1)核廃絶を直接的に訴えるのは宗教行為である
昨日の「核廃絶の思いを継ぐときだ」という題で書かれた毎日新聞の社説は、核廃絶から遠い現状をうれえる内容である。そこでは、殆ど意味のない批判と称賛を書いている。批判とは、トランプ大統領の核兵器に対する現実的姿勢に向けられ、称賛は被爆者の悲惨な体験を国連で語るなど、核廃絶を主張する活動に向けられた。
トランプ発言は、核兵器の国際政治に関する現実的機能を認識した上での発言であり、その評価はスピーチ全体を国際政治の視点で語るべきである。被爆者の体験談を紹介するのは、核兵器の悲惨さを小学校などで教育する上では良い。しかし、現実の政治を考える立場の人に、核兵器の悲惨さを語る必要はそれほど大きくはないだろう。(補足1)
核廃絶は現実問題としては不可能である。「世界平和のために核廃絶を目指す」という方針は、従って間違いだろう。この75年間、米ソの間でも戦争は起きなかったのは、核兵器の脅威を米ソの指導者達が知っていたからである。少なくとも米ソの軍事衝突が無かったのは、彼らが核兵器の存在を前提に国益を考えたからである。
核兵器を高く評価しているのではない。核兵器を手にしたのは人類の運命であると言っているのだ。叶わぬ核廃絶を直接的に叫ぶのは、自分の誕生とその運命を呪う無意味な行為に似ている。核兵器の存在を条件に、国際平和を考えるのが現実的姿勢であり、未来における人類の生存をより確かにするだろう。世界の指導者達はすべて、核兵器の存在を条件に国際政治を考えている。
その国際政治の現実の中で核廃絶を訴えるのは、或いは一般人に訴える運動を喚起するのは、核兵器の存在を条件に国際政治を考えている人たちの戦略の一つである。つまり、以前にも書いたが、核兵器の存在を前提に考えるのなら、核保有国はその利益をなるべく独占したい。そのためには、自国は密かに核兵器の高性能化を目指し、他の工業的能力に優れた国々には核兵器を保持させないことを国際戦略としている。(補足2)
そのためには、被爆国日本の体験を国際社会で事あるごとに語ってもらい、能力の高い国々、ドイツ、日本、韓国、台湾、等の国に対して、核兵器保持の企みを潰すべきである。実際、米国、ロシア、中国は核兵器の高性能化を目指している。毎年、広島と長崎の原爆の日には、人類すべては原爆投下の被害を思い出すだろう。しかし、それは国際政治において利用されることはあっても、核廃絶には全く役立つことはない。
昨日、ロシアのラブロフ外相は、広島原爆の日に合わせて平和記念式典の参列者向けに声明を出し、米軍の原爆投下を「武力の誇示であり、民間人に対する核兵器の軍事実験だった」と批判した。この声明も、被爆者の体験を語っている日本に向けて、何らかの国際政治上の目的をもった発言である。それは、日米の連携を妨害する意図もあるだろうし、米国の対中政策に日本を協力させないための雰囲気作りの可能性もある。
2)核兵器による国際政治の変化と理想論の中に巣食う悪意
「世界平和実現」という問題の立て方も完全な宗教的行為か、或いは、世界の混乱をむしろ利用する人々の企みの一つだろう。平和というのは紛争のない状態であり、個々の紛争を解決することにより達成される。従って、「平和を目指す」という標語は、偽善者のものである。本来は具体的な「XXの紛争を解決する」で無くてはならない。
そのためには、具体的な問題を抱える当事者を特定し、その問題の発生のプロセスを明らかにし、双方の見方の相違部分を明確にすることが最初の紛争解決のプロセスである。その次に、相違部分の解消を試みる。そこに超えられない壁がある場合は、あるところで戦争によって解決するのが、近代の国際政治文化であった。(補足3)
しかし、核兵器の出現は、紛争当事国二つともに核兵器を保持する国なら、戦争を出来なくした。そこで、問題解決の時間軸を大きく伸ばし、紛争の範囲を拡大することで、紛争の希薄化を図ることになる。つまり、戦争にチャンスを与えられないのである。(補足3に引用のルトワックの書物参照)
その一つは、第三国や国際機構を巻き込む形で地理的に拡大すること、経済や金融、など、より全体的総合的な形に拡散させることで、対立による局所的な圧力の解消を図ることや時間稼ぎをすることになる。この時間軸の拡大、地理的分野的拡大により、紛争当事国の内部変化を含めた歴史の大きな流れのなかで、解消されることに期待するようになった。
