1)同性間のパートナーシップを同性婚と呼び(補足1)、その関係を法的に結婚と同等と見做すかどうかが、議論されている。それを認めることは、戸籍法や財産権等を定める法律中の結婚(婚姻)や配偶者を、“同性婚”とその相手方を意味する言葉に読み替えることになる。それに関して、自民党など保守政党は反対であり、野党の民進党、社民党、共産党などは賛成である。
しかし、この同性間のパートナーシップ(“同性婚”)を従来の結婚と同等なものとして、現在の法を読み替えることは言語学的には無理である。更に、何よりも問題なのは、従来の結婚や家族を軽視することに繋がり、それは社会に混乱を持ち込む。
また、LGBTではない正常な同性間にもその様な関係を認めざるを得ないだろう。その結果、その関係を利用して相続税などの対象額を少なくすることなどに利用される可能性もあり、その点でも社会に混乱を起こすなど、問題点が多い。
杉田水脈氏の“同性婚”に関する新潮上での記事は、上記のような社会の混乱を意識しつつ、法整備などに関連して生じる様々な行政コストなどから、“同性婚”を認めるべきではないという主張なのだろう。元々“同性婚”を制度化することに賛成の野党政治屋らは、その中の攻撃し易い言葉尻を捉えて、大衆の反権力意識を醸成して居るのだろう。
2)仮に“同性婚”を認めるとしたときに、先ず大きな障害となるのは、“同性婚”は憲法24条に違反することである。それを既に安倍総理は指摘している。
憲法第24条: 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
この憲法問題を、小西洋之参議院議員(民進党)がlivedoor newsで粗雑に議論しているので、その反論の形で以下筆者の考えを述べる。小西氏は以下のように記している。(下線は本ブログ筆者による)http://blogos.com/article/316459/
実は、安倍内閣は、「同性婚は憲法24条に違反し、許されない」という解釈を何の根拠もなく打ち出していたのです。
発端は、2015年2月18日の参院本会議における安倍総理の以下の国会答弁です。 『憲法二十四条は、婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立すると定めており、現行憲法の下では、同性カップルに婚姻の成立を認めることは想定されておりません。』
しかし、憲法の条文を解釈する際に大切なことは、その条文の根本的な意味(趣旨)に基づくことです。
憲法24条が定められた趣旨は、明治憲法下においては結婚には家長や父母の同意が必要であったものを改め(家族制の廃止)、あくまでも、結婚を個人の自由意志のみに基づくものにし、結婚する個人の尊厳の尊重を守ることにあります。
であるならば、個人の尊厳は男女であれLGBTの皆さんであれ、誰でも絶対に尊重されなければならないものであるのですから、憲法24条1項の「両性」を「男女」と解釈する必要性はないし、寧ろ、そのようにしてはならないのです。
小西議員の考え方(最初の二つの下線部)によれば、家族制は廃止されるべきであり、それが現憲法24条の趣旨だという。その趣旨が憲法のどこにあるのか? 本来憲法制定の趣旨は、前文に書かれるべきだが、個人の尊厳などという言葉は一切書かれていない。(補足2)また、同じ第3章の第13条には、「生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と書かれている。
小西氏は、憲法24条の前に存在するこの憲法13条を読んでいないのだろうか。“同性婚”も含め、個人の幸福追求の権利は、公共の福祉に反しない限り尊重されるのである。“同性婚”という同性間のパートナーシップを結婚と同等と公に認めることは、生物としての有史以来生き残ってきた人類の基本的生活形態に反する。家族で子供を産み育てるという、結婚と家族の特別な意味を否定することになる。それは、社会を混乱に導くことになり、公共の福祉に著しく反するだろう。
結婚や家族関係を、社会における個人間の関係の一つに過ぎないのであり、特別視する必要など無いと言うのは、異星人の暴論である。それなら、結婚など憲法で記述する必要などないではないか。
つまり、「人は成長して家族を為し、子を産み育てる」という個人の人生が、社会の健全な形での維持つまり公共の福祉のために必須である。社会の健全な形での維持は、民族および国家の繁栄の要諦である。家族関係維持を社会における基本的制度と捉える考え方を否定するのが、野党政治屋の考えなのだろう。
同性の間の結婚を両性の間の結婚と同一視するということは、別の角度から見ればこのようなことになる。
3)「法はその趣旨に基づいて解釈すべきだ」との考えは、法解釈の基礎だろう。しかし、それはどちらの解釈が正しいかということが問題となる場合であり、両性を同性と読み換えることはあり得ない。それは、自衛隊は他国を攻撃するための戦力ではないので、憲法違反ではないという憲法解釈と似た流儀の憲法解釈であり(補足3)、常日頃小西氏の民進党、社民党、共産党など野党が反対している憲法解釈ではなかったのか。
民進党、社民党、共産党などが、同性婚を制度として認めるべきだと主張しているが、その為に憲法24条を改訂すべきとは言っていない。つまり、憲法24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」の「両性」という語句など無視すべきだと主張していることになるのだが、この事には本当にびっくりである。
上の内容と一部重複するが、私の結婚と家族に対する考え方と、この記事の結論を以下に記す。
家族は社会の構造図において、個人の直ぐ上の階層に位置する基本的単位だと理解している。そして、家族は最初一組の男女が結婚し夫婦となってスタートし、子供を得て家族が大きくなる。家族は、次の世代の担い手を養育するという、社会において重要な機能の大きな部分を負担する。
家庭においては、父親と母親は別の役割を持つ。父は家庭を守る義務があり、母は家庭を維持し子供の養育の中心となる。その男女の子供養育の場(人間では家庭)に於ける役割分担は、基本的にはほとんど全ての哺乳動物に共通である。それは遺伝子レベルから決定されている。この男女の自然な機能は、家族との生活の中で(家庭の中で)子供たちに学習されるべきである。
子供のいない家庭も存在する。しかし、家庭を維持することは、社会の中に調和的に生きる上で、双方に益となる。結婚しない人や、離婚した人、配偶者と死別した人など、独身の方も社会には相当数いるだろう。上記の様な制度を維持することは、それらの人々から家庭を維持する重要性への理解を得ることに繋がる。更に、その制度により安定な社会が維持されれば、それら独身の方々の利益にもなるだろう。
勿論、LGBTの方々が、独自に契約を行なって安定なパートナーとなり、家庭を築くことは好ましいことだろう。しかし、それに対して一般のハウスシェアリングと区別して、行政が関与する必要はないと思う。
以上の様な趣旨で、憲法24条も解釈するのが当然である。それに疑義を挟む人が居るとすれば、異星人か、他国の諜報機関の為に働く人だと思う。
補足:
1)広辞苑第二版で結婚を引くと、「男女が夫婦になること」とのみ書かれている。同性婚などという言葉は当然掲載されていない。同性の間の結婚はあり得ないのであり、従って、「同性間のパートナーシップ」と言うべきである。
2)憲法全文には、国民主権、平和主義(諸国民の公正と信義の信頼に基づく国際主義)が書かれて居る。
3)「国家における自衛権は、憲法以前の自然権である。憲法9条第一項は、それを否定していない。自衛隊はその自衛権の行使のために存在する。それは他国を侵略し、攻撃するための戦力に当たらない。」 私は、この考えに必ずしも同意する訳ではないが、以上が自衛隊合憲論の考えだと理解している。つまり、野党が批判する自衛隊合憲論は、もう少し緻密にその根拠が組み立てられているのだ。
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2018年9月30日日曜日
2018年9月29日土曜日
同性婚を法制化するかどうかの問題
杉田水脈氏(自民党衆議院議員)の同性婚に関する新潮上での記事について、野党議員等からの非難と反論が大きく世間にこだましている。これに関して自民党幹部の議員たちは困っているようだ。(補足1)民進党の理屈が得意な政治屋たちが、自民党攻撃の材料として飛びついたからである。馬鹿馬鹿しい限りだが、ブログを書いているので避けずに一言意見を出そうと思う。
1)実は、2015年11月に既に一度書いていたことが閲覧記録からわかった。それは、「同性婚の法制化には反対である」と題した文章である。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/11/blog-post_28.html この文章では、その問題に関するNHKのアンケート調査の質問設定を批判したのち、自分の意見を書いている。
その時の「自分の意見」の主旨を要約すると、以下の①—③のようになる。それに続いて前回の内容も含め、今回新たに筆者の意見をここに記す。
①基本的な理解であるが、LGBTというのは性的障害である。そして、それが直接妨げにならない法的権利については、当然認められるべきである。
②LGBTの同性の二人が、人生のパートナーとなる法的契約を新たに作ることには、それほど反対ではない。しかし、仮にそれを認める場合には、LGBTに限らず一般に認めるべきである。つまり、LGBTでない同性間のパートナーシップを法的に新たに創設するのである。
③同性のパートナーシップを法的に認める場合、従来の結婚により二人が得る権利と同等ではないだろう。
言うまでもないが、結婚は次の世代を作り育てること、そして、その世代が社会を支えて行くのである。その中には、前の世代の老後の面倒を見ることも含まれる。その連続により、社会が世代循環的に維持されると言うことである。従って、結婚して子を産み育てることがノーマルな人生の形であり、社会がそのようなタイプのパートナーシップを支持するものでなくてはならない。(補足2)我々は社会の中でしか生きられない。従って、社会を維持防衛することが行政の責任なのは言うまでもない。
上記②に関してだが、同性のパートナーシップを法制化するのなら、それをLGBTでないノーマルな人にも認めるべきである。それを認めないとしたら、それも差別である。また、普通の結婚(異性婚)と同性のパートナーシップの間にいろんな明確な違いがある以上、社会との関係に於いて差が生じるのも至極当然である。
これらのパートナーシップに付与される権利を法的に規定するには、遺産相続や贈与税などの財産権関連の法律との整合性を考え、それらの法を改訂する必要も出てくるだろう。従って、日本文化との調和性を含め慎重に考察して制定すべきである。
西洋の真似をすることが日本国に適しているとはかぎらないのである。その議論を国会等で行い、制度を制定するにはコストがかかるが、現社会の構成員としての個人の多数がそれを要求するのなら、それはやるべきである。
この「多数が要求する」というのは、民主主義政体を採用する以上、行政システムを使う場合の基本的要件である。勿論、多数が要求することは、多数が直接関わる(多数の問題である)こととは等価ではない。それは、社会が正常に運営されるために、それが必要だと多数が考え要求することである。その意味で、多数が要求しないのなら、そのような制度を創設する必要はない。
2)杉田水脈氏の新潮上の記事について議論が、Amebaテレビで放映された。https://www.youtube.com/watch?v=vUDc2-qrCsY そこで、パネルとしてまとめたられた杉田氏の主張の要点を、Amebaテレビの画面から再録する。(補足3)
① 行政が動くということは税金をつかうということです。
②彼ら彼女らは子供を作らない、つまり生産性がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。
③普通に恋愛して結婚できる人まで、「これって(同性愛)いいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。
この中で、①「行政が動くということは税金をつかうということです」はその通りである。②の前半、「生産性がないのです」は、全く問題はない。この言葉が問題視されることは、驚異である。
杉田氏は、子供を作らないことを「生産性(英語productivityの翻訳語だろう)が低い」と言ったのだが、このproductivityには多産(性)の意味も(当然)ある。つまり、議論の対象が物品と子供の違いがあるが、生む数/つぎ込んだエネルギーという点では共通だからである。
この杉田発言を批判する世論の嵐の原因は、工業産品と人生での子育てを一緒にされるのが腹立たしいということらしい。この、言霊に支配されたレベルの低い批判が大半である点に注目すべきである。また、その嵐を煽る枝野氏など民進党の人たちは、それを政治利用しているのであり、政治屋としての典型的行動である。
②の後半に話を戻す。LGBTのパートナーシップ制度創設が、子供の生産性が低いからと言って、その制度を作る必要がないと言うことにはならない。それは既に上に述べた。LGBTの人も社会の構成員である。それらの方がカップルとなり、家族を構成する制度を作るべきだと言う意見の人が多数を占めれば、その類の制度を作る必要があると結論するのが、民主国家での行政のあり方である。(補足4)
しかし、同性のパートナーシップを通常の異性間の結婚と同一の法的権利を設定すること出来ないのは、最初のところに書いた通りである。「異性婚の間にも生産性のないカップルもある」とか、「同性カップルでも養子縁組もあり得る」という意見がAmebaテレビの上記番組でも出ているが、この問題は、今後できれば議論するつもりである。
ただ、ゲストの明治大教授の鈴木賢氏が主張するように、「公の空間でゲイ同士が手を繋いで歩く権利があり、それを差別視することはあってはならない」は間違いである。何故なら、個人は好き嫌いを表現する自由があるからである。人々がその光景の主に、蔑視の視線を向けることも、その結果差別を受けたと腹立たしい感情をゲイの方が持つのも、同様に個人的な好き嫌いの表現である。
その様な視線を向けるのは、下品であると人々が見るのなら、そのような視線は少なくなるだろう。その逆に、社会の健全な維持のためには、それらのカップルに冷たくしても当たり前だと言う考えが支配的になれば、視線は一層冷たくなるだろう。
社会から差別一切をなくすべきだと言う意見は、非常にナイーブな意見である。基本的人権は守るべきであるが、その人権の中に好き嫌いの表明も含まれる。人生は差別の連続である。(補足5)何故なら、個人は異なる能力を持ち、異なる容姿を持って、異なる両親の下に生まれる。もちろん、異なる国、異なる文化の中に生まれる。そこで一般的に差別をなくすることは不可能であり、そう主張するのは夢想家のすることである。
また、他の民族や他の国家が、特定の国や民族の文化に対して、干渉することは最小限に抑えるべきである。その一例がこのLGBTへの対応の問題である。それは、この国の文化の問題であり、他国、多民族がとやかく言うことではない。その因果応報は、その国その民族が引き受けるからである。番組のイントロで、ゲストのパックンが行った通りである。
補足:
1)竹下郁子と言う人が、杉田発言を非難している(https://www.businessinsider.jp/post-172378)。 このかた、何もわかっていない。この程度の議論で、マスコミに掲載されることそのものが、日本の病気である。ライブドアニュース(http://blogos.com/article/316459/)らも同様である。最後の記事などは、野党議員の一人による非常に劣悪な批判である。
2)子供ができない夫婦、子供を作らない夫婦も存在する。また、同性カップルでも、養子を育てることが可能である。この点については本文でも書いた様に、今後できれば議論する予定である。
3)パネルに書かれた項目全てを下に再録する。
○ LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか。
○ (LGBT当事者から聞いた話として)「社会的な差別云々よりも、自分達の親が理解してくれないことの方が辛いと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じ様に結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると凄いショックを受ける。
○ そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。
○ 行政が動くということは税金をつかうということです。
○ 彼ら彼女らは子供を作らない、つまり生産性がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。
○ 私は中高一環の女子校で、まわりには男性がいませんでした。女子校では、同級生や先輩と言った女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して普通に結婚していきました。
○ 普通に恋愛して結婚できる人まで、「これって(同性愛)いいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。
4)杉田氏の、LGBTの人たちのパートナーシップ制度の創設に関して、子供の生産性/行政コストでその可否を判断すべきだというのは間違いである。分子に来るべきは、「社会(国家)の持続性、発展性、安定性への寄与」である。この杉田発言の間違いを、枝野氏らは正しく批判していない。
5)「差別」とは待遇が異なることを言う。社会に貢献するあらゆる要素において、与える質と量が少ない個人が、少ない評価や報酬を受けるのは自然な差別である。共産主義経済の考え方に「能力に応じて働き、必要に応じて取る」は、差別を否定する究極の考えである。しかし、「必要」が具体的に規定できないことは明らかであり、このような無意味な言葉が一定の歴史的役割をしたのは、驚異であり脅威である。
1)実は、2015年11月に既に一度書いていたことが閲覧記録からわかった。それは、「同性婚の法制化には反対である」と題した文章である。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/11/blog-post_28.html この文章では、その問題に関するNHKのアンケート調査の質問設定を批判したのち、自分の意見を書いている。
その時の「自分の意見」の主旨を要約すると、以下の①—③のようになる。それに続いて前回の内容も含め、今回新たに筆者の意見をここに記す。
①基本的な理解であるが、LGBTというのは性的障害である。そして、それが直接妨げにならない法的権利については、当然認められるべきである。
②LGBTの同性の二人が、人生のパートナーとなる法的契約を新たに作ることには、それほど反対ではない。しかし、仮にそれを認める場合には、LGBTに限らず一般に認めるべきである。つまり、LGBTでない同性間のパートナーシップを法的に新たに創設するのである。
③同性のパートナーシップを法的に認める場合、従来の結婚により二人が得る権利と同等ではないだろう。
言うまでもないが、結婚は次の世代を作り育てること、そして、その世代が社会を支えて行くのである。その中には、前の世代の老後の面倒を見ることも含まれる。その連続により、社会が世代循環的に維持されると言うことである。従って、結婚して子を産み育てることがノーマルな人生の形であり、社会がそのようなタイプのパートナーシップを支持するものでなくてはならない。(補足2)我々は社会の中でしか生きられない。従って、社会を維持防衛することが行政の責任なのは言うまでもない。
上記②に関してだが、同性のパートナーシップを法制化するのなら、それをLGBTでないノーマルな人にも認めるべきである。それを認めないとしたら、それも差別である。また、普通の結婚(異性婚)と同性のパートナーシップの間にいろんな明確な違いがある以上、社会との関係に於いて差が生じるのも至極当然である。
これらのパートナーシップに付与される権利を法的に規定するには、遺産相続や贈与税などの財産権関連の法律との整合性を考え、それらの法を改訂する必要も出てくるだろう。従って、日本文化との調和性を含め慎重に考察して制定すべきである。
西洋の真似をすることが日本国に適しているとはかぎらないのである。その議論を国会等で行い、制度を制定するにはコストがかかるが、現社会の構成員としての個人の多数がそれを要求するのなら、それはやるべきである。
この「多数が要求する」というのは、民主主義政体を採用する以上、行政システムを使う場合の基本的要件である。勿論、多数が要求することは、多数が直接関わる(多数の問題である)こととは等価ではない。それは、社会が正常に運営されるために、それが必要だと多数が考え要求することである。その意味で、多数が要求しないのなら、そのような制度を創設する必要はない。
2)杉田水脈氏の新潮上の記事について議論が、Amebaテレビで放映された。https://www.youtube.com/watch?v=vUDc2-qrCsY そこで、パネルとしてまとめたられた杉田氏の主張の要点を、Amebaテレビの画面から再録する。(補足3)
① 行政が動くということは税金をつかうということです。
②彼ら彼女らは子供を作らない、つまり生産性がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。
③普通に恋愛して結婚できる人まで、「これって(同性愛)いいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。
この中で、①「行政が動くということは税金をつかうということです」はその通りである。②の前半、「生産性がないのです」は、全く問題はない。この言葉が問題視されることは、驚異である。
杉田氏は、子供を作らないことを「生産性(英語productivityの翻訳語だろう)が低い」と言ったのだが、このproductivityには多産(性)の意味も(当然)ある。つまり、議論の対象が物品と子供の違いがあるが、生む数/つぎ込んだエネルギーという点では共通だからである。
この杉田発言を批判する世論の嵐の原因は、工業産品と人生での子育てを一緒にされるのが腹立たしいということらしい。この、言霊に支配されたレベルの低い批判が大半である点に注目すべきである。また、その嵐を煽る枝野氏など民進党の人たちは、それを政治利用しているのであり、政治屋としての典型的行動である。
②の後半に話を戻す。LGBTのパートナーシップ制度創設が、子供の生産性が低いからと言って、その制度を作る必要がないと言うことにはならない。それは既に上に述べた。LGBTの人も社会の構成員である。それらの方がカップルとなり、家族を構成する制度を作るべきだと言う意見の人が多数を占めれば、その類の制度を作る必要があると結論するのが、民主国家での行政のあり方である。(補足4)
しかし、同性のパートナーシップを通常の異性間の結婚と同一の法的権利を設定すること出来ないのは、最初のところに書いた通りである。「異性婚の間にも生産性のないカップルもある」とか、「同性カップルでも養子縁組もあり得る」という意見がAmebaテレビの上記番組でも出ているが、この問題は、今後できれば議論するつもりである。
ただ、ゲストの明治大教授の鈴木賢氏が主張するように、「公の空間でゲイ同士が手を繋いで歩く権利があり、それを差別視することはあってはならない」は間違いである。何故なら、個人は好き嫌いを表現する自由があるからである。人々がその光景の主に、蔑視の視線を向けることも、その結果差別を受けたと腹立たしい感情をゲイの方が持つのも、同様に個人的な好き嫌いの表現である。
その様な視線を向けるのは、下品であると人々が見るのなら、そのような視線は少なくなるだろう。その逆に、社会の健全な維持のためには、それらのカップルに冷たくしても当たり前だと言う考えが支配的になれば、視線は一層冷たくなるだろう。
社会から差別一切をなくすべきだと言う意見は、非常にナイーブな意見である。基本的人権は守るべきであるが、その人権の中に好き嫌いの表明も含まれる。人生は差別の連続である。(補足5)何故なら、個人は異なる能力を持ち、異なる容姿を持って、異なる両親の下に生まれる。もちろん、異なる国、異なる文化の中に生まれる。そこで一般的に差別をなくすることは不可能であり、そう主張するのは夢想家のすることである。
また、他の民族や他の国家が、特定の国や民族の文化に対して、干渉することは最小限に抑えるべきである。その一例がこのLGBTへの対応の問題である。それは、この国の文化の問題であり、他国、多民族がとやかく言うことではない。その因果応報は、その国その民族が引き受けるからである。番組のイントロで、ゲストのパックンが行った通りである。
補足:
1)竹下郁子と言う人が、杉田発言を非難している(https://www.businessinsider.jp/post-172378)。 このかた、何もわかっていない。この程度の議論で、マスコミに掲載されることそのものが、日本の病気である。ライブドアニュース(http://blogos.com/article/316459/)らも同様である。最後の記事などは、野党議員の一人による非常に劣悪な批判である。
2)子供ができない夫婦、子供を作らない夫婦も存在する。また、同性カップルでも、養子を育てることが可能である。この点については本文でも書いた様に、今後できれば議論する予定である。
3)パネルに書かれた項目全てを下に再録する。
○ LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか。
○ (LGBT当事者から聞いた話として)「社会的な差別云々よりも、自分達の親が理解してくれないことの方が辛いと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じ様に結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると凄いショックを受ける。
○ そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。
○ 行政が動くということは税金をつかうということです。
○ 彼ら彼女らは子供を作らない、つまり生産性がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。
○ 私は中高一環の女子校で、まわりには男性がいませんでした。女子校では、同級生や先輩と言った女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して普通に結婚していきました。
○ 普通に恋愛して結婚できる人まで、「これって(同性愛)いいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。
4)杉田氏の、LGBTの人たちのパートナーシップ制度の創設に関して、子供の生産性/行政コストでその可否を判断すべきだというのは間違いである。分子に来るべきは、「社会(国家)の持続性、発展性、安定性への寄与」である。この杉田発言の間違いを、枝野氏らは正しく批判していない。
5)「差別」とは待遇が異なることを言う。社会に貢献するあらゆる要素において、与える質と量が少ない個人が、少ない評価や報酬を受けるのは自然な差別である。共産主義経済の考え方に「能力に応じて働き、必要に応じて取る」は、差別を否定する究極の考えである。しかし、「必要」が具体的に規定できないことは明らかであり、このような無意味な言葉が一定の歴史的役割をしたのは、驚異であり脅威である。
2018年9月28日金曜日
大手企業に於ける英語公用語化の動きと明治時代の英語国語化の主張の根拠について
1)明治の初め、英語かフランス語を国語に採用したらどうかという意見が出た。このことは、既に何度かブログで取り上げた。具体的には、志賀直哉が国語をフランス語にすべきだと主張し、初代文部大臣の森有礼が国語を英語にすべきだと主張した。その背景には、日本語の習得の難しさや使用の際の不便があると思う。
現在、1,000万人程度以上の人口を持つ先進国の国民の中で、日本人は英語が話せない国民の筆頭だろう。人と資本が自由に国境をまたぐ今日、そのような状況では国家も国民も、今後何かと不利な状況に追い込まれるのは必然である。
最近のテレビニュースでも、独自に英語を公用語化する大企業が増加しているという報道があった。(補足1)そこで、ネット検索してみると、「時代の流れ“英語公用語化”大手企業一覧」(2015/8/27)という記事を見つけた。https://matome.naver.jp/odai/2144054770821558201
企業内での英語公用語化とは、英語を用いて会議や連絡をすると社内の規定として定めたということである。その様な企業には、楽天(2012)、ファーストリテイリング(Fast Retailing; 2012)、シャープなどがある。また、三井不動産(総合職社内全員のTOEIC 730点以上を目標)、三菱商事(1992年に一度英語公用語化を宣言したが失敗)なども追随する予定のようだ。
また、最近の日経新聞(2018/9/25電子版)によれば、資生堂やホンダ(2020年から)も、英語を準公用語化にするそうである。準公用語化というのは、日本語も使うことで現場の負担を少なくするためのようである。例えば、資生堂は10月から、会議と社内文書を英語に切り替えるという。 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35704530V20C18A9000000/
企業の社内英語公用語化の動きは、仕事の取引先などに外国人が含まれることが多く、必要に迫られてのものであり、尻に火がついたという状況下での対応だろう。そこで少し目を転じてみると、「そのような状況にあるのは、果たして大企業だけなのだろうか?」という疑問が浮かぶ。
例えば政府、中でも内閣官房や外務省や経産省などはとっくの昔から尻に火がついていたのではないだろうか?それを放置して、火元になるべく近づかない様にしてきたため、日本は外交において非常に不利な状況に追い込まれてきたのだろう。(補足2)
私は、明治時代に森有礼が英語の国語化を主張したときに、準国語化でも良いから実行しておくべきだったと思う。中高年は知識層や支配層から始めて、幼年は学校教育からでよい。全ての学校で無理なら、一部で初めて徐々に拡大すれば良い。100年後には、つまり現在、ほとんどの国民はバイリンガルになっていただろう。
また、日本の文化も大幅にかわっていただろう。相手に話をする時にyouが入り、自分の考えを言う時にはIを用いるだけで、人々は論理的に考えるようになっていただろう。(補足3)そして、空気を読む力よりも、論理的思考力の方が社会で重視されていたと思う。その結果、“忖度”よりも明確な手続きの跡を残して行政もなされただろう。
2)日本語の弱点:
日本語では、言葉から音と情報の両方が伝達される。お坊さんの経は、ほとんど音楽であり、情報は少なくとも一般人には伝達され無い。歌謡曲のような場合でも、その歌詞は意味と音の両方がほとんど同程度に重要である。外国語の歌でも、日本人は意味を考えずに唄うことに何の抵抗も感じていないようだ。(補足4)子供の名前も同様である。普通、漢字を用いるが、意味を考えると恥ずかしくなるような、あるいは訳のわからないような名前が多いのは、それが原因である。
日本語は変化が激しく、現在若者が使う言葉は年寄りには理解できず、年寄りが学んだ言葉は若者に理解されなくなる。その原因は、日本語の出来があまりにも悪いことである。その根本原因として私が思い当たる重要な点は、日本語の単語は語源から組織的にできていないことである。(補足5)
毎年文化庁が行なっている国語調査でも、頻繁に用いられるかなり多くの単語が、意味を取り違えて用いられていることが明らかにされている。昨年と今年の例を下に抜粋した。
今年の調査では、「ゲキを飛ばす」とか「なし崩し」の正しい意味を理解しているのは、20%程度であることが明らかにされた。「やおら」では40%程度である。「檄を飛ばす」が何故、「自分の主張や考えを広く人々に知らせて同意を求めること」になるのか、語源的根拠などない。それが、この言葉が正しく暗記されない一つの理由である。そして、この言葉は恐らく100年か200年程度以下の歴史しか持たないからだろう。
