以下の文章は昨日投稿した文章の2/3です。昨日のトランプ大統領の今後に触れた部分がこのサイトのコードに引っかかるのか、閲覧記録が削除されていました。そこで、改めて最初の2つの節のみ、投稿します。(その後、閲覧記録は正常に戻りました。しかし、一旦投稿した以上、そのままに残します。21/01/02;再び閲覧記録がでなくなり、直ぐ下の記事は多分ブロックされていると思います。21/01/02/15:00)
日本でも米国でも、そして恐らく世界中で、人々は真実を失いつつ在る。それは同時に多くの不正でこの世界が満たされつつ在ることを意味する。そこで今回は「真実」とは何か、どこにあるのかについて書いてみようと思う。
1)真実とは、共同体で共有する命題(の集合)である(補足1)
先ず、「真実とは何だろうか」を考えてみる。デカルトは「我考える故に我あり」(補足2)が唯一の真実であるとした。換言すれば、「我」が自覚する真実は、「我」という意識が存在することのみだとデカルトは言ったのである。
しかし、「我」という言葉のなかに、対立概念「他」が存在するので、「我」が存在すれば、「他」も存在することになる。これは矛盾である。更に、「在る」の議論は、ウィキペディアにもあるが、言葉の限界を感じさせる人間にとって不毛な行為である。近代合理主義哲学の祖であるデカルトのこの言葉は、合理的というより宗教的である。(補足3)
誰であれ、言葉で語る時点で、他の存在を意識している。一人で考えるときでも、言葉を用いる時は、必ずそれを聴く人物を想定している。もちろん、自分を二つに分けて、喋る自分と聴く自分を心に想定して言葉を用いる場合もある。そうすると、デカルトが言う「我」は二つに分裂している。
このデカルトの思想に対する私の否定的な考え方の基礎にあるのは、言葉は共同体の共有物であるという思想である。つまり、言葉(言語)は、共同体と宗教を含めた三つを必須要素として発生し、一体となって進化したと私は考えている。(補足4)つまり、デカルトが言葉を用いた段階で、共同体としての真実を探していることになる。我を一人と言葉を用いて考える段階で、既に矛盾を内包している。
何が言いたいかというと、「真実とは、共同体のメンバーで共有する命題(の集合)である」ということである。 完全に一人だけなら、命題を持ち出す必要はない。真も偽もない。「これが真である」とは、我々(共同体)はこれを真として選択すべき「良き命題」つまり自分たちと周囲の世界の理解に役立ち、共同体の永続と発展のためになるという意味である。
それは善も同様で、「善」とは我々(共同体)がその維持と発展のために選択すべき「良き行為」に付けられるラベル或いは「物差し」である。つまり、共同体から完全に落ちこぼれた人に善は無意味である。親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」は
この善の相対性を語った名言である。(補足5)
従って、共同体が異なれば、何が真で何が善であるかも異なっても別におどろくべきことではない。「Xが真である」や「Yが善である」を絶対的普遍的な命題群として把握している人が多い。補足3の繰り返しになるが、それらを絶対的な命題とするのは、宗教的であり科学的ではない。
2)真と偽の相対化
日本人には、人類全体としての共同体意識が残存する。笹川良一の「人類皆兄弟」という言葉が日本で一定の存在感があることからも分かる。その考え方は西欧にも存在した。国連などもその意識の具体化だろう。この人類が共同で豊かな社会を維持しようと考える根底には、人類が科学や技術を用いて、豊かな近代文明を多くの地域で共有している事実がある。
この人類が共通して享受している文明に関する部分(部分空間での共同体)には、それに対応する「真理の集合」が存在する。一方、国家と国家或いは集団と集団で対立する場合、その対立関係の基礎に、「真理の集合」が二つの集団で異なるということになる。
この考え方では、異なった集団の間でも「真理は一つだ」という考えは、宗教的であり科学的ではない。この情況を別表現すると、二つの集団の間で“ある争い”があったとすると、その争いに関して、真偽の判定が可能な一つの命題として、それら集団の二つの言葉で表現することは非常に困難だということである。
それは言葉が、歴史的に一つの共同体内で一つの宗教とともに出来上がったのであり、他の言葉への厳密な意味での翻訳は不可能だということでもある。
前々回の記事に書いたことだが、今年米国を中心舞台にして明らかになった世界の変化の根底には、人間関係が相手を思う関係(共同体の感覚)から、損得の関係に変化したことがある。そして、世界の人々は地理的にどれだけ狭く限定しても、共同体的感覚を失っていることになる。(補足6)
更に、共通の利益を持つ人々の集合は、経済の“発展”のなかで米国内や世界で斑に分布し、建国以来存在してきた共同体の感覚が破壊されているということである。それが人間関係の、「人類愛の人間関係」から「金銭愛の人間関係」への変質の結果である。共同体が失われた場合、真も善も共有できなくなる。現在の米国の混乱を見て、それを強く感じる。
補足:
1)命題 (proposition)とは、判断を言語で表したもので、真または偽という性質(真理値)をもつものである。この「もの」という言葉に何時も引っかかる。この“もの”は物でも者でもない。英語では、多分That is what I mentioned a few seconds ago. That is it. (又はThat’s it.) のような文章のwhat やitを、日本語で「もの」というのだろう。別の表現では「命題とは、数学で、真偽の判断の対象となる文章または式である」。
2)デカルトのこの言葉(Cogito, ergo sum)は、英語では"I think, therefore I am"と翻訳される。この「think」を「思う」と翻訳するのは間違いだろう。https://en.wikipedia.org/wiki/Cogito,_ergo_sum
3)ほとんどの人が科学について誤解していることは、「科学は真実を明らかにする」という命題を「真」だとすることである。科学は真実を想定しない。科学の世界に在るのは、仮説のみである。科学の大きな成功つまり進歩は、真実を決定しなかったことによる。
4)この言語の発生と進化に関する理解は、「宗教と言語は、共同体社会とともに発生し、外敵からの防御のために“善悪”の創造とそれによる地域共同体の団結を可能とした」と表現することができる。このモデルを前回記事で引用したが、元は昨年6月に書いた「言語の進化論」における、「言語、宗教、共同体」の発生と進化に対する私の理解(モデル)である。
この件に関して私が何時も注目するのは、聖書のヨハネによる福音書の冒頭にある有名な言葉である。「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。全てはこの方により創造された。」は、「言葉が共同体と宗教とで三重らせんを形成して、進化した」というモデルを否定している。
5)この善の相対性により、ある共同体(国)が戦争で敵兵を殺すことや犯罪者を死刑にすることが、「人殺しは悪である」という命題から自由になる。その一方、犯罪者が死刑になったとき、その犯罪者に悪のラベルを貼り付けるのは、その特定の共同体の独善に過ぎなくなる。阿弥陀如来は、特定の共同体の所有でないのだから、そのような人を極楽往生させる筈である。
6)世界の独裁的な国々では、自国民向け洗脳政策で国家を愛する意識を植え付けている。しかし、それらの国々では、人と人の間の自然な愛情は破壊されており、本当は共同体としての国家は成立していない。以下の中国での話は、それを証明している。その話とは、ビルから飛び降り自殺をしようとベランダに立った人が、なかなか飛び降りないので、見物に集まった人たちが「飛び降りるなら、早く飛び降りろ」と声をかけたという、寒々とする話である。https://business.nikkei.com/atcl/report/15/258513/070500081/
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