その一つの例が、米ソ冷戦とその解消である。長時間の対立ののち、ソ連の崩壊という形で冷戦は終了した。しかし、このような解決が何時も可能だとは限らない。今回の新冷戦も、最終的には当事国どちらかの内部崩壊という形を取る可能性が高い。それは現在のところ、米国なのか中国なのか分からない。この問題は、別の機会にしたい。
もし、紛争当事国の一方が核兵器保持国であり、もう一方が非保持国の場合、戦争にはならないが、核保持国の一方的な要求に非保持国は従う以外に道はないだろう。つまり、核兵器はそのように国際政治の中で重要な位置を占め、現実に機能している。
それは、17世紀に成立した主権国家体制の部分的崩壊を意味している。核兵器の誕生と高性能化により、非核保有国は主権国家としての存立の危機に立たされていること、その危機にどのように対峙すべきか、という難題を投げつけられたことを肝に銘じるべきである。「核廃絶」なんて、叫んでいる悠長な情況にはないのだ。
選択肢は現状二つしかない。一つは北朝鮮の取った戦略であり、自前で核保持を目指す道である。もう一つは、主要核保有国の傘下に入り、半ば衛星国的な同盟国として存在する方向であり、それは部分的な主権の放棄を意味する。
現在、我が国は米国の傘下に入っている。米国は、主要核保持国の中で、もっとも近代的な国家形態をもつ、世界最大最強の国である。北朝鮮の困難な情況を見れば、更に、中国やロシアといった独裁国との比較を行えば、米国の傘下に入ることが賢明な選択であることは明らかである。
この状況で、中国と米国の新冷戦において、日本がとるべき外交方針は、米国を支持し米国の方針に役立つように振る舞うことは言うまでもないが、そのために米中両国の内部情況を出来るだけ深く知る方法を手にいれる必要がある。それは、この新冷戦も何方か一方の崩壊という形で終了する可能性があるからである。
崩壊する方は、必ずしも中国とは限らない。中国には共産党独裁という強みがあり、米国には最強の軍事力と世界の金融を支配するという強みがある。しかし、米国には、多民族国家であることと、民主主義政治をとるという二つの弱みがある。今回は核軍縮という視点からの議論なので、これで終わる。
補足:
1)核兵器の悲惨さは、あの戦争全体の中で評価すべきである。例えば、20歳前後の学生が、片道の燃料だけを充填した飛行機にのって、敵戦艦に体当たりするために空母から飛び立つ姿の悲惨さ、その特攻隊の若者の笑顔の集合写真などを含めて、総合的に評価する際の一つとすべきである。https://www.chichi.co.jp/web/20191211_simahama/
更に、もっと遡って、あの戦争の原因は何だったのか? あの時代のアジアは、そして世界は? その全ての歴史の中で考えるべきである。敢えて例え話を書く。名作映画の一場面を紹介することに意味あるのは、殆ど全ての人がその映画全体をよく知っている時である。我々日本人は、日本政府の隠蔽により、あの戦争の全容は殆ど知らない。江戸時代末期からの近代史を一応学ばなければ、あの戦争は全くわからない。核廃絶を叫ぶ前にするべきことは、その日本の近代史の学習である。
2)オバマ米国大統領は2016年5月27日、広島を訪問し核兵器廃絶を訴えた。その一方、同年1月オバマ大統領は30年間で一兆ドル(年間平均で3兆円以上)を投資して、核兵器の更新を計画した。https://business.nikkei.com/atcl/report/16/040400028/060800007/?P=4
https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2016/08/blog-post_6.html
3)この事に言及したのが、エドワード・ルトワックの「戦争にもチャンスを与えよ」という本である。尚、「戦争は外交の一形態である」は、クラウゼヴィッツの戦争論の中の一環した見方である。
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