記述される方向に直線上を動く。そして、壁にぶつかり、そこで方向を変えてまた直線運動で動くという繰り返しだったと思う。(注5)。
私は、日本語はあまり出来の良い言語ではないと思うが、それでも論理的な議論は可能である(注4)。まともな「ことば」を用いて議論し、法を定め、不都合が生じればそれを改正し、政治を実態に沿って動かす国家になってもらいたい。そして、あらゆるレベルで、人と人の和や人脈だけではなく、論理と客観性を尊び、議論により物事を決する文化を構築すべきだと思う。その結果、日本語が徐々に論理的思考に適した言語に変質していくだろう。
注釈:
1)ただ、安倍内閣の下での憲法9条廃止などの改憲には反対である。少なくとも、中国との友好関係を演出することに成功する政権でなければ、憲法9条の廃止は出来ないし、してはならないと思う。
2) これに対抗する実体語表現は、例えば「軍事力で現状を変えようとする他国の圧力に対して、こちらも軍備を整えて対抗しその野心を放棄させる」ということになるのだろう。もちろん、経済的な利害関係や外交上の友好関係などを築き上げて、問題の発生そのものを防止するという戦略がなければならないのは云うまでもない。
3)一月18日と21日のブログ記事参照:(http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/01/blog-post_18.html)
4)http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html
5)このように考えると、朝日新聞の終戦を境にしての論調の変化が理解できると思う。
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