「やおら」が40%理解されているのは、その音から受ける印象が「本来の意味」に近いのが理由だろう。この単語も、語源など明確ではないだろう。「ゲキを飛ばす」の誤用の70%近くが、「元気のない者に刺激を与えて活気付ける」の意味で用いているので、20年もすれば広辞苑に正しい用法として記載されるだろう。日本語の変化がはやい理由の一つは誤用だろう。
言葉の変化が大きい理由は、その意味が語源にしっかりと繋がっていないことが原因だと思う。「済し崩し」は、語源がしっかりしているではないか?という人もいるだろう。しかし、済し崩しの「済し」を理解している人はほとんどいないし、「なし」と聞いただけでは、無し、成し、為しなど色んな「なし」がある。
また、「なし崩し」の「し」の意味は何なのか? 無しなら形容詞の「し」であり、成しや済しなら連用形「成したり」の「し」だろう。何故、連用形が二つくっ付いて、一つの単語に作り上げ、それを覚えることを要求するのか? それぞれ、別に使えば良いではないか。
英語のように音を聞いて、直ぐに書ける言葉は便利である。それについては何年も前にこのホームページで書いた。http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html
3)明治時代に国語を英語かフランス語にする決断をしておけば、大企業もこのような苦労をせずにすんだだろう。大企業の場合の総合職の間では、高学歴の人が多いので、なんとかなるだろう。しかしそれは、言語的に国民を分断することになる可能性が高い。
現在のように学ぶべきことが多くなった時、国語を英語にするという決断は出来ないだろう。言語上非効率なことへのエネルギーを割いて、英語の早期教育をすること位が関の山だろう。非効率なこと:漢字ブームや俳句ブームなどその中に入るだろう。クイズ番組などのテレビ放送はできれば慎むべきだ。
言葉は本来国民全ての会話、連絡、情報交換などのための道具である。それが、うまく機能していないのが、日本人を沈黙の民にする原因の一つである。そこに流れ込む外来語は、その傾向を加速する。文化庁は、調査はするが対策は打てない。下に外来語の理解度を示す調査結果を示す。外来語の多用は、外国語習得への好影響はないと思う。
補足:
1)ここで公用語化というのは、不正確な日本語かもしれない。英語を用いるといっても会社だけだから、公用語とは言えないからである。これは言葉が常に準備されているとは限らないため、誤用だとわかっているが、故意に近い意味の言葉を用いたのだろう。そのような事態を経験することが、日本語を用いる場合非常に多いと思う。日本語は、言語空間に隙間が多い。それが外来語が入り込む理由だと思う。
2)正式な外交上の話し合いは通訳を通すべきだろう。しかし、立ち話など非公式の話で、相手の腹を探ることが出来なければ、本当の意味での外交など出来ないのではないか。例を挙げる。イスラエル訪問した日本の総理大臣に、会食で靴の中に盛ったデザートを出した。そのような場面では、席を蹴る位の迫力がなければ、外交にはならないだろう。しかし、席を蹴っては外交にならない。つまり、ネタニヤフは日本の総理と会話など出来ない、外交など不可能だということを、世界に宣伝したのである。その行為に対する反応も日本では大してないことを知っている。日本ではまともな言葉を使っていないのだろうとバカにしているのだ。
3)バイリンガルのケント・ギルバート氏が、以下のようなことをテレビで話していた。彼は、原稿を日本語で考えて書く場合と、英語で考えて書く場合があるという。「英語で書いた原稿を日本語にするときは非常に簡単だが、日本語の原稿を英語にするときは文章を大幅に書き換えることが多い。」
4)サイモンとガーファンクルの「Bridge over troubled water」の訳が、何故か「明日に架ける橋」となっている。そして、英語で歌われるのだ。日本語で歌われることはあまりないので、視聴者は歌詞の意味など気にしない。https://www.youtube.com/watch?v=EGfY6oQYqg0
5)例を挙げるまでもないが、あえて一つ。英語では、come, combat, compact, contribute, consent, などのcom, conは二つの近づきを表す。batはbattle, pactはpack, tributeなどそれぞれも意味が合体して、上記単語は出来ている。
現在、1,000万人程度以上の人口を持つ先進国の国民の中で、日本人は英語が話せない国民の筆頭だろう。人と資本が自由に国境をまたぐ今日、そのような状況では国家も国民も、今後何かと不利な状況に追い込まれるのは必然である。
最近のテレビニュースでも、独自に英語を公用語化する大企業が増加しているという報道があった。(補足1)そこで、ネット検索してみると、「時代の流れ“英語公用語化”大手企業一覧」(2015/8/27)という記事を見つけた。https://matome.naver.jp/odai/2144054770821558201
企業内での英語公用語化とは、英語を用いて会議や連絡をすると社内の規定として定めたということである。その様な企業には、楽天(2012)、ファーストリテイリング(Fast Retailing; 2012)、シャープなどがある。また、三井不動産(総合職社内全員のTOEIC 730点以上を目標)、三菱商事(1992年に一度英語公用語化を宣言したが失敗)なども追随する予定のようだ。
また、最近の日経新聞(2018/9/25電子版)によれば、資生堂やホンダ(2020年から)も、英語を準公用語化にするそうである。準公用語化というのは、日本語も使うことで現場の負担を少なくするためのようである。例えば、資生堂は10月から、会議と社内文書を英語に切り替えるという。 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35704530V20C18A9000000/
企業の社内英語公用語化の動きは、仕事の取引先などに外国人が含まれることが多く、必要に迫られてのものであり、尻に火がついたという状況下での対応だろう。そこで少し目を転じてみると、「そのような状況にあるのは、果たして大企業だけなのだろうか?」という疑問が浮かぶ。
例えば政府、中でも内閣官房や外務省や経産省などはとっくの昔から尻に火がついていたのではないだろうか?それを放置して、火元になるべく近づかない様にしてきたため、日本は外交において非常に不利な状況に追い込まれてきたのだろう。(補足2)
私は、明治時代に森有礼が英語の国語化を主張したときに、準国語化でも良いから実行しておくべきだったと思う。中高年は知識層や支配層から始めて、幼年は学校教育からでよい。全ての学校で無理なら、一部で初めて徐々に拡大すれば良い。100年後には、つまり現在、ほとんどの国民はバイリンガルになっていただろう。
また、日本の文化も大幅にかわっていただろう。相手に話をする時にyouが入り、自分の考えを言う時にはIを用いるだけで、人々は論理的に考えるようになっていただろう。(補足3)そして、空気を読む力よりも、論理的思考力の方が社会で重視されていたと思う。その結果、“忖度”よりも明確な手続きの跡を残して行政もなされただろう。
2)日本語の弱点:
日本語では、言葉から音と情報の両方が伝達される。お坊さんの経は、ほとんど音楽であり、情報は少なくとも一般人には伝達され無い。歌謡曲のような場合でも、その歌詞は意味と音の両方がほとんど同程度に重要である。外国語の歌でも、日本人は意味を考えずに唄うことに何の抵抗も感じていないようだ。(補足4)子供の名前も同様である。普通、漢字を用いるが、意味を考えると恥ずかしくなるような、あるいは訳のわからないような名前が多いのは、それが原因である。
日本語は変化が激しく、現在若者が使う言葉は年寄りには理解できず、年寄りが学んだ言葉は若者に理解されなくなる。その原因は、日本語の出来があまりにも悪いことである。その根本原因として私が思い当たる重要な点は、日本語の単語は語源から組織的にできていないことである。(補足5)
毎年文化庁が行なっている国語調査でも、頻繁に用いられるかなり多くの単語が、意味を取り違えて用いられていることが明らかにされている。昨年と今年の例を下に抜粋した。
今年の調査では、「ゲキを飛ばす」とか「なし崩し」の正しい意味を理解しているのは、20%程度であることが明らかにされた。「やおら」では40%程度である。「檄を飛ばす」が何故、「自分の主張や考えを広く人々に知らせて同意を求めること」になるのか、語源的根拠などない。それが、この言葉が正しく暗記されない一つの理由である。そして、この言葉は恐らく100年か200年程度以下の歴史しか持たないからだろう。
「やおら」が40%理解されているのは、その音から受ける印象が「本来の意味」に近いのが理由だろう。この単語も、語源など明確ではないだろう。「ゲキを飛ばす」の誤用の70%近くが、「元気のない者に刺激を与えて活気付ける」の意味で用いているので、20年もすれば広辞苑に正しい用法として記載されるだろう。日本語の変化がはやい理由の一つは誤用だろう。
言葉の変化が大きい理由は、その意味が語源にしっかりと繋がっていないことが原因だと思う。「済し崩し」は、語源がしっかりしているではないか?という人もいるだろう。しかし、済し崩しの「済し」を理解している人はほとんどいないし、「なし」と聞いただけでは、無し、成し、為しなど色んな「なし」がある。
また、「なし崩し」の「し」の意味は何なのか? 無しなら形容詞の「し」であり、成しや済しなら連用形「成したり」の「し」だろう。何故、連用形が二つくっ付いて、一つの単語に作り上げ、それを覚えることを要求するのか? それぞれ、別に使えば良いではないか。
英語のように音を聞いて、直ぐに書ける言葉は便利である。それについては何年も前にこのホームページで書いた。http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html
3)明治時代に国語を英語かフランス語にする決断をしておけば、大企業もこのような苦労をせずにすんだだろう。大企業の場合の総合職の間では、高学歴の人が多いので、なんとかなるだろう。しかしそれは、言語的に国民を分断することになる可能性が高い。
現在のように学ぶべきことが多くなった時、国語を英語にするという決断は出来ないだろう。言語上非効率なことへのエネルギーを割いて、英語の早期教育をすること位が関の山だろう。非効率なこと:漢字ブームや俳句ブームなどその中に入るだろう。クイズ番組などのテレビ放送はできれば慎むべきだ。
言葉は本来国民全ての会話、連絡、情報交換などのための道具である。それが、うまく機能していないのが、日本人を沈黙の民にする原因の一つである。そこに流れ込む外来語は、その傾向を加速する。文化庁は、調査はするが対策は打てない。下に外来語の理解度を示す調査結果を示す。外来語の多用は、外国語習得への好影響はないと思う。
補足:
1)ここで公用語化というのは、不正確な日本語かもしれない。英語を用いるといっても会社だけだから、公用語とは言えないからである。これは言葉が常に準備されているとは限らないため、誤用だとわかっているが、故意に近い意味の言葉を用いたのだろう。そのような事態を経験することが、日本語を用いる場合非常に多いと思う。日本語は、言語空間に隙間が多い。それが外来語が入り込む理由だと思う。
2)正式な外交上の話し合いは通訳を通すべきだろう。しかし、立ち話など非公式の話で、相手の腹を探ることが出来なければ、本当の意味での外交など出来ないのではないか。例を挙げる。イスラエル訪問した日本の総理大臣に、会食で靴の中に盛ったデザートを出した。そのような場面では、席を蹴る位の迫力がなければ、外交にはならないだろう。しかし、席を蹴っては外交にならない。つまり、ネタニヤフは日本の総理と会話など出来ない、外交など不可能だということを、世界に宣伝したのである。その行為に対する反応も日本では大してないことを知っている。日本ではまともな言葉を使っていないのだろうとバカにしているのだ。
3)バイリンガルのケント・ギルバート氏が、以下のようなことをテレビで話していた。彼は、原稿を日本語で考えて書く場合と、英語で考えて書く場合があるという。「英語で書いた原稿を日本語にするときは非常に簡単だが、日本語の原稿を英語にするときは文章を大幅に書き換えることが多い。」
4)サイモンとガーファンクルの「Bridge over troubled water」の訳が、何故か「明日に架ける橋」となっている。そして、英語で歌われるのだ。日本語で歌われることはあまりないので、視聴者は歌詞の意味など気にしない。https://www.youtube.com/watch?v=EGfY6oQYqg0
5)例を挙げるまでもないが、あえて一つ。英語では、come, combat, compact, contribute, consent, などのcom, conは二つの近づきを表す。batはbattle, pactはpack, tributeなどそれぞれも意味が合体して、上記単語は出来ている。
2018年9月26日水曜日
高知白バイ衝突死事件とその偏向報道について
事件は2006年3月3日に起こった。高知県吾川郡春野町で発生した白バイ警察官の死亡事故である。現場の様子は、google mapで観ることができる。
https://www.google.co.jp/maps/@33.5212625,133.4735072,3a,75y,287.27h,96.58t/data=!3m6!1e1!3m4!1s8soMHCHAOw3QOi97XcA2sA!2e0!7i13312!8i6656 この事故、死亡した警察官に退職金を出すために、無実のバス運転手に罪がなすりつけられた冤罪事件であると、テレビ朝日系で宣伝された。
youtubeでその一つ“報道発「ドキュメンタリー宣言」”(テレビ朝日)を見て、そのように説得させられそうになった。以下この番組を中心にして考察していくことにする。https://www.youtube.com/watch?v=uxEx1PPXD1w (2008年月末放送された;この件は現在再審請求中である。)
1)この番組では、事故の説明ではなく、刑務所に服役のために自宅を出るバス運転手と家族の別れの場面から始まる。一通り不条理な事件という印象を視聴者に与えてから、事故の概略が説明される。しかし、その後の語りには嘘が含まれている。
動画の3:00過ぎから、「裁判員制度が始まるので、裁判とは何かを知る必要がある」と、番組作りの動機が説明されたあと、事故現場の空からの映像と事故の概略が説明される。①「高知県旧春野町、2,006年3月、この交差点で白バイと卒業遠足の中学生を乗せたスクールバスが衝突、白バイ隊員が亡くなりました」との語りが入る。
しかし、この段階で嘘が既に含まれている。それは、交差点での事故のように語っている点である。そこは交差点手前ではあるが、交差点ではない。交差点手前の道路外の施設から国道の手前二車線と右折線を横切り、向こう側の車線に入ろうとしたのである。
4:25秒から始まるのは裁判での証言として、当事者の発言が紹介されている。そこまで、現場の詳細な説明は一切ない。バスが国道に侵入した点の左方にある交差点には国道の交通を止める信号など無かったこと、横断歩道のための信号はあるが、それは赤であったことなどの説明が無ければ、事故の原因や責任の在り処がわからない。
それら現場の説明を抜きにして、事故についての当事者の語りが始まる。先ず、バス運転手の方の主張が示された。②「右折するため、左右の安全を確認してから国道に入った。他の車が通り過ぎるのを待って、道路中央に停車していたところ、白バイが突っ込んできました。」
この証言文が、裁判記録から忠実に再現したという説明はなかった。その所為なのか分からないが、証言内容に不思議な点がある。「右折するため、左右の安全を確認してから国道に入った」と言っているが、国道で右折車線に入る形の普通の右折ではない。③「右方向に向かうので、向こう側の車線に入るため国道に入った」が本来の表現だろう。
動画4:45から検察側の主張が紹介されている。④「片岡運転手は、安全確認を怠り国道に入ってきた。パトロール中の白バイの存在に気づかず、時速5-10kmで走行中に衝突、急ブレーキを懸け、およそ3m引きずりながら停止した。」
事故の本質的な理解のためには、②と④の下線部分の証言を詳細に検証しなければならない。この番組では、それが全く為されていない。従って、この番組は事故の詳細な解析は避け、警察、検察、裁判所による、国民の権利侵害を過大に宣伝するために作られたと考えられる。
上記②の運転手による証言によれば、目的車線において通り過ぎる車があったため、国道に侵入後目的車線に入れず、国道の左側に向かう交通を遮断する形で停車せざるを得なかったのである。それは非常に危険な状況であることは、実際に事故が起こり、人が一人死亡したことで明らかである。
目的車線に入るために、国道を塞ぐ形で停車しなければならないのなら、国道に入る際に安全確認できたとは言えない。「道路中央に停車していたところ」と言っているが、二車線を塞ぐ形での危険な停車であり、道路中央に停車していたとは言えない。(補足1)
この考察で、事故の原因の2/3はバス運転手の責任であると考えられる。残りの1/3の責任がバス運転手以外に帰せられるとすれば、パトカーが規則に反して、スピードを出しすぎていたと実証されたときだろう。実際に白バイに乗った警察官にもこの点でのミスがあったのだろう。それを隠蔽するために、警察側が非常におろかな行為ー証拠の捏造ーを行ったのだと私は思う。
つまり、バス運転手が制限速度で走行中の白バイに気づかず、かなりの速度で路外施設の駐車場から国道に出て来たために事故が起こったという嘘のシナリオを考え、その証拠となるタイヤ痕を捏造したのだろう。そして、白バイ隊員の退職金を満額出してあげたいという警察の身内を庇う姿勢に、あろうことか検察も裁判所も同調したのだろう。
2)テレビ局側は、検察側証言④「片岡運転手は、安全確認を怠り国道に入ってきた。パトロール中の白バイの存在に気づかず、時速5-10kmで走行中に衝突、急ブレーキを懸け、およそ3m引きずりながら停止した。」の中の、下線部分に含まれた嘘を攻撃する戦略を採用した。攻撃目標を、賢明にも小さく抑えたのである。そこは、検察側が捏造した部分であり、攻撃可能な箇所だからである。
しかし、バス運転手が無実であるとするなら、「安全確認を怠り国道に入ってきた」という部分を否定しなければならないのである。その部分が否定できないため、現場周辺の様子の説明をしないで、ごまかしたのだろう。また、事故原因の詳細な解析よりも、バス運転手とその家族の涙の場面を多用したのだろう。
上記イタリックで書いた部分が誤りであることの証明に、事故関連の解析時間の大半を費やしている。つまり、バスに乗っていた生徒達が、「バスは衝突時には停止していた」と証言している(補足2)し、時速10kmの走行から急ブレーキをかけても検察側資料にある様なブレーキ痕は出来ないのでその攻撃は簡単である。
パトカーの速度は恐らく制限速度を大きく超えていただろう。80km/h以上のスピードが出ていただろうと想像する。衝突時のパトカーのスピードについては、バスの破損の程度で分かる筈である。衝突までにブレーキを踏んだと考えられるから、バスの停車に気づいた時の速度よりも相当減速されている筈である。それらを考察すれば、現場に向かう時の速度はある程度見積もれるだろう。そのような話は一切放送にはなかった。
ただ、パトカーに追い抜かれたトラックの運転手の証言が紹介されていた。時速55km位までブレーキを踏んで落としたのだが、そのパトカーは相当のスピードで追い越して行ったという話である。この証言が本当なら、裁判で採用すべき証言である。ただ、この放送ではその人の氏名等個人情報に類するものは全く明らかにされなかったので、真偽の程はあきらかではない。
繰り返すが、検察側の主張にあるバスの急停車で出来たブレーキ痕は捏造だろう。既に紹介したブレーキ痕捏造の話にこの動画で事故分析の時間の多くを使っている。(10:00—18:00の約8分間)このような捏造をする背景には、パトカーの責任が問われると、死亡退職金が出なくなる可能性があるので、高知県警が身内を庇うために行ったのだろうとの推測が語られている。
3)この動画に見る限り、双方に事故の責任があると思われるが、既述のようにバス運転手の責任の方が大きいだろう。繰り返すが、番組では衝突時にバスが動いていたかどうかが、責任所在の分岐点のような紹介があったが、そうではないと思う。
本来、バスは出来るだけ早く動いて、反対側車線に出て右方向に走り去るべきだった。また、そのような運転ができない限り、国道に出るべきではない。ましてや、国道の片側を塞ぐ形で停車を続け、その結果死亡事故が発生すれば、現在なら危険運転致死罪として告発される可能性があるだろう。
この番組では、事故の原因に迫るというスタンスではなく、警察と検察、そして裁判所が結託して、バス運転手に事故の責任をなすりつけたというシナリオにそって、その論理の組み立てと補強、そしてその非難に重点がおかれている。そのために、バス運転手の家庭の事情や当時の学校の生徒の活動などの映像に半分以上の時間が費やされている。
この件における警察、検察、裁判所の作った国民に対する不信感は、相当この国の司法制度に悪影響を及ぼすだろう。その責任は、バス運転手の引き起こした一死亡事故に対する責任よりも大きいだろう。この事件とその捜査に対する不正は、国民のこれら機関に対する信頼感、更に国家に対する信頼感を大きく損なったといえるだろう。
また、この番組の内容で分かるように、この報道機関は事故の中心から国民の視線を逸らせて、国家機関の不正を攻撃する材料としてこの事故を利用しているように見える。この件の報道を行った機関は、あの慰安婦問題の捏造などに関わった機関でもある。このような報道機関に一定の価値を与え結果的に支援しているのが、この国の政治のあり方だと言える。
(筆者は運転免許は持っていますが、道交法等については素人です。間違い等の指摘があればご指摘ください。)
補足:
1)バスが止まっているので、白バイはその前方を通過しようとしたのだろう。まさにその時に、停車していたバスが目的車線に向かって発進したために、白バイに衝突したという解析もある。https://togetter.com/li/783291 それが妥当な解釈だろう。何故なら、止まり続けていたのなら、そのバスの前方を通過することが可能だからである。勿論、白バイはバスが動き出すことも考えて、止まるべきだった。それが出来なかったのは、スピードが出すぎていたことを示している。
2)子供たちでも集団で証言するとき、その証言の信憑性は薄い。テレビ報道も周辺も全て、バスの運転は正常であったという主張を欲していることを敏感に察知し、自然にその方向にある程度誘導されるからである。
因みに、ある中学生が5:45ころから意味有りげな説明をしている。「反対側の車が動いていたので、そこでずっとまってて、そろそろ行けるかなと思った頃に白バイがぶつかった」と言っているのである。「そろそろ行けるかなと思った頃に」というが、何故そろそろ行けるかなと思ったのか? それは動き出したからではないのか?
youtubeでその一つ“報道発「ドキュメンタリー宣言」”(テレビ朝日)を見て、そのように説得させられそうになった。以下この番組を中心にして考察していくことにする。https://www.youtube.com/watch?v=uxEx1PPXD1w (2008年月末放送された;この件は現在再審請求中である。)
1)この番組では、事故の説明ではなく、刑務所に服役のために自宅を出るバス運転手と家族の別れの場面から始まる。一通り不条理な事件という印象を視聴者に与えてから、事故の概略が説明される。しかし、その後の語りには嘘が含まれている。
動画の3:00過ぎから、「裁判員制度が始まるので、裁判とは何かを知る必要がある」と、番組作りの動機が説明されたあと、事故現場の空からの映像と事故の概略が説明される。①「高知県旧春野町、2,006年3月、この交差点で白バイと卒業遠足の中学生を乗せたスクールバスが衝突、白バイ隊員が亡くなりました」との語りが入る。
しかし、この段階で嘘が既に含まれている。それは、交差点での事故のように語っている点である。そこは交差点手前ではあるが、交差点ではない。交差点手前の道路外の施設から国道の手前二車線と右折線を横切り、向こう側の車線に入ろうとしたのである。
4:25秒から始まるのは裁判での証言として、当事者の発言が紹介されている。そこまで、現場の詳細な説明は一切ない。バスが国道に侵入した点の左方にある交差点には国道の交通を止める信号など無かったこと、横断歩道のための信号はあるが、それは赤であったことなどの説明が無ければ、事故の原因や責任の在り処がわからない。
それら現場の説明を抜きにして、事故についての当事者の語りが始まる。先ず、バス運転手の方の主張が示された。②「右折するため、左右の安全を確認してから国道に入った。他の車が通り過ぎるのを待って、道路中央に停車していたところ、白バイが突っ込んできました。」
この証言文が、裁判記録から忠実に再現したという説明はなかった。その所為なのか分からないが、証言内容に不思議な点がある。「右折するため、左右の安全を確認してから国道に入った」と言っているが、国道で右折車線に入る形の普通の右折ではない。③「右方向に向かうので、向こう側の車線に入るため国道に入った」が本来の表現だろう。
動画4:45から検察側の主張が紹介されている。④「片岡運転手は、安全確認を怠り国道に入ってきた。パトロール中の白バイの存在に気づかず、時速5-10kmで走行中に衝突、急ブレーキを懸け、およそ3m引きずりながら停止した。」
事故の本質的な理解のためには、②と④の下線部分の証言を詳細に検証しなければならない。この番組では、それが全く為されていない。従って、この番組は事故の詳細な解析は避け、警察、検察、裁判所による、国民の権利侵害を過大に宣伝するために作られたと考えられる。
上記②の運転手による証言によれば、目的車線において通り過ぎる車があったため、国道に侵入後目的車線に入れず、国道の左側に向かう交通を遮断する形で停車せざるを得なかったのである。それは非常に危険な状況であることは、実際に事故が起こり、人が一人死亡したことで明らかである。
目的車線に入るために、国道を塞ぐ形で停車しなければならないのなら、国道に入る際に安全確認できたとは言えない。「道路中央に停車していたところ」と言っているが、二車線を塞ぐ形での危険な停車であり、道路中央に停車していたとは言えない。(補足1)
この考察で、事故の原因の2/3はバス運転手の責任であると考えられる。残りの1/3の責任がバス運転手以外に帰せられるとすれば、パトカーが規則に反して、スピードを出しすぎていたと実証されたときだろう。実際に白バイに乗った警察官にもこの点でのミスがあったのだろう。それを隠蔽するために、警察側が非常におろかな行為ー証拠の捏造ーを行ったのだと私は思う。
つまり、バス運転手が制限速度で走行中の白バイに気づかず、かなりの速度で路外施設の駐車場から国道に出て来たために事故が起こったという嘘のシナリオを考え、その証拠となるタイヤ痕を捏造したのだろう。そして、白バイ隊員の退職金を満額出してあげたいという警察の身内を庇う姿勢に、あろうことか検察も裁判所も同調したのだろう。
2)テレビ局側は、検察側証言④「片岡運転手は、安全確認を怠り国道に入ってきた。パトロール中の白バイの存在に気づかず、時速5-10kmで走行中に衝突、急ブレーキを懸け、およそ3m引きずりながら停止した。」の中の、下線部分に含まれた嘘を攻撃する戦略を採用した。攻撃目標を、賢明にも小さく抑えたのである。そこは、検察側が捏造した部分であり、攻撃可能な箇所だからである。
しかし、バス運転手が無実であるとするなら、「安全確認を怠り国道に入ってきた」という部分を否定しなければならないのである。その部分が否定できないため、現場周辺の様子の説明をしないで、ごまかしたのだろう。また、事故原因の詳細な解析よりも、バス運転手とその家族の涙の場面を多用したのだろう。
上記イタリックで書いた部分が誤りであることの証明に、事故関連の解析時間の大半を費やしている。つまり、バスに乗っていた生徒達が、「バスは衝突時には停止していた」と証言している(補足2)し、時速10kmの走行から急ブレーキをかけても検察側資料にある様なブレーキ痕は出来ないのでその攻撃は簡単である。
パトカーの速度は恐らく制限速度を大きく超えていただろう。80km/h以上のスピードが出ていただろうと想像する。衝突時のパトカーのスピードについては、バスの破損の程度で分かる筈である。衝突までにブレーキを踏んだと考えられるから、バスの停車に気づいた時の速度よりも相当減速されている筈である。それらを考察すれば、現場に向かう時の速度はある程度見積もれるだろう。そのような話は一切放送にはなかった。
ただ、パトカーに追い抜かれたトラックの運転手の証言が紹介されていた。時速55km位までブレーキを踏んで落としたのだが、そのパトカーは相当のスピードで追い越して行ったという話である。この証言が本当なら、裁判で採用すべき証言である。ただ、この放送ではその人の氏名等個人情報に類するものは全く明らかにされなかったので、真偽の程はあきらかではない。
繰り返すが、検察側の主張にあるバスの急停車で出来たブレーキ痕は捏造だろう。既に紹介したブレーキ痕捏造の話にこの動画で事故分析の時間の多くを使っている。(10:00—18:00の約8分間)このような捏造をする背景には、パトカーの責任が問われると、死亡退職金が出なくなる可能性があるので、高知県警が身内を庇うために行ったのだろうとの推測が語られている。
3)この動画に見る限り、双方に事故の責任があると思われるが、既述のようにバス運転手の責任の方が大きいだろう。繰り返すが、番組では衝突時にバスが動いていたかどうかが、責任所在の分岐点のような紹介があったが、そうではないと思う。
本来、バスは出来るだけ早く動いて、反対側車線に出て右方向に走り去るべきだった。また、そのような運転ができない限り、国道に出るべきではない。ましてや、国道の片側を塞ぐ形で停車を続け、その結果死亡事故が発生すれば、現在なら危険運転致死罪として告発される可能性があるだろう。
この番組では、事故の原因に迫るというスタンスではなく、警察と検察、そして裁判所が結託して、バス運転手に事故の責任をなすりつけたというシナリオにそって、その論理の組み立てと補強、そしてその非難に重点がおかれている。そのために、バス運転手の家庭の事情や当時の学校の生徒の活動などの映像に半分以上の時間が費やされている。
この件における警察、検察、裁判所の作った国民に対する不信感は、相当この国の司法制度に悪影響を及ぼすだろう。その責任は、バス運転手の引き起こした一死亡事故に対する責任よりも大きいだろう。この事件とその捜査に対する不正は、国民のこれら機関に対する信頼感、更に国家に対する信頼感を大きく損なったといえるだろう。
また、この番組の内容で分かるように、この報道機関は事故の中心から国民の視線を逸らせて、国家機関の不正を攻撃する材料としてこの事故を利用しているように見える。この件の報道を行った機関は、あの慰安婦問題の捏造などに関わった機関でもある。このような報道機関に一定の価値を与え結果的に支援しているのが、この国の政治のあり方だと言える。
(筆者は運転免許は持っていますが、道交法等については素人です。間違い等の指摘があればご指摘ください。)
補足:
1)バスが止まっているので、白バイはその前方を通過しようとしたのだろう。まさにその時に、停車していたバスが目的車線に向かって発進したために、白バイに衝突したという解析もある。https://togetter.com/li/783291 それが妥当な解釈だろう。何故なら、止まり続けていたのなら、そのバスの前方を通過することが可能だからである。勿論、白バイはバスが動き出すことも考えて、止まるべきだった。それが出来なかったのは、スピードが出すぎていたことを示している。
2)子供たちでも集団で証言するとき、その証言の信憑性は薄い。テレビ報道も周辺も全て、バスの運転は正常であったという主張を欲していることを敏感に察知し、自然にその方向にある程度誘導されるからである。
因みに、ある中学生が5:45ころから意味有りげな説明をしている。「反対側の車が動いていたので、そこでずっとまってて、そろそろ行けるかなと思った頃に白バイがぶつかった」と言っているのである。「そろそろ行けるかなと思った頃に」というが、何故そろそろ行けるかなと思ったのか? それは動き出したからではないのか?
