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2021年3月15日月曜日

嘘の本質と機能

1)嘘つきは泥棒の始まりなのか?

 

「嘘つきは泥棒の始まり」という言葉がある。嘘をつくことにより、泥棒までの距離が近くなり、遂には泥棒をするようになるという意味である。そして、泥棒という悪の道に一旦迷い込めば、その人は悪の螺旋を落ちることになる。

 

しかし、親鸞は「善人なほもて往生す、いかにいはんや悪人をや」と悪人正機説を唱えた。この辺りで、善悪、嘘と真実などの関係が危うくなる人が多いだろう。そのような動機から、嘘の意味を考えて来た。今回、その疑問に対する一応の答えを記す。

 

嘘は真実の対語のように考える人が大半だろうが、そうではない。「真実」が点だとすれば、「嘘」はその点以外の空間に広がりを持つ。それらが、現実の「言葉」の成分となっている。その言葉の一部である「嘘」の人間社会における作用や意味を考える。

 

嘘は、犯罪の一部を形成することもあるが、その一方で人と人の間の潤滑油的役割もある。つまり、考え方によれば、人間社会は思いやりのある嘘で成立していると思う。

 

「嘘のない世界には住めない」という考え方を基に、ネット検索したところ、ある短編SF小説を見つけた。嘘の監視を目的に巡回するロボットに、多くの人が射殺される光景を描いている。

 

ある家族が、その恐ろしい国から隣国に逃れる計画をして、沈黙を誓って出発する。言葉を発すれば、嘘が混じる可能性があるからである。隣国にたどり着き、その入国審査のところで、夫が嘘により殺され、妻ひとりが隣国にたどり着く。つまり、隣国も同様の国だったようだ。

 

恐ろしい光景が描かれているのだが、嘘に関する理解を助ける為に書かれたのかもしれない。或いは、ジェノサイドのC国の姿を、比喩的に描いているのかもしれないとも思った。巡回ロボットを街中の監視カメラや顔認証システム、スマホに組み込まれているかもしれないシステムに置き換えれば、殆ど実話に近いと思えなくもないからである。https://kakuyomu.jp/works/1177354054885498520/episodes/1177354054885498527

 

2)ヒトは言葉を纏って人間になる:

 

話を原点に戻す。先ず、「真実」の話からしたい。日本人なら真実は一つと簡単に思い込む。例えば、命題A:「地球は平面ではなく球状であり、宇宙の中に浮かんでいる」ということを、日本人の殆ど全ては「真実」として、納得しているだろう。

 

同様に、命題B:「人の体は蛋白質や水と油、それにカルシウムやリンなどの物質で出来ている。死ねば、骨のカルシウム分が灰として残るが、それ以外は完全に消滅する」を真実だと思っているだろう。

 

しかし、その真意をしつこく確認すると、命題Bには言葉を濁す人は多くなるだろう。自分の墓の購入に数百万円を支払う人に、そのようなタイプが多いだろう。真実だと思って来たことも、命題によっては、その信念は思いのほか軽いことが暴かれる。

 

ここで書いておきたいことは、これら2つの命題は、人類が得た科学的知識だということである。現代人は科学を真実だと思っているだろうが、科学は集積した真実とその体系化ではない。単に、人類の自然に対する理解を仮説(仮定)として整理したものに過ぎないのである。(補足1)

 

真実は、英語で「truth」と訳される。ここで、真実「truth」の意味を英語の語源辞書で調べると、 "faith, faithfulness, fidelity, loyalty; veracity, quality of being true; pledge, covenant"などの意味が記されている。https://www.etymonline.com/search?q=truth

 

そして、faithの意味は、信用、信仰、キリスト教の信仰などである。要するに、「真実(truth)」とは「信仰」である。我々「ヒト」には、真実を定義する能力などない。それは神の領域であるということを、英単語「truth」は教えている。(補足2)

 

つまり、上記2つの命題も、真実かどうかは人の信仰に依存する。従って、信仰の非常に固いひとと、信仰が全く無い人は、上記2つの命題に重みの差を感じないだろう。

 

後者の人たちは、「他人の身体は単に”蛋白、リン、カルシウム、水それに油の集合”に過ぎない」と思うだろう。それ故、その国の文化に信仰がない国は、恐ろしい。生きたままに、他人から移植用の臓器取り出すことに、さほどの抵抗を感じない人が多いからである。

 

神の前でヒトは、真実の姿、つまり裸になるしかない。ヒトは社会を作って生きる際に、纏うのが(その社会の)言葉である。(補足3)七色に変化する言葉を纏ったヒトの姿が、人間として社会に生きるヒトの現実の姿だと思う。良く聞く言葉であるが、「ヒトは社会に生きて人間となる」と思う。

