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2019年9月14日土曜日

再)南京虐殺について

以下は2015年に投稿した文章ですが、検索にかからなくなったので、ここに再掲載します。

1)昨日のプライムニュースでは、専門家3人が出席して南京虐殺について議論していた。その3名は、新しい歴史教科書をつくる会で教育学者の藤岡信勝氏、元日本大学教授で歴史学者の秦郁彦氏、そして明治大学文学部教授で歴史学者の山田朗氏である。

まず南京市とその当時の人口などについてを含め紹介された事件の概略を書く。 南京事件は南京陥落後、日本軍が捕虜とした兵士や軍服を脱ぎ捨てて大衆の中に紛れ込んだ中国軍兵士と思われる人たちを、多数殺した事件である。その中に非戦闘員が多数いたが精査せずに殺したこと、捕虜を殺したこと、更に軍服を脱いだ無抵抗な人間を殺したことが国際条約に反する犯罪行為にあたるとされている(補足1)。日本軍関係者は戦後に南京軍事法廷(国民党政府が開いた)と東京裁判により処刑された。

日本軍により殺された人の数は、南京軍事法廷での判決文では30万人とされ、極東軍事裁判では20万人とされた。秦氏と山田氏は、「兵士や非戦闘員合わせて4万人程度の虐殺があったと思う」と述べ、藤岡氏は0に近いと述べた。藤岡氏は多くの人が殺されたのは事実だろうが、それらは戦闘行為としての殺戮であり、国際条約に違反するものではないとしている。つまり、捕虜は無抵抗であるべきであり、兵士は軍服を脱ぐことが禁止されている。従って、違反者は殺されても仕方がないのだというのが、藤岡氏の論理である。

戦時に民間人や捕虜が殺されることは多くあっただろうから、南京事件が歴史に残る事件として、更に戦後永きにわたって国際紛争の種となるには、極端に多数の民間人や捕虜が殺されるか、多数が極端に残虐な方法で殺されるかが必要条件となる。そこで強調されるのが、30万人という人数や百人斬り(追記1)と言われる殺戮方法である。後者については新聞で大きくとりあげられ賞賛されたというが、その中にどれだけ民間人を含むかなど詳細は分からない。

前者の数であるが、それはかなり誇大化された数字だろう。ただ、中国側が誇大に話を作ったとしても、それに対してこちらも矮小化で対立するのでは、問題が解決せず長引くだけである。出来るだけ真実に迫ろうとする、秦氏と山田氏の歴史家としての態度を支持する。以下にその点についてのみ、更に放送内容にそってレビューする。

2)南京市主要部は城壁に囲まれ、その一部に安全区(下図の難民区)が設けられており、そこに西欧人約15名(例えば、ドイツ人ラーベなど)が監視役として滞在していた。南京市の当時の人口は100万人程度であり、多くの市民は日本軍の入城前に逃げたが、それでもかなり残っていた。逃げ遅れた人たちは安全区に逃げ込み、その人数は20万人だったと言われる。

http://www.history.gr.jp/nanking/nanking.htmlより転載

南京市内の人数は、最大限度の殺戮者数を議論する上で重要である。(補足2) 藤岡氏の「南京市に入城時には、誰も(安全区以外)いなかった」との発言に対して、「侵入軍から身を隠すのは当然であり、安全区以外の城内(上図の実線内)や城外にはかなりの人が残っていたと考えるのは不思議ではない」という、秦氏と山田氏の反論があった。

以前から我々一般人は屡々、「当時の南京の人口は20万人であり、30万人の殺害は物理的に困難である」、そして「南京事件後しばらくして、南京の人口はそれより増えていたので、大虐殺などあるはずがない」という藤岡氏らやそれを聞いた人たちの受け売り発言を聞いていた。3名の議論を聞いて、その発言には一般人を欺く意図があったと思わざるを得ない。

つまり、南京市から安全区に避難した人の数が20万人なのである。そして、その他に、南京に入城した日本兵は城外や城内(安全区以外)にほとんど人を見なかったという言葉をそのまま信じて、それ以外の人口を0と勘定し、その合計20万人を南京市の人口としたのである。更に、「当時」という言葉を敢えて定義せず、平穏な時代の人口が100万人以上であるということを知らない一般人に、南京市の人口が20万人だと思わせることにより、「物理的に30万人殺すことは出来ない」と主張したのである。