2018年9月24日月曜日
文明と科学の二人三脚は終わった。岩手へのリニア加速器誘致は金の無駄使いだ
科学の発展と伴に、人類は高度な文明を築いた。その歴史を簡単に振り返り、その二人三脚はもう終わった事を示す。そして、次世代の大型加速器「国際リニアコライダーILC」の日本での建設は(補足1)、貧乏国になりつつある国の金(かね)の無駄遣いであると思う。ILCは、日本が岩手県に誘致することを検討している。(追補:「科学=物理と化学の理論」と科学を狭く定義して議論しています。9/25 早朝)
1)文明の本格的な発展は、農業の始まりと伴にスタートした。(ジレッド・ダイヤモンド著の「銃、病原菌、鉄」参照)農業は、鉄を入手することで本格的に発展した。鉄鉱石は一般に鉄をプラス二価又は三価のイオンで含んでおり、そこから鉄を取り出すには炭などの還元剤とかなりの高温で熱する必要がある。(補足2)その技術開発は、科学の一分野である化学の誕生とも言える。
機械文明の発展は、蒸気機関の開発が契機になったと思う。それは熱を機械的運動に換える装置であり、物理学の熱力学も同時に発展した。装置には鉄が主に用いられた。ここまでは、科学は技術の後を追っていたのかもしれない。在る特定の技術は、それまで発展した文明の上に経験的に得られた可能性が大きいからである。ただ、発芽した技術が大きく発展するためには、科学的考察を必要としたから、二人三脚と考えるのは正しいと思う。(補足3)
現代の高度な電子技術文明は、それまでの真空技術などの技術の総体と量子力学とそれを応用した物性物理の発達の結果である。量子論は、物質の性質を電子のエネルギー状態と微視的な運動で記述することに成功した。その物性物理学進展の結果、半導体を高度な接合技術で組み合わせて、論理回路をつくりあげるなど(補足4)、人工頭脳的な装置を作り上げたることまで可能になった。この段階では、科学が技術を引っ張る役割を果たしたと思う。
未来の技術として期待されたのが、原子力技術である。これはアインシュタインの相対性理論と核化学(補足5)を組み合わせた技術である。この段階では、完全に科学的成果が新しい技術を生むことに繋がった。それは原子力発電(特に増殖炉)という、人類からエネルギー問題の払拭を可能にする技術を産んだ様に見えたが、核爆弾による悲劇を産み、人類絶滅の危険性も同時に産み出した。
ここまでの科学と技術の二人三脚を振り返ると、人間が両手で実験し、経験可能な現象を対象にした科学は、人類に繁栄をもたらす文明の基礎となり得た。それは、例え悪用され個人の範囲で悲劇を生むことはあっても、人類の絶滅の恐れなど招かない。
しかし、現在の素粒子物理の領域は、少数の特別の才能を持った科学者のみが踏み込む通常経験不可能な領域であり、その研究の結果がどのような危険性を招くか分からない(補足6)し、そもそも個人の生活を個人のレベルで豊かにするような文明に貢献することなどない。
2)例えば、スーパーカミオカンデの建設と維持には、これまで1000億円を超える金が使われたが、この中で発見されたニュートリノの質量についての話は、人類の文明に寄与することはないだろう。(補足7)先端的な分野の研究者を納得させ、ノーベル賞がプレゼントされたが、それは日本を豊かにすることも人類を豊かにすることもないだろう。
それは、人間の経験を遥かに超えるところでの現象に関する研究であり、従って、人間の生活に寄与する筈がない。あり得るとすれば、日本の国際的印象を多少良くする位であり、その寄与は質は違うが、(国民という大きな視点では)大谷翔平さんや大坂なおみさんのと同列に語られるものだと思う。
今回のリニア加速器で、「宇宙誕生の謎を明らかにする」という(補足1に引用した三橋貴明氏の動画で三橋氏により語られている言葉)のは、単に無知な大衆に向けたキャッチフレーズであり、人類に宇宙誕生の謎など分かる筈がない。
科学者たちは、一般大衆に一つのごまかしを用いて、説得を試みている。それは、「科学は真実の集積である」という嘘である。正しくは、「科学は仮説の集積である」。仮説とは、そう考えればこれまでの現象が説明できるという「仮定」である。宇宙の誕生の場面を、やっぱりそうだったと将来人類が経験出来ない以上、「宇宙誕生の謎を明らかにする」ことは論理的に不可能なのだ。
重要なポイントなので繰り返す。仮説であっても、次の体験の予測と体験後の説明に使える仮説と、そうでない仮説がある。宇宙の誕生に関する仮説から、人類のどの体験を予測し、それを説明するのか。後者の人類の体験とは無関係な分野での仮説を得るのに、国家のレベルで支援するのは間違いである。
文明と科学の二人三脚は、相対性理論という科学の分野で終わりになった。それ以降の先端物理は文科省科研費なども含めて一定のパトロンの支援の元で行うべきであり、国民全てが支援する形の国家プロジェクトとして推進することは、国民の財産の無駄遣いである。
補足:
1)このILCの件、三橋貴明氏が9月21日公開のyoutube動画(マット安川のズバリ勝負)で、その誘致を主張していることで知った。https://www.youtube.com/watch?v=Bt6XKTHh_EU 建設費用として、日本が5000億円負担しなければならないが、そのGDPを押し上げる経済効果は、4-5兆円にもなると、三橋氏が主張している。この件、調べてみると日経でも報道されている。https://www.sankei.com/region/news/170629/rgn1706290069-n1.html 三橋氏の大きな経済効果は、私には法螺に聞こえる。何故なら、そんなに経済効果があるのなら、引き受けてが多く競争になって然るべきである。しかし、そうは成っておらず、CERNと日本側研究者は計画の縮小を検討しているという。
2)酸化とは、原子がプラスイオンの形になることである。それが電荷を帯びない状態になることを還元という。
3)よく聞く話、「手違いがありそれが大発明に繋がった」というのがその証拠である。しかし、その発見後、科学的考察が「その手違いが偶然に行われた最善の実験であった」ことを説明し、次の科学と文明の発展の基礎としたのである。経験だけでは、この文明は築けなかったのである。
4)それ以前に真空管による同調、増幅、検波などの電気回路を組み上げることに成功し、電信技術や放送技術となって結実している。トランジスタは真空管である三極管を半導体で再現したものである。何方でも、論理回路を組み上げることが出来るが、トランジスタの発明は装置の小型化と省エネを可能にした。
5)例えば、ウラン235に低速で中性子をぶつけ反応させると、イットリウムとヨウ素に分裂する。また、ウラン238が中性子と反応して、プルトニウム239になる。核化学とは、そのような原子核の反応や崩壊を研究する学問。
6)例えば、ホーキング博士がヒッグス粒子の研究が地球の終焉を招くと心配をしていたという話がある。http://karapaia.com/archives/52174036.html & https://www.excite.co.jp/News/odd/Tocana_201510_post_7680.html
7)勿論科学技術という文化のいち側面に大きく寄与しただろう。文化と文明の違いに注意してほしい。
1)文明の本格的な発展は、農業の始まりと伴にスタートした。(ジレッド・ダイヤモンド著の「銃、病原菌、鉄」参照)農業は、鉄を入手することで本格的に発展した。鉄鉱石は一般に鉄をプラス二価又は三価のイオンで含んでおり、そこから鉄を取り出すには炭などの還元剤とかなりの高温で熱する必要がある。(補足2)その技術開発は、科学の一分野である化学の誕生とも言える。
機械文明の発展は、蒸気機関の開発が契機になったと思う。それは熱を機械的運動に換える装置であり、物理学の熱力学も同時に発展した。装置には鉄が主に用いられた。ここまでは、科学は技術の後を追っていたのかもしれない。在る特定の技術は、それまで発展した文明の上に経験的に得られた可能性が大きいからである。ただ、発芽した技術が大きく発展するためには、科学的考察を必要としたから、二人三脚と考えるのは正しいと思う。(補足3)
現代の高度な電子技術文明は、それまでの真空技術などの技術の総体と量子力学とそれを応用した物性物理の発達の結果である。量子論は、物質の性質を電子のエネルギー状態と微視的な運動で記述することに成功した。その物性物理学進展の結果、半導体を高度な接合技術で組み合わせて、論理回路をつくりあげるなど(補足4)、人工頭脳的な装置を作り上げたることまで可能になった。この段階では、科学が技術を引っ張る役割を果たしたと思う。
未来の技術として期待されたのが、原子力技術である。これはアインシュタインの相対性理論と核化学(補足5)を組み合わせた技術である。この段階では、完全に科学的成果が新しい技術を生むことに繋がった。それは原子力発電(特に増殖炉)という、人類からエネルギー問題の払拭を可能にする技術を産んだ様に見えたが、核爆弾による悲劇を産み、人類絶滅の危険性も同時に産み出した。
ここまでの科学と技術の二人三脚を振り返ると、人間が両手で実験し、経験可能な現象を対象にした科学は、人類に繁栄をもたらす文明の基礎となり得た。それは、例え悪用され個人の範囲で悲劇を生むことはあっても、人類の絶滅の恐れなど招かない。
しかし、現在の素粒子物理の領域は、少数の特別の才能を持った科学者のみが踏み込む通常経験不可能な領域であり、その研究の結果がどのような危険性を招くか分からない(補足6)し、そもそも個人の生活を個人のレベルで豊かにするような文明に貢献することなどない。
2)例えば、スーパーカミオカンデの建設と維持には、これまで1000億円を超える金が使われたが、この中で発見されたニュートリノの質量についての話は、人類の文明に寄与することはないだろう。(補足7)先端的な分野の研究者を納得させ、ノーベル賞がプレゼントされたが、それは日本を豊かにすることも人類を豊かにすることもないだろう。
それは、人間の経験を遥かに超えるところでの現象に関する研究であり、従って、人間の生活に寄与する筈がない。あり得るとすれば、日本の国際的印象を多少良くする位であり、その寄与は質は違うが、(国民という大きな視点では)大谷翔平さんや大坂なおみさんのと同列に語られるものだと思う。
今回のリニア加速器で、「宇宙誕生の謎を明らかにする」という(補足1に引用した三橋貴明氏の動画で三橋氏により語られている言葉)のは、単に無知な大衆に向けたキャッチフレーズであり、人類に宇宙誕生の謎など分かる筈がない。
科学者たちは、一般大衆に一つのごまかしを用いて、説得を試みている。それは、「科学は真実の集積である」という嘘である。正しくは、「科学は仮説の集積である」。仮説とは、そう考えればこれまでの現象が説明できるという「仮定」である。宇宙の誕生の場面を、やっぱりそうだったと将来人類が経験出来ない以上、「宇宙誕生の謎を明らかにする」ことは論理的に不可能なのだ。
重要なポイントなので繰り返す。仮説であっても、次の体験の予測と体験後の説明に使える仮説と、そうでない仮説がある。宇宙の誕生に関する仮説から、人類のどの体験を予測し、それを説明するのか。後者の人類の体験とは無関係な分野での仮説を得るのに、国家のレベルで支援するのは間違いである。
文明と科学の二人三脚は、相対性理論という科学の分野で終わりになった。それ以降の先端物理は文科省科研費なども含めて一定のパトロンの支援の元で行うべきであり、国民全てが支援する形の国家プロジェクトとして推進することは、国民の財産の無駄遣いである。
補足:
1)このILCの件、三橋貴明氏が9月21日公開のyoutube動画(マット安川のズバリ勝負)で、その誘致を主張していることで知った。https://www.youtube.com/watch?v=Bt6XKTHh_EU 建設費用として、日本が5000億円負担しなければならないが、そのGDPを押し上げる経済効果は、4-5兆円にもなると、三橋氏が主張している。この件、調べてみると日経でも報道されている。https://www.sankei.com/region/news/170629/rgn1706290069-n1.html 三橋氏の大きな経済効果は、私には法螺に聞こえる。何故なら、そんなに経済効果があるのなら、引き受けてが多く競争になって然るべきである。しかし、そうは成っておらず、CERNと日本側研究者は計画の縮小を検討しているという。
2)酸化とは、原子がプラスイオンの形になることである。それが電荷を帯びない状態になることを還元という。
3)よく聞く話、「手違いがありそれが大発明に繋がった」というのがその証拠である。しかし、その発見後、科学的考察が「その手違いが偶然に行われた最善の実験であった」ことを説明し、次の科学と文明の発展の基礎としたのである。経験だけでは、この文明は築けなかったのである。
4)それ以前に真空管による同調、増幅、検波などの電気回路を組み上げることに成功し、電信技術や放送技術となって結実している。トランジスタは真空管である三極管を半導体で再現したものである。何方でも、論理回路を組み上げることが出来るが、トランジスタの発明は装置の小型化と省エネを可能にした。
5)例えば、ウラン235に低速で中性子をぶつけ反応させると、イットリウムとヨウ素に分裂する。また、ウラン238が中性子と反応して、プルトニウム239になる。核化学とは、そのような原子核の反応や崩壊を研究する学問。
6)例えば、ホーキング博士がヒッグス粒子の研究が地球の終焉を招くと心配をしていたという話がある。http://karapaia.com/archives/52174036.html & https://www.excite.co.jp/News/odd/Tocana_201510_post_7680.html
7)勿論科学技術という文化のいち側面に大きく寄与しただろう。文化と文明の違いに注意してほしい。
2018年9月22日土曜日
スペースX社の有人月周回旅行に前澤友作ZOZOタウン経営社社長の搭乗する話について
スペースX社の月周回旅行に日本の前澤ZoZoタウン(スタートツデイ社、東証3092)の経営者前澤友作氏が予約第一号として搭乗するという計画発表が米国でなされ、日本でも話題になっている。この話が今朝のウエイクで放映された。
そこで、宇宙飛行士の山崎さんが、「5年後だと開発を加速度的に行えば成功する可能性はある」というコメントをしていた。このコメントは不思議である。何故なら、45年以上前に、NASAは有人月着陸旅行を成功させている筈である。その技術をそのまま用いれば、開発費も不要であり、簡単にできる筈である。
何故なら、月着陸を行う旅行よりも月周回旅行の方がはるかに簡単である。月周回旅行には、月着陸船14.7トン(ウイキペディア参照)が不要なことを考えただけで、どれだけ月着陸旅行に比べて簡単かがわかるだろう。
それでも、山崎さんは5年間の開発は、今のペースでは間に合わないと言っているのだ。何故か? 以前のブログに、アポロ計画で有人月着陸旅行したという話は嘘であるとの結論を書いた。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2016/12/11.html
アポロ計画の月着陸捏造説については、ロシアのロケットで国際宇宙ステーションに搭乗する日本人宇宙飛行士は皆、ロシアでの訓練の時に知らされているという話をどこかで読んだ。山崎さんの上記の解説は、その話と整合性がある。昨年のブログにも、ロケットの性能からアポロ計画のサターンVでは、有人月着陸旅行は無理ではないかと書いた。 https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43489384.html
高度なAI技術をもってしても、弾道軌道(と少しの姿勢制御等)で月を周回し、地球に帰還することは非常に困難だろう。
スペースX社(米国)は、火星移住計画構想を発表して話題になった(https://matome.naver.jp/odai/2135409072033199001)。 また同社は、2018年中に月周回旅行に2名を送る計画だという話だった(http://www.bbc.com/japanese/39111989 )。これらの話にケリをつけてから、新しい話をしてもらいたいものだ。
BBCはこの件どう報じているか、ネットで見てみたが、一切無視している。ロシアのスプートニクも同様に何も報じていない。ZOZOタウンの前澤さんの彼女の事務所も至って冷静に、月には行かないと言っている。
兎に角、馬鹿馬鹿しい、人騒がせな話である。
そこで、宇宙飛行士の山崎さんが、「5年後だと開発を加速度的に行えば成功する可能性はある」というコメントをしていた。このコメントは不思議である。何故なら、45年以上前に、NASAは有人月着陸旅行を成功させている筈である。その技術をそのまま用いれば、開発費も不要であり、簡単にできる筈である。
何故なら、月着陸を行う旅行よりも月周回旅行の方がはるかに簡単である。月周回旅行には、月着陸船14.7トン(ウイキペディア参照)が不要なことを考えただけで、どれだけ月着陸旅行に比べて簡単かがわかるだろう。
それでも、山崎さんは5年間の開発は、今のペースでは間に合わないと言っているのだ。何故か? 以前のブログに、アポロ計画で有人月着陸旅行したという話は嘘であるとの結論を書いた。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2016/12/11.html
アポロ計画の月着陸捏造説については、ロシアのロケットで国際宇宙ステーションに搭乗する日本人宇宙飛行士は皆、ロシアでの訓練の時に知らされているという話をどこかで読んだ。山崎さんの上記の解説は、その話と整合性がある。昨年のブログにも、ロケットの性能からアポロ計画のサターンVでは、有人月着陸旅行は無理ではないかと書いた。 https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43489384.html
高度なAI技術をもってしても、弾道軌道(と少しの姿勢制御等)で月を周回し、地球に帰還することは非常に困難だろう。
スペースX社(米国)は、火星移住計画構想を発表して話題になった(https://matome.naver.jp/odai/2135409072033199001)。 また同社は、2018年中に月周回旅行に2名を送る計画だという話だった(http://www.bbc.com/japanese/39111989 )。これらの話にケリをつけてから、新しい話をしてもらいたいものだ。
BBCはこの件どう報じているか、ネットで見てみたが、一切無視している。ロシアのスプートニクも同様に何も報じていない。ZOZOタウンの前澤さんの彼女の事務所も至って冷静に、月には行かないと言っている。
兎に角、馬鹿馬鹿しい、人騒がせな話である。
2018年9月21日金曜日
プーチン提案に基づく日露平和条約締結に対する大前研一氏の賛成意見
日露平和条約をプーチン提案の通り、つまり北方領土問題の解決に努力するという条文を入れて、その他前提条件なしに平和条約を締結するという提案通りに、話を進めるべきであるとの意見を、先日ブログ記事として書いた。
しかし、日本の報道機関から出て来るほとんど全てが、このプーチン提案をとんでもないとして、退けている。政治評論家の宮家邦彦氏なども同様である。非常に不思議である。おまけに?自民党総裁に立候補した石破茂氏も同様の発言をしている。
最近地上波のテレビにほとんど出ない大前研一氏が、今日9月21日配信のメルマガで、安倍総理にはどんなに悪者にされても、ここはプーチン提案の通りに平和条約を締結してほしいと書いている。この考えは、9月16日にBBTchで放映された大前研一ライブの内容を一部抜粋編集して、メルマガ予約者に提供したという。
以下にそのまた要約を掲載する。
「北方4島は第二次大戦の結果、ソ連に与えられたもの」であり、日本は敗戦国としてその条件を受け入れた。ラブロフ外相もプーチン大統領も、このような見解を示している。そして、このロシア側の主張が「真実」である。
終戦時にソ連と米国の間で交わされた電報のやり取りが残っている。ソ連のスターリンが北海道の北半分を求めたのに対して、米国側は反発。代わりに北方4島などをソ連が領有することを認めた。
この詳細は大前研一著「ロシア・ショック」の中に紹介されている。また、長谷川毅氏の「暗闘」という本に書かれている。米国の図書館などにある精密な情報を研究した本で、先ほどの電報などをもとに当時の真実を見事に浮かび上がらせている。(未確認、今後大前研一氏の本は購入の予定)
また、日本が「北方4島の返還を前提」に固執するようになったのも、米国に原因がある。1956年鳩山内閣の頃、重光外相がダレス国務長官と会合した際、日本はソ連に対して「2島の返還を前提」に友好条約を締結したいと告げました。
しかし、ソ連に対して4島の返還を求めない限り、沖縄を返還しないとダレス国務長官が受け入れなかった。つまり、米国は沖縄の返還を条件にしつつ、日本とソ連を仲違いさせようとしたのだろう。
戦後10年間においては「4島の返還」を絶対条件とする論調はなかったが、この1956年以降、日本では「北方4島の返還」がロシア(ソ連)との平和条約の締結前提になった。
因みに、沖縄返還といっても、米国の領土に一旦なり、その後返還されたわけではない。沖縄や小笠原は、国連の米国を施政権者とする信託統治領になる予定であった。北方4島返還の話とは全く条件が異なる。 (9月23日早朝最後の節の一部修正)
追補:沖縄領有権問題は、昨年2月に既にこのブログ上でかなり詳しく考察している。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/02/blog-post_15.html
しかし、日本の報道機関から出て来るほとんど全てが、このプーチン提案をとんでもないとして、退けている。政治評論家の宮家邦彦氏なども同様である。非常に不思議である。おまけに?自民党総裁に立候補した石破茂氏も同様の発言をしている。
最近地上波のテレビにほとんど出ない大前研一氏が、今日9月21日配信のメルマガで、安倍総理にはどんなに悪者にされても、ここはプーチン提案の通りに平和条約を締結してほしいと書いている。この考えは、9月16日にBBTchで放映された大前研一ライブの内容を一部抜粋編集して、メルマガ予約者に提供したという。
以下にそのまた要約を掲載する。
「北方4島は第二次大戦の結果、ソ連に与えられたもの」であり、日本は敗戦国としてその条件を受け入れた。ラブロフ外相もプーチン大統領も、このような見解を示している。そして、このロシア側の主張が「真実」である。
終戦時にソ連と米国の間で交わされた電報のやり取りが残っている。ソ連のスターリンが北海道の北半分を求めたのに対して、米国側は反発。代わりに北方4島などをソ連が領有することを認めた。
この詳細は大前研一著「ロシア・ショック」の中に紹介されている。また、長谷川毅氏の「暗闘」という本に書かれている。米国の図書館などにある精密な情報を研究した本で、先ほどの電報などをもとに当時の真実を見事に浮かび上がらせている。(未確認、今後大前研一氏の本は購入の予定)
また、日本が「北方4島の返還を前提」に固執するようになったのも、米国に原因がある。1956年鳩山内閣の頃、重光外相がダレス国務長官と会合した際、日本はソ連に対して「2島の返還を前提」に友好条約を締結したいと告げました。
しかし、ソ連に対して4島の返還を求めない限り、沖縄を返還しないとダレス国務長官が受け入れなかった。つまり、米国は沖縄の返還を条件にしつつ、日本とソ連を仲違いさせようとしたのだろう。
戦後10年間においては「4島の返還」を絶対条件とする論調はなかったが、この1956年以降、日本では「北方4島の返還」がロシア(ソ連)との平和条約の締結前提になった。
因みに、沖縄返還といっても、米国の領土に一旦なり、その後返還されたわけではない。沖縄や小笠原は、国連の米国を施政権者とする信託統治領になる予定であった。北方4島返還の話とは全く条件が異なる。 (9月23日早朝最後の節の一部修正)
追補:沖縄領有権問題は、昨年2月に既にこのブログ上でかなり詳しく考察している。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/02/blog-post_15.html
南北朝鮮統一のプロセスについて:
以下は政治に関しては全くの素人の文章です。その点を承知の上で読み飛ばしてください。
1)表面に現れた話と深層や真相とが、大きくかけ離れているのは外交の世界の常かもしれない。従って、真相を探るには表に現れた部分は単なる手がかりであり、両国の大きな戦略を想定し、そこから判断した損得勘定を考えなければならないと思う。
更に特定の外交案件に関して、大統領など直接当事者の個人的性向(好みや判断の方向や能力)が、正しく損得勘定に沿った行動を妨げる可能性もある。ミスが大きな動きの原因になったりするからである。そのように考えると、米朝韓中の4国関係の真相を知ることは非常に難しいと思う。
6月の米朝首脳会談の直前に、米側が北朝鮮の核廃棄に時間がかかると言い出したことから、実は米朝は敵対関係から協力関係に静かにシフトし始めたのではないかと、評論家の藤井厳喜さんが、一つの思いつきとして披露した。それについて、ブログ記事にしたものを引用する。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43676167.html
実際、米朝首脳会談の後三ヶ月経過した現在、全く北朝鮮の核廃絶の道が見えていない。ほぼ同時に米中貿易戦争が起こり、米国にとっては北朝鮮の核保持による中朝分断が、利益につながるようになったのかもしれない。北朝鮮の核兵器は、米国にとってよりも中国にとってより大きな脅威だからである。
この件、今週の文在寅と金正恩の会談に多少期待が持たれた。しかし、会談後に発表された共同宣言は以下の通りで、あまり本質的で重要な話はなかったように思う。
共同宣言の骨子:金正恩の早い時期のソウル訪問、米国の対応次第で寧辺の核施設を廃棄する用意がある、東倉里のミサイル開発施設を永久廃棄、軍事共同委員会を発足させ、南北朝鮮で武力衝突防止の為の協議を行う、2032年のオリンピック共同開催に向け協力、以上5項目である。(20日、中日新聞一面より)
その中で、軍事衝突を防ぐために軍事共同委員会を設置するという話は、統一国家を目指す二つの兄弟国家というのが事実なら、随分後ろ向きの話に見える。つまり、実態は未だに軍事衝突を心配する情況であり、統一国家というのは遥か彼方の話だということだろう。
また、二人の首脳の親密な光景の割には、平和裡に統一国家を作るというプロセスのグランドデザインについては、その片鱗も見えていないのも不思議である。
2)今回の朝鮮南北会談などを含めて南北の統一に関する話し合いの解釈について、一つのモデルをチャネル桜の水島社長が述べている。https://www.youtube.com/watch?v=hrXwHHs5XFc
それは、米国を利用して中国の影響下から脱却したいと思っている金正恩を、文在寅が中国の意を汲んで中国側に引き込もうと画策していると言うのである。おそらく藤井厳喜氏らとの話し合った結果、作り上げたモデルだろう(上記ブログ記事参照)。
もし、そのモデルが正しいのなら、金正恩は米国の影の支援で中距離核まではこっそりと保有したまま、独立独裁国家を目指していることなる。その上で、朝鮮戦争の完全終結のために、平和条約を米朝(中)間で締結したい。それを察知した中国が、文在寅を利用して中国側に引き戻すために、努力しているということになる。文在寅は、表では朝鮮統一への努力を演出しながら、北朝鮮と中国の仲を修復し緊密化するよう努力しているというのである。
金正恩の反中国の姿勢はつとに有名だが、その背景にあるのが張成沢事件だろう。金正恩は北朝鮮のトップになった2011年12月から1年あまりしか立たない2013年、中国により自分が排除される可能性があった。そのことは、強く心に刷り込まれている筈である。
中国と関係の深かった叔父の張成沢に、中国の助けを借りて金正男にトップをすり替える陰謀があり、それを金正恩が中国の周永康の密告により知った。激怒した金正恩が、張成沢と親中派を一掃した事件である。中国でも、周永康が秘密漏洩の罪で失脚した。 https://www.sankei.com/world/news/150224/wor1502240038-n2.html
