1)官僚による擬似専制政治:
昨日、安倍内閣の改造が発表され、多くの新人大臣が誕生した。名前を知らない人が多く、恐らく現在の内閣官房がポスト配布による影響力拡大を目指しているのだろう。永田町町内会の派閥争いに過ぎない。(補足1)
国会での議論を見ていると、大臣が答弁するときには必ず官僚がそばにいて、何かメモを見せたり耳打ちしたりしている。大臣は俳優のように舞台に立つが、脚本は官僚たちが書いているというコンセンサスが日本にはあるようだ。民主主義とはそのような“政治家”を選挙で選ぶことだと勘違いしているのだろう。
それは、実際に自分の全能力を用いて国家の運営を行う「政治家」を、一般市民が選挙で選ぶ制度の筈である。政治の脚本を官僚が書き、選挙で選ばれた政治家がそれを演じるのは、決して民主主義ではない。民主主義を模した官僚による擬似専制政治である。擬似がつくのは、官僚たちは「官僚の無謬性」という民主主義の原則を主張して、身の安全を図っているからである。日本丸は漂流するのは当たり前だろう。
官僚の無謬性の根拠は、官僚は新たな方針を作り出さず、なんらかの決断もしないからである。責任は、何らかの決断をする人にのみ問われるからである。本来、政治家がそれらを行い、官僚はそれに沿って自分の専門的知識を活かして、政治家の手足となって働く人種だからである。上記「官僚による擬似専制政治」の“擬似”は、日本国という船を操る船長などいないという意味である。
日本国に明確な意思(明確な戦略と具体的戦術)があり、ある方向に多少の困難なら打ち破り、なんらかのトラップが溝にあれば多少の飛躍を伴って、動いているという感じがしない。常に現在の情況を前提にして、生じる問題が最低になる点を官僚がシミュレーションして探し出すような政治である。たとえ、坂道から崖下に落ちる情況でも、どの位置から落ちるのが、一番怪我が少ないかを探しているような政治に見える。ジャンプして、坂を上がる小道に飛び移ろうとはしない。
タイタニックの映画を思い出す。日本丸船長は間接的にしても、国民が選んだことになっている筈だが、何も考えない国民は日々の生活をエンジョイしている。大半が考えないのだから、下船できない考える人は、不幸である。
2)安倍ポエム政治:
今日、ヤフー記事に面白いのがあった。“安倍晋三「ポエム演説」と河野太郎「ツイッターブロック」に見る政治家の姿勢”と題した文春オンラインの記事である。そこで安倍首相が5日行なったウラジオストクでの東方経済フォーラム演説における一部がコピーされている。以下それを再録:
「ウラジーミル。君と僕は、同じ未来を見ている。行きましょう。ロシアの若人のために。そして、日本の未来を担う人々のために。ゴールまで、ウラジーミル、2人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか。」(補足2)
これが我が日本国で長期政権を誇る内閣総理大臣の演説である。勿論、一部を切り取るのは誤解のもとである。しかし、外交で同じ未来を見る二つの国の首脳は、歴史上いなかっただろう。そのような文章が出てくる演説は異常である。
もっと異常なのは、それがNHKテレビをはじめマスコミに取り上げられて、批判の的にならないことである。この国は臨終間際である。
補足:
1)元総理の小泉純一郎の次男である小泉進次郎氏が環境大臣になった。おそらく、二酸化炭素の温室効果についてイントロ的知識ももたない人だろう。
https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2018/07/htppja.html
最初の仕事は、福島の復興だというから大体能力のほどはわかる。こんなレベルが、日本のホープだというから、此の線状を進む限り、日本に未来はない。何時も同じことを言うが、国政選挙においては、道州選挙区制と一票の格差完全撤廃が、私の処方箋である。(ちなみに、市町村議会は給与ゼロのボランティアにすべきである。)
2)ウラジミール・プーチン大統領は、安倍総理との会見に何時も遅刻する。それで腹を立てない安倍さんは日本流に言えば人間ができている。しかし、一度や二度なら良いが、何時もなら如何に大国ロシアのトップと言っても、腹を立てるのが普通である。それをマスコミも気にしないのが不思議だ。この発言の中身? 宇宙人は鳩山だけか?
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