1)一週間ほど前に、一年以上前に書いたある事件に関するブログ記事に対し、コメントをもらった。その返事も兼ねてここに人間の行いの善悪について書く。事件とは、ある介護ヘルパーが、88歳の老人を介護する際に数千円の現金を盗んだ件である。隠しカメラを仕掛けた親族が発見し、赦しを請うヘルパーを警察に突き出し、その映像や音声データなどをテレビ局にも渡した。テレビ局で放映されたのだが、情報提供に対し謝礼を渡さなかったとの断りは特になかった。(補足1)
この件に関して、親族の行為はやりすぎではないかと書いた記事に、「ヘルパーとしての賃金ももらって、さらに窃盗までするヘルパーには、慰謝料も支払ってもらうべきです。ただの泥棒より、たちがわるい。」というコメントをもらったのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42650671.html#43195544
この種の介護では、老人と二人きりになる場合がほとんどなのだから、分かりやすい所には現金を置かない工夫とか、窃盗行為を防止できるように用意していることを、予め知らせる工夫はできなかったのか?自分たちが本来するべき老人の介護を代わってしてもらっているという、本来の社会における仕事の意味を正しく理解しているとは思えなかったのである。(補足2)
勿論、その介護ヘルパーは犯罪人として警察の厄介になるのは当然だが、隠しカメラとマイクで周到に証拠をつかみ、警察に突き出す行為に“醜さ”を感じたので、裁判で弁護人となった気持ちで書いたのがそのブログの文章だった。そのコメントに対する十分な答が出来なかったことが本ブログ記事を書く動機の一つである。
更に、隣国がドイツに“北朝鮮の喜び組という性奴隷の少女”をモデルにしたような像と旧日本軍が韓国人の少女を強制連行して性奴隷にしたという嘘を書いた石碑とを建立して、日本を攻撃することに対する怒りも動機の一つである。
http://www.sankei.com/world/news/170309/wor1703090029-n1.html
2)人間の行為を形容することばに善悪や美醜がある。ある行為が善か悪かは、一般的な社会のルールに違反しているかどうかで決まる。一方、美と醜で評価する場合、必ずしも善が美に、悪が醜に対応するわけではない。
人は言うまでもなく生命体であり、生命体は他の生命を奪って生きる宿命にある。その奪われる命の中には、人のものも含まれる。限られた空間とその資源では、地球は無限の命を収容できないのである。しかし、人の命を奪うことは、当然善悪の物差しをあてれば極悪だろう。つまり、全ての人間が善の中に分類されることは不可能であり、自分が善であるとの前提で人を裁くのは愚かなことだと思う。
つまり、ある行為の主と対象となる人が異なるグループに属するばあい、更に、異なる国に属する場合、善悪は行為を評価する物差しとしては役立たない。従って、美醜の方が人の行為を評価するより普遍的な物差しと言える。
自分の近親者の介護を自分に代わって行っている介護ヘルパーに対して、その行動に猜疑心をもってカメラとマイクを仕掛け、千円札数枚を抜き取った場面の証拠をとって警察に突き出す行為は、罠を仕掛けてネズミを捕獲するような行為に見え、醜い行為に見えたのである。
また、自分たちの国の貧しい情況や戦争という極限情況に対する想像を封じて、併合されていたことに対する雪辱を果たすべく、日本を攻撃するための口実を捏造して世界の至る所に少女像と、日本人を攻撃する碑文を掲げる韓国の人たちの醜さを指摘したいのである。また、それに共鳴する振りをして、競合する日本国を引き摺り下ろそうとする西欧の醜くさも指摘したい。
3)この100年間、所謂科学技術文明の発展が人間の生きる空間を大きくした。世界大戦が終わり、平和な先進国に生じたのが、全ての人間が善を装って自由に生きられるという幻想である。その美しい幻想の時代に先進諸国で定着したのが自由主義であり民主主義ではないだろうか。その環境で産まれて生きた現在の人間たちのなかで、将来生き残れるのは早期に自分たちが生きるのは他の犠牲においてのみ可能だと気付いた人たちだろうと思う。
現在世界の歴史はそのような極点に到着している。その世界にあって22世紀に生き残れるのは、世界最強の国(米国やロシア)、現実的に対応できる絶対者が舵取りをする国(例えば中国)、そして、政治的に永い伝統を持った国家の中で保守政党が政権を握った国(英国など戦略に長けた西欧諸国)だと思う。つまり、強いものや狡いものたちが生き残れるのである。
生き残るための現実主義的考え方に対して、あくまで表の平和や人権などの論理で政府与党を攻撃するのが、革新政党と呼ばれる野党なのだろう。上記の次世紀に生き残る国は、淘汰される可能性のある国の中に(特に野党議員やマスコミ人として)、多くの諜報員を潜り込ませていると考えた方が良いと思う。その結果の一つとして、所謂革新政党に国の舵取りを任せば、国家としての道を誤る危険性が高いことを、既に国民の多くは気付いている筈である。(補足3)
現在朝鮮半島や中国が、日本の政治が混乱することを期待していて、そのように隠れたところで画策しているとしても、それは非難すべきことではなく、常識的な対応だと思う。実際に過去から現在まで日本の政治が混乱しているのは、特別な仕掛けで育てられた(P-trapやMoney-trap)人たちの活躍の結果かもしれない。
過去の非常時の出来事に対して、歴史の中に送り込み未来へ向かっての外交を約束した後にもかかわらず、人権尊重や性差廃絶など平時の善悪の基準に訴え、日本を攻撃する韓国の醜さ。それに共鳴する振りをしている西欧のずる賢さ。かれらに怒りを覚えるだけでは、そこから何も学んだことにならない。彼らは、上記歴史の転換点における生存競争において、生き残ることを真剣に考えていると考えるべきである。
結論であるが、人、人の集団、国家などの評価を行う際、思考の土俵(空間)を拡大すると、先ず善悪が役立たなくなる。そして、「生き残る」という生命の本質に関わる時、美醜も役立たずになるのである。
補足:
1)社会に警鐘を鳴らすためなら、報酬はうけとるべきでない。また、その犯罪現場がテレビ放送されたことは、加害者に対する処罰の追加に等しく私刑(憲法31条違反)に当たるので、映像や音声は警察だけに提出すべきである。
2)人間は社会を作り協力して生きている。その協力とそれへのお返しという、二人の間での協力関係を、お金を媒介にして多数の人の協力の輪に拡張したのが、労働と賃金という関係の本来の意味である。
3)社会党の党首が総理大臣になったことがある。そのときの談話が、未だに日本の政治的立場に悪影響を及ぼしているのは周知の通りである。 また、社会党元委員長、勝間田清一はコミンテルンのスパイであったと言われている。
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