文在寅は、中国との関係がそれほど長く深かった訳ではないだろう。中国の奥深くの闇を知る金正恩を説得するのは、それほど簡単ではないだろう。
3)文在寅の統一朝鮮を目指した外交は本心から来ると以下考えて、少し議論する。この文在寅の試みは、成功しないと思う。どうしてそのような難題を設定して努力するのかわからない。
民族の統一という錦の御旗は、国内問題なら効力抜群だろう。しかし、今回は米中二つの大国を巻き込んだ外交案件であり、表では統一の御旗は派手に見えても、深層では役立たないのではないかと思う。無理やり米中朝の間に入り込むのは、さしあたり今後20年程度の韓国国民の安全と福祉を考えた場合、プラスにはならないだろう。
勿論、統一の話し合いをしている限り、米国による北朝鮮攻撃は無いだろうと期待し、本来無理な統一の話し合いを続けているという考えはある。それにしても一定の論理的道筋がなければ、その意味もなくなるだろう。そこで以下に、文在寅がこのようにして統一朝鮮をつくるプロセスを考えているのだろうと、想像して書いた。そのようなことが書けるのは素人の特権だろうと思う。
先ず、民主国家としての統一朝鮮を目標として設定することは無理だろう。何故なら、その体制は金正恩の体制を最初から否定するからである。(補足1)従って、南北統一する場合、自由経済と共産党一党支配の中国型統一国家をゴールとして設定することになると思う。経済は韓国、政治は北朝鮮という非対称だが平等な統一である。しかしそれを拙速に行えば韓国経済はガタガタになるだろう。
そのため差し当たり、一国二制度の連邦制国家を当面の目標とするだろう。その準備として、北朝鮮の経済発展を中国型の経済構造と韓国の資本投下で行う(後述の日本の役割参照)。そして、完全統一までのプロセスを唱う、南北朝鮮統一条約を締結して、統一準備委員会をつくり、そのトップを統一朝鮮大統領と呼ぶ。この大統領には、最初北朝鮮の金正恩次に韓国の文在寅というふうに両国から交互に出す。軍事演習もロシアと中国がやったように形だけでも共同でやる。(補足2)
これら一連の動きは、国際社会の応援を得て、米国もあまり手出しはできないだろう。
最終的に北朝鮮の核兵器を温存した形で、親中国の顔をした統一朝鮮の足がかりをつくり、米軍の韓半島からの撤収を願い出る。南北朝鮮の統一という美談と時間の経過で、国際世論において北朝鮮の核軍備への心理的抵抗が薄くなるのを待つのである。
つまり、北朝鮮の核武装が韓国の経済力と対等の価値を持つ形での南北統一である。これなら、経済的な相当な困難にも韓国の世論は耐えることができるだろう。米国の支配下でなく、親中国と言っても中国の支配下ではない統一朝鮮ができることは、朝鮮民族の勝利だからである。世界の多極化を考えている米国にとっても悪い話ではないだろう。
このプロセスの中で、日本は重要な役割を二つ果たすだろう。北朝鮮との基本条約締結と戦後賠償金の代わりをする経済協力金である。その際、拉致被害者全員を日本に返したとしても、それは北朝鮮にとって何の負担にもならない。北朝鮮への経済協力金は本来日本に支払う義務はないと思うのだが、人質を取られた日本は当然のように勘違いをして支払うだろう。(補足3)
因みに、三選を果たした安倍総理は、平壌に出かけて行き、直接話し合って拉致問題を解決すると、先ほどの(20日夕刻)記者会見でも言っている。それは非常に愚かな考えだと思う。拉致問題を北朝鮮と交渉するのは、泥棒と会って盗んだ品物の変換交渉をするようなものである。経済協力金を支払って3年ほど経過すれば、(何年後になるか分からないが)統一朝鮮は反日国家の本性を表し、その核兵器は日本の最大の脅威となるだろう。反日は統一朝鮮の向心力となるのは今も昔も同じだろう。(補足4)それが二つ目の日本の寄与である。
補足:
1)つまり、米国の要求を受け入れて核廃絶したのち南北朝鮮が統一されたとすると、経済力の圧倒的な差から、文在寅の韓国による併合しかあり得ない。それは、金正恩の地位と北朝鮮軍の韓国軍に対する優位性を放棄することになる。それは受け入れられる筈がない。
2)大統領にはいろんなタイプがある。ドイツやEUにも大統領が存在するが、あまり表に現れない。この共同軍事演習だが、仮想敵国は明かさないだろうが当然日米ということになると思う。
3)日韓基本条約では、韓国を朝鮮半島唯一の政府として承認し、戦前からの諸関係の清算として経済協力金を支払った。突然別の国が半島内に現れて、そこにも経済金を支払うというのは、日韓基本条約の考え方に矛盾する。韓国は半島唯一の国家として経済協力金を受け取ったからには、半島の一部に別勢力に出現して独立国となった場合には、必要な資金は韓国が本来負担すべきである。
また、国交の無い国により拉致された被害者を奪回するのに、経済協力金という形で解決するのは、非常に愚かなことである。本来は、宣戦布告をして取り返すのが筋であり、それができないのなら、国家としての不備の責任を被害者家族に詫び、国家賠償として保障すべきである。
4)日本は1945年までの宗主国である。中国の王朝交代の時でも、より小規模だが韓国の大統領交代のときでも、先代を事実や根拠など無視して批判し貶すのが、これらの国の伝統である。国際法や”科学的”という言葉を信仰する日本は愚かだが、これらの歴史改竄の伝統も汚い。
(2018/9/21)
1)表面に現れた話と深層や真相とが、大きくかけ離れているのは外交の世界の常かもしれない。従って、真相を探るには表に現れた部分は単なる手がかりであり、両国の大きな戦略を想定し、そこから判断した損得勘定を考えなければならないと思う。
更に特定の外交案件に関して、大統領など直接当事者の個人的性向(好みや判断の方向や能力)が、正しく損得勘定に沿った行動を妨げる可能性もある。ミスが大きな動きの原因になったりするからである。そのように考えると、米朝韓中の4国関係の真相を知ることは非常に難しいと思う。
6月の米朝首脳会談の直前に、米側が北朝鮮の核廃棄に時間がかかると言い出したことから、実は米朝は敵対関係から協力関係に静かにシフトし始めたのではないかと、評論家の藤井厳喜さんが、一つの思いつきとして披露した。それについて、ブログ記事にしたものを引用する。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43676167.html
実際、米朝首脳会談の後三ヶ月経過した現在、全く北朝鮮の核廃絶の道が見えていない。ほぼ同時に米中貿易戦争が起こり、米国にとっては北朝鮮の核保持による中朝分断が、利益につながるようになったのかもしれない。北朝鮮の核兵器は、米国にとってよりも中国にとってより大きな脅威だからである。
この件、今週の文在寅と金正恩の会談に多少期待が持たれた。しかし、会談後に発表された共同宣言は以下の通りで、あまり本質的で重要な話はなかったように思う。
共同宣言の骨子:金正恩の早い時期のソウル訪問、米国の対応次第で寧辺の核施設を廃棄する用意がある、東倉里のミサイル開発施設を永久廃棄、軍事共同委員会を発足させ、南北朝鮮で武力衝突防止の為の協議を行う、2032年のオリンピック共同開催に向け協力、以上5項目である。(20日、中日新聞一面より)
その中で、軍事衝突を防ぐために軍事共同委員会を設置するという話は、統一国家を目指す二つの兄弟国家というのが事実なら、随分後ろ向きの話に見える。つまり、実態は未だに軍事衝突を心配する情況であり、統一国家というのは遥か彼方の話だということだろう。
また、二人の首脳の親密な光景の割には、平和裡に統一国家を作るというプロセスのグランドデザインについては、その片鱗も見えていないのも不思議である。
2)今回の朝鮮南北会談などを含めて南北の統一に関する話し合いの解釈について、一つのモデルをチャネル桜の水島社長が述べている。https://www.youtube.com/watch?v=hrXwHHs5XFc
それは、米国を利用して中国の影響下から脱却したいと思っている金正恩を、文在寅が中国の意を汲んで中国側に引き込もうと画策していると言うのである。おそらく藤井厳喜氏らとの話し合った結果、作り上げたモデルだろう(上記ブログ記事参照)。
もし、そのモデルが正しいのなら、金正恩は米国の影の支援で中距離核まではこっそりと保有したまま、独立独裁国家を目指していることなる。その上で、朝鮮戦争の完全終結のために、平和条約を米朝(中)間で締結したい。それを察知した中国が、文在寅を利用して中国側に引き戻すために、努力しているということになる。文在寅は、表では朝鮮統一への努力を演出しながら、北朝鮮と中国の仲を修復し緊密化するよう努力しているというのである。
金正恩の反中国の姿勢はつとに有名だが、その背景にあるのが張成沢事件だろう。金正恩は北朝鮮のトップになった2011年12月から1年あまりしか立たない2013年、中国により自分が排除される可能性があった。そのことは、強く心に刷り込まれている筈である。
中国と関係の深かった叔父の張成沢に、中国の助けを借りて金正男にトップをすり替える陰謀があり、それを金正恩が中国の周永康の密告により知った。激怒した金正恩が、張成沢と親中派を一掃した事件である。中国でも、周永康が秘密漏洩の罪で失脚した。 https://www.sankei.com/world/news/150224/wor1502240038-n2.html
文在寅は、中国との関係がそれほど長く深かった訳ではないだろう。中国の奥深くの闇を知る金正恩を説得するのは、それほど簡単ではないだろう。
3)文在寅の統一朝鮮を目指した外交は本心から来ると以下考えて、少し議論する。この文在寅の試みは、成功しないと思う。どうしてそのような難題を設定して努力するのかわからない。
民族の統一という錦の御旗は、国内問題なら効力抜群だろう。しかし、今回は米中二つの大国を巻き込んだ外交案件であり、表では統一の御旗は派手に見えても、深層では役立たないのではないかと思う。無理やり米中朝の間に入り込むのは、さしあたり今後20年程度の韓国国民の安全と福祉を考えた場合、プラスにはならないだろう。
勿論、統一の話し合いをしている限り、米国による北朝鮮攻撃は無いだろうと期待し、本来無理な統一の話し合いを続けているという考えはある。それにしても一定の論理的道筋がなければ、その意味もなくなるだろう。そこで以下に、文在寅がこのようにして統一朝鮮をつくるプロセスを考えているのだろうと、想像して書いた。そのようなことが書けるのは素人の特権だろうと思う。
先ず、民主国家としての統一朝鮮を目標として設定することは無理だろう。何故なら、その体制は金正恩の体制を最初から否定するからである。(補足1)従って、南北統一する場合、自由経済と共産党一党支配の中国型統一国家をゴールとして設定することになると思う。経済は韓国、政治は北朝鮮という非対称だが平等な統一である。しかしそれを拙速に行えば韓国経済はガタガタになるだろう。
そのため差し当たり、一国二制度の連邦制国家を当面の目標とするだろう。その準備として、北朝鮮の経済発展を中国型の経済構造と韓国の資本投下で行う(後述の日本の役割参照)。そして、完全統一までのプロセスを唱う、南北朝鮮統一条約を締結して、統一準備委員会をつくり、そのトップを統一朝鮮大統領と呼ぶ。この大統領には、最初北朝鮮の金正恩次に韓国の文在寅というふうに両国から交互に出す。軍事演習もロシアと中国がやったように形だけでも共同でやる。(補足2)
これら一連の動きは、国際社会の応援を得て、米国もあまり手出しはできないだろう。
最終的に北朝鮮の核兵器を温存した形で、親中国の顔をした統一朝鮮の足がかりをつくり、米軍の韓半島からの撤収を願い出る。南北朝鮮の統一という美談と時間の経過で、国際世論において北朝鮮の核軍備への心理的抵抗が薄くなるのを待つのである。
つまり、北朝鮮の核武装が韓国の経済力と対等の価値を持つ形での南北統一である。これなら、経済的な相当な困難にも韓国の世論は耐えることができるだろう。米国の支配下でなく、親中国と言っても中国の支配下ではない統一朝鮮ができることは、朝鮮民族の勝利だからである。世界の多極化を考えている米国にとっても悪い話ではないだろう。
このプロセスの中で、日本は重要な役割を二つ果たすだろう。北朝鮮との基本条約締結と戦後賠償金の代わりをする経済協力金である。その際、拉致被害者全員を日本に返したとしても、それは北朝鮮にとって何の負担にもならない。北朝鮮への経済協力金は本来日本に支払う義務はないと思うのだが、人質を取られた日本は当然のように勘違いをして支払うだろう。(補足3)
因みに、三選を果たした安倍総理は、平壌に出かけて行き、直接話し合って拉致問題を解決すると、先ほどの(20日夕刻)記者会見でも言っている。それは非常に愚かな考えだと思う。拉致問題を北朝鮮と交渉するのは、泥棒と会って盗んだ品物の変換交渉をするようなものである。経済協力金を支払って3年ほど経過すれば、(何年後になるか分からないが)統一朝鮮は反日国家の本性を表し、その核兵器は日本の最大の脅威となるだろう。反日は統一朝鮮の向心力となるのは今も昔も同じだろう。(補足4)それが二つ目の日本の寄与である。
補足:
1)つまり、米国の要求を受け入れて核廃絶したのち南北朝鮮が統一されたとすると、経済力の圧倒的な差から、文在寅の韓国による併合しかあり得ない。それは、金正恩の地位と北朝鮮軍の韓国軍に対する優位性を放棄することになる。それは受け入れられる筈がない。
2)大統領にはいろんなタイプがある。ドイツやEUにも大統領が存在するが、あまり表に現れない。この共同軍事演習だが、仮想敵国は明かさないだろうが当然日米ということになると思う。
3)日韓基本条約では、韓国を朝鮮半島唯一の政府として承認し、戦前からの諸関係の清算として経済協力金を支払った。突然別の国が半島内に現れて、そこにも経済金を支払うというのは、日韓基本条約の考え方に矛盾する。韓国は半島唯一の国家として経済協力金を受け取ったからには、半島の一部に別勢力に出現して独立国となった場合には、必要な資金は韓国が本来負担すべきである。
また、国交の無い国により拉致された被害者を奪回するのに、経済協力金という形で解決するのは、非常に愚かなことである。本来は、宣戦布告をして取り返すのが筋であり、それができないのなら、国家としての不備の責任を被害者家族に詫び、国家賠償として保障すべきである。
4)日本は1945年までの宗主国である。中国の王朝交代の時でも、より小規模だが韓国の大統領交代のときでも、先代を事実や根拠など無視して批判し貶すのが、これらの国の伝統である。国際法や”科学的”という言葉を信仰する日本は愚かだが、これらの歴史改竄の伝統も汚い。
(2018/9/21)
2018年9月18日火曜日
人類が民族の淘汰を経験する可能性
朝方、非常に不愉快な夢というか考えが頭に浮かんだので、それをそのまま書きます。整理をする忍耐も最近はありませんので、雑然としたまま、ブログ記事とします。素人ゆえ、間違いも多いかも知れませんが、指摘があれば遠慮なく行なってください。
1)非核宣言をした日本の傀儡政権:
人類の未来には重要な二つの真理がある。その一つは、「核兵器は拡散する」という真理である。(補足1)現在の核保有国は、米国、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、北朝鮮、イスラエルの9カ国である。その他、旧ソ連のウクライナやカザフスタンなどは核保有の可能性が皆無とは言えない。南アフリカは核兵器を廃棄したと考えられている。
核兵器でも科学技術でも、強力に封じる力が無ければ確実に拡散する。南アフリカの核兵器放棄は、将来の黒人政権の誕生を考えて、米国などからの圧力があったというブログ記事がある。https://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/4539642.html もし南アフリカが国家としての体をなしていると仮定すれば、圧力がなければ放棄しなかっただろう。
イスラエルは核兵器を持つと考えられている。恐らく米国から導入されたのだろう。米国上層部を牛耳る勢力がユダヤ資本家だとすれば、簡単に理解できる。アラブの国々に囲まれて独立を守るのは大変だろうから、当然の対応だと言える。
インドは一貫してNPT(核拡散防止条約)やCTBTに反対したようだ。その理由は明快である。核保有国による、将来にわたる核兵器の独占を可能にする片務的内容だからである。
日本が非核三原則を国策として掲げ、NPTにも反対の世論など皆無の状態で加盟したのは、一貫して売国奴的人間が国家の中枢に座り込み、その体制を維持してきたからである。その与党体制維持の方法は、社会主義政党を反対勢力として育成することであった。日本の戦略ではなく、米国の優秀な戦略家の立案であることは明白だろう。日本は、国家としての体をなしていないのである。
2)地球上可住人口の減少について:
人類に予想されるもう一つの重要な出来事は、気候の大変化による食料不足と居住可能地域の減少、資源の枯渇などによる、地球上可住人口の減少である。それは人類に、中世の民族的エゴイズムを復活させて、国際的騒乱となるだろう。それは人類の宿命だろう。
今後世界の人口は増え続けるだろう。多少の少子化は、先進国に共通しているとしても、人類全体としては、その減少分を遥かに上回る人口増加が起こるだろう。また、原理的には全ての物質的資源は再利用し、全てのエネルギーを太陽光に頼ることは、将来的には可能であるが、それは遠い将来のことだろう。(補足2)
兎に角、不足する食料とエネルギーや資源は、人類に人の数を減らすことを強制するだろう。その際、民族間の淘汰が起こる可能性が高いと思う。その民族的間引きの対象となるのは、人種差別と自衛力の乏しさで選ばれる民族である。
それは、邪悪な民族に対する善良なる民族連合の防衛という形をとるだろう。そのプロパガンダの準備は既に始まって居るかもしれない。自衛力には、核兵器と通常兵器の両方が関係するが、圧倒的に核ミサイル技術が意味をもつだろう。ただし、高度な攻撃能力を持った核ミサイルはほとんど使われないかもしれない。ただ、国家の順位を決定するだけのもの、生存するための権利を担保する意味だけを持つ可能性が高いと思う。 実際に使われる可能性が高いのは、経済封鎖と内戦の誘発である。核攻撃と異なり、勝ち残る国家の人間は、その惨劇を直接観たり実感したりすることがなく、悪を為しているという実感を持たなくて済むだろう。大多数が殺された民族の国には、多少の売国奴的人物が残るだろうが、数十年後にはその他の地域から移り住んだ人間の中で存在感が無くなるだろう。歴史の中には、邪悪な一派は掃討されたと記載されるだけだろう。
善と悪は便利な概念である。(追補1)人は個人のレベルでも、善と悪を勝手に定義してもそれに気がつかない。ましてや、国家に於いてはプロの戦略家が善と悪を創造して、敵国に如何様にも適用できるだろう。それは、韓国や中国の対日プロパガンダを見るだけでも明らかであるし、中国の最古の歴史書以来の正史を見れば、明らかである。諸外国はそれを経験し、且つ、熟知している。
日本は2000年の単一王朝の国(補足3)であり、日本書紀を破棄して歴史書を書き換えた経験がない。それを自慢げに言う人が右の方に多いが、本当は日本の大きな弱点である。
「慰安婦の日本政府による強制連行」のような明らかに捏造した歴史が、世界で事実のように扱われているのは良い教訓の筈だが、日本政府が先頭にたって歴史捏造に加担している状況では、まともにその悪業に説得力のある異論が出せるのは、外国人ジャーナリストのみである。(e.g., ヘンリー・S・ストークス著、「連合国戦勝史観の虚妄」)
追補1:善悪の勝手な峻別はキリスト教圏など(一神教の国々)が得意とするところである。それ以外の国では、善悪は峻別されない。日本でも「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」という親鸞の言葉が示すとおりである。(18:00追加)
3)「北朝鮮の非核化」は「日本の非核化」である。
昨日の記事で、日本の政治担当者は、日本国民の為に働いていないのではないかと書いた。United Nationsを国連と翻訳したのは、米国(国連の中心)の指示で日本を利用し易くする為だろう。その与党を攻撃するのは、中国やソ連などの支配下にあった人物である。つまり、戦後日本の政治は、米国の為に働く与党議員たちと東アジアの外国の為に働く野党の人たちが、日本の政界で何やら演じて居るだけに見える。(補足4)
北朝鮮は多くの困難を克服して、核武装に成功した。それは、北朝鮮国家の視点に経てば立派なことである。朝鮮半島の歴史を少しでも知ればわかる様に、朝鮮は中国の衛星国としてその支配に苦しんで来た(補足5)。もちろん、一部の国家支配層(両班)は隣国の力を借りて、難なくその地位を保持できただろう。
朝鮮の一般民は、多段階に設けられた社会的階層に封じ込められ、その境遇からの脱却を諦めるために儒教を押し付けられていたのである。一方、一般民が政治的力を次第に得るのは時代の趨勢であり、北朝鮮が真の独立国を目指すのも当然である。国家が苦しい国際環境から脱却し独立国としての体裁を整えるには、そして米国の支配下にある韓国に対して優位に立つためにも、核武装は必須であると考えたのだろう。
そのプロセスは、米国の銃社会を考えればわかることである。左右に銃で武装した集団が居る中で、安全と自由を得るには銃を保持するしかない。ましてや隣から銃口を向けられている環境下では、銃以外に頼る手段などない。国家としての北朝鮮の安全保障環境は、このような環境に置かれた個人のものと同様である。一旦もった核兵器を放棄するには、周囲が核放棄をすることが条件なのは当然である。或いは、放棄しない限り確実に殺される(キム王朝が潰される)と確信したとき以外にはあり得ない。
現在の北朝鮮の視野には、国際法も国連も雲散霧消した野生の世界が露呈しているだろう。しかし、それは北朝鮮に限らず、幻を見なければ、本質的に全ての国家に共通したものである。そのような光景が再び我が国の前に露呈する時が必ず来るだろう。それは既に上に書いた通りである。その時、どこの国が友邦として自衛のための核兵器を呉れるだろうか? そんな国は野生の環境には存在しない。
核兵器は、防衛に役立つ限り世界に拡散するが廃絶はされない。日本にとっては、北朝鮮の核武装は、否、それ以前の中国が核実験に成功したときには、日本も核武装する時だと考えるべきだった。(補足6) 少なくとも、中国や北朝鮮が核武装するのなら、我が国も核武装を考えないのは、自滅への道であると、堂々と国際社会に向けて発信すべきだった。
NPTやCTBTへ率先して、加盟し批准するというのは、もし日本政府が本当に日本国民のために存在すると仮定したなら、本当に愚かな政策である。日本がまともな国になるには、現在の政治家全てが入れ替わる必要がある。それには道州選挙区で一票の格差完全撤廃が、唯一の合法的手段である。この方法にトライしたのが橋下徹であるが、彼は失敗している。(補足7)非合法の手段も考えるべきだと、三島由紀夫は命を張って訴えたが、それは自衛隊員にすら真夏のセミの声程度にしか聞こえなかった。(補足8)列に並ぶのが得意な日本人は、ホロコーストの列であってもその列を乱すことができない愚かな民族なのだろう。何が原因?それは何時か慎重に議論してみたいと思う。
NPT: Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons (核兵器の非増殖に関する条約:核武装国の非増殖に関する条約:通称は、核(兵器)拡散防止条約)
CTBT:Comprehensive Nuclear-Test-Ban Treaty 包括的核実験禁止条約 (現在未発効;発効要件国のうち未署名及び非批准国として、インド、パキスタン、北朝鮮、中国、米国、エジプト、イラン、イスラエルなどがある。)
補足:
1)核兵器拡散の防止や核兵器の廃絶は、世界政府が樹立されれば実現可能である。しかし、異なった人種間の文化的ばらつき、文明進展の程度におけるばらつきなどを考えると、その可能性は非常に小さい。もしそれが遠い将来実現し、人類がその恩恵を受けるとしても、それは必死に自国の生き残りを模索し続けた民族だけのものだろう。
2)離島に太陽光発電、風力発電、潮力発電などで電気を発生させ、それを人の住む地域に電気あるいは水素で送る。イワタニとトヨタは、それを標準的な未来のエネルギー調達法として考えて居るのだろう。それは賢明に思えるが、技術で遅れをとるのが覇権国などの大国であれば、それは標準とはならない。
3)単一王朝が維持できたのは、宗教を支配したからである。つまり、天皇家が(不完全ではあるが)人格神として天照大神を創造し、それを神道の創始者のように仕立てたからである。本来の神道はアニミズムであり、大きな山や川などあらゆる自然の存在が神体である。
4)北朝鮮の日本人拉致の問題を、堂々と「そのようなことはあり得ない」と言ったのは、戦後一貫して野党筆頭であった日本社会党から名称変更した社民党である。(社民党機関誌『月刊社会民主』1997年7月号:私は、読んでいないので、“裏をとった”わけではない。)
5)両班(ヤンバン又はリャンバン)から白丁(ペクチョン)まで多段階の社会的階層があった。白丁は、皮革製品を作る職人や芸能人など最下層の賎民である。(資料はウィキペディアなど多くあるが、以下を推薦する。https://www.y-history.net/appendix/wh0802-046.html)
6)田中宇氏の解説を引用する。http://tanakanews.com/g1024japan.htm ひねくれた見方と思われるかもしれないが、この田中氏の考えが正しいのなら、自民党政権は当に米国の傀儡政権である。外国の傀儡政権ならそのうち正体がばれるから、退治されるだろう。しかし、日本の傀儡政権は厄介だ。なぜなら、日本人は言葉を聞いただけで、その霊に怯える民族である。核や放射線とは、恐ろしい悪魔の言葉なのだ。昔(60年ほど前の話)、ある大学の教授が放射線化学関連の予算要求する際、その霊を払拭するのに苦労したという記事を読んだことがある。
7)彼の失敗は、優秀な人材が十分得られなかったからである。本来、優秀な人材を得て、2-3度脱皮を繰り返さないと、この種の組織は成虫にはなれない。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/04/blog-post_4.html
8)ここに麻原彰晃を入れるのは、完全な間違いなのだろう。
1)非核宣言をした日本の傀儡政権:
人類の未来には重要な二つの真理がある。その一つは、「核兵器は拡散する」という真理である。(補足1)現在の核保有国は、米国、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、北朝鮮、イスラエルの9カ国である。その他、旧ソ連のウクライナやカザフスタンなどは核保有の可能性が皆無とは言えない。南アフリカは核兵器を廃棄したと考えられている。
核兵器でも科学技術でも、強力に封じる力が無ければ確実に拡散する。南アフリカの核兵器放棄は、将来の黒人政権の誕生を考えて、米国などからの圧力があったというブログ記事がある。https://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/4539642.html もし南アフリカが国家としての体をなしていると仮定すれば、圧力がなければ放棄しなかっただろう。
イスラエルは核兵器を持つと考えられている。恐らく米国から導入されたのだろう。米国上層部を牛耳る勢力がユダヤ資本家だとすれば、簡単に理解できる。アラブの国々に囲まれて独立を守るのは大変だろうから、当然の対応だと言える。
インドは一貫してNPT(核拡散防止条約)やCTBTに反対したようだ。その理由は明快である。核保有国による、将来にわたる核兵器の独占を可能にする片務的内容だからである。
日本が非核三原則を国策として掲げ、NPTにも反対の世論など皆無の状態で加盟したのは、一貫して売国奴的人間が国家の中枢に座り込み、その体制を維持してきたからである。その与党体制維持の方法は、社会主義政党を反対勢力として育成することであった。日本の戦略ではなく、米国の優秀な戦略家の立案であることは明白だろう。日本は、国家としての体をなしていないのである。
2)地球上可住人口の減少について:
