1)百田尚樹氏が、最近「戦争と平和」という題目の本を出版した。その本の説明をラジオ(you tube)でしている。その中で百田氏は、日本は戦争に向かない国であると語っている。その根本的理由として、日本人は最悪の場面の想定をしない性質があるからだという。
米国などは戦争を攻撃と防御を含め総合的に捉えて、その戦争全体が有利になる様に、戦争の構成要素である作戦や道具だてなどを考える。それに比べて日本は、構成要素を独立に最適化するという。その違いは例えば、太平洋戦争の時の日米の戦闘機である零戦とグラマンの全く異なった設計方針として表れたという。https://www.youtube.com/watch?v=KWVi0dnka6M
グラマンは戦争全体を視野に入れて設計されており、戦闘中のパイロットの保護や製造時間を短くして補給と改良をし易くすることなどまで考えてあった。ゼロ戦は戦闘、中でも攻撃に成功することに集中して設計されていたので、撃たれた時のパイロットの保護などはあまり考えられていない。そして、戦闘の場面ではゼロ戦はグラマンより強かったが、一発の流れ弾でゼロ戦のベテランパイロットの命が無くなる事もあったという。
その結果、戦争初期にはゼロ戦は活躍したが、そのうちベテランパイロットの多くを失い、機体数も減少して補給が間に合わず、特攻作戦でしか相手にダメージを与えられないようになったのである。
何故、そのように攻撃性能だけを考えて、防御に弱い戦闘機を設計することになってしまったのか。百田氏は、日本人は悪い場面、その中でも最悪の場面を想定することを嫌がるのだという。つまり戦闘員が打たれてしまうことまで考えない(嫌う)からだという。
それに対して米国人は、撃墜されてもパイロットを助けて、グラマンの弱点をその証言から得て、短期間に最新式のグラマンを作れば、やがて有利になると考えるのである。以上が百田氏の話の概略である。
2)私は、最悪の場面の想定を避ける日本人社会の性質&文化はその通りだと思う。しかし、それは組織として何かを考える時の話である。個人では、日本人は最悪の場面を考えすぎる位に考える悲観的な人がむしろ多いだろう。また、最悪の場面を考えることを嫌うのは西欧人でも日本人でも同じだろう。
日本社会では、単に最悪の場面だけでなく、全てにおいてまともな議論が出来ないのだと思う。最悪の場面を想定しての議論は、一層その傾向が強いだけだろう。
新しく戦闘機を設計製作する場合、エンジン、機体、計器など多くの専門家の知恵を集めてなされるだろう。その際、部下或いはその部下、更に現場の搭乗員などの設計チームの全ての考えが、意見を述べた人に無関係に純粋な情報として全ての人に伝達され、設計が最終的に多くの知恵を結集する形でなされなければならない。
言葉が純粋に情報伝達の手段として存在するのなら、人の口から出た後にその言葉の意味は誰から出ても同じでなければならない。また、議論の場にある人は平等に抵抗なく、自分の考えが発言できなければならない。しかし、日本ではどうもそうではないらしい。一つは百田氏の指摘の最悪の場面など、①縁起の悪いことばは避けられる傾向にあること。もう一つは、②言葉がそれを発した人により意味が大きく異なるということがある。
つまり、②のケースは、例えば現場で働くパイロットが、「撃たれた時に搭乗員を守るために、この部分の鋼板をすこし厚くすべきだと思う」という意見がなかなか出せない。その言葉はパイロットの分身であり、自分可愛さの言葉として発言されたと取られるからである。日本社会では、言葉はそれを発した人間と対になって人の間を伝搬する(補足1)。
その傾向は多分何処の国でもあるのだろうが、その程度は社会の中での個人の自立の度合いにより異ると思う。日本では、一人の人間を取り出してみて、プライベートな部分と社会に属する部分を分けると、後者の方がずっと大きい。たまたま同じ会社の取締役の隣に住むことになった課長さんは、一生その地位の差がつきまとうだろう。会社の関係はプライベートな時間にまで及び、その結果、退社後の一杯が会社での出世を決めることになるのだろう。
そのような社会では、言葉はそれを発した人の分身となる。それでは、議論にはならない。日本では議論がその役割を全く果たしていないのは、国会中継を見ても分かる通りである。その社会で支配的な教訓は、「沈黙は金」であり、「口は災いの元」である。衆知を集めてグラマンを設計する様なことは不可能であり、個人の職人芸として究極の戦闘機ゼロ戦をつくるのがやっとである。百田氏が言うように、「ゼロ戦は日本刀に似ている」という動画の中での言葉の意味が分かると思う。
