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2018年3月30日金曜日

日本人なのに日本語が難しい

母国語で一応流暢に喋れる筈の日本語だが、未だに十分理解していないことに出くわす。それほど日本語はわかりにくい言語だと思う。その一例として、私はときどき助詞の「は」と「が」の使い方を間違える。そこから話を始める。
助詞「は」=https://dictionary.goo.ne.jp/jn/172815/meaning/m0u/%E3%81%AF/
助詞「が」=https://dictionary.goo.ne.jp/jn/34931/meaning/m0u/%E3%81%8C/

「私はバカです。」という文章に主語があるのかないのか? この質問に答えられる日本人は少ないだろう。上記辞書によれば、「私は」は「私について述べれば」という意味であり、英語の主格「I (アイ)」と同じ意味ではない。「犬は哺乳動物である。」の「は」も同様である。厳密に言えば、これらの文章には主語は表に出ていない。

「は」は上記のサイトを参照すれば分かるが(当然、広辞苑第二版も同じ記述である)、係助詞であり、体言を受けて主格にする働きはない。 「が」がその働きをする助詞なのだが、「私がバカです。」と言う場合、その前に「誰がバカですか?」という疑問文に答えるという場面がなければ不自然である。

通常の動詞を伴う文章、例えば「私は、これから勉強します。」のなかの「は」も同様である。このような場面でも「私が、これから勉強します」という文章は、単独では使わない。(補足1)

つまり、日本語は主語を嫌う。「AがBをする」などという行為の主体を単一の文章の中に入れるのは、現実の会話の中ではないだろう。それが、対話や議論に極めて不向きな言語である理由だと思う。 対話とは主体と主体の情報交換であり、議論は主体と主体の意見交換だからである。対話や議論という(言語の機能を発揮する中心的な)場面において、二人の間の空間に投げるような日本語の言葉は、不向きである。

「私はバカです」の「です」についても、私は十分わかっていない。「です」を辞書で引くと、”助動詞で、体言、副詞、形容詞、一部の助動詞の連体形、助詞「の」に付く。「である」「だ」の丁寧表現で、相手に対して改まった気持ちを表す。”と書いてある。単に「I am a fool」と言うのに、何故相手に対して改まる必要があるのか。

バカは形容詞又は名詞である。しかし、「私はバカです。」に動詞がない。「です」を英語のbe動詞と考えれば良いかもしれない。しかし、そのアイデアは、「私は、本当にバカだったのです。」の文中の「です」を考えれば、もろく崩れる。「です」をBe動詞とすれば、後の方の「です」は別の品詞として区別する必要があり、日本語文法が益々ややこしくする。

私の言語の構造についての知識は、英語に関して中学校で教わったものである。SVO, SVC, SVOC, SVOOなどの分類は、頭の中に焼き付けられている。Sは主語サブジェクトのSで、Vは動詞(バーブ)のV、Oは目的語(オブジェクト)のOであり、Cは補語(コンプリメント)のCである。

それなのに、日本語の文法の知識は殆ど何もない。小学校で6年間(幼稚園がない山奥だった)、中学校と高校で6年間、国語という日本語の授業を受けたはずである。「は」と「が」の文法も十分しらない。

明治初頭に後の初代文部大臣森有礼が、また、終戦直後に「憲政の神様」尾崎行雄が、国語を英語にすることを主張したという。(補足2) 私も、国語が英語であったらと思う。今はせめて、学校でもう少し日本語の基本をしっかり教えたら良いと思う。現在のような敎育では、日本で日本語がまともに話せる人や書ける人は少数派だろう。いったい学校で国語の時間に何を教えているのだ?

補足:

1)格助詞「が」は、主格だけでなく、目的格や所有格もつくる。「私は猫が好きだ」の「猫が」は目的語であり、「我が妻」の「我が」は所有格である。格助詞「が」についても、何が何だか訳がわからない。 2)志賀直哉は国語をフランス語にしたらどうかと、言ったそうである。「国語外国語化論」で検索すれば、そのような話が出てくる。

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