人類に予想されるもう一つの重要な出来事は、気候の大変化による食料不足と居住可能地域の減少、資源の枯渇などによる、地球上可住人口の減少である。それは人類に、中世の民族的エゴイズムを復活させて、国際的騒乱となるだろう。それは人類の宿命だろう。
今後世界の人口は増え続けるだろう。多少の少子化は、先進国に共通しているとしても、人類全体としては、その減少分を遥かに上回る人口増加が起こるだろう。また、原理的には全ての物質的資源は再利用し、全てのエネルギーを太陽光に頼ることは、将来的には可能であるが、それは遠い将来のことだろう。(補足2)
兎に角、不足する食料とエネルギーや資源は、人類に人の数を減らすことを強制するだろう。その際、民族間の淘汰が起こる可能性が高いと思う。その民族的間引きの対象となるのは、人種差別と自衛力の乏しさで選ばれる民族である。
それは、邪悪な民族に対する善良なる民族連合の防衛という形をとるだろう。そのプロパガンダの準備は既に始まって居るかもしれない。自衛力には、核兵器と通常兵器の両方が関係するが、圧倒的に核ミサイル技術が意味をもつだろう。ただし、高度な攻撃能力を持った核ミサイルはほとんど使われないかもしれない。ただ、国家の順位を決定するだけのもの、生存するための権利を担保する意味だけを持つ可能性が高いと思う。 実際に使われる可能性が高いのは、経済封鎖と内戦の誘発である。核攻撃と異なり、勝ち残る国家の人間は、その惨劇を直接観たり実感したりすることがなく、悪を為しているという実感を持たなくて済むだろう。大多数が殺された民族の国には、多少の売国奴的人物が残るだろうが、数十年後にはその他の地域から移り住んだ人間の中で存在感が無くなるだろう。歴史の中には、邪悪な一派は掃討されたと記載されるだけだろう。
善と悪は便利な概念である。(追補1)人は個人のレベルでも、善と悪を勝手に定義してもそれに気がつかない。ましてや、国家に於いてはプロの戦略家が善と悪を創造して、敵国に如何様にも適用できるだろう。それは、韓国や中国の対日プロパガンダを見るだけでも明らかであるし、中国の最古の歴史書以来の正史を見れば、明らかである。諸外国はそれを経験し、且つ、熟知している。
日本は2000年の単一王朝の国(補足3)であり、日本書紀を破棄して歴史書を書き換えた経験がない。それを自慢げに言う人が右の方に多いが、本当は日本の大きな弱点である。
「慰安婦の日本政府による強制連行」のような明らかに捏造した歴史が、世界で事実のように扱われているのは良い教訓の筈だが、日本政府が先頭にたって歴史捏造に加担している状況では、まともにその悪業に説得力のある異論が出せるのは、外国人ジャーナリストのみである。(e.g., ヘンリー・S・ストークス著、「連合国戦勝史観の虚妄」)
追補1:善悪の勝手な峻別はキリスト教圏など(一神教の国々)が得意とするところである。それ以外の国では、善悪は峻別されない。日本でも「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」という親鸞の言葉が示すとおりである。(18:00追加)
3)「北朝鮮の非核化」は「日本の非核化」である。
昨日の記事で、日本の政治担当者は、日本国民の為に働いていないのではないかと書いた。United Nationsを国連と翻訳したのは、米国(国連の中心)の指示で日本を利用し易くする為だろう。その与党を攻撃するのは、中国やソ連などの支配下にあった人物である。つまり、戦後日本の政治は、米国の為に働く与党議員たちと東アジアの外国の為に働く野党の人たちが、日本の政界で何やら演じて居るだけに見える。(補足4)
北朝鮮は多くの困難を克服して、核武装に成功した。それは、北朝鮮国家の視点に経てば立派なことである。朝鮮半島の歴史を少しでも知ればわかる様に、朝鮮は中国の衛星国としてその支配に苦しんで来た(補足5)。もちろん、一部の国家支配層(両班)は隣国の力を借りて、難なくその地位を保持できただろう。
朝鮮の一般民は、多段階に設けられた社会的階層に封じ込められ、その境遇からの脱却を諦めるために儒教を押し付けられていたのである。一方、一般民が政治的力を次第に得るのは時代の趨勢であり、北朝鮮が真の独立国を目指すのも当然である。国家が苦しい国際環境から脱却し独立国としての体裁を整えるには、そして米国の支配下にある韓国に対して優位に立つためにも、核武装は必須であると考えたのだろう。
そのプロセスは、米国の銃社会を考えればわかることである。左右に銃で武装した集団が居る中で、安全と自由を得るには銃を保持するしかない。ましてや隣から銃口を向けられている環境下では、銃以外に頼る手段などない。国家としての北朝鮮の安全保障環境は、このような環境に置かれた個人のものと同様である。一旦もった核兵器を放棄するには、周囲が核放棄をすることが条件なのは当然である。或いは、放棄しない限り確実に殺される(キム王朝が潰される)と確信したとき以外にはあり得ない。
現在の北朝鮮の視野には、国際法も国連も雲散霧消した野生の世界が露呈しているだろう。しかし、それは北朝鮮に限らず、幻を見なければ、本質的に全ての国家に共通したものである。そのような光景が再び我が国の前に露呈する時が必ず来るだろう。それは既に上に書いた通りである。その時、どこの国が友邦として自衛のための核兵器を呉れるだろうか? そんな国は野生の環境には存在しない。
核兵器は、防衛に役立つ限り世界に拡散するが廃絶はされない。日本にとっては、北朝鮮の核武装は、否、それ以前の中国が核実験に成功したときには、日本も核武装する時だと考えるべきだった。(補足6) 少なくとも、中国や北朝鮮が核武装するのなら、我が国も核武装を考えないのは、自滅への道であると、堂々と国際社会に向けて発信すべきだった。
NPTやCTBTへ率先して、加盟し批准するというのは、もし日本政府が本当に日本国民のために存在すると仮定したなら、本当に愚かな政策である。日本がまともな国になるには、現在の政治家全てが入れ替わる必要がある。それには道州選挙区で一票の格差完全撤廃が、唯一の合法的手段である。この方法にトライしたのが橋下徹であるが、彼は失敗している。(補足7)非合法の手段も考えるべきだと、三島由紀夫は命を張って訴えたが、それは自衛隊員にすら真夏のセミの声程度にしか聞こえなかった。(補足8)列に並ぶのが得意な日本人は、ホロコーストの列であってもその列を乱すことができない愚かな民族なのだろう。何が原因?それは何時か慎重に議論してみたいと思う。
NPT: Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons (核兵器の非増殖に関する条約:核武装国の非増殖に関する条約:通称は、核(兵器)拡散防止条約)
CTBT:Comprehensive Nuclear-Test-Ban Treaty 包括的核実験禁止条約 (現在未発効;発効要件国のうち未署名及び非批准国として、インド、パキスタン、北朝鮮、中国、米国、エジプト、イラン、イスラエルなどがある。)
補足:
1)核兵器拡散の防止や核兵器の廃絶は、世界政府が樹立されれば実現可能である。しかし、異なった人種間の文化的ばらつき、文明進展の程度におけるばらつきなどを考えると、その可能性は非常に小さい。もしそれが遠い将来実現し、人類がその恩恵を受けるとしても、それは必死に自国の生き残りを模索し続けた民族だけのものだろう。
2)離島に太陽光発電、風力発電、潮力発電などで電気を発生させ、それを人の住む地域に電気あるいは水素で送る。イワタニとトヨタは、それを標準的な未来のエネルギー調達法として考えて居るのだろう。それは賢明に思えるが、技術で遅れをとるのが覇権国などの大国であれば、それは標準とはならない。
3)単一王朝が維持できたのは、宗教を支配したからである。つまり、天皇家が(不完全ではあるが)人格神として天照大神を創造し、それを神道の創始者のように仕立てたからである。本来の神道はアニミズムであり、大きな山や川などあらゆる自然の存在が神体である。
4)北朝鮮の日本人拉致の問題を、堂々と「そのようなことはあり得ない」と言ったのは、戦後一貫して野党筆頭であった日本社会党から名称変更した社民党である。(社民党機関誌『月刊社会民主』1997年7月号:私は、読んでいないので、“裏をとった”わけではない。)
5)両班(ヤンバン又はリャンバン)から白丁(ペクチョン)まで多段階の社会的階層があった。白丁は、皮革製品を作る職人や芸能人など最下層の賎民である。(資料はウィキペディアなど多くあるが、以下を推薦する。https://www.y-history.net/appendix/wh0802-046.html)
6)田中宇氏の解説を引用する。http://tanakanews.com/g1024japan.htm ひねくれた見方と思われるかもしれないが、この田中氏の考えが正しいのなら、自民党政権は当に米国の傀儡政権である。外国の傀儡政権ならそのうち正体がばれるから、退治されるだろう。しかし、日本の傀儡政権は厄介だ。なぜなら、日本人は言葉を聞いただけで、その霊に怯える民族である。核や放射線とは、恐ろしい悪魔の言葉なのだ。昔(60年ほど前の話)、ある大学の教授が放射線化学関連の予算要求する際、その霊を払拭するのに苦労したという記事を読んだことがある。
7)彼の失敗は、優秀な人材が十分得られなかったからである。本来、優秀な人材を得て、2-3度脱皮を繰り返さないと、この種の組織は成虫にはなれない。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/04/blog-post_4.html
8)ここに麻原彰晃を入れるのは、完全な間違いなのだろう。
2018年9月16日日曜日
United Nationsを国連と訳する意図について
チャンネル桜のいつもの長時間番組を30分ほど見た。「国連の本当の姿」という題目で議論しているようだ。そんなことに3時間もかかるのか? 少しコメントを書いて、途中で視聴をやめた。https://www.youtube.com/watch?v=mPH7psUXDEI&t=1505s
この話は、最初の加瀬英明氏の5分の話で全て終わりである。それ以上は題名の観点から派生した話の筈である。つまり、united nations を国際連合と呼ぶことを誰かが決めた。その翻訳には意図が含まれて居る。正しく翻訳すれば、それに参加することには、国民も政治家も、ある気持ちの悪さを感じるだろう。
多分、ドイツ国民はそれを感じて居るだろう。日本と同じ枢軸国だったのだから。その感覚を持って、国連で活動することでのみ、正しい国連との付き合いが可能となる。しかし、日本は国際連合と訳した。名は体を表すという言葉と国際連合という名称を、そのまま日本人は頭の中で連結させるだろう。
それでは、国民の大多数があの憲法前文や9条を変える気になるのに、100年かかっても不思議はない。(補足1) United Nations を国連と訳したのは、それを狙っての確信犯的行為だろう。以下に、投稿したコメントをイタリックで書く。
日本の政治担当者は、日本国民の為に働いていない。United Nationsを国連と呼ぶと決めたのは誰なのか?要するに日本の政治は、米国の為に働く与党と政府役人たち、中国など東アジアの外国の為に働く野党の人たちが、日本の政界で何やら演じて居るだけではないのか。
25分のところで、慰安婦問題で謝るべきでないとか何とか言って居るが、そんなこと当たり前である。そんなこと知らない筈がない。あなた方の方が賢くて、政治をやって居る人たちが知らないからミスをするとでも思って居るのか?河野なのか宮沢なのか村山なのか知らないが、皆外国のために働いて居た筈である。その様な指摘は、意味がなくつまらない。
補足:
1)一時期日本の政治を支配すると思われて小沢一郎氏が、国連中心主義を看板にしたことが記憶に残っている。
この話は、最初の加瀬英明氏の5分の話で全て終わりである。それ以上は題名の観点から派生した話の筈である。つまり、united nations を国際連合と呼ぶことを誰かが決めた。その翻訳には意図が含まれて居る。正しく翻訳すれば、それに参加することには、国民も政治家も、ある気持ちの悪さを感じるだろう。
多分、ドイツ国民はそれを感じて居るだろう。日本と同じ枢軸国だったのだから。その感覚を持って、国連で活動することでのみ、正しい国連との付き合いが可能となる。しかし、日本は国際連合と訳した。名は体を表すという言葉と国際連合という名称を、そのまま日本人は頭の中で連結させるだろう。
それでは、国民の大多数があの憲法前文や9条を変える気になるのに、100年かかっても不思議はない。(補足1) United Nations を国連と訳したのは、それを狙っての確信犯的行為だろう。以下に、投稿したコメントをイタリックで書く。
日本の政治担当者は、日本国民の為に働いていない。United Nationsを国連と呼ぶと決めたのは誰なのか?要するに日本の政治は、米国の為に働く与党と政府役人たち、中国など東アジアの外国の為に働く野党の人たちが、日本の政界で何やら演じて居るだけではないのか。
25分のところで、慰安婦問題で謝るべきでないとか何とか言って居るが、そんなこと当たり前である。そんなこと知らない筈がない。あなた方の方が賢くて、政治をやって居る人たちが知らないからミスをするとでも思って居るのか?河野なのか宮沢なのか村山なのか知らないが、皆外国のために働いて居た筈である。その様な指摘は、意味がなくつまらない。
補足:
1)一時期日本の政治を支配すると思われて小沢一郎氏が、国連中心主義を看板にしたことが記憶に残っている。
2018年9月15日土曜日
プーチン提案についての日本側マスコミの反応(II)
1)元外務省の評論家の宮家邦彦氏が、下に引用のyoutube動画で、東方経済フォーラム全体会合での日露平和条約締結に関するプーチン提案に言及している。そこの発言が、非常に奇異なので、短いコメントを投稿しておいた。
https://www.youtube.com/watch?v=o6b9FZMGyHM
上記動画の中で宮家氏が、「そんなもの(=「条約の中に争点解決すると書けば良い」というプーチン提案)何の保証にもならないでしょう。平和条約結んだら切り札を切ってしまう訳でしょう。その時我々が取るべきものを取らないで、あとでやればいい? 何時やるのですか? 何にも書いてなければ、とても飲めるものではない」(6分45秒)」と発言している。
今朝のテレビ番組「ウエーク」でも、この問題を議論していた。そこで、読売新聞の橋下五郎氏が、「平和条約締結の条件は4島の帰属決定であり、それは絶対譲れない一線」だと言っていた。私には、日本人の多くが、日露平和条約交渉をまるで、日露北方領土返還交渉のように考えているとしか思えない。
テレビで活躍中の両者に聞いてみたい。「平和条約が切り札だとか、4島帰属(半分以上を日本への)決定は絶対譲れない一線だとおっしゃるが、敗戦はどちら側ですか?」と。(補足1) 二人の方は、日本国がアメリカの影の中に居ることで、無意識に強くでていることがわかっていない。平和条約を結ぶ意志がないのなら、その次にあるのは「じゃ、一旦終わった戦争を再開しますか」という質問ではないだろうか。これは単に平和条約に関する論理の話である。
2)ここで、私の思い当たるこれまでの日露平和条約締結交渉についての基本的な疑問点をあげる。それは、「何故、具体的な経済協力と平和条約交渉をリンクするのか?」である。
私が理解する平和条約は、戦争終結(日ソ共同宣言において行なっている)に続いて、領土を含む互いの財産のふさわしい帰属国への引き渡し、債務や債権の決済、戦争に至った両国に残存する戦争に向かうポテンシャル(つまりトラブルの種)を除去し、そのほか全ての両国間の棘を取り除いて、以後未来志向の独立国どうしであると確認・宣言する協定である。
つまり、平和条約は互いに未来志向の独立国どうしとなる為に、その障害を取り除くための条約である。そこで一般論として、これから経済協力していきましょうと未来に言及するのは、わかる。しかし、現在進行している経済協力は非常に具体的且つ大規模であり、本来平和条約を結んでから行うべきことである。経済協力が条件なら、それは賠償金あるいはそれに相当するものとして、算定して行うべきであり、平和条約の時点で支払いの交渉は終わるべきだろう。
日ソ共同宣言ではソ連は日本への賠償金請求権を放棄しているが、平和条約締結に際して、何か賠償金相当の経済協力をする義務がその後生じたのか? もし、そうでないのなら、互いに過去の歴史からの自由を確認したのちの独立国同士が、大きな経済協力の話を喧嘩の最終決着と同時に行う趣旨は何なのか、私には理解できない。
以上は、ソ連との外交的遺産は全てロシアが引き継ぐものと考えて議論した。
補足:
1)ソ連の参戦にまで遡って、論点を拡大する気なのか? ポツダム宣言受諾を表明した8月14日以降、休戦協定の9月2日までに、ソ連軍が千島に侵攻したことは、私も日本人として道義上許しがたい。更に、数十万人もの日本人をシベリア抑留し、5万人もの日本人がシベリアで死亡している。それはハーグ陸戦条約に違反しており、許しがたい暴挙である。それも含めてソ連の歴史をロシアが引き継ぐのなら、かなりの譲歩はすべきだと考える。
しかし、それが戦争というものである。戦争は国家と国家が、野生の原理の下で殲滅戦を行うのであり、そのような結末に至ったのは、第一に日本国の責任である。それを棚にあげて、敗戦国が領土を返還しろというのは、逆の立場になった時以外に考えられない。巨大な核戦力を含め圧倒的な軍事力を持った国に、もう一つの巨大軍事力を持った国の腰巾着であるとしても、腑抜けの国が何をいっているのか。
しかし、プーチン大統領はそうは言っていない。係争中の問題はその後話し合うと条約中に明記すると言っている。平和条約の段階で、それ以上望むのは本来おかしいのではないか。
上記動画の中で宮家氏が、「そんなもの(=「条約の中に争点解決すると書けば良い」というプーチン提案)何の保証にもならないでしょう。平和条約結んだら切り札を切ってしまう訳でしょう。その時我々が取るべきものを取らないで、あとでやればいい? 何時やるのですか? 何にも書いてなければ、とても飲めるものではない」(6分45秒)」と発言している。
今朝のテレビ番組「ウエーク」でも、この問題を議論していた。そこで、読売新聞の橋下五郎氏が、「平和条約締結の条件は4島の帰属決定であり、それは絶対譲れない一線」だと言っていた。私には、日本人の多くが、日露平和条約交渉をまるで、日露北方領土返還交渉のように考えているとしか思えない。
テレビで活躍中の両者に聞いてみたい。「平和条約が切り札だとか、4島帰属(半分以上を日本への)決定は絶対譲れない一線だとおっしゃるが、敗戦はどちら側ですか?」と。(補足1) 二人の方は、日本国がアメリカの影の中に居ることで、無意識に強くでていることがわかっていない。平和条約を結ぶ意志がないのなら、その次にあるのは「じゃ、一旦終わった戦争を再開しますか」という質問ではないだろうか。これは単に平和条約に関する論理の話である。
2)ここで、私の思い当たるこれまでの日露平和条約締結交渉についての基本的な疑問点をあげる。それは、「何故、具体的な経済協力と平和条約交渉をリンクするのか?」である。
私が理解する平和条約は、戦争終結(日ソ共同宣言において行なっている)に続いて、領土を含む互いの財産のふさわしい帰属国への引き渡し、債務や債権の決済、戦争に至った両国に残存する戦争に向かうポテンシャル(つまりトラブルの種)を除去し、そのほか全ての両国間の棘を取り除いて、以後未来志向の独立国どうしであると確認・宣言する協定である。
つまり、平和条約は互いに未来志向の独立国どうしとなる為に、その障害を取り除くための条約である。そこで一般論として、これから経済協力していきましょうと未来に言及するのは、わかる。しかし、現在進行している経済協力は非常に具体的且つ大規模であり、本来平和条約を結んでから行うべきことである。経済協力が条件なら、それは賠償金あるいはそれに相当するものとして、算定して行うべきであり、平和条約の時点で支払いの交渉は終わるべきだろう。
日ソ共同宣言ではソ連は日本への賠償金請求権を放棄しているが、平和条約締結に際して、何か賠償金相当の経済協力をする義務がその後生じたのか? もし、そうでないのなら、互いに過去の歴史からの自由を確認したのちの独立国同士が、大きな経済協力の話を喧嘩の最終決着と同時に行う趣旨は何なのか、私には理解できない。
以上は、ソ連との外交的遺産は全てロシアが引き継ぐものと考えて議論した。
補足:
1)ソ連の参戦にまで遡って、論点を拡大する気なのか? ポツダム宣言受諾を表明した8月14日以降、休戦協定の9月2日までに、ソ連軍が千島に侵攻したことは、私も日本人として道義上許しがたい。更に、数十万人もの日本人をシベリア抑留し、5万人もの日本人がシベリアで死亡している。それはハーグ陸戦条約に違反しており、許しがたい暴挙である。それも含めてソ連の歴史をロシアが引き継ぐのなら、かなりの譲歩はすべきだと考える。
しかし、それが戦争というものである。戦争は国家と国家が、野生の原理の下で殲滅戦を行うのであり、そのような結末に至ったのは、第一に日本国の責任である。それを棚にあげて、敗戦国が領土を返還しろというのは、逆の立場になった時以外に考えられない。巨大な核戦力を含め圧倒的な軍事力を持った国に、もう一つの巨大軍事力を持った国の腰巾着であるとしても、腑抜けの国が何をいっているのか。
しかし、プーチン大統領はそうは言っていない。係争中の問題はその後話し合うと条約中に明記すると言っている。平和条約の段階で、それ以上望むのは本来おかしいのではないか。
2018年9月14日金曜日
プーチン大統領の領土問題は積み残して平和条約を締結しようという提案について
1)12日夜のNHKニュースで、東方経済フォーラムの全体会合において、ロシアプーチン大統領が標記提案をする様子が放映されていた。領土問題の交渉を行うと条文に明記し、今年中にも平和条約を締結するという案である。
安倍総理は、習近平を挟んで向かって左に座っていた。その全体会議において、世界に公開した形で、プーチン大統領は提案したのである。本来二国の首脳間で行うべき条約交渉が進展しない状況を考えて、本音を自国ロシアを含む世界へ公表したのである。
官邸の菅官房長官は、同じニュースで日本の方針はあくまでも領土問題解決したのちの平和条約締結であるが、全体会合でのプーチン発言に抗議する予定は無いと発表した。(中日新聞13日一面)
このプーチン提案に対して、自民党総裁に立候補している石破茂氏も、領土問題の解決を抜きにして平和条約を締結すれば禍根を残すことになると発言している。そして、「私は経済協力が進めば、領土問題が解決するという考えは持たない」と指摘した。(中日新聞13日二面)
このプーチン提案、多くの人が議論している。例えば、内閣参与の藤井聡氏は、盗人猛々しい的な発言で、プーチン提案を批判し攻撃している。 https://www.youtube.com/watch?v=k4KpVuSkpgE(補足1)
彼ら(官房長官、石破茂、藤井内閣参与)は何も解っていない。
また、昨夜のBSプライムニュースでこの問題が話し合われたようだ。https://www.youtube.com/watch?v=PHc3KTUNTgs
全体会議の傍聴側(客席)に居た片山氏は、プーチン発言をとんでもないと捉えているようだが、東郷元外務次官は、あの発言は思いつき発言ではないとの証拠にも言及して、平和条約の締結のチャンスであると言っている。ただし、プーチン発言を支持している訳ではなさそうである。
それを10分ほど聞いてコメントを投稿した。それを以下に引用する。
2)最初の10分までですが、感想を書きます。(以下編集あり)
私はプーチンの”思いつき案”に賛成である。歯舞色丹が返還された場合、日米安保条約に基づいて、沖縄と同様に(ロシアにとって仮想敵国の米軍が)米国が基地を設営したいと言ってくる可能性が危惧されるのは当然である。その目的は、対露作戦と対日作戦の両方が考えられる。
それらの島に米軍基地を置かないという日米合意を、日米安保条約に書き込むことは不可能である。また重要なことは、「平和条約締結を本来強く進めるべきは、敗戦国の日本である」という点である。強力な軍事力、核攻撃能力を持つロシアと、日本は戦争を再開出来ますか? ロシアは、日本の同盟国である米国と何時更に関係が更に悪くなる可能性があります。その事を考えていますか? 石破さんらに、そう私は言いたい。
平和条約という言葉の原点を、強力な米国の影に居て、日本の人たちは忘れている。戦勝国と敗戦国の関係と現在日露間に大差がある軍事力を考え、戦後賠償金という言葉さえプーチンの頭には在る筈である。賠償金?と疑問に思う人はいるだろう。それは、何か悪事を成したことに対する賠償金ではない。戦争をここで終結するために敗戦国側が支払う一時金である。
国家と国家の関係は、野生の原理が基本である。現在、米国が世界に君臨しているので、一応法と権威が存在する疑似社会のようは様相を示している。しかし、トランプは世界を混乱に導く方向に走っている。中国は、国際社会という言葉を都合の良い時だけ用いている。
中露の同盟が一層強くなれば、トランプは東アジアから撤退するだろう。実際、先日のロシアの極東軍事演習では中国軍の参加もあった。残された日本は、ロシア、中国、朝鮮の核保持国の同盟に囲まれて、窒息するだろう。
繰り返すが、日本人は平和条約という言葉の意味をもう一度考えるべきである。今の時期を逃せば、禍根を残すのは、日本である。 20回以上会談をして、議論の余地は残されていない。それでも決着がつかない平和条約交渉である。これ以上の話し合いは無駄であると気づくべきだ。それがあの全体会議というオープンな場でのプーチン発言に繋がったのだろう。
片山氏は、国内問題を意識した発言だというが、外交も当然国内を意識して考える問題である。また、安倍総理の朝鮮問題での素晴らしいパーフォーマンスについて、世界の通信社が「日本の総理が、北朝鮮の非核問題等でアイスブレイクした」と報道したと“よいしょ”しているが、それは無意味な発言である。
世界の通信社など、国連人権委員会、ノーベル財団平和賞選考委員などと同様、無責任な大衆の声である。片山氏が日本の国民の福祉と安全を第一に考える政治家ではなく、今後の党内での位置を考える政治屋であることを示しているだけである。
3)ここで、繰り返しになるが、一言追加しておきたい。
有史以来、国家間の戦争には、自然界の命を懸けた戦いと同様に、ルールも何も無かった。単に、国家が互いに他国民の命を奪い合って、領土や利権を争うことであった。その本質が、20世紀前半には戦争論の教科書にあるように、戦争が外交の延長になった。国家をメンバーとする社会が部分的に出来たのである。
その社会化は、国際連盟などの国際機関の設立で、いわば頂点に達した。しかし、兵器の飛躍的発展と、中国を始めイスラム圏やアフリカが国際社会の重要なメンバーになることにより、再び野生の世界に戻りつつあると思う。
それは、資源枯渇、食料不足、環境汚染などで加速されるだろう。本格的戦争にならなくても、局地的だがその民族にとって致命的な戦争や、全く新しい植民地化が起こるだろう。そこで、核武力の有無によって、世界は水と油のように二分されるだろう。世界政府樹立と万国公法による世界支配は、夢幻であったと思う。
そのような視点で、もう一度平和条約の意味を考えるべきだと思う。
補足:
1)日ソ共同宣言の6項目に、「ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する」と書かれている。「日本国に対し」と書かれている点に注目してほしい。
また、9項目に「ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する」と書かれている。ここも「日本国の要望に答え」と書かれていることに注意すべきである。
この後者の同意点或いはその変形を、ロシアは現時点で平和条約に書き込め無いと言っている。また、共同宣言はソ連との間のもので、日露間のものではない。簡単にこれから建設する日露平和条約の基礎工事が完全に出来ているとは考えない方が良いと思う。
安倍総理は、習近平を挟んで向かって左に座っていた。その全体会議において、世界に公開した形で、プーチン大統領は提案したのである。本来二国の首脳間で行うべき条約交渉が進展しない状況を考えて、本音を自国ロシアを含む世界へ公表したのである。
官邸の菅官房長官は、同じニュースで日本の方針はあくまでも領土問題解決したのちの平和条約締結であるが、全体会合でのプーチン発言に抗議する予定は無いと発表した。(中日新聞13日一面)
