相模原の重度身障者の殺人事件は、誠に凄惨な殺人事件であった。事件が起こったあとに、犯人に対する怒りというより恐怖を感じた。またそれとともに、いろいろ考えさせられることも多かった。
犯人は異星人かと思うくらいに被害者の命を軽視した。その行為は、死罪を以ってしても、とてもで償いきれない。今日新聞誌上でこの事件の報道に接して、我々この社会の中で生きる者達は、犯人から刃物のように一つの問いを突きつけられていると思う。それは被害者の名前が伏せられ発表されないというこの社会の対応に関するものである。県警は、「本来は実名だが、色々な障害を持った人たちの施設で、ご遺族の意思もあり、警察本部としてこの方向でいく」(新聞報道のまま)との説明を繰り返した。
家族会副会長の方は、「障害者の子供を持つ親は、外出させたくない人もいれば、周囲に知られたくないという人もいるかもしれない。氏名を公表しないことは、偏見だとは思わない」と語った。その一方で、献花に訪れた障害学が専門の教授は、「障害者がいるということを家族が隠したいということを感じさせるものが社会にあるのなら、我々は変えて行かなければならない」と語ったという。(読売新聞、10,11面)
私も上記遺族の言葉の前半部分がわかるだけに、そして、匿名の要望を出さざるを得なかったことに対して悲しい気持ちを持つ。「殺されても名前も出ないし、出せないということは、犯人の刃物が命を奪う前に、我々の社会が幾分かの命を奪っていたことになるのではないのか?」という問いが頭に浮かぶからである。犯人がパトカーの中で見せた笑いは、それを見越して遺族やわれわれ社会に向けられたものだったと思える。障害学の教授のいう様に社会を変えることができなければ、堂々と犯人に怒りをぶつけられないことになる。
この事件は、「人として生まれたものは全て、等しく生きる権利と個人としての尊厳を有すること」について、明快な姿勢を社会に植え付けてくれるきっかけになってほしい。
(7/29/6:15改訂)
0 件のコメント:
コメントを投稿