1)愛知トリエンナーレでの企画展の一つ、「表現の不自由展ーその後」で展示された“芸術作品”に非難が集中し、10月まで予定されていた展示は3日で中止となった。
中でも非難が集中したのは慰安婦問題のプロパガンダに用いられた少女像である。この件、二日前に記事を書いたのだが、そこでは完全にプロパガンダとして扱い、芸術であるという主張など作品展を企画した人と出品者、それに少数の韓国系のプロパガンダ要員として働く者以外からは出ないものと思って無視した。
ところが、大村知事までこれら作品の撤去は憲法21条に違反する可能性があると発言したことで、驚いている。
憲法21条とは、表現の自由や結社の自由などに関する条文である。先ず指摘したいのは、憲法21条を引用するときには、同時に憲法12条を考慮しないといけない。つまり、「国民は、表現の自由を濫用してはならない。そして、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」のである。
憲法の精神を云々するのなら、表現や結社の自由のみならず、基本的人権まで公共の福祉に反して主張することはできないことを知るべきである。
憲法問題以前に、展示されたものが芸術かどうかの議論も大事である。何故なら、愛知トリエンナーレの開催の趣旨から、展示されるのは芸術作品でなければならないからである。
あの少女像は既に、世界各地で従軍慰安婦問題のプロパガンダとして用いられた道具であり、芸術作品ではない。それに、多くの日本人に不愉快な思いを起こさせるとしたら、その時点での芸術の資格を失う。それを以下説明する。
2)芸術とは何かを考えてみる。芸術とは、①人間に共通して何か重要な真実や本質的な美などを感じさせる、人工的パーフォーマンスである。繰り返すが、全ての人間共通に訴えるものでなくてはならない。②更に、芸術は個人或いはグループが、芸術作品としての主張とともに、そのオリジナリティーを主張できるものでなくてはならない。たまたま自然に出来ていたものは、芸術作品ではない。また、単なる道具で、芸術作品であるとの主張がなければ、芸術作品ではない。(補足1)
この最後の条件だが、芸術作品としての主張が不要なら、ハサミや鍋釜なども見方によっては芸術作品である。自動車も、機能美を表現した素晴らしい芸術作品となる。
そのように考えると、あの少女像には政治的目的の為に作られ、広く用いられた政治の道具(プロパガンダの道具)であり、芸術作品として主張する資格は喪失している。そのほかに日本の旭日旗も、政治的目的がなければ芸術作品(デザイン)として誰か考案者が主張できただろう。
慰安婦問題が捏造され(補足2)、そのプロパガンダのために世界で広く用いられ、日本人に強い不快感を与える以上、人間共通に何かを訴える能力もあの像にはない。「平和の像」と名付けたとしても、日韓に平和をもたらすものではない。愛知トリエンナーレはブラックユーモア展ではない。
他の美術展での審査が非常に不味かったので、価値の高い芸術作品が落選していたという主張とともに展示されるのなら、「表現の不自由展ーその後」と題して愛知トリエンナーレで展示するという考え方は、全く無いわけではない。そのような主張があったとはどこにも書いてない。
そんな展示に対して、表現の自由を持ち出すのは、全く理不尽である。繰り返すが、憲法12条と憲法21条をあわせれば、「表現の自由は、公共の福祉の為に利用する責任を負う」となる。多くの人に政治的不快感を与えるだけの作品に、芸術作品としての資格はない。
補足:
1)芸術は英語でartである。Artは人工という意味がある。つまり、人が作ったものがアートであり、その人が自分の独創であることを主張するか、主張する筈の人が想定されてこそ、アートであると私は思う。
2)最近、元米国陸軍特殊部隊員で、従軍記者及びカメラマンとして働いたマイケル・ヨン氏の本「慰安婦の真実」(日本語版、2018年10月、育鵬社)を読んで、従軍慰安婦問題は韓国や中国の捏造であると一層確信するに至った。
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