このプーチン提案に対して、自民党総裁に立候補している石破茂氏も、領土問題の解決を抜きにして平和条約を締結すれば禍根を残すことになると発言している。そして、「私は経済協力が進めば、領土問題が解決するという考えは持たない」と指摘した。(中日新聞13日二面)
このプーチン提案、多くの人が議論している。例えば、内閣参与の藤井聡氏は、盗人猛々しい的な発言で、プーチン提案を批判し攻撃している。 https://www.youtube.com/watch?v=k4KpVuSkpgE(補足1)
彼ら(官房長官、石破茂、藤井内閣参与)は何も解っていない。
また、昨夜のBSプライムニュースでこの問題が話し合われたようだ。https://www.youtube.com/watch?v=PHc3KTUNTgs
全体会議の傍聴側(客席)に居た片山氏は、プーチン発言をとんでもないと捉えているようだが、東郷元外務次官は、あの発言は思いつき発言ではないとの証拠にも言及して、平和条約の締結のチャンスであると言っている。ただし、プーチン発言を支持している訳ではなさそうである。
それを10分ほど聞いてコメントを投稿した。それを以下に引用する。
2)最初の10分までですが、感想を書きます。(以下編集あり)
私はプーチンの”思いつき案”に賛成である。歯舞色丹が返還された場合、日米安保条約に基づいて、沖縄と同様に(ロシアにとって仮想敵国の米軍が)米国が基地を設営したいと言ってくる可能性が危惧されるのは当然である。その目的は、対露作戦と対日作戦の両方が考えられる。
それらの島に米軍基地を置かないという日米合意を、日米安保条約に書き込むことは不可能である。また重要なことは、「平和条約締結を本来強く進めるべきは、敗戦国の日本である」という点である。強力な軍事力、核攻撃能力を持つロシアと、日本は戦争を再開出来ますか? ロシアは、日本の同盟国である米国と何時更に関係が更に悪くなる可能性があります。その事を考えていますか? 石破さんらに、そう私は言いたい。
平和条約という言葉の原点を、強力な米国の影に居て、日本の人たちは忘れている。戦勝国と敗戦国の関係と現在日露間に大差がある軍事力を考え、戦後賠償金という言葉さえプーチンの頭には在る筈である。賠償金?と疑問に思う人はいるだろう。それは、何か悪事を成したことに対する賠償金ではない。戦争をここで終結するために敗戦国側が支払う一時金である。
国家と国家の関係は、野生の原理が基本である。現在、米国が世界に君臨しているので、一応法と権威が存在する疑似社会のようは様相を示している。しかし、トランプは世界を混乱に導く方向に走っている。中国は、国際社会という言葉を都合の良い時だけ用いている。
中露の同盟が一層強くなれば、トランプは東アジアから撤退するだろう。実際、先日のロシアの極東軍事演習では中国軍の参加もあった。残された日本は、ロシア、中国、朝鮮の核保持国の同盟に囲まれて、窒息するだろう。
繰り返すが、日本人は平和条約という言葉の意味をもう一度考えるべきである。今の時期を逃せば、禍根を残すのは、日本である。 20回以上会談をして、議論の余地は残されていない。それでも決着がつかない平和条約交渉である。これ以上の話し合いは無駄であると気づくべきだ。それがあの全体会議というオープンな場でのプーチン発言に繋がったのだろう。
片山氏は、国内問題を意識した発言だというが、外交も当然国内を意識して考える問題である。また、安倍総理の朝鮮問題での素晴らしいパーフォーマンスについて、世界の通信社が「日本の総理が、北朝鮮の非核問題等でアイスブレイクした」と報道したと“よいしょ”しているが、それは無意味な発言である。
世界の通信社など、国連人権委員会、ノーベル財団平和賞選考委員などと同様、無責任な大衆の声である。片山氏が日本の国民の福祉と安全を第一に考える政治家ではなく、今後の党内での位置を考える政治屋であることを示しているだけである。
3)ここで、繰り返しになるが、一言追加しておきたい。
有史以来、国家間の戦争には、自然界の命を懸けた戦いと同様に、ルールも何も無かった。単に、国家が互いに他国民の命を奪い合って、領土や利権を争うことであった。その本質が、20世紀前半には戦争論の教科書にあるように、戦争が外交の延長になった。国家をメンバーとする社会が部分的に出来たのである。
その社会化は、国際連盟などの国際機関の設立で、いわば頂点に達した。しかし、兵器の飛躍的発展と、中国を始めイスラム圏やアフリカが国際社会の重要なメンバーになることにより、再び野生の世界に戻りつつあると思う。
それは、資源枯渇、食料不足、環境汚染などで加速されるだろう。本格的戦争にならなくても、局地的だがその民族にとって致命的な戦争や、全く新しい植民地化が起こるだろう。そこで、核武力の有無によって、世界は水と油のように二分されるだろう。世界政府樹立と万国公法による世界支配は、夢幻であったと思う。
そのような視点で、もう一度平和条約の意味を考えるべきだと思う。
補足:
1)日ソ共同宣言の6項目に、「ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する」と書かれている。「日本国に対し」と書かれている点に注目してほしい。
また、9項目に「ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する」と書かれている。ここも「日本国の要望に答え」と書かれていることに注意すべきである。
この後者の同意点或いはその変形を、ロシアは現時点で平和条約に書き込め無いと言っている。また、共同宣言はソ連との間のもので、日露間のものではない。簡単にこれから建設する日露平和条約の基礎工事が完全に出来ているとは考えない方が良いと思う。
2018年9月13日木曜日
一歩が踏み出せない日本の政治:北海道原発再稼働と日露平和条約
本文最下段に追加補足あり(18:00)
災害から身を守るには、備えをすることと逃げることである。何もしないのでは、何時か死に至る。今の日本政治を見ていると、どちらの方向にも一歩を踏み出す自信がない、生後一年ほどの幼児のような状態に見える。
1)例えば、北海道での電力不足は深刻だが、それを一挙に解決する手段がある。それは原子力発電所の再稼働である。その検討の有無が政府から全く発表されていない。地震の翌日だと思うが、記者会見での菅官房長官による「燃料プールの冷却用電源確保が出来た」という言葉のみが原発関連の発言である。その際の記者からの質問にも、再稼働の予定を聞いたものは無かったようだ。https://www.youtube.com/watch?v=Vch2HBqI3og&t=76s
テレビや新聞は、意図的に「原発再稼働に関する議論」を避けている様に見える。議論すれば必ず、再稼働も考えるべきではないかという意見が出ると考えられるからだろう。一方、記者連中も誰も彼も、再稼働すべきであるとの意見を持っていても、誰かが発言しない限り、「それには触れない」(補足1)というのが日本人と日本文化の決定的な弱点である。その特徴というか短所を持つのは、政府や政治家だけではないのだ。
その「空気」に、特に敏感な二世議員で構成されている日本政府は、原発再稼働を差し当たり考えていないか、或いは、国民の声を恐れて議論する旨の発表も出来ないでいる。世耕弘成経済産業大臣(補足2)は11日の記者会見で、「北海道の節電は長期化する。今週が節電の山場だ」と発言したという。
節電の山が今週で、節電は長期化する?それを聞いた評論家の佐藤健志氏は、「世耕氏の発言は矛盾している」とラジオで解説していた。(佐藤健志氏のラジオ放送:https://www.youtube.com/watch?v=LadMaHUqEQY)
しかし、そうではない。世耕氏が言いたいのは、(原発再稼働をしなければ)節電の山は今週だが、今後は節電の”高原”が続くという意味である。「今の時点では考えていないが、喉元まで再稼働という言葉が出てきているので、誰か先に発言してくれ」と言いたいのだろう。
12日の中日新聞2面(12版)にも、世耕大臣の火力発電の再稼働や揚水発電の利用などに触れただけの記者会見の記事が掲載されている。(補足3) 一般人としては、緊急再稼働を考えるべきという上記佐藤健志氏の他にも、チャンネル桜の水島社長がいち早く再稼働を考えるべきとの発言している。しかし、マイノリティの意見であることは、風見鶏の世耕氏ら自民党の政治家連中が一番良くしっている。
2)日本政治の一歩を踏み出す勇気がないというか、無能さは、ロシアとの平和条約の締結問題にも明白にあらわれている。
ウラジオストクでの東方経済フォーラムにおいて、安倍総理、習近平中国国家主席、プーチンロシア大統領など4人ほどが横一線に並ぶ全体会議で、プーチン氏は今年中に領土問題抜きで平和条約を結ぼうではないかという提案を行った。(補足4)領土問題はその後で話し合うことにすれば良いとの提案である。
このプーチン発言について菅官房長官は、「政府としては北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する基本方針に変わりはない」と述べ、否定的な考えを示した。そして、「両首脳の二者会談でそのような発言があったということは承知していない」と述べた。https://www.sankei.com/politics/news/180912/plt1809120014-n1.html
このプーチン大統領の発言は、北方4島の帰属を両者が納得する形で決定し、それを平和条約に書き込むことは不可能であるとの表明である。また、全体会合でこの発言をしたことは、「これ以上、日本の北方4島の帰属に関する議論のための議論を、両これ以上続けられない」という表明だろう。(補足5)
そのプーチン提案に対して、安倍総理が留守の内閣官房において、早速拒否的発言をすることは非常識である。平和条約とは何かについて、官房長官を始め政府高官はもう少し考えたほうが良いのではないか。平和条約の締結とは、戦争の最終的終結を意味する。日ソ共同宣言はあったが、あれは平和条約ではない。菅官房長官の様な姿勢では、日露が今後平和条約交渉をこれまでの形で行うことは出来ないだろう。その意味を、軍事力を持たない日本はもっと真面目に考えるべきだろう。
もともと南千島は、(ソ連は参加していない)サンフランシスコ講和条約でも放棄の宣言をしている。国会でも、吉田茂総理は、択捉島や国後島はその南千島に含まれていると答弁している。(追加補足1) また、4島一括返還の話は、日ソの接近を防止するように米国が日本に吹き込んだ話である。
現在、日露は仮想敵国的情況から未だに抜け出ていないのだから、戦争終結の条約において北方4島全てを返還するとか、面積半分を返還するとかの条項を書き込むことは本来無理だろう。平和条約後の経済協力は、ロシアが強く望むことだろうし、日本にとってもメリットは多い。しかし、平和条約はそれ以前の問題である。
何よりも、対米従属の姿勢の先が見えている現在、仮想敵国の数を減らすのは緊急の課題の筈である。しかし、「北方領土、四島一括返還」などのキャッチフレーズ(補足6)しか頭にない”対米従属教の信者”が牛耳る日本政府では、もはや前にも後ろにも一歩も歩み出せないのである。
日本は4つの核保持国に囲まれている。米国は、日本を背骨のない国にすることに成功し、混乱の種を残して東アジアから後退することを予定している。その袖を掴んで米国にしがみ付く様な姿勢は、日本から未来を奪うだけだろう。勿論、米国は同盟国であり、大事にすべきではある。しかし、現在の大統領に率いられた米国は、歴史よりもこれまでの覇権よりも、何よりも自国の利益を最優先する国である。
取り敢えず、ロシアと少なくとも平和条約を締結して、日本の主権を守る根拠を一角だけでも確かにすべきである。中国とは平和条約締結後既に70年経つが、日本にとっては最大の軍事的脅威の国である。核兵器と増強しつつある海軍力を背景に、尖閣諸島はおろか、沖縄の領有権も日本は主張できないと言ってきた国である。その国と、3兆円の通貨スワップを決定した上に、10月にはもっとそれを拡大する可能性が巷に流布されている。
日本国民の筈だが、日本という国が理解できないし、安倍総理の考えもわからない。
追加補足:
1)正確には吉田茂総理の答弁を引き継いだの西村条約局長の答弁、「(サンフランシスコ平和)条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むものと考えております」という答弁である。この件について、鈴木宗男氏が国会で質問している(2006年)。それに対する時の小泉総理の答弁は、ウルップ島以北が千島列島であり、国後島と択捉島は南千島に含まれないというものであった。http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b164073.htm ただ、地理学的感覚では、その答弁には無理があると思う。
補足:
1)不可触の感覚は、日本文化独特である。日本人の半数以上は、原発という言葉を口にするのも聞くの穢らわしいと思っているのである。議論することも避けるのは、「議論したことがそのまま真実になると思う感覚」からであるとされている。それを言霊信仰という。しかし、それは信仰というよりも、まともな言語を持たないという現実である。日本語は、議論にも情報伝達にも向かない言語なのである。その言語に対する不信感が、日本文化を感覚的な方向に導いたのである。俳句などは、その出来の悪い日本語文化に咲いた徒花である。
2)世耕政隆は伯父にあたる。1998年に伯父の死去に伴った参議院議員補選で参議院議員となる。私が定義する政治屋貴族の1人である。
3)その記事の下に、世界の原発による発電能力が2030年までに、最大10%減少するとのIAEAの予測が掲載されている。中日新聞は、「ゆめゆめ原発再稼働など考えるでないぞ」と、金を支払って購読している読者に念をおしているようである。こんな下らない東京新聞系の新聞をとるなんて、本当にバカである。
4)今年中という言葉に、プーチン大統領のスピード感覚が現れている。日本人の大多数には、びっくりする位の”速い速度”感覚だろう。
5)安倍総理のウリは、活発な外交である。トランプやプーチンとの関係も良好であるとのメッキは、ほとんど剥げている。20数回会談しても、一歩の進展しないのなら、嫌になるのは当然である。安倍総理は、日本国内に向けて会談の写真を送るために会談しているのだろう。
6)キャッチフレーズは、考える能力のない大衆に仏教を教える秘法であった。南無阿弥陀仏、色即是空などを知らない日本国民は居ない。しかし、南無阿弥陀仏の「南無」の意味や、色即是空の「色」や「空」の意味を知る日本人は、その2-3%程度或かないかだろう。
災害から身を守るには、備えをすることと逃げることである。何もしないのでは、何時か死に至る。今の日本政治を見ていると、どちらの方向にも一歩を踏み出す自信がない、生後一年ほどの幼児のような状態に見える。
1)例えば、北海道での電力不足は深刻だが、それを一挙に解決する手段がある。それは原子力発電所の再稼働である。その検討の有無が政府から全く発表されていない。地震の翌日だと思うが、記者会見での菅官房長官による「燃料プールの冷却用電源確保が出来た」という言葉のみが原発関連の発言である。その際の記者からの質問にも、再稼働の予定を聞いたものは無かったようだ。https://www.youtube.com/watch?v=Vch2HBqI3og&t=76s
テレビや新聞は、意図的に「原発再稼働に関する議論」を避けている様に見える。議論すれば必ず、再稼働も考えるべきではないかという意見が出ると考えられるからだろう。一方、記者連中も誰も彼も、再稼働すべきであるとの意見を持っていても、誰かが発言しない限り、「それには触れない」(補足1)というのが日本人と日本文化の決定的な弱点である。その特徴というか短所を持つのは、政府や政治家だけではないのだ。
その「空気」に、特に敏感な二世議員で構成されている日本政府は、原発再稼働を差し当たり考えていないか、或いは、国民の声を恐れて議論する旨の発表も出来ないでいる。世耕弘成経済産業大臣(補足2)は11日の記者会見で、「北海道の節電は長期化する。今週が節電の山場だ」と発言したという。
節電の山が今週で、節電は長期化する?それを聞いた評論家の佐藤健志氏は、「世耕氏の発言は矛盾している」とラジオで解説していた。(佐藤健志氏のラジオ放送:https://www.youtube.com/watch?v=LadMaHUqEQY)
しかし、そうではない。世耕氏が言いたいのは、(原発再稼働をしなければ)節電の山は今週だが、今後は節電の”高原”が続くという意味である。「今の時点では考えていないが、喉元まで再稼働という言葉が出てきているので、誰か先に発言してくれ」と言いたいのだろう。
12日の中日新聞2面(12版)にも、世耕大臣の火力発電の再稼働や揚水発電の利用などに触れただけの記者会見の記事が掲載されている。(補足3) 一般人としては、緊急再稼働を考えるべきという上記佐藤健志氏の他にも、チャンネル桜の水島社長がいち早く再稼働を考えるべきとの発言している。しかし、マイノリティの意見であることは、風見鶏の世耕氏ら自民党の政治家連中が一番良くしっている。
2)日本政治の一歩を踏み出す勇気がないというか、無能さは、ロシアとの平和条約の締結問題にも明白にあらわれている。
ウラジオストクでの東方経済フォーラムにおいて、安倍総理、習近平中国国家主席、プーチンロシア大統領など4人ほどが横一線に並ぶ全体会議で、プーチン氏は今年中に領土問題抜きで平和条約を結ぼうではないかという提案を行った。(補足4)領土問題はその後で話し合うことにすれば良いとの提案である。
このプーチン発言について菅官房長官は、「政府としては北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する基本方針に変わりはない」と述べ、否定的な考えを示した。そして、「両首脳の二者会談でそのような発言があったということは承知していない」と述べた。https://www.sankei.com/politics/news/180912/plt1809120014-n1.html
このプーチン大統領の発言は、北方4島の帰属を両者が納得する形で決定し、それを平和条約に書き込むことは不可能であるとの表明である。また、全体会合でこの発言をしたことは、「これ以上、日本の北方4島の帰属に関する議論のための議論を、両これ以上続けられない」という表明だろう。(補足5)
そのプーチン提案に対して、安倍総理が留守の内閣官房において、早速拒否的発言をすることは非常識である。平和条約とは何かについて、官房長官を始め政府高官はもう少し考えたほうが良いのではないか。平和条約の締結とは、戦争の最終的終結を意味する。日ソ共同宣言はあったが、あれは平和条約ではない。菅官房長官の様な姿勢では、日露が今後平和条約交渉をこれまでの形で行うことは出来ないだろう。その意味を、軍事力を持たない日本はもっと真面目に考えるべきだろう。
もともと南千島は、(ソ連は参加していない)サンフランシスコ講和条約でも放棄の宣言をしている。国会でも、吉田茂総理は、択捉島や国後島はその南千島に含まれていると答弁している。(追加補足1) また、4島一括返還の話は、日ソの接近を防止するように米国が日本に吹き込んだ話である。
現在、日露は仮想敵国的情況から未だに抜け出ていないのだから、戦争終結の条約において北方4島全てを返還するとか、面積半分を返還するとかの条項を書き込むことは本来無理だろう。平和条約後の経済協力は、ロシアが強く望むことだろうし、日本にとってもメリットは多い。しかし、平和条約はそれ以前の問題である。
何よりも、対米従属の姿勢の先が見えている現在、仮想敵国の数を減らすのは緊急の課題の筈である。しかし、「北方領土、四島一括返還」などのキャッチフレーズ(補足6)しか頭にない”対米従属教の信者”が牛耳る日本政府では、もはや前にも後ろにも一歩も歩み出せないのである。
日本は4つの核保持国に囲まれている。米国は、日本を背骨のない国にすることに成功し、混乱の種を残して東アジアから後退することを予定している。その袖を掴んで米国にしがみ付く様な姿勢は、日本から未来を奪うだけだろう。勿論、米国は同盟国であり、大事にすべきではある。しかし、現在の大統領に率いられた米国は、歴史よりもこれまでの覇権よりも、何よりも自国の利益を最優先する国である。
取り敢えず、ロシアと少なくとも平和条約を締結して、日本の主権を守る根拠を一角だけでも確かにすべきである。中国とは平和条約締結後既に70年経つが、日本にとっては最大の軍事的脅威の国である。核兵器と増強しつつある海軍力を背景に、尖閣諸島はおろか、沖縄の領有権も日本は主張できないと言ってきた国である。その国と、3兆円の通貨スワップを決定した上に、10月にはもっとそれを拡大する可能性が巷に流布されている。
日本国民の筈だが、日本という国が理解できないし、安倍総理の考えもわからない。
追加補足:
1)正確には吉田茂総理の答弁を引き継いだの西村条約局長の答弁、「(サンフランシスコ平和)条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むものと考えております」という答弁である。この件について、鈴木宗男氏が国会で質問している(2006年)。それに対する時の小泉総理の答弁は、ウルップ島以北が千島列島であり、国後島と択捉島は南千島に含まれないというものであった。http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b164073.htm ただ、地理学的感覚では、その答弁には無理があると思う。
補足:
1)不可触の感覚は、日本文化独特である。日本人の半数以上は、原発という言葉を口にするのも聞くの穢らわしいと思っているのである。議論することも避けるのは、「議論したことがそのまま真実になると思う感覚」からであるとされている。それを言霊信仰という。しかし、それは信仰というよりも、まともな言語を持たないという現実である。日本語は、議論にも情報伝達にも向かない言語なのである。その言語に対する不信感が、日本文化を感覚的な方向に導いたのである。俳句などは、その出来の悪い日本語文化に咲いた徒花である。
2)世耕政隆は伯父にあたる。1998年に伯父の死去に伴った参議院議員補選で参議院議員となる。私が定義する政治屋貴族の1人である。
3)その記事の下に、世界の原発による発電能力が2030年までに、最大10%減少するとのIAEAの予測が掲載されている。中日新聞は、「ゆめゆめ原発再稼働など考えるでないぞ」と、金を支払って購読している読者に念をおしているようである。こんな下らない東京新聞系の新聞をとるなんて、本当にバカである。
4)今年中という言葉に、プーチン大統領のスピード感覚が現れている。日本人の大多数には、びっくりする位の”速い速度”感覚だろう。
5)安倍総理のウリは、活発な外交である。トランプやプーチンとの関係も良好であるとのメッキは、ほとんど剥げている。20数回会談しても、一歩の進展しないのなら、嫌になるのは当然である。安倍総理は、日本国内に向けて会談の写真を送るために会談しているのだろう。
6)キャッチフレーズは、考える能力のない大衆に仏教を教える秘法であった。南無阿弥陀仏、色即是空などを知らない日本国民は居ない。しかし、南無阿弥陀仏の「南無」の意味や、色即是空の「色」や「空」の意味を知る日本人は、その2-3%程度或かないかだろう。
2018年9月10日月曜日
拉致は日本の国内問題:加藤清隆が紹介するヘンリー・ストークス『日本大逆転』の内容
テレビでお馴染みの加藤清隆氏がyoutubeで、知日英国人ジャーナリストのヘンリー・ストークスという方の書いた本「日本大逆転」に、「北朝鮮による拉致問題は実は日本の国内問題である(私の要約)」という内容を見つけて紹介している。https://www.youtube.com/watch?v=0IAEUzUSj9w
そんなこと、誰でもわかることであり、私もブログを書き始めたときから何度も書いてきた。「mohkorigori 拉致」でグーグル検索すれば出てくる。昨日の記事にも触れた。
このような事態になった政治環境上の原因は、占領軍が社会主義政党を育成援助したことと、自民党とは自由党と民主党という考え方のことなる政党が合併した政党であることである。それを正しく理解し、新しい政治体制を急ぎ作ることである。
方法は簡単である。政治への実質的参加者数を増加させ、政治の世界をオープンな構造にすることである。そのためには、一票の格差全廃と選挙区を道州制にして国会議員と地方政治とを分断することが有効だと思う。それは同時に都会に集まった知的な層を無視する現在の政治体制の改善につながる。
その結果、自民党は元のように考え方の違いで分裂するだろう。そして、その成分が二大勢力として日本政治をまともな形に戻る筈である。
小沢一郎氏らの離党などで、一時期そのような動きがあったのだが、それが田舎の政治屋に潰されてしまった。つまり、自民党の二世議員たちや官僚出身の再就職組の多くが、自分たちの飯のタネに政治をしてしまったため、正論であっても失業に繋がる発言をしなくなったことが原因である。
そこで、以下のコメントを書いた。
そんなこと、私も何年も前にブログに書いている。「mohkorigori 拉致」でグーグル検索すれば出てくる。拉致問題は、日本の国内問題である。厳密に言えば、拉致問題は国家的「犯罪」と呼べるかどうかも明確ではない。日本は北朝鮮を承認していない。従って、北朝鮮は日本の考える国際社会の一員ではない。拉致が犯罪だと言うには、それと対立する法とその権威を支える権力が必要だからである。日朝関係が、完全な「野生原理の関係」なら、拉致は犯罪ですらない。だれも、山の熊が人間を殺したとしても、熊の犯罪だとは言わないのと同じである。
私は、テレビに頻繁に出ている加藤氏に対して、「評論家なら、そんなこと外国人の方が書いた本を読む前に、独自に言うべきだった。その反省の言葉も一緒に言え」と言いたい。もし加藤氏の一派がこの動画をアップロードしたのなら、更に言いたい。「加藤清隆☆ヘンリー・ストークス『日本大逆転』が教える真実!!吉永小百合が広めた虚構と、世界の常識の違い!!」というバカな題はつけるべきではない。吉永小百合にそんな責任はないだろう。
(9月11日早朝編集)
そんなこと、誰でもわかることであり、私もブログを書き始めたときから何度も書いてきた。「mohkorigori 拉致」でグーグル検索すれば出てくる。昨日の記事にも触れた。
このような事態になった政治環境上の原因は、占領軍が社会主義政党を育成援助したことと、自民党とは自由党と民主党という考え方のことなる政党が合併した政党であることである。それを正しく理解し、新しい政治体制を急ぎ作ることである。
方法は簡単である。政治への実質的参加者数を増加させ、政治の世界をオープンな構造にすることである。そのためには、一票の格差全廃と選挙区を道州制にして国会議員と地方政治とを分断することが有効だと思う。それは同時に都会に集まった知的な層を無視する現在の政治体制の改善につながる。
その結果、自民党は元のように考え方の違いで分裂するだろう。そして、その成分が二大勢力として日本政治をまともな形に戻る筈である。
小沢一郎氏らの離党などで、一時期そのような動きがあったのだが、それが田舎の政治屋に潰されてしまった。つまり、自民党の二世議員たちや官僚出身の再就職組の多くが、自分たちの飯のタネに政治をしてしまったため、正論であっても失業に繋がる発言をしなくなったことが原因である。
そこで、以下のコメントを書いた。
そんなこと、私も何年も前にブログに書いている。「mohkorigori 拉致」でグーグル検索すれば出てくる。拉致問題は、日本の国内問題である。厳密に言えば、拉致問題は国家的「犯罪」と呼べるかどうかも明確ではない。日本は北朝鮮を承認していない。従って、北朝鮮は日本の考える国際社会の一員ではない。拉致が犯罪だと言うには、それと対立する法とその権威を支える権力が必要だからである。日朝関係が、完全な「野生原理の関係」なら、拉致は犯罪ですらない。だれも、山の熊が人間を殺したとしても、熊の犯罪だとは言わないのと同じである。
