最近、イスラムテロが多発している。7月1日の夜にはバングラデシュの首都ダッカで日本人7名を含めて20人が殺された。3日未明にはイラクの首都で自爆テロがあり、75人以上が殺された。ラマダンの季節にはテロが多くなるという。今年2016年のラマダンは、6月6日ころから7月5日ころだとウィキペディアに書かれている。
自爆テロがあった時によく報道されるのが、「テロはイスラム教でも許されない」とか「一般のイスラム教徒とは全く関係がない」という言葉である。私は正直言って、本当だろうか?と疑問を持つ。どのようにイスラム圏諸国の人々と付き合うべきなのだろうか。
1)今朝の読売新聞一面に、バングラデシュ自爆テロの犯人について書かれている。犯人らはバングラデシュのイスラム過激派組織、ジャマトウル・ムジャヒディン・バングラデシュ(JMB)のメンバーで、ほとんどが裕福な家庭に育ち、大学にも通っていたという。JMBは、イスラム法に基づく国家建設を目指して1998年に設立されたという。イスラム国による犯行声明が出されたものの、政府高官は「犯人たちはイスラム国との関係は全くない」というが、幾つかの証拠もあり無関係ではないようだ。(補足1)バングラデシュ政府が国内過激派とイスラム国との間の協力関係を否定するのは、今後の非イスラム圏諸国との経済的付き合いを考えてのことだろう。
彼らJMBメンバーが、自分たちの国をイスラム法に則って改革するのだという考えで活動しているのなら、標的は現政権となる。しかし、外国人が出入りするレストランを襲撃したのであるから、彼らの目は世界に向けられており、標的は非イスラムの人間だということになる。コーランを暗唱していない人間を殺していったということから、彼らの視点は明らかである。彼らは、今日の世界は堕落していて神の法からは程遠く、それを本来のイスラム法に則った形に戻すべきだと考えているのだろう。つまり、イスラム過激派JMBの攻撃対象を決める際の線引きは、イスラムと非イスラムの間である。
ここで大事なことは、自爆テロは十分な教育を受け、生活に困らない人たちにより引き起こされていることである。それは、神と人の間の契約を自分の命と引き換えにできる程度に固く信じるイスラム教過激派の人たちが、生活に困らない経済的状況と十分な教育環境の中で、つまり自由な環境で産まれたと言うことである。それは、イスラム教圏の国々とその国民は、そのような文化をオリジナルなものとして持っているということを意味している。
別の表現を用いれば、イスラム教圏では信者は聖典を中心にして生きているらしいということである(補足2)。その宗教との距離感で世界を大きく分ければ、仏教や儒教圏などエホバ神を信仰しない地域、キリスト教圏(&ユダヤ教圏)、イスラム教圏、の3つの領域となるだろう。
2)イスラム教の神もキリスト教の神も同じ神であるが、信者と神との距離感は大きく異なると思う。400年ほど前には、地動説を主張したガリレオは裁判にかけられ、有罪とされた。ダーウィンの進化論も未だにキリスト教信者には完全には受け入れられていない。しかし、ニーチェが「神は死んだ」と書いても、裁判にかけられなくなった。(補足3)つまり、キリスト教の聖職者や信者一般が現代科学技術文明を一応受け入れる迄に、400年という時間が流れたのである。それは、宗教的に見れば堕落の歴史だろうし、イスラム教圏は特にそう理解するだろう。
イスラム教圏では、進化論は国家のレベルで拒否されるケースも多い。http://matinoakari.net/news/item_31041.html その事実は、現在のイスラム文明圏が仮に”堕落”するとしても、数百年を要するということだろう。それまで、現在のキリスト教圏の西欧型文明に対する疑問や反発が、強く&濃く存在すると思う。
もう一つ例をあげれば、イスラム教圏では女性に対して、外出する場合には顔や体をベールで隠すことを強要する。我々日本人の目には、この女性の服装は異様に映る。同様にイスラム教国の人たちの目に、肌を露出してミニスカートで街を闊歩する若い女性の姿は異様に映るのも想像に難くない。
この日本や欧米の女性の服装は、個人の自立と自由を前提とする文化がなければ受け入れられない。欧米や日本は民主主義での国家の運営を標榜しているので、個人の自立は国家の必要条件である。(自立した個人を前提とすれば、男女も同権となる;補足4)個人の自立と男女同権は、各個人と神や教会との距離がゼロに近い場合には(つまりイスラム教圏では)殆ど成立しないと思う。
経済発展と生活レベルの向上を望むのは、イスラム教圏とて同じである。それには、当然非イスラム教圏との経済的文化的交流は不可欠である。それはイスラム圏の人々にとっては、異質なるものへの接近であり、特にキリスト教圏の文化に溶け込めない人々による反発は当然あり得る。つまり、経済交流は双方にとって利益を産む形で進められるが、一定の頻度で生じるイスラム原理主義的な考えの人たちとの不幸な事件や事故は、現時点では不可避であり、付随するコストと考える必要があると思う。
そのコストを支払う義務は、一方的に非イスラム圏側にあるのではない筈である。つまり、米国大統領候補のトランプ氏がとる「イスラム教圏からの移民は受け入れられない」という姿勢や、シリア難民受け入れを制限するユーロ圏の姿勢には、一定の正当性があるということである。また、日本も将来イスラム圏からの移住者や労働者を多数受け入れることを検討する場合、受入数の制限や受け入れ予定者のより厳密な身辺調査などが必要だと思う。それを人種差別という捉え方ではなく、異文化交流の経過的措置として、双方が是認する必要があると思う。
補足:
1)テロを引き起こしているイスラム過激派は、中東イスラム諸国とキリスト教圏との関わりの中でうまれたのだろう。最近の米国と中東諸国との戦争が大きく関係しているが、元々イスラム教圏とキリスト教圏とは、過激派の声明にもあるように中世の十字軍以来の宿敵関係にある。そして、一連のテロがイスラム教圏とキリスト教圏との戦いであれば、我々アジア人は争いの外にあることになるが、この世界をイスラム法に則って改革するのが目的だというのなら話は別である。
2)距離がゼロというのは、信者と神は一体であるという感覚を言っているのである。「神は偉大なり」と言って、自爆するのはこの一体感を証明している。
3)キリスト教圏での神と人の間の距離感は、現在のキリスト教圏である西欧諸国に伝搬され定着する間に、ギリシャなどの地中海文明の影響もあって変化したと思う。ギリシャ文明とキリスト教文明の結びついたところで自然科学が生じた。キリスト教による科学の弾圧は確かにあったが、科学の発展はキリスト教とは無関係ではあり得ない。この問題は難しいので、サイトを引用します。http://www.path.ne.jp/~millnm/scich.html
4)イスラム教圏の女性の外出時の服装は、街の男性に自分の女性としての魅力を見せないようにするためである。一方、キリスト教圏の国々やそれを模倣している日本などでは、女性は顔には化粧し、薄着とミニスカートで全身を不特定多数の男性の目に晒す。この女性の服装は、個人の自立を前提とする文化がなければ受け入れられない。
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