「家族に乾杯」はNHKの人気番組である。鶴瓶師匠とゲストの二人が田舎を訪問して、人々の生活の様子をリポートする。そこでは、鶴瓶師匠の親しみ易い話し方により、田舎に住む人も心理的な殻を脱いで、古くからの友人の様に師匠に接することになる。田舎の風景や暮らし、鶴瓶師匠と田舎の人との会話などにより、視聴者にノスタルジックな気分を提供する番組だと思う。
この番組のあり方は、日本では大体どこでも通用するが、一度カナダかどこか外国で試みたことがある。そこでは鶴瓶師匠の技は通用しなかった。大きな60代くらいの男性が、鶴瓶師匠を子供扱いするようなことになったと記憶している。
鶴瓶師匠の親しみある人柄と巧みな会話術は、互いの個人の壁を取り除いて、まるで子供時代からの友達のような雰囲気(空気)を短時間に醸成するのである。しかし、それは容易に子供時代の付き合いに戻ることのできる日本に限られるのではないだろうか。個人の壁が明確に出来上がっている欧米では通用しないのだと、その時思った。
その仮説を示す例はないかと考えた時、鶴瓶師匠の活躍する上方の漫才や昔観ていた吉本新喜劇を思い出した。20歳くらいまでは全く変には思わなかったが、40歳すぎた頃から、上方漫才でよく見られる仕草が奇異に見えてきた。それは、相方の頭を平手打ちすることである。これは子供時代の戯れ合いと相似であると思う。欧米では、芸の世界と雖もありえないと思う。それを受け入れる独特の土壌が日本にあるのではと思った。
それを証明するかもしれないのは、会社員の仕事が終ったあとの飲み会である。参加者は、アルコールにより着けている心の上着を一枚脱ぎ、しばらくは子供時代の人間関係を疑似体験するのではないだろうか。私は、このような人間関係は一神教の国にはないと思っている。
つまり、日本では個人の壁が完全に出来上がらずに成人となるのではないだろうか。勿論、欧米のように個人の壁が出来上がっても、人は尚共有する空間の中で生きる。その共有空間は各グループ特有の私的な空間から、パブリック(公共の)な空間になるのだと思う。そして、その空間を支配するのは、真実、論理、ルールである。
追加:
先日最高裁で、会社の飲み会後の事故を労災と認める判決があった。http://www.scienceplus2ch.com/archives/5244243.html これは非常に愚かな判決だと思う。最高裁は、実情に流される判断をすると、国家が無節操な方向に流れてしまう可能性が高くなる。典型的な例は、自衛隊の合憲判決である。どう考えようと、戦車、戦闘機、迎撃ミサイルなどを持つ自衛隊は軍事力に当たり、憲法9条第二項は明確にその保持を禁止している。従って、憲法改正を阻止してきたのは、最高裁である。
言語がまともに解釈されない国に、まともな公共空間などできるわけがない。人々は私的な集まりを重視し、公共という概念など辞書の中だけにのこるだろう。(7/21:15:30)
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