私は、テレビに頻繁に出ている加藤氏に対して、「評論家なら、そんなこと外国人の方が書いた本を読む前に、独自に言うべきだった。その反省の言葉も一緒に言え」と言いたい。もし加藤氏の一派がこの動画をアップロードしたのなら、更に言いたい。「加藤清隆☆ヘンリー・ストークス『日本大逆転』が教える真実!!吉永小百合が広めた虚構と、世界の常識の違い!!」というバカな題はつけるべきではない。吉永小百合にそんな責任はないだろう。
(9月11日早朝編集)
2018年9月9日日曜日
北朝鮮問題を「北朝鮮から核を取り除く問題」と考えている限り解決策はない
「迷走する朝鮮半島」という題で、チャネル桜の長時間番組がyoutubeにリリースされた。https://www.youtube.com/watch?v=PF3O71XtBnk
15分ほど聞いて、あまり面白くないので、コメント(最下段)を書いて視聴を中止した。なぜなら、出席者と司会者は北朝鮮問題を「北朝鮮から核を取り除く問題」と、問題を小さく限定して考えているからである。
彼らは大学入試問題を解くような感覚で、議論している。どうして日本人はこのような考え方しかできないのか? 彼らは一体何の為に議論しているのか? 入試問題を解くためなのか?評論家として飯を食うためなのか?(たいへん失礼な意見かもしれないが、あえて日本国民の一人として言わせてもらう。)
本来、北朝鮮問題でもどこの問題でも、国際問題は日本の損益や日本の防衛と安全保障の問題として考えるべきである。北朝鮮という国も、独自に自国の防衛を考え対策を立てる権利があるはずである。やっと手に入れた「安全保障の証書」である核兵器を簡単に放棄する筈がない。(補足1)日本は、それを前提に日本の安全保障を考えるべきである。
政治家はそのように問題設定して対策を考えるべきであるし、それが政治家に出来ないのなら、その理由を有権者は分析すべきである。何を言いたいか? まともな戦略家なら、核兵器は拡散する一方であり、廃止されないことを知っている。つまり、北朝鮮問題の核心は、日本がどのようにして核抑止力を手に入れるかということである。核抑止力とは、日本の軍事担当者がそのボタンを押す形の核兵器を持つということであり、それ以外ではあり得ない。
日本はそれを前提にして、今後の日本の安全保障を考えるべきである。「北朝鮮は嘘つきで、信用ならない」なんて幼稚な議論を公共の電波で流すのは、反日人間である。
私は最近、日本の右寄りに見える人たちを必ずしも日本の民族主義者だとは思わなくなった。民族主義者の振りをして、日本を破滅に追い込もうとしている人たちの可能性がある。韓国人などにヘイトスピーチを大声でやって、日本の国際的信用を落とそうとする在日韓国人と同じである。
同様に、拉致問題を騒いでいる人は、実は拉致問題など解決しないことを知っている可能性が高い。単に、拉致問題で心を痛めている日本の人たちの、精神安定のために北朝鮮を非難し、騒いでいるだけの可能性もある。拉致問題は、北朝鮮に拉致され、軍隊を持たない日本が”軍事的圧力を行使して、取り返すことが出来ない段階”で終わっている。
拉致問題は、日本の中に北朝鮮系のスパイ同然の人間がたくさんいること、それに対する対策がとれていないこと、沿岸の警備が十分でなかったことなどの問題であり、国交のない北朝鮮を非難することは第一の問題ではない。上記日本の問題の解決に動くのなら、本当に拉致問題に取り組んでいることになる。
この番組で、上記のような視点で話をしている部分があるのなら、コメントでお教えください。
2)Youtube動画に投稿したコメント;
そもそも、北朝鮮に核兵器を放棄させようとするのが間違っている。核兵器は将来広く拡散すると考えるのがまともな知性を持った人間のかんがえること。何を下らないことを議論しているのだ。つまり、日本がいかに核兵器にたいする抑止力を得るか、その方法を探るのが、日本の取るべき北朝鮮対策である。
最初からそんなこと、わかっていると思うのだが。。。そこで障害になるのが、米国である。米国は北朝鮮から「絶対に核兵器を取り除きたい」とは思っていない。米国が見ているのは日本である。日本をいかに非核国としておくか、それが米国の考えていることである。もし、ロシアが日本に核保持をさせるのなら、北方4島なんか取り戻すことなんかどうでも良い。
ただ、それは米国との関係において非常に大きな経済的困難を伴う。そこで一番良いのは、米国の核をいかに日本と共有する体制を実現するかである。ロシアはその取引材料として利用すべきだ。(もちろん、日露の関係はそれができる方向で改善すべきである。それは日本の利益として残る。)
補足:
1)北朝鮮は多くの困難を克服して、核武装に成功した。それは、北朝鮮国家の視点に経てば立派なことである。核兵器は、防衛に役立つ限り世界に拡散するが廃絶はされない。日本は、北朝鮮の核武装は日本に核武装するチャンスを与えてくれたと思うべきである。日本が核武装すれば、中国は騒ぐだろう。「一人前の国家に日本がなれば、きっと長い歴史の中で先生役であった貴国と、良い関係が結べます」と説得すべきである。
面白い記事があったので引用します。ただ、筆者の田中宇氏の考えは間違っていると思う。http://tanakanews.com/g1024japan.htm
彼らは大学入試問題を解くような感覚で、議論している。どうして日本人はこのような考え方しかできないのか? 彼らは一体何の為に議論しているのか? 入試問題を解くためなのか?評論家として飯を食うためなのか?(たいへん失礼な意見かもしれないが、あえて日本国民の一人として言わせてもらう。)
本来、北朝鮮問題でもどこの問題でも、国際問題は日本の損益や日本の防衛と安全保障の問題として考えるべきである。北朝鮮という国も、独自に自国の防衛を考え対策を立てる権利があるはずである。やっと手に入れた「安全保障の証書」である核兵器を簡単に放棄する筈がない。(補足1)日本は、それを前提に日本の安全保障を考えるべきである。
政治家はそのように問題設定して対策を考えるべきであるし、それが政治家に出来ないのなら、その理由を有権者は分析すべきである。何を言いたいか? まともな戦略家なら、核兵器は拡散する一方であり、廃止されないことを知っている。つまり、北朝鮮問題の核心は、日本がどのようにして核抑止力を手に入れるかということである。核抑止力とは、日本の軍事担当者がそのボタンを押す形の核兵器を持つということであり、それ以外ではあり得ない。
日本はそれを前提にして、今後の日本の安全保障を考えるべきである。「北朝鮮は嘘つきで、信用ならない」なんて幼稚な議論を公共の電波で流すのは、反日人間である。
私は最近、日本の右寄りに見える人たちを必ずしも日本の民族主義者だとは思わなくなった。民族主義者の振りをして、日本を破滅に追い込もうとしている人たちの可能性がある。韓国人などにヘイトスピーチを大声でやって、日本の国際的信用を落とそうとする在日韓国人と同じである。
同様に、拉致問題を騒いでいる人は、実は拉致問題など解決しないことを知っている可能性が高い。単に、拉致問題で心を痛めている日本の人たちの、精神安定のために北朝鮮を非難し、騒いでいるだけの可能性もある。拉致問題は、北朝鮮に拉致され、軍隊を持たない日本が”軍事的圧力を行使して、取り返すことが出来ない段階”で終わっている。
拉致問題は、日本の中に北朝鮮系のスパイ同然の人間がたくさんいること、それに対する対策がとれていないこと、沿岸の警備が十分でなかったことなどの問題であり、国交のない北朝鮮を非難することは第一の問題ではない。上記日本の問題の解決に動くのなら、本当に拉致問題に取り組んでいることになる。
この番組で、上記のような視点で話をしている部分があるのなら、コメントでお教えください。
2)Youtube動画に投稿したコメント;
そもそも、北朝鮮に核兵器を放棄させようとするのが間違っている。核兵器は将来広く拡散すると考えるのがまともな知性を持った人間のかんがえること。何を下らないことを議論しているのだ。つまり、日本がいかに核兵器にたいする抑止力を得るか、その方法を探るのが、日本の取るべき北朝鮮対策である。
最初からそんなこと、わかっていると思うのだが。。。そこで障害になるのが、米国である。米国は北朝鮮から「絶対に核兵器を取り除きたい」とは思っていない。米国が見ているのは日本である。日本をいかに非核国としておくか、それが米国の考えていることである。もし、ロシアが日本に核保持をさせるのなら、北方4島なんか取り戻すことなんかどうでも良い。
ただ、それは米国との関係において非常に大きな経済的困難を伴う。そこで一番良いのは、米国の核をいかに日本と共有する体制を実現するかである。ロシアはその取引材料として利用すべきだ。(もちろん、日露の関係はそれができる方向で改善すべきである。それは日本の利益として残る。)
補足:
1)北朝鮮は多くの困難を克服して、核武装に成功した。それは、北朝鮮国家の視点に経てば立派なことである。核兵器は、防衛に役立つ限り世界に拡散するが廃絶はされない。日本は、北朝鮮の核武装は日本に核武装するチャンスを与えてくれたと思うべきである。日本が核武装すれば、中国は騒ぐだろう。「一人前の国家に日本がなれば、きっと長い歴史の中で先生役であった貴国と、良い関係が結べます」と説得すべきである。
面白い記事があったので引用します。ただ、筆者の田中宇氏の考えは間違っていると思う。http://tanakanews.com/g1024japan.htm
2018年9月8日土曜日
悪玉&善玉コレステロール:リポ蛋白の役割について
以下は、自分の知識の整理のために調べて見た結果をブログ記事としたものである。
血液検査に関係して頻繁に話題となる、悪玉コレステロール(LDL)や善玉コレステロール(HDL)は、夫々コレステロールに分類される”純物質”の名称ではない。(補足1)正確にはリポ蛋白(補足2)と呼ばれる複合粒子であり、血液中に存在し脂肪やコレステロールの体内での運搬に関係している。
これらLDLやHDLは、コレステロールや中性脂肪(トリグリセリド、補足3)を中心に抱き込んだ、蛋白分子(アポリポ蛋白;以下ALPと略記する)とリン脂質(細胞膜成分)が作る球状の微小粒子である。その生成と役割を示した図を以下に示す。
以下、①②③で示した部分毎に、説明する。
①脂質の小腸での吸収とカイロミクロンというリポ蛋白について:
脂質(lipids)の消化物からの吸収は小腸で行われる。そこで、リン脂質、トリグリセリド、コレステロール(とそのエステル)は、ALP B-48 (ALPはアポリポプロテインの略記)と組み立てられて、初期カイロミクロン(nascent chylomicrons)というリポ蛋白となる。
初期カイロミクロンはHDLからALP C-IIとALP Eを供与されて、成熟する。成熟したカイロミクロンのアポリポプロテインC-IIは、組織上皮(血管壁に並ぶ)のリポプロテインリパーゼ(LPL)を活性化し、そのトリグリセリドを脂肪酸とグリセリンに加水分解して吸収する。
残りのカイロミクロンは、レムナントカイロミクロン(レムナントは残余の意味)と呼ばれ、ALP-Eを介して肝臓のレムナントリセプターと相互作用し、取り込まれる。その肝臓による取り込みが上手くいかない病気が、III型高リポ蛋白血症と呼ばれる遺伝的病気である。
② LDLが関係するプロセスについて:
最初に肝臓で作られるのは、初期VLDL(超低密度リポ蛋白)である。肝細胞によりリン脂質、トリグリセリド、コレステロール(エステル)などは、ALP B-100と組み立てられて、初期VLDLとなり血中に放出される。
初期VLDLは血液中でHDLと衝突して、ALP C-IIとALP Eを供与されて、成熟する。成熟したVLDLのALP C-IIは、組織上皮(血管壁に並ぶ)のリポプロテインリパーゼ(LPL)を活性化する。その結果、VLDLのトリグリセリドは、脂肪酸とグリセリンに加水分解され上皮から吸収される。
中性脂肪分を組織に渡したVLDLはVLDL remnants(VLDL残余物)、またはIDL(Intermediate-density lipoproteins)と呼ばれる。カイロミクロンの時と同様に、ALP-Eを介して肝臓のレムナントリセプターと相互作用し、取り込まれるか、又はそこで更に加水分解が進む。
IDLのトリグリセリドが加水分解されて、IDL残余物ができる。それをLDLと呼び、コレステロールを多く含む。LDLは血中を循環し、肝臓または末梢の細胞に吸収される。その際、LDLリセプターとLDLのALP B-100が相互作用する。
LDLはエンドサイトーシス(全体が取りこまれる)で取り込まれ、リソゾームで分解される。放出された油性分の多くはコレステロールである。
上述のように、LDLは組織に必要なコレステロールを運ぶ役割がある。LDLが酸化或いは糖化されると肝臓に取り込まれず、血中の食細胞(マクロファージ)により食われる。その結果、血管壁等に垢(plaque)の様に付着するので、悪玉コレステロールと呼ばれていた。
③ HDLの役割について:
HDLも肝臓でつくられるが、脂質(コレステロールや中性脂肪)が少ないために、比重が大きい。組織からコレステロールを肝臓に戻す働きがあると日本語ウィキペディアには書かれている。コレステロールの運搬に関して、LDLとは逆の働きをするのである。HDLのもう一つの大きな働きは、小腸で合成された初期カイロミクロンや肝臓で合成された初期VLDLにリポ蛋白(ALP C-II, ALP-E)を渡して成熟させる役割だろう。
以上の情報は主としてhttps://en.wikipedia.org/wiki/Lipoproteinから採った。批判コメント等歓迎します。
補足:
1)コレステロールは、最下段に示した図にその分子構造を示した。ステロイド骨格を持つこの化合物は、細胞膜の一成分であり、且つ、胆汁の原料でもある。善玉&悪玉コレステロールは、リポ蛋白(本文参照)のことである。このような誤解を生じる命名は、言葉の意味や定義を疎かにして短絡的に用いる日本文化の悪い癖の一つである。
2)このリポ蛋白という言葉も分かりにくい。リポはlipid(脂肪分)を意味し、蛋白は蛋白質の意味である。つまり、脂質を内包した蛋白(アポリポ蛋白;apolipoproteins)と細胞膜成分(リン脂質)の複合体粒子である。中心に脂肪やコレステロールを抱き込んだ球状のナノサイズ粒子である。通常の細胞はリン脂質の二重膜を基本構造とするが、リポ蛋白ではリン脂質の膜は一重である。(下に図を示す。) 3)グリセリンの3つの水酸基(OH)に脂肪酸(R-COOHの形の分子で、Rは長鎖の炭化水素である)が結合した分子を中性脂肪と呼ぶ。脂肪酸は酸性だが、その酸性の由来であるCOOH基がグリセリンとの結合に使われているので、中性且つ油溶性である。グリセリンに結合する脂肪酸分子の数が1、2、3のものは、其々モノグリセリド、ダイグリセリド、トリグリセリドと呼ぶ。通常中性脂肪と呼ぶのはトリグリセリドである。
(2018/9/8)
血液検査に関係して頻繁に話題となる、悪玉コレステロール(LDL)や善玉コレステロール(HDL)は、夫々コレステロールに分類される”純物質”の名称ではない。(補足1)正確にはリポ蛋白(補足2)と呼ばれる複合粒子であり、血液中に存在し脂肪やコレステロールの体内での運搬に関係している。
これらLDLやHDLは、コレステロールや中性脂肪(トリグリセリド、補足3)を中心に抱き込んだ、蛋白分子(アポリポ蛋白;以下ALPと略記する)とリン脂質(細胞膜成分)が作る球状の微小粒子である。その生成と役割を示した図を以下に示す。
以下、①②③で示した部分毎に、説明する。
①脂質の小腸での吸収とカイロミクロンというリポ蛋白について:
脂質(lipids)の消化物からの吸収は小腸で行われる。そこで、リン脂質、トリグリセリド、コレステロール(とそのエステル)は、ALP B-48 (ALPはアポリポプロテインの略記)と組み立てられて、初期カイロミクロン(nascent chylomicrons)というリポ蛋白となる。
初期カイロミクロンはHDLからALP C-IIとALP Eを供与されて、成熟する。成熟したカイロミクロンのアポリポプロテインC-IIは、組織上皮(血管壁に並ぶ)のリポプロテインリパーゼ(LPL)を活性化し、そのトリグリセリドを脂肪酸とグリセリンに加水分解して吸収する。
残りのカイロミクロンは、レムナントカイロミクロン(レムナントは残余の意味)と呼ばれ、ALP-Eを介して肝臓のレムナントリセプターと相互作用し、取り込まれる。その肝臓による取り込みが上手くいかない病気が、III型高リポ蛋白血症と呼ばれる遺伝的病気である。
② LDLが関係するプロセスについて:
最初に肝臓で作られるのは、初期VLDL(超低密度リポ蛋白)である。肝細胞によりリン脂質、トリグリセリド、コレステロール(エステル)などは、ALP B-100と組み立てられて、初期VLDLとなり血中に放出される。
初期VLDLは血液中でHDLと衝突して、ALP C-IIとALP Eを供与されて、成熟する。成熟したVLDLのALP C-IIは、組織上皮(血管壁に並ぶ)のリポプロテインリパーゼ(LPL)を活性化する。その結果、VLDLのトリグリセリドは、脂肪酸とグリセリンに加水分解され上皮から吸収される。
中性脂肪分を組織に渡したVLDLはVLDL remnants(VLDL残余物)、またはIDL(Intermediate-density lipoproteins)と呼ばれる。カイロミクロンの時と同様に、ALP-Eを介して肝臓のレムナントリセプターと相互作用し、取り込まれるか、又はそこで更に加水分解が進む。
IDLのトリグリセリドが加水分解されて、IDL残余物ができる。それをLDLと呼び、コレステロールを多く含む。LDLは血中を循環し、肝臓または末梢の細胞に吸収される。その際、LDLリセプターとLDLのALP B-100が相互作用する。
LDLはエンドサイトーシス(全体が取りこまれる)で取り込まれ、リソゾームで分解される。放出された油性分の多くはコレステロールである。
上述のように、LDLは組織に必要なコレステロールを運ぶ役割がある。LDLが酸化或いは糖化されると肝臓に取り込まれず、血中の食細胞(マクロファージ)により食われる。その結果、血管壁等に垢(plaque)の様に付着するので、悪玉コレステロールと呼ばれていた。
③ HDLの役割について:
HDLも肝臓でつくられるが、脂質(コレステロールや中性脂肪)が少ないために、比重が大きい。組織からコレステロールを肝臓に戻す働きがあると日本語ウィキペディアには書かれている。コレステロールの運搬に関して、LDLとは逆の働きをするのである。HDLのもう一つの大きな働きは、小腸で合成された初期カイロミクロンや肝臓で合成された初期VLDLにリポ蛋白(ALP C-II, ALP-E)を渡して成熟させる役割だろう。
以上の情報は主としてhttps://en.wikipedia.org/wiki/Lipoproteinから採った。批判コメント等歓迎します。
補足:
1)コレステロールは、最下段に示した図にその分子構造を示した。ステロイド骨格を持つこの化合物は、細胞膜の一成分であり、且つ、胆汁の原料でもある。善玉&悪玉コレステロールは、リポ蛋白(本文参照)のことである。このような誤解を生じる命名は、言葉の意味や定義を疎かにして短絡的に用いる日本文化の悪い癖の一つである。
2)このリポ蛋白という言葉も分かりにくい。リポはlipid(脂肪分)を意味し、蛋白は蛋白質の意味である。つまり、脂質を内包した蛋白(アポリポ蛋白;apolipoproteins)と細胞膜成分(リン脂質)の複合体粒子である。中心に脂肪やコレステロールを抱き込んだ球状のナノサイズ粒子である。通常の細胞はリン脂質の二重膜を基本構造とするが、リポ蛋白ではリン脂質の膜は一重である。(下に図を示す。) 3)グリセリンの3つの水酸基(OH)に脂肪酸(R-COOHの形の分子で、Rは長鎖の炭化水素である)が結合した分子を中性脂肪と呼ぶ。脂肪酸は酸性だが、その酸性の由来であるCOOH基がグリセリンとの結合に使われているので、中性且つ油溶性である。グリセリンに結合する脂肪酸分子の数が1、2、3のものは、其々モノグリセリド、ダイグリセリド、トリグリセリドと呼ぶ。通常中性脂肪と呼ぶのはトリグリセリドである。
(2018/9/8)
2018年9月5日水曜日
善悪の二つの側面(III)公的空間を持たない一神教の国の人々
1)前回までの総括:
前回までの2回のブログ記事で、民主国家などの個人が自立した社会では、各個人が公的善悪を共有しながら独自の私的善悪を持つべきというモデルを提出した。公的な善とは、社会を健全に維持するために、個人やその集団が自己の負担を乗り越えて、取るべき行動等である。(補足1)公的(社会的)善悪は、その社会の歴史や文化に依存し、文化の一部である。
私的な善悪とは、各個人に固有の善悪とその基準であり、個人の思想、信条、経歴、嗜好などに依存する。個人は、私的な善などの自分の思想信条などを、公的空間で主張する自由が存在する。そのような公的空間での情報交換(補足2)により、文化の一部である公的善悪が制御変更される。
前回の記事で、公的空間と連結して存在する窪みのような私的空間を考えた。個人が社会的に生きる空間である。私的空間の内側に、ホモ・サピエンス(動物としてのヒト)である自分が存在する。私的空間と公的空間のチャンネル(ボトルネックのような部分)の広さは、文化や言語環境などに依存するのだが、日本人の場合は狭い。「沈黙は金、能弁は銀」の民族だからである。なお“沈黙は金”は日本人の甘えの文化の一端を示す。
更に、社会全体に広がった公的空間が存在しない地域では、見知らぬ第三者は社会的対応をしてもらえない可能性が高いことを、中国における自殺見物や韓国におけるナッツリターン事件を例に説明した。そして、公的空間を持たない地域の政治体制に、他国(米国など)が武力を用いて介入し、民主主義という政治制度を導入しその後放置すれば、最終的には内乱となることをに、リビアのカダフィ暗殺とその後の内乱を例に言及した。
公的空間を持たない国などでは、近代社会において必須と考えられる、公正、真実、法治原則などが疎かにされる。そこでは、人間が生きるための命綱は大家族などの人的ネットワークとなる。国家のレベルでみれば、その地域は無数の部族や大家族などに分断されたミニ社会の集合となる。そこには、中世的帝国や社会主義政治のような、支配と被支配の政治体制のみが馴染むと思う。
一方、住民を構成する人々が互いに見知らぬ間柄であっても、パブリックな空間(つまり公空間)を持つ民主社会なら、上記生活上の諸条件が保証され、普通の生活が可能となる。尚、韓国の民主制も戦前戦後、外国から移入されたものである。(補足3)
2)一神教の国の公的空間について:
一神教の国では、人格神を崇拝する宗教が中心に存在する。そこでは、聖典に示された法に従う姿勢が、“公的空間の意識”の代わりをする。見ず知らずの人間の間にも、神の示す公正、真実、法治が基本的に尊重されるだろう。つまり、公的および私的善悪が聖典から移入され、民主的社会の初期的創造がなされると思う。しかし、民主政治と一神教は本質的に両立しない。
一神教の国々で、民主的公的空間の代わりをするのは、宗教的空間である。しかし、この場合根本的な問題は、「善悪は聖典に書かれており普遍的である」ということである。世界が如何に変化しても、聖典は変化しない。そして、公的な善悪基準は2000年たっても殆ど変わらない。変わるのは私的善悪のみである。特に厳格な一神教では、善悪に公的も私的もない。その結果、人々はやがて、聖典の善悪と私的感覚に基づく善悪(私的善悪)や外部世界の善悪(国際社会の善悪)との衝突の中で悩む。それが、現在のイスラム圏の難しい政治状況と関係していると思う。
例えば、一時エジプトを支配したイスラム同胞団のムルガーン・サーリムというジハード主義者が、テレビに出演して、「ピラミッドとスフィンクスを始めあらゆる偶像を破壊しなければならない」と語った。しかし、イスラムの法学者たちは、イスラム法典に依拠する限りイスラム過激派をイスラム教の信者と認めざるを得ないのである。(飯山陽著、「イスラム教の論理」 新潮新書2018年2月)(補足4)
文明国の現代人は、世界の国際的連携の中でしか生きられない。そんな中で、我々が、スフィンクスやピラミッド、更には、東大寺の大仏や金剛力士像までも破壊しなければならないという人たちと共に生きることは、奴隷として以外は不可能だろう。
その結果、それらの国々でも宗教から一定の距離をとる政治支配層を産み出し、その政治環境で矛盾を棚上げしている。キリスト教圏では、宗教そのものの変質や無効化が知識層を中心に進んでいるのではないだろうか。その結果、現在の欧米ではアンチクリストなる本などでも、許容されている。つまり、本を読む知的階層までは、宗教に対する姿勢は多様化している。そして、その証拠だが、現在のキリスト教圏やイスラム教圏のほとんどの国は、聖典の法から人定法を定めている。(「イスラム教の論理」、p26)http://blog.livedoor.jp/dokomademoislam/archives/49255343.html
3)欧米等外国では、聖典に書かれた理想論的善悪は、頭の中に知識としてのみ存在する。個人はその建前を言葉の上で記憶し、時々必要に応じて用いるだけであり、心はそれらに縛られてはいないだろう。勿論、非常に熱心な宗教家がいれば、その方は聖書の善悪をそのまま私的善悪としてコピーしている可能性はある。何れにしても、個人を動かすのは本音であり、建前は経済的或いは社会的な利益不利益を通してのみ、個人に影響を及ぼすのだろう。それが西欧のリアリズムの本質ではないだろうか。
つまり、一神教の国々では、公的善悪が宗教的善悪から離れて、未だに人々の心に樹立されていないのではないのか。それが、自立した西欧の人々の真の姿であり、中国人の自立した姿と本質的な部分で似ているのである。本来公的善悪は人々の心の中にあるべきだが、それが不十分な欧米では、細かく法律で明確化することで問題発生を避けているのである。
人間が社会を作って生きるのなら、厳密な意味では個人は自立していない。その中で個人の尊厳を保って生きるには、社会の原則(善悪)と個人の原則(善悪)を合わせ持つことが必要である。日本人は、その社会性を私的空間と公的空間の両方を持つことで、実現している。欧米人では、それらに対応するのは私的空間と法的知識である。また、一部の公的善悪は、西欧人の中ではマナーとして存在するだろう。しかしマナーは着物であり、肌ではない。
日本は法を軽んじるところがあるが、それは公的善悪或いは公的道徳がしっかりと存在するからである。(補足5)それは、柔軟な社会であり、西欧から見てわかりにくい社会でもある。一方西欧社会で、法が細かく厳格に書かれているのは、公的善悪がしっかりと構築されていないからである。公的善悪が構築されていない国家は、問題解決を法と武力で行う。日本人はそれをしっかりと頭に入れておくべきだと思う。
(以上、社会学の素人ですが、チャレンジしてみました。批判等歓迎します。)
補足:
1)ここでは、形容詞としての「善」と、行為概念としての「善」と、それを人間の行動空間に展開した善的行為の集合も、全て「善」と表現する。
2)公的空間での情報交換とは、現代ではマスコミなどでの報道、国会などでの議論、街頭でのデモなどである。日本では、マスコミは偏向し、国会は田舎の世襲政治屋に占拠されている。それでも尚、街頭は静かである。街頭を静かにさせるには、大衆にパンとサーカスを与え、テレビで健康番組とクイズ番組を放送するのが良い。
3)現在の韓国の民主主義政治も、外国から移入されたものである。日本帝国の支配下では、内地在留の朝鮮人には選挙権が与えられ、朝鮮人衆議院議員も誕生している。他に貴族院議員も数名誕生している。敗戦の時白紙となったが、朝鮮地域の選挙区設定が予定されていた。その後、韓国には米国による李承晩政権が作られた。
4)例えば、日本のキリスト教の信者を名乗る人に、奈良の大仏など破壊すべきではないのか?と問えば、その通りだという人は少ないだろう。それは単に、現在のキリスト教が堕落しているからである。キリスト教もイスラム教も、神は同じヤーヴェ神であり、モーセの十戒の最初の二つの戒めには、ヤーヴェ神を唯一の神とすることと、そのために偶像崇拝を禁止することが書かれている。
5)交通ルールに対する姿勢を例に説明すると、日本は円滑で安全な交通を重視するが、それを達成すべく作られた交通規則を適当に無視する人は多い。数年前、古屋国家公安委員長が、「安全な道路での制限速度20km/h超過を取り締まるのは疑問だ」と発言して問題となった。日本では法の目的を意識し、公的善悪の中に織り込んで運転している。法の中の数値は、単なる目安に過ぎないのである。
