1)韓国による竹島占領は、李承晩ラインの設定により始まる。しかし、それは2本の連合国最高司令官司令(SCAPIN)の延長でしかない。一つは、「若干の外かく地域を政治上行政上及び行政上日本から分離することに関する覚書」として1946年1月の連合国最高司令官司令677号(SCAPIN-677)である。その第3項には以下のようである。
3 この指令の目的から日本と言ふ場合は次の定義による。
日本の範囲に含まれる地域として:
日本の四主要島嶼(北海道、本州、四国、九州)と、対馬諸島、北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口之島を除く)を含む約1千の隣接小島嶼;
日本の範囲から除かれる地域として:
(a)欝陵島、竹島、済州島。(b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原、硫黄群島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島。(c)千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島。
つまり、このSCAPIN-677により、日本の行政範囲から竹島、歯舞群島、色丹島などが除外されたのである。また、「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」として、SCAPIN-1033が出され、所謂マッカーサーラインが引かれた。その第3項にリアンクル岩礁(竹島)の12海里内に立ち入っては行けないと書かれているという。
そのマッカーサーラインがサンフランシスコ講和条約(1952/4/28)で消されることを考えて、李承晩がそのまま独自に宣言したのが、李承晩ラインである。日韓基本条約締結により李承晩ラインは廃止され、それに代わって日韓漁業協定が締結された。李承晩ラインの廃止までの13年間に、韓国による日本人抑留者は3,929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。
拓殖大学客員教授の濱口和久氏のニュース記事「韓国の仮想敵国は日本?」(2014年11月28日)によると日本政府は、李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本人抑留者の返還と引き換えに、韓国政府の要求に応じて、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮人472人を放免し、日本国内に自由に解放し在留特別許可を与えた。
https://web.archive.org/web/20141214163339/http://www.data-max.co.jp/politics_and_society/2014/11/24120/1128_hmg_1/
2)自民党政府の日本国民に対する二枚舌
先ず、以上を整理する。
竹島はGHQの指令(SCAPIN-677)により日本行政区域から除外された。そして、日本漁船の操業出来る区域の境界線として、マッカーサーラインを示した。(SCAPIN-1033) それらが、サンフランシスコ講和条約で廃止され、竹島が日本領土となることを恐れた李承晩は、マッカーサーラインをそのまま韓国の主権が及ぶ範囲として決定した。それが李承晩ラインである。
講和条約後も、日本は口先で竹島の領有権を主張したが、それにも関わらず、韓国に拿捕された漁民の日本側への引き渡しと引き換えに、日本の刑務所に服役中の重大犯や常習犯472人を釈放して、日本国内に住まわせた。
従って、以下のように筆者は結論する。
①日韓での拿捕された日本漁民と日本国内刑務所で服役中の朝鮮・韓国人犯罪者との引き渡し交渉での合意、②竹島区域に関して、SCAPIN-677の指令と異なった合意がサンフランシスコ講和条約でなされなかったこと、及び、③日韓基本条約において竹島が日本領であるとの合意がなされなかったこと、以上①—③により、実質的に日本政府は竹島を韓国領土として認めたことになる。
韓国の竹島領有権主張を認めた上で竹島領有権を主張することは、相手国の悪行を日本国民に喧伝することで、日本に外交権がなかったことを隠すためである。サンフランシスコ講和条約後も、日本が憲法を改正して独立国にならなかったのは、米国と日本を統治している大日本帝国の生き残りのために結託したからである。
同様のことが歯舞群島や色丹島の領有権の主張にも言える。SCAP-677でそれらの島々は、日本領から外された。それらの日本返還を明確に述べた日ソ共同宣言(1956/12/12)に署名し、批准しながら、平和条約締結を諦めたのは米国の外務省(米国ではどういう訳か国務省と呼ぶ)のトップであったダレスの恫喝による。
吉田茂はサンフランシスコ講和条約締結(1952/4/28)直後に、憲法改正すべきだった。それをしなかったのは、私の想像では、明治維新の際の薩長土肥政府の中で出世した自分たちとその一族、仲間たちの名誉を守るためだったのだろう。敗戦の総括がなされれば、彼らは国賊として裁かれることになるからである。(補足1)
政府の鳩山一郎は、1954年に総理大臣に就任している。憲法改正には、吉田茂の自由党や日本社会党の支持がなければ不可能である。日ソ共同宣言とその後の平和条約への道を創ったのは功績だったが、ダレスの恫喝を受けて、その後12月23日総理大臣を辞任している。米国国務省による妨害が、日本とソ連(ロシア)との平和条約締結を妨げたとして、プーチンロシア大統領も明言している。つまり、日本は独立国としてのソ連外交が出来なかったのである。
https://www.huffingtonpost.jp/2016/12/18/putin-dulles_n_13703530.html
それにも関わらず、自民党日本政府が北方4島や竹島を日本領土として主張するのは、米国の属国としての日本の地位、それを選択した自分たちの売国的政策を隠すためである。そのために、悪役となったのが韓国でありロシアである。その姿勢が、世界各国から日本は過去の戦争の結果を認めていないと攻撃される理由の一つである。
3)結論:
以上、多少理系人間の皮肉な見方なのかもしれないが、日本国民は未だ自分達の国家をもっていないということになる。そして、米国政府の下で占領政治を続けているのは、薩長土肥の日本帝国の生き残りである。
その体制維持の為に、中央集権体制を維持している。国会議員は、実質的に中央政府からの御用聞き、或いは、地方からの陳情屋に過ぎない。その国会議員という職業を維持するために、一票の格差が2倍以上の小選挙区制という選挙制度を堅持している。
つまり、150年前に決定した小さな区割り(県という)から、その地方に国家から与えられる利益と直結した形で国会議員を置くのである。国家から与えられる利益が、自民党以外の人物が国会議員になれば無くなってしまう場合、その県から選ばれる議員は必然的に自民党所属議員となる。単なる御用聞きなので、知識も知性も不要であり、世襲制の方が中央政府支配層には有利である。
この所謂55年体制は、官僚が政治を立案し主に行うことで、一応体裁を整えてきた。従って、外務大臣は外務省の意見で動くのだが、外務省は米国の指示を第一に優先する。そのために、外務次官経験者が駐米大使に就くことが慣例となっていた。
いろいろ、補足すべきことはあるが、今日はこの当たりで話を終わる。
補足:
1)吉田茂は、1878年高知県出身の竹内綱の5男として生まれ、1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる。養父・健三が40歳の若さで死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した。(以上ウイキペディアより抜粋)
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