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2019年12月11日水曜日

悪口を言えない文化の国は滅びる

1)「なんじ自身を知れ」は古代ギリシャの格言である。「彼を知り己を知れば百戦殆からず、(以下略)」は、中国の孫子の兵法にある言葉である。しかし、己を知ることは、難しい。猫は鏡に写った自分の像を、自分の姿だとは認識出来ずに、攻撃する。人間も似たようなところがある。他人に対して怒っているようで、よくよく分析すれば、自分の不満を他人に押し付けている場合が多い。

人も自身を知るには、普通”鏡”が必要だ。自分の姿なら一枚の鏡で十分だろうが、後ろ姿を見るには二枚必要だ。自分の行動や性格となると、鏡の役割をするのは何だろうか?それは周囲を注意深く観測し分析する知性である。しかし、周囲に誰も居なければ、自分の知性も役立たないだろう。また、周囲が反応しないと約束していれば、自分を知る手立てがなくなる。

周囲が反応をしないように約束している様な社会、それが表題の”悪口を言えない文化”の日本社会である。悪口を控える「思いやり」、我慢をしての「お・も・て・な・し」は、社会における潤滑油としての役割があるのは確か。しかし、表面だけ潤滑油で覆っていても、社会が円滑に動くためには、多くの機械がそうであるように、歯車としての個人の役割がしっかりと噛み合っていなければならない。

ある個人と社会の関係が十分ではない場合、明確なメッセージが、その社会において近くに居る他の人達からその人に発せられるべきである。そのようなメッセージは、一般には批判というが、“ざっくり”言って悪口とも言える。その個人の社会における正常な役割と、現実との間の乖離が度を過ぎれば、悪口になっても良いと思う。

その批判或いは悪口は、その対象に自分を知る機会を与え、逆に、その対象からの反論とそれらの往復(つまり議論や口論)により、その社会全体におけるその個人の役割の確認や調整と、メンバーの入れ替えなどを含めた、その社会の改善の機会となるだろう。全体主義や独裁の社会では、その様な現場での構成員間の相互作用がないために、社会全体が非効率化して、崩壊する可能性が高い。

悪口(評価)を抑制する日本社会でも、悪口が全く無いわけではない。裏に潜って陰口として悪質化するのである。その結果、社会のその部分が硬化する。これが全体主義社会生成の硬化メカニズムである。そして、社会に地雷が埋め込まれたような情況になる。この全体主義の最大化したものが、戦前から戦中の日本であり、毛沢東の中国(大躍進運動や文化大革命)である。

日本では、公的には近代史の評価を全くしていない。存在するのは裏に潜った左派の陰口と、やはり裏での右派の「日本は自衛のために戦った」論である。その理由は、既に指摘したように、その近代史を一貫して、一部の人たち(薩長と彼らと結託した下級貴族)が、支配階級として現在も存在するからである。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/01/blog-post_14.html

地域社会で上記“地雷”が爆発した例として、6年前の山口県の山村で5人が殺された事件がある。都会から限界集落に戻った男を、長年の影口で、集落全体で異質な存在として阻害し、地雷化したのである。小さな硬化した全体主義集団の誕生である。結局、地雷は爆発し、その男の大量殺人となったのである。(補足1)https://www.sankeibiz.jp/econome/news/130804/ecc1308041438005-n1.htm

2)悪口、或いは批判を避ける文化の国は、入口社会の国である。例えば、一緒に働く前に、”ふさわしい人材”を選べば、その後批判や悪口を言わなくて済む。その結果、会社の業績を下げなくて済む。大学の場合も、入試で”正確に選考”すれば、落ちこぼれを最小限にできる。そして、落ちこぼれに卒業証書を渡すという、嫌なことを最小限に出来る。

それは、出口までの場面で、なるべく客観的評価をしたくないことが原因である。別の表現では、全ての評価をプラスにして、「和を以って尊となす」の原則を守りたいことが動機である。

しかし、人を事前の試験や面接で評価できると考えることは愚かである。大学入試に業者テストを入れるとか入れないとかの国会での議論は、その類の愚かな議論である。

そんな愚かな議論が国会で長々と為されたのは、政治家の家系に生まれただけの愚かな議員(政治貴族、前に触れた支配階級)が議会を占めるからである。何故、その日本文化の異常性に気が付かないのか? それは、国全体が「見ざる言わざる聞かざる」の文化にどっぷり浸かっているからである。

そのような社会からの脱却というか、社会の変革は、明治の始めとか、敗戦後などの時に可能だった筈である。それが出来なかったのは、おそらく、全て英米のシナリオで国家が設計されたからだろう。つまり、日本は社会や国家ということを深く考えた上で設計され建設された国ではないのだ。マスコミまで別の勢力に抑えられてしまえば、鏡を奪われた女性のように、滑稽な化粧をするだけになってしまうだろう。

以下に、米国在住のチュウカさんの記事に引用された、バイデンと元農夫の口論の動画を見てほしい。元農夫の臆面もなく元副大統領を攻撃する姿、そして痛いところを突かれて、逆上するバイデンなど、それらを清々しく思うのは私だけだろうか。
https://ameblo.jp/chuka123/entry-12554184107.html

私は、このような米国の姿が好きである。そして、そのような性格が日本全体に(そして自分にも)欠けているのは残念である。(補足2)

(12・11早朝編集)

補足:

  1)この事件は、その後本にまとめられたようである。その紹介が、以下の記事でなされている。高橋ユキが山口県『つけびの村』殺人事件取材で見た限界集落の闇:https://friday.kodansha.co.jp/article/67625

2)類似の視点の過去の記事:「和を貴ぶ心」は、実は日本文化の病的側面である。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466516408.html

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