前回までの2回のブログ記事で、民主国家などの個人が自立した社会では、各個人が公的善悪を共有しながら独自の私的善悪を持つべきというモデルを提出した。公的な善とは、社会を健全に維持するために、個人やその集団が自己の負担を乗り越えて、取るべき行動等である。(補足1)公的(社会的)善悪は、その社会の歴史や文化に依存し、文化の一部である。
私的な善悪とは、各個人に固有の善悪とその基準であり、個人の思想、信条、経歴、嗜好などに依存する。個人は、私的な善などの自分の思想信条などを、公的空間で主張する自由が存在する。そのような公的空間での情報交換(補足2)により、文化の一部である公的善悪が制御変更される。
前回の記事で、公的空間と連結して存在する窪みのような私的空間を考えた。個人が社会的に生きる空間である。私的空間の内側に、ホモ・サピエンス(動物としてのヒト)である自分が存在する。私的空間と公的空間のチャンネル(ボトルネックのような部分)の広さは、文化や言語環境などに依存するのだが、日本人の場合は狭い。「沈黙は金、能弁は銀」の民族だからである。なお“沈黙は金”は日本人の甘えの文化の一端を示す。
更に、社会全体に広がった公的空間が存在しない地域では、見知らぬ第三者は社会的対応をしてもらえない可能性が高いことを、中国における自殺見物や韓国におけるナッツリターン事件を例に説明した。そして、公的空間を持たない地域の政治体制に、他国(米国など)が武力を用いて介入し、民主主義という政治制度を導入しその後放置すれば、最終的には内乱となることをに、リビアのカダフィ暗殺とその後の内乱を例に言及した。
公的空間を持たない国などでは、近代社会において必須と考えられる、公正、真実、法治原則などが疎かにされる。そこでは、人間が生きるための命綱は大家族などの人的ネットワークとなる。国家のレベルでみれば、その地域は無数の部族や大家族などに分断されたミニ社会の集合となる。そこには、中世的帝国や社会主義政治のような、支配と被支配の政治体制のみが馴染むと思う。
一方、住民を構成する人々が互いに見知らぬ間柄であっても、パブリックな空間(つまり公空間)を持つ民主社会なら、上記生活上の諸条件が保証され、普通の生活が可能となる。尚、韓国の民主制も戦前戦後、外国から移入されたものである。(補足3)
2)一神教の国の公的空間について:
一神教の国では、人格神を崇拝する宗教が中心に存在する。そこでは、聖典に示された法に従う姿勢が、“公的空間の意識”の代わりをする。見ず知らずの人間の間にも、神の示す公正、真実、法治が基本的に尊重されるだろう。つまり、公的および私的善悪が聖典から移入され、民主的社会の初期的創造がなされると思う。しかし、民主政治と一神教は本質的に両立しない。
一神教の国々で、民主的公的空間の代わりをするのは、宗教的空間である。しかし、この場合根本的な問題は、「善悪は聖典に書かれており普遍的である」ということである。世界が如何に変化しても、聖典は変化しない。そして、公的な善悪基準は2000年たっても殆ど変わらない。変わるのは私的善悪のみである。特に厳格な一神教では、善悪に公的も私的もない。その結果、人々はやがて、聖典の善悪と私的感覚に基づく善悪(私的善悪)や外部世界の善悪(国際社会の善悪)との衝突の中で悩む。それが、現在のイスラム圏の難しい政治状況と関係していると思う。
例えば、一時エジプトを支配したイスラム同胞団のムルガーン・サーリムというジハード主義者が、テレビに出演して、「ピラミッドとスフィンクスを始めあらゆる偶像を破壊しなければならない」と語った。しかし、イスラムの法学者たちは、イスラム法典に依拠する限りイスラム過激派をイスラム教の信者と認めざるを得ないのである。(飯山陽著、「イスラム教の論理」 新潮新書2018年2月)(補足4)
文明国の現代人は、世界の国際的連携の中でしか生きられない。そんな中で、我々が、スフィンクスやピラミッド、更には、東大寺の大仏や金剛力士像までも破壊しなければならないという人たちと共に生きることは、奴隷として以外は不可能だろう。
その結果、それらの国々でも宗教から一定の距離をとる政治支配層を産み出し、その政治環境で矛盾を棚上げしている。キリスト教圏では、宗教そのものの変質や無効化が知識層を中心に進んでいるのではないだろうか。その結果、現在の欧米ではアンチクリストなる本などでも、許容されている。つまり、本を読む知的階層までは、宗教に対する姿勢は多様化している。そして、その証拠だが、現在のキリスト教圏やイスラム教圏のほとんどの国は、聖典の法から人定法を定めている。(「イスラム教の論理」、p26)http://blog.livedoor.jp/dokomademoislam/archives/49255343.html
3)欧米等外国では、聖典に書かれた理想論的善悪は、頭の中に知識としてのみ存在する。個人はその建前を言葉の上で記憶し、時々必要に応じて用いるだけであり、心はそれらに縛られてはいないだろう。勿論、非常に熱心な宗教家がいれば、その方は聖書の善悪をそのまま私的善悪としてコピーしている可能性はある。何れにしても、個人を動かすのは本音であり、建前は経済的或いは社会的な利益不利益を通してのみ、個人に影響を及ぼすのだろう。それが西欧のリアリズムの本質ではないだろうか。
つまり、一神教の国々では、公的善悪が宗教的善悪から離れて、未だに人々の心に樹立されていないのではないのか。それが、自立した西欧の人々の真の姿であり、中国人の自立した姿と本質的な部分で似ているのである。本来公的善悪は人々の心の中にあるべきだが、それが不十分な欧米では、細かく法律で明確化することで問題発生を避けているのである。
人間が社会を作って生きるのなら、厳密な意味では個人は自立していない。その中で個人の尊厳を保って生きるには、社会の原則(善悪)と個人の原則(善悪)を合わせ持つことが必要である。日本人は、その社会性を私的空間と公的空間の両方を持つことで、実現している。欧米人では、それらに対応するのは私的空間と法的知識である。また、一部の公的善悪は、西欧人の中ではマナーとして存在するだろう。しかしマナーは着物であり、肌ではない。
日本は法を軽んじるところがあるが、それは公的善悪或いは公的道徳がしっかりと存在するからである。(補足5)それは、柔軟な社会であり、西欧から見てわかりにくい社会でもある。一方西欧社会で、法が細かく厳格に書かれているのは、公的善悪がしっかりと構築されていないからである。公的善悪が構築されていない国家は、問題解決を法と武力で行う。日本人はそれをしっかりと頭に入れておくべきだと思う。
(以上、社会学の素人ですが、チャレンジしてみました。批判等歓迎します。)
補足:
1)ここでは、形容詞としての「善」と、行為概念としての「善」と、それを人間の行動空間に展開した善的行為の集合も、全て「善」と表現する。
2)公的空間での情報交換とは、現代ではマスコミなどでの報道、国会などでの議論、街頭でのデモなどである。日本では、マスコミは偏向し、国会は田舎の世襲政治屋に占拠されている。それでも尚、街頭は静かである。街頭を静かにさせるには、大衆にパンとサーカスを与え、テレビで健康番組とクイズ番組を放送するのが良い。
3)現在の韓国の民主主義政治も、外国から移入されたものである。日本帝国の支配下では、内地在留の朝鮮人には選挙権が与えられ、朝鮮人衆議院議員も誕生している。他に貴族院議員も数名誕生している。敗戦の時白紙となったが、朝鮮地域の選挙区設定が予定されていた。その後、韓国には米国による李承晩政権が作られた。
4)例えば、日本のキリスト教の信者を名乗る人に、奈良の大仏など破壊すべきではないのか?と問えば、その通りだという人は少ないだろう。それは単に、現在のキリスト教が堕落しているからである。キリスト教もイスラム教も、神は同じヤーヴェ神であり、モーセの十戒の最初の二つの戒めには、ヤーヴェ神を唯一の神とすることと、そのために偶像崇拝を禁止することが書かれている。
5)交通ルールに対する姿勢を例に説明すると、日本は円滑で安全な交通を重視するが、それを達成すべく作られた交通規則を適当に無視する人は多い。数年前、古屋国家公安委員長が、「安全な道路での制限速度20km/h超過を取り締まるのは疑問だ」と発言して問題となった。日本では法の目的を意識し、公的善悪の中に織り込んで運転している。法の中の数値は、単なる目安に過ぎないのである。
2018年9月3日月曜日
善悪の二つの側面(II)善悪基準と政治文化
1)善とは、生きる空間を共有する個人が、その共有する空間を良い状態に維持するためにとる行動と、その為の自己のエネルギーや財の積極的な負担を、形容し計測する概念である。(補足1)悪とは、自己の利益を優先して、共有する空間等の悪化を招くことに対する、善と対をなす概念である。
同一の社会に生きる人間は、善と悪の体系(行動を分類した体系)を共有する。従って、善悪の体系は普遍的ではなく文化的である。人間が棲む社会が国境で分断されていれば、人間の行動に対する善悪判断もそこで分断される。
前回の議論で、素人が大胆にも、善悪を公的と私的に分けることを提案した。ここで、公的善悪と言っても各個人が “おおやけの善悪”として意識するもので、支配者が公布した規則によるものではない。社会の多数の構成員が共通して合意する善悪と定義する。公的な善は、社会の安全と繁栄(つまり健全)を維持する責任を果たすために、個人又は個人の集団が取るべき行動を形容する。
私的善悪は、社会的存在としての個人に主眼点をおいて定義する各個人に固有の善悪である。ここで、公的空間と連結して存在する窪みのような私的空間を考え、その中で許容される個人の幸福や安寧を考える。私的空間でも、社会的存在としての自分を自覚する場合、社会に対する貢献は私的善の大きな比重を占める。(補足2)しかし、個人の生活や欲望充足との釣り合いがとれなければ、その特定の個人の行動として成立し得ない。
生物としての自己は、その私的空間の奥に存在すると考える。社会の中で社会に依存して生きる人間は、社会の安全と繁栄なくしては生きられない。従って、公的善悪は私的善悪とは共通する場合が多い。また、両者の共通する部分がほとんどなければ、社会を構成する個人が支配者と被支配者に分断される以外に、社会は安定的に存在し得ない。(補足3)
つまり、住民全てが社会の運営等に参加する社会においては、社会の安全と繁栄および個人の安心や幸福が同時に成立するためには、私的空間を公的空間と連結する形で持つことが必須だと思う。また、公的空間が存在しない場合も、支配と被支配の関係に個人が置かれていることになる。
2)隣の大国は、皇帝が支配する帝国から、孫文らによる民権主義の短い期間を経て、共産党党首による帝国類似の国家の時代が続いた。そこに棲む人たちの意識としては、おそらく家族、大家族、同志的知人の人的ネットワークが生きる空間だと感じていただろう。鄧小平時代から進んだ経済活動の自由化があっても、公空間を意識することはそれほど進まなかった筈である。
従って、公的善悪の意識は一部の知識人や上層階級を除けば、あまり存在しないと考える。人的ネットワークの空間を擬似的な公空間と把握するとしても、それには限界がある。それが、話をしたことのない人、見えない第三者に対する義務感が希薄な理由だと考える。そのことについては既に、「中国人群衆の自殺見物と「早く飛び降りろ」の合唱について」と題する記事で議論した。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2018/07/blog-post_27.html
その中国人の性質は、政治文化と政治体制が原因であって、中国人の本来の性質ではない。日本人も米国人も、同じ歴史の中に生きれば、同様の善悪基準を持つ筈である。
直ぐ隣の国でも同様であった。李氏朝鮮時代の厳しい身分制度は、社会を分断し、一般民が公空間を意識することは考えられない。国教であった儒教は、その身分制度を温存することにつながった。一時話題になった大韓航空のナッツ姫事件や、その妹の態度は、身分制度や儒教の悪影響の結果だろう。https://www.bbc.com/japanese/43748707つまり、公空間とそれによる全国民的な公的善悪など想定できる筈はない。
一方、日本では、儒教の影響は学問の領域に限られ、神道という自然崇拝が文化の中に定着していた。身分制度は人工的に持ち込まれたものの、心の中にまでは定着していなかったようである。それは、明治天皇の歌、「四方の海 皆同胞(はらから)と思う世に。。。」の“同胞(はらから)”という単語を見てもわかる。江戸時代の将軍綱吉の「生類哀れみの令」も、本来弱者保護のためにだされたものだったと再評価されている。明治以降、西欧の制度を取り入れて、身分制度を廃止できたのも、そのような背景があったからだろう。
つまり、日本の文化の下では、公空間を意識することが容易にできる筈である。それが日本が民主国家として一応成立する理由である。西欧諸国での公空間については、次の機会に考察する予定である。
補足:
1)スタンダールの本「de I’Amour (恋愛論)」に以下のような文章があるそうです。I honor with thename of virtue the habit of acting in a way troublesome to oneself and usefulto others. 自分にとって厄介で他人にとって役立つように振る舞う性癖を善(徳)という名で讃える。
2)善なる様々な行動も「善」一文字で書く。つまり、形容詞としての「善」と、行為概念としての「善」と、それを人間の行動空間に展開した善的行為の集合も、全て「善」一文字で表す。
3)この考え方が、独裁制で安定していたアラブに民主化を持ち込んだ際の結末を説明する。カダフィを排除暗殺すれば、リビアが内戦状態になることは、米国の戦略家にはわかって居た筈である。
同一の社会に生きる人間は、善と悪の体系(行動を分類した体系)を共有する。従って、善悪の体系は普遍的ではなく文化的である。人間が棲む社会が国境で分断されていれば、人間の行動に対する善悪判断もそこで分断される。
前回の議論で、素人が大胆にも、善悪を公的と私的に分けることを提案した。ここで、公的善悪と言っても各個人が “おおやけの善悪”として意識するもので、支配者が公布した規則によるものではない。社会の多数の構成員が共通して合意する善悪と定義する。公的な善は、社会の安全と繁栄(つまり健全)を維持する責任を果たすために、個人又は個人の集団が取るべき行動を形容する。
私的善悪は、社会的存在としての個人に主眼点をおいて定義する各個人に固有の善悪である。ここで、公的空間と連結して存在する窪みのような私的空間を考え、その中で許容される個人の幸福や安寧を考える。私的空間でも、社会的存在としての自分を自覚する場合、社会に対する貢献は私的善の大きな比重を占める。(補足2)しかし、個人の生活や欲望充足との釣り合いがとれなければ、その特定の個人の行動として成立し得ない。
生物としての自己は、その私的空間の奥に存在すると考える。社会の中で社会に依存して生きる人間は、社会の安全と繁栄なくしては生きられない。従って、公的善悪は私的善悪とは共通する場合が多い。また、両者の共通する部分がほとんどなければ、社会を構成する個人が支配者と被支配者に分断される以外に、社会は安定的に存在し得ない。(補足3)
つまり、住民全てが社会の運営等に参加する社会においては、社会の安全と繁栄および個人の安心や幸福が同時に成立するためには、私的空間を公的空間と連結する形で持つことが必須だと思う。また、公的空間が存在しない場合も、支配と被支配の関係に個人が置かれていることになる。
2)隣の大国は、皇帝が支配する帝国から、孫文らによる民権主義の短い期間を経て、共産党党首による帝国類似の国家の時代が続いた。そこに棲む人たちの意識としては、おそらく家族、大家族、同志的知人の人的ネットワークが生きる空間だと感じていただろう。鄧小平時代から進んだ経済活動の自由化があっても、公空間を意識することはそれほど進まなかった筈である。
従って、公的善悪の意識は一部の知識人や上層階級を除けば、あまり存在しないと考える。人的ネットワークの空間を擬似的な公空間と把握するとしても、それには限界がある。それが、話をしたことのない人、見えない第三者に対する義務感が希薄な理由だと考える。そのことについては既に、「中国人群衆の自殺見物と「早く飛び降りろ」の合唱について」と題する記事で議論した。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2018/07/blog-post_27.html
その中国人の性質は、政治文化と政治体制が原因であって、中国人の本来の性質ではない。日本人も米国人も、同じ歴史の中に生きれば、同様の善悪基準を持つ筈である。
直ぐ隣の国でも同様であった。李氏朝鮮時代の厳しい身分制度は、社会を分断し、一般民が公空間を意識することは考えられない。国教であった儒教は、その身分制度を温存することにつながった。一時話題になった大韓航空のナッツ姫事件や、その妹の態度は、身分制度や儒教の悪影響の結果だろう。https://www.bbc.com/japanese/43748707つまり、公空間とそれによる全国民的な公的善悪など想定できる筈はない。
一方、日本では、儒教の影響は学問の領域に限られ、神道という自然崇拝が文化の中に定着していた。身分制度は人工的に持ち込まれたものの、心の中にまでは定着していなかったようである。それは、明治天皇の歌、「四方の海 皆同胞(はらから)と思う世に。。。」の“同胞(はらから)”という単語を見てもわかる。江戸時代の将軍綱吉の「生類哀れみの令」も、本来弱者保護のためにだされたものだったと再評価されている。明治以降、西欧の制度を取り入れて、身分制度を廃止できたのも、そのような背景があったからだろう。
つまり、日本の文化の下では、公空間を意識することが容易にできる筈である。それが日本が民主国家として一応成立する理由である。西欧諸国での公空間については、次の機会に考察する予定である。
補足:
1)スタンダールの本「de I’Amour (恋愛論)」に以下のような文章があるそうです。I honor with thename of virtue the habit of acting in a way troublesome to oneself and usefulto others. 自分にとって厄介で他人にとって役立つように振る舞う性癖を善(徳)という名で讃える。
2)善なる様々な行動も「善」一文字で書く。つまり、形容詞としての「善」と、行為概念としての「善」と、それを人間の行動空間に展開した善的行為の集合も、全て「善」一文字で表す。
3)この考え方が、独裁制で安定していたアラブに民主化を持ち込んだ際の結末を説明する。カダフィを排除暗殺すれば、リビアが内戦状態になることは、米国の戦略家にはわかって居た筈である。
2018年9月1日土曜日
善悪の二つの側面:公的善悪と私的善悪について
1)善悪には公的な善悪と私的な善悪(以下、助詞「な」は省略)の二つの側面があると考えると、社会の乱れとその原因が解析しやすくなると思う。公的善悪とは、学校や家庭などでの教育の場で語られ、我々の人格の中に入力されるべく存在する善と悪の体系である。それは、我々が所属する公的空間、つまり社会に存在し、社会の構成員に対して一定の圧力を持つ。一方、私的善悪とは、我々個人の心の中に作られた善悪の体系である。
私的善悪が、心の中に作られ存在するということは、その善悪と心の中の好みとが一致するということである。従って、社会の中に嫌々ながら従う善悪の基準があった場合、それは私的善悪としては組み込まれていないのである。(補足1)この私的善悪と公的善悪は、DNAの二重螺旋のように相互作用しながら存在する。
公的善悪はその地方(国)の文化の中に存在し、社会の構成員の私的善悪の中で共通するものが、何らかのメカニズムで移入され、変更される。私的善悪は、上に述べたように、教育機関などにおいて公的善悪の中から移入される場合と、父母や周囲の人間の私的善悪から移入される場合の、主として二つの道筋で作られ変更されるが、その過程は私的好みや性向により影響を受ける。
公的善悪と私的善悪の間には、必然として合致しない部分が存在する。その差異(ズレ)には、生命としての本能が関係している部分、その人間の所属社会における位置、性差年齢、健康状態などに関係した部分があるが、夫々を分析すれば一定の規則性がある筈である。
社会の安定性や信頼性は、①公的善悪の枠組みがその社会にしっかりと根付いていること、②公的善悪の枠組みが社会の隅々まで行き渡っていることで確保される。①はその社会に所属する人間が、概ね公的善悪からの移入により私的善悪を構築していること、それと同時に公的空間を意識しているかどうかにかかっている。②には、社会の不均一性があまり大きくないことが要求される。
以上、今回序論のみアップロードする。詳細な議論は出来れば今後引き続き行いたい。
2)序論にエピローグはおかしいのだが、この私的及び公的という二つの側面を持つ善悪の考え方を思いついたプロセスについて、整理せずに書いてみたい。上記のようなことを書こうと思ったのは、以下の出来事を見聞きし、経験したからである。
この2日ほど、学校の宿題をメルカリなどで販売している人が居るという話が話題になった。この話を、カール・ポランニーの著書「大転換」の中で引用された「悪魔のひき臼」という言葉で、社会の大きな変化と捉えて話をしている人がいた。
また、15年以上前になるが、子供の同級生が学校(私立進学校)のテストの時間に、自分の苦手な科目の回答を教え合うという不正行為の約束をしたという話を聞いていた。その不正の中心にいたのが、帰化人ハーフの女の子だった。
それとは直接関係は無いが、日本国の政治における脆弱性の原因として、この国には現実主義が根付かないことがあると思う。現実主義の反対が理想主義である。その、虚しい理想主義を唄ったのが、私が最も評価する歌手であり詩人(作詞家)である、井上陽水の「わかんない」である。
そこで歌われたのが、宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」である。http://www.ihatov.cc/monument/034.html 理想主義を現実の中に探したその詩人宮沢賢治の詩である。「そんな馬鹿な」と思っていたのは、ちょっと馬鹿だったのかもしれない。何故なら、その世界を現実に生きている人がいたからである。
今月中頃行方不明になった男の子を探す為に、ボランティアとして参加した男の人が、数十分で簡単にその子供を発見した。その方が、男の子の気持ちを誰よりも理解する能力があったからである。その子の親からの謝礼としてのもてなしを、その方は一切拒否した話を聞いた。その方なら当然のことだと直ぐに理解したが、同時に新鮮な空気を吸ったような気分になった。まさに、プロフェッショナルなボランティアである。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の主人公のような人が、この日本に実在したことを知り、驚くと同時に心を洗われる気持ちになった。http://news.livedoor.com/article/detail/15168563/ (&そこの引用サイト)
補足:
1)例えば、「人の物を盗むこと=悪」という善悪の基準が、私的善悪の中に組み込まれていれば、その人は「窃盗などしたくない」と思うし、窃盗犯を憎み蔑む感情がある筈である。しかし、生命としての本能は、飢えて生死の境界を意識したときには、人のものを盗っても食べて生き延びることを選択するだろう。山崎豊子の小説「大地の子」の中で、陸一心と育ての両親が、長春のチャーズをくぐり抜ける時の光景(小説の中の)が目に浮かぶ。陸一心はそこで、現実主義と理想主義の”接点”を学ぶことになっただろう。
私的善悪が、心の中に作られ存在するということは、その善悪と心の中の好みとが一致するということである。従って、社会の中に嫌々ながら従う善悪の基準があった場合、それは私的善悪としては組み込まれていないのである。(補足1)この私的善悪と公的善悪は、DNAの二重螺旋のように相互作用しながら存在する。
公的善悪はその地方(国)の文化の中に存在し、社会の構成員の私的善悪の中で共通するものが、何らかのメカニズムで移入され、変更される。私的善悪は、上に述べたように、教育機関などにおいて公的善悪の中から移入される場合と、父母や周囲の人間の私的善悪から移入される場合の、主として二つの道筋で作られ変更されるが、その過程は私的好みや性向により影響を受ける。
公的善悪と私的善悪の間には、必然として合致しない部分が存在する。その差異(ズレ)には、生命としての本能が関係している部分、その人間の所属社会における位置、性差年齢、健康状態などに関係した部分があるが、夫々を分析すれば一定の規則性がある筈である。
社会の安定性や信頼性は、①公的善悪の枠組みがその社会にしっかりと根付いていること、②公的善悪の枠組みが社会の隅々まで行き渡っていることで確保される。①はその社会に所属する人間が、概ね公的善悪からの移入により私的善悪を構築していること、それと同時に公的空間を意識しているかどうかにかかっている。②には、社会の不均一性があまり大きくないことが要求される。
以上、今回序論のみアップロードする。詳細な議論は出来れば今後引き続き行いたい。
2)序論にエピローグはおかしいのだが、この私的及び公的という二つの側面を持つ善悪の考え方を思いついたプロセスについて、整理せずに書いてみたい。上記のようなことを書こうと思ったのは、以下の出来事を見聞きし、経験したからである。
この2日ほど、学校の宿題をメルカリなどで販売している人が居るという話が話題になった。この話を、カール・ポランニーの著書「大転換」の中で引用された「悪魔のひき臼」という言葉で、社会の大きな変化と捉えて話をしている人がいた。
また、15年以上前になるが、子供の同級生が学校(私立進学校)のテストの時間に、自分の苦手な科目の回答を教え合うという不正行為の約束をしたという話を聞いていた。その不正の中心にいたのが、帰化人ハーフの女の子だった。
それとは直接関係は無いが、日本国の政治における脆弱性の原因として、この国には現実主義が根付かないことがあると思う。現実主義の反対が理想主義である。その、虚しい理想主義を唄ったのが、私が最も評価する歌手であり詩人(作詞家)である、井上陽水の「わかんない」である。
そこで歌われたのが、宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」である。http://www.ihatov.cc/monument/034.html 理想主義を現実の中に探したその詩人宮沢賢治の詩である。「そんな馬鹿な」と思っていたのは、ちょっと馬鹿だったのかもしれない。何故なら、その世界を現実に生きている人がいたからである。
今月中頃行方不明になった男の子を探す為に、ボランティアとして参加した男の人が、数十分で簡単にその子供を発見した。その方が、男の子の気持ちを誰よりも理解する能力があったからである。その子の親からの謝礼としてのもてなしを、その方は一切拒否した話を聞いた。その方なら当然のことだと直ぐに理解したが、同時に新鮮な空気を吸ったような気分になった。まさに、プロフェッショナルなボランティアである。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の主人公のような人が、この日本に実在したことを知り、驚くと同時に心を洗われる気持ちになった。http://news.livedoor.com/article/detail/15168563/ (&そこの引用サイト)
補足:
1)例えば、「人の物を盗むこと=悪」という善悪の基準が、私的善悪の中に組み込まれていれば、その人は「窃盗などしたくない」と思うし、窃盗犯を憎み蔑む感情がある筈である。しかし、生命としての本能は、飢えて生死の境界を意識したときには、人のものを盗っても食べて生き延びることを選択するだろう。山崎豊子の小説「大地の子」の中で、陸一心と育ての両親が、長春のチャーズをくぐり抜ける時の光景(小説の中の)が目に浮かぶ。陸一心はそこで、現実主義と理想主義の”接点”を学ぶことになっただろう。
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