キリスト教の神を考える際の出発点は、私にとっては自然科学発展の歴史である。人類の100万年を超える歴史の中で、99.8万年の間自然に対する知識が低いレベルにあり、この2000年という短い時間で急速に発展したというのは、“言葉の発生”と共に大きな謎である。
近代科学&技術文明は主に西欧で築かれ、その発生の中心にギリシャ文明とキリスト教があったのだろう。よく聞くのは、「この世界はキリスト教の唯一神(補足1)が創造された完全なものである」との確信とそれを知りたいと言う思いが、ギリシャ哲学の方法をと結びついて、科学を産んだと言う話である。従って、キリスト教を信じる人たちは、完全を目指すという面があるのではないだろうか?しかし、それは異邦人にとっては恐ろしいことである。
人が神の創造物に関心を持つ理由は、キリスト教における神と人の関係にある。キリスト教徒にとって神は愛する存在であり(補足2)、神と人は愛で結ばれた関係にあると聖書に書かれている。つまり、神は創造したものを愛し、創造されたものである人は神を愛するのである。それ故に、人は神と神の創造された“完全な存在である自然”を知りたいと思う。勿論、人も神に似せて作られた本来完全な存在である。
一方、日本の神道を含めて他の宗教では、神は完全で偉大な存在だろうが、その意思を明確には表さない恐ろしい存在である。(補足3)人はその怒りを避け恩恵を受けるためには、ただ祈るほかに方法はない。善い行いをすべきだろうと漠然と思うが、どうもそれほど単純ではないだろうと思う。
日本人が持つもう一つの宗教は、仏教である。仏教には経典はあるが、そこには諦めの境地が、涅槃つまり極楽往生の方法であると書かれている。生病老死は避けることはできないが、物質界は本質でないと言う真理を知れば悟りの境地に達して、それらを乗り越えることができると言うのである。四諦と言うこの考えは、あきらめる(諦める)ことではないと教える坊主がいるだろうが、それは”まやかし”である。
以上の宗教的文化的背景から、日本人は諦めることが(かろうじて)できる民族であることがわかる。日本人、そしておそらく多くのキリスト教徒から見ての異邦人は、自分の境遇が恵まれなくても、それを直ちに他人の悪行と結びつけるようなことはしないだろう。一方、西欧人は諦観が持てずに、完全を目指す人種である。かれらの頭脳は、我々東洋人と同程度だろうから、完全を目指せば必ず問題の単純化に陥る。その優れた体力は性格を荒くし、彼らが考える悪、不幸、不都合の種を、できるだけ自分ではなく、強引に他に見出そうとする。
従って、西欧人のあまり知的でない人たちは、単純に自分の恵まれない境遇を他の国の人々、つまり、異邦人の所為にすると言う楽な道を選ぶ傾向が強いと思われる。(そのような傾向は誰でも持つのだが、傾向が強いと思うのである。)その人たちの票で、大統領になった人は本当に厄介である。
(12:30編集; キリスト教に関する誤解があるかもしれませんので、指摘くだされば助かります。)
補足:
1)言うまでもないが、旧約聖書の神のことで、ユダヤ教とイスラム教の神でもある。
2)神と愛(アガペー)で検索すれば、たくさん出てくると思う。例えば、ヨハネの第一の手紙に「愛さないものは神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにしてくださった。」などの記述がある。
3)キリスト教では、信者にも起こりうる恐ろしい出来事を、信者の不十分な信仰と悪魔(サターン)の所為とし、神を二つに分けて、キリスト教の神(エホバ)を愛しやすくしているように思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