3)日本社会が最悪の場面を想定できない理由は、言葉がそれを発した人の分身であり続け、純粋に情報伝達のためだけの言葉にならないからだと上に書いた。それは、別の表現を用いれば、言葉にはそれを口にした人の霊が乗るからである。つまり言霊である。
素人であるが、私が理解したところによると、ソシュールの言語学に以下のような考えがある。「言葉の体系(ラング)は、カオスのような連続体である世界に、人間が働きかける活動を通じて産み出される。それと同時にその連続体であった世界もその関係が反映されて非連続化し、概念化する。この“相互異化活動”が「言葉(ランガージュ)」の働きである」
ソシュール的に考えれば、日本人の言語とその(相互異化活動の結果生じた)世界は、西欧のそれらとは全くことなる。言霊とは、西欧の言語感覚で日本文化&日本語を見た場合、あたかも言葉に霊が存在するように見えると言う意味である。日本人は言霊を信じないし、そんなことを言い出すと異端者扱いされるのがオチである。日本語とそれが記述する対生成された“日本人の世界”の中で生き思考する日本人が言霊なんかに気づかないのは当たり前である。触った感覚がないのだから、気づく筈はない。(補足2)
しかし、受験生がいる家庭では、「落ちる」という言葉を嫌う。また、合格祈願の饅頭(合格饅頭)が東京大学の近くの店で売られており、かなりの東大受験生やその家族が買う。しかし、日本人はそれを不思議な現象だとは思わない。「言霊信仰ですか」と問えば、「言霊なんかある筈ないじゃないですか」と、怒られるだろう。http://www.enjoytokyo.jp/kuchikomi/297179/__ngt__=TT0d6c8123c002ac1e4a5ba59J5vHfUHv7A8QDlJslp3uN (補足3)
そして、最悪の場面を想定して議論する場合、議論するメンバーがその前提となる場面に、言霊故に立てないのである。そして、「縁起でもないことを言うな」という言葉が、発せられるだろう。仮にそれらのメンバーが沈黙した状態で、議論が始まったとすると、その場の空気が徐々に重苦しく変化してくるのである。その息苦しさに辟易として居る頃、「撃墜された場面まで考えて戦闘機の設計など出来るか!」という上司の一喝で、その議論は中断してしまうだろう。
論理を軽視するのは、日本語(日本語という言語活動)が一つ一つの言葉に価値(=言霊)を持たせてしまう結果、それらを繋ぐジョイントである論理が上手く機能しないのである。その日本語の発生と同時に出来た日本人の世界(ソシュールの相互異化プロセスで生じた世界)は、当然言霊による支配を受けるのである。
その結果、仮に米国大統領が広島に現れても、原爆が憎いが米国やその代表には、その憎しみは全く投影されないのである。大勢の人間を焼き殺した原爆、その原爆を投下した者、原爆を投下されるまで戦争を継続した者、その戦争を始めた者、その戦争を始めさせた者、それらの間を論理で繋ぐ言語環境にあれば、オバマ氏が訪問した時のあのような光景はなかっただろう。
また、日本は戦争に負け何百万人が殺されたたが、そのプロセスに関する上記論理展開はないため、戦争が全ての責任を取らされ、日本人の敵となったのである。日本人の敵は原爆であり戦争である。日本人が一億人いても、ルトワックの「戦争にチャンスを与えよ」(文春新書2017年4月)という発想は誰ひとりとしてもたないだろう。
補足:
1)You Tubeのコメントなどで、喧嘩的になる場面をよくみる。それは言葉が発言者の分身だからである。
2)不思議なことだが、言霊信仰を西欧風の「論理」を重視して分析すれば、あまりにも非合理的であり、それ故、そんなものに縛られている筈がないと信じてしまう。それは、「論理的に言霊信仰の実態を考える」のは、所詮借り物の道具をぎこちなく使うことであり、その上手く行かない経験はすぐに頭から消え去るからである。つまり、言霊を信じることは、あまりにも日本人にとって自然なことであり、それ故気がつかないのである。
3)プロ野球の選手の背番号に4や42はない。それは「死と死に」だからである。何十年のプロ野球の歴史の中で、4番や42番を着けた日本人選手は居ないだろう。それは4や42は元々無色中性の言葉ではないからである。一方、上述のように元々無色中性であっても、発言した人の霊が着くタイプもある。上記背番号のように、語呂合わせ的な要因で言霊が生じるのは、元の死という言葉に強い言霊が乗っているからである。このような単語だけでなく、文章となって始めて言霊を帯びる場合が、最初の「もし撃たれた場合」など多いだろう。
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