1)ダッカでのテロリストは、 裕福な家庭の出身で、大学にも通っていたという。貧しいからとか、現状に死ぬほどの不満があるからという理由で、テロリストになったわけではない。そして、非イスラム教徒という理由だけで、日本人7名を含む人質を凄惨な殺し方で殺害したという。非常に腹立たしく、ショッキングな事件である。(補足1)
彼ら犯人は、勉強できる自由な身分にあり、バイアスを持たず真剣に社会、歴史、そして政治を考えた結果、テロリストになったのである。イスラム教の経典に書かれていることに最高の価値を置き、それに従う形でテロリストになったのなら、それは現在のイスラム教徒の本質からの行動ではないのか?
「一般のイスラム教徒は全く関係がない」というのがよく聞くセリフであるが、それをそのまま受け入れるのは愚かなことではないのか? そう考えて、この数日考えた。
キリスト教も昔、現代文明の基礎である科学を弾圧した。地球は太陽の周りを回ってなんかいない、人間は猿のような動物から進化したのではない、と真剣に主張するキリスト教徒は今でも少数いるだろう。なぜなら、世界の創造の様子は創世記に全て書かれていると信じているからである。そして彼らは、現代文明にどっぷり使っている人を無知なる人たちと考えている。(補足2)
あのバングラデシュのダッカでテロリストに殺された日本人は、コーランを暗唱できなかったことで殺された。それは、「人間は進化したのか、神により神の形につくられたのか、どっちだ、答えろ」と問われ、「進化したのです」と答えて殺されたようなものである。それは異教徒への攻撃であり、現代文明の否定であり、差別の究極の姿である。
2)攻撃は多くの場合、防衛を理由に行われる。おそらく、今回のテロも健全であったイスラム社会を、進出してくる健全でない非イスラム文明から防衛するという意図で行われたのだろう。イスラム教徒の生活は聖典にしたがって正確に行われていると思う。一年に一度のラマダン、1日数回の聖地の方向へ向かっての祈り、それに女性が顔などを隠して外出するなどである。
過激派は、これ以上の欧米文明のイスラム圏への進出、それによるその敬虔なイスラム教徒の生活の変質を恐れているのだと思う。それは、一般のイスラム教徒も同様に薄々感じていることではないだろうか。我々は各人が好みのスタイルで生活するのが、現在社会の常識であると“信じている”。豊かでありさえすれば、そして、貧しい国を豊かにすれば感謝されると勘違いしているのではないか? イスラム教徒は、違うものを求めているのかもしれないと考える想像力が必要だと思う。
もしイスラム圏の人たちを日本に受け入れるのなら、”世俗の堕落した日本社会”に安定して住めるかどうかを精査すべきである。つまり、敬虔に聖典を信じ、日々の生活の隅々まで聖典にしたがって暮らしているイスラム圏の人たちに近づく場合は、敬意をもって慎重にすべきではないのか。単に「豊かにするお手伝いをするのだから感謝されてしかるべきだ」というのは、堕落した現代文明社会になれた我々の傲慢ではないのか。
キリスト教徒の多くは、文明社会を受け入れる段階でキリスト教原理主義を故郷として、自分の非活性な遺伝子或いはルーツとしている。イスラム教徒はイスラム教原理主義の里の近くに、現在も住んでいる様に見える。
補足:
1)この事件に対するコメントが宮家邦彦氏の動画で公開されている。その中で宮家氏は、イスラム教徒といっても極端な人の犯行だといっている。極端な人といっても、優秀な方向で極端な人であれば、その思想そのものに我々が属する文化圏の人間と同居する上で問題を孕んでいると思うが、それには触れていない。https://www.youtube.com/watch?v=34A3i79ZQpU
2)進化論は仮説であり、真理とは言えない。太陽が地球の周りを回っているという主張も、座標系の取り方次第で、そう言っても良い。したがって、神を信じる人たちと現在文明を支える科学の研究者は、原理的には敵対するわけではない。別のものを信じる人たちが、それが原因で衝突するとき、敵対することになる。要するに、“信じる”という思考停止の状態に自分をおく人たちは恐ろしいのだ。
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