南京城内は放火されておらず、ひっそりと隠れておればわからないだろう。また、城外は放火されていたというが、隠れるところはあっただろう。そのように考えれば、本当の人口は30万人超えても不思議はない。実際、山田氏は南京城区に60万人いたのではないかと推定している。

私は、藤岡氏らの南京事件全体に対する言葉を、この段階で信用できなくなった。そして、「南京事件後、南京の人口はそれより増えていたので、大虐殺などあるはずがない」という彼らの言葉は非常に悪質であると思った。なぜなら、市民が避難した所から帰れば当然そのくらいの人口になる。従って、南京虐殺など無かったという人たちの発言の根拠は非常に脆いので、「物理的にありえない」という強い表現を用いたのだろう。

中国軍の兵士(補足3)が便衣兵として、安全区の避難民の中に紛れ込んでいたので、それらしき者を探して殺しても、戦闘行為と見なせるという藤岡氏の意見も詭弁に聞こえた。捕虜になる覚悟で名乗り出た場合、助かるのではなく殺されたわけだから、生き残る道は非戦闘員の中に紛れ込むしかない。

もし、捕虜をかなり荒っぽい形でも裁判にかけてから、疑わしい者を死刑にしていたのなら、そして一部を無罪として命の保障をしていたのなら、捕虜になるという逃げ道があったと言えるだろう。そして、軍服を脱いで非戦闘員の中に紛れ込んだ者たちを便衣兵とみなすことも論理的には可能だろう。しかし、当時の日本兵はそのようにはしなかったのである。

結論として、最初の方で秦氏と山田氏が推定した、「兵士や非戦闘員合わせて4万人程度の虐殺があったと思う」が妥当な数字だと思う。この数字は、事件の翌年4月に発行された中国の共産党機関紙に掲載された、南京で42000人が殺害されたという記事の数字にほぼ一致している。 当時の軍の指揮にあたった松井石根大将は東京裁判で死刑となったが、執行の前に残した松井大将の言葉は非常に印象深い。それを読んで、数字はいろいろ議論はあるだろうが南京虐殺が実際にあったと納得した。その遺言には、日露戦争当時と比較して軍の規律が取れていなかったこと、兵士の暴走を止めることが出来なかったこと、そして自分の死により当時の兵士たちが反省してほしいと書かれている。(https://ja.wikipedia.org/wiki/松井石根 を参照)

南京事件の根本的とも思える原因として、次の2点を秦氏が番組の始めの方で指摘した。
① 大本営は上海陥落後に軍を止めて、講和に持ち込む方針だったが、現場がそれを無視して南京の方に向かった。そのため、食料などの補給は計画されておらず、現地調達することになった。
② 日露戦争までは国際法遵守して、近代国家としての体裁を保っていたが、その後軍規も徐々にいい加減になり、上層部の意向を無視して独走する傾向(下克上)があった。

放送では幕府山での虐殺など個々のケースについて議論があったが、それらは省略する。以上、昨夜のBSフジプライムニュースを見た後、私が理解した南京事件である。

補足:
1)1899年にオランダのハーグで締結されたハーグ陸戦条約に規定されている。この条約では、その内容を各国が国内法として法制化することになっている。日本も1912年に公布されている。(ウィキペディアによる)
2)この問題の論争において、大虐殺を否定する側の最も有力とこれまで私が感じてきた根拠は、「当時南京の人口は20万人であった。30万人殺すのは物理的に不可能である」という論理である。この点については以下に述べる様に、大虐殺を否定する側が極めて悪質な言論的トリックを用いていたと思う。
3)当時南京守備のために残った中国軍兵士は5-10万人と言われている。かなりの人数(5万人程度)が安全区に逃げ込んだと思われる。

=== 11/13投稿、11/14午前8時全面修正 === 追記:
1)100人斬りについては、虚構であるとの訴えが遺族によりなされ、裁判で虚構であるとの判断がなされた。溝口郁夫著、「南京100人斬り競争の虚構の照明」及び:https://www.youtube.com/watch?v=7N_v3sz6mgI など参照。(2015/12/2追記)

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