 

つまり、現実の言葉は、真実を核にもつだろうが、その周囲に広く様々な嘘を含んだ空間を形成している。そして、嘘の付き方は、その言葉を話す民族の文化である。以上は、言葉と宗教と社会は、3本螺旋のように進化したという私の仮設を基礎に考えた「嘘の由来」である。(20196月に投稿した言葉の進化論1〜3;解説)

 

3)嘘の分類

 

嘘は、敵に対する嘘、味方に対する嘘、自分に対する嘘に、大きく分類される。(補足4)人は、社会の中でしか生きられないので、味方に対する嘘を多用して生活を可能にしている。その事実に気づかないで、嘘を厳格に禁止すれば、冒頭に引用した短編SFの世界となるだろう。家族関係を含め、全ての人間関係は破壊される。

 

敵に対する嘘は、例えば韓国や中国が捏造した対日歴史である。それを利用して、彼らの社会の大きな枠組みである国家の安定と繁栄の基礎としている。この対日関係の嘘の多用は、特に前者に著しい。それに対して「真実ではない」という形の反論を対策と考えるのは、戦略的ではない。何故なら、それが彼らの真実であり信仰だからである。日本人にとって真実かどうかには彼らの関心事ではないからである。(補足5)

 

嘘も言葉の中の重要な要素である。言葉で書かれた歴史も同様である。

 

我々は言葉と意志と力で生きている。言葉の核心に真実という信仰があり、その周りの多次元空間に嘘の空間が広がっている。人は言葉のみにて生きるに非ず、意志と力を必要とするのである。

 

日本の戦前には、それは常識だったかもしれない。しかし戦後、言葉があれば意志や力は本質的でないという新しい宗教、左翼思想(或いは理想論)が力を持つようになった。意志や力は、嘘が交じる(真実を曲げる)という左翼には、国家という現実的装置を運営する能力はない。

 

言葉の核にある真実は、信仰がなければ虚しさに等しい。自分に対する嘘は、自己の崩壊であり、生きる意志の喪失となり得る。それは人間にとって信仰が非常に大事であることを示している。

 

追補: 重要なことを書き忘れていた。社会の中の公的な空間では、嘘は厳禁となる。法と論理が支配すべき空間では、それは当然のことである。本稿は、主として私的な空間についての話である。因みに政治は、例えば国を構成する民の私的な世界を、公的に規制誘導することだと思う。遅くまで編集が続き、申し訳ありませんでした。

(追補は15日22時追加、16日早朝編集あり;17日早朝表題のみ変更)

 

補足:

 

1)大学の理系学部の初年度辺りで学ぶのが、この“真実”である。ニュートンの力学が現れたときに、全てがそれにより説明出来ると考え、Am Anfang war Mechanik (はじめに力学があった)という聖書のヨハネによる福音書の最初のことばを捩った言葉を信じる人もあった。しかし、20世紀の量子論の出現により、ニュートン力学は「古典力学」と呼ばれるようになり,物理学の基礎としてだけでなく、「仮説の集合である科学」を教える教材ともなった。

 

2)何故言葉の意味を理解するのに英語の語源辞書に頼るのか? そう思われる方が多いだろう。(単に西部邁氏を真似ている訳ではない。)その理由だが、日本語は、基本的概念の多くを中国語(つまり漢字)に依存し、社会や科学など文明に関する言葉は西欧語に依存する言語であり、日本語だけで論理的思考が十分できないと思うからである。日本語で、信仰と侵攻(更に、進行、新興、親交)が発音上区別できないことが、上記日本語の性格を端的に示している。

更に、真実は「reality」だろうという人も居るかも知れない。しかし、Realityは真実よりも現実或いは実在に近く、人によっては幻覚と区別出来ない事が多い。Realityは、Truthより曖昧であり、本来主観的なものであると思う。

 

3)ヨハネによる福音書の最初の言葉、「始めに言葉があった」は、キリスト教の信者にはキリストを指す。キリスト教の信者以外にとっては、言語の核、或いは背骨を形成する、本質的な部分を示していると解釈できる。キリスト教が「絶対」ではないとしても、そこから学ぶべきことは多いと、私は思う。

 

4)味方と敵の区別も、問題に依存し、且つ、現実には灰色部分を含め峻別は困難である。従って、この分類は非常にあらい。

 

5)「人類にとっての真実」という視点が現れれば、この種の日韓問題を真実論争で解決することは可能になる。或いは、日韓が非常に親密な関係になった場合も同様である。日韓が親密な関係になる為に、その障害物を、人類にとっての真実論争で取り除こうとするのは、愚かである。

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