北方4島の帰属について原点から考察してみた。以下に目次を書く:
1.3つの重要関連資料
2.北方4島の帰属に関する国会での議論
3.原点から考えた北方4島領有権
4.付録:徴用工問題と、ロシア、中国、韓国による反日統一共同戦線の創設の危険性:日ソ中立条約の破棄と関連して
1)3つの重要関連資料の提示と説明:
資料1:サンフランシスコ講和条約(以下サ条約)において、日本は千島と南樺太の領有権を放棄している。その部分の講和条約を抜粋する。
サ条約第二条の(c): Japan renounces all right, title and claim to the Kurile Islands, and to that portion of Sakhalin and the islands adjacent to it over which Japan acquired sovereignty as a consequence of the Treaty of Portsmouth of 5 September 1905.
翻訳:日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。http://www.chukai.ne.jp/~masago/sanfran.html
資料2 日ソ共同宣言の第9項:
1956年の日ソ共同宣言の第9項には、以下のように書かれている。http://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/docs/19561019.D1J.html
日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,両国間に正常な外交関係が回復された後,平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
ソヴィエト社会主義共和国連邦は,日本国の要請にこたえかつ日本国の利益を考慮して,歯舞諸島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし,これらの諸島は,日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。
資料3:ダレスの恫喝について:
この後、4島返還での日ソ平和条約締結に反対したのは米国のダレス国務長官であった。この件については、佐藤優氏の解説があるので、引用しておく。そこに書かれたことは、日ソ国交回復交渉の際の日本側共同全権を務めた松本俊一氏が、1966年に上梓した当事者手記『モスクワにかける虹』に記述があるということである。(第一版のみ発行されて絶版になったという)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50688?page=2
重要なことは、
1.サ条約にソ連は署名していないこと。
2.そして、日本が千島を放棄するとあるが、ソ連に帰属するとは書かれていないこと、更にそれらを根拠にして、
3.同条約26条を根拠に恫喝したのである。
この条約26条を簡単に書くと、1.日本はこの条約が効力発生したのち3年間は、条約に署名していない戦争当事国と、この条約と同条件で平和条約を締結する用意がなければならない。2.日本が、それ以上の条件でそれらの国と平和条約を締結すれば、同様の利益を署名国にも与えなければならない。
国務長官のジョン・フォスター・ダレスは:
サ条約にはソ連が千島を得るとは書かれていないのだから、ソ連が国後と択捉を得れば、サ条約に記載以上の利益を得ることになる。その場合、上記26条の規定により米国は沖縄を自国領とし、将来返還しないことになると訪問した重光葵外務大臣を脅したという。
しかし、日ソ共同宣言はサ条約から3年以上経過した1956年10月19日に署名された。批准書の交換により12月12日に有効となった条約である。その時、既に講和条約26条の前半記載の日本の義務は、既に消滅している。この場合、後半だけ生き残ると考えるのだろうか?
そして、もしそれが理由なら、残りの千島や南樺太もソ連に与えるとは書いていないのだから、未来永劫ソ連とは平和条約締結できないことになる。従って、ダレスの干渉は、米国は日ソが近づくことを警戒した為と考えられる。
2)北方4島の帰属に関する国会での議論:
○国後と択捉島について:
講和条約締結直後に、国後と択捉が千島に入るかどうかの議論が国会でもなされた。その時の政府見解は、国後と択捉はサ条約で放棄した千島に入るということである。ウィキペディアの「北方領土問題」の一部を補足に引用する(引用16-19参照)(補足1)
○ 歯舞色丹について:
その時の政府見解を証言した西村条約局長らも、歯舞、色丹の2島は北海道に付属する島であり、千島には含まれないとしている。一方、ソ連の見解は、歯舞や色丹も日本がサ条約で放棄したクリル諸島の中に入るとしている。
それを間接的に示しているのが、日ソ共同宣言での歯舞と色丹を日本側に引き渡すという部分である。そこでは「日本国の要請にこたえかつ日本国の利益を考慮して,歯舞諸島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する」と書かれている。つまり、日本の領有権を認めるとは書かれていない。
従って、日ソ共同宣言に署名し国会で批准した1956年12月の段階で、日本は歯舞と色丹の領有権を保持していたという主張は不可能になったと言える。しかし、非常に不可解なのは、その頃から政府による「北方領土(歯舞、色丹、国後、択捉)は日本固有の領土であるので、日本が放棄した千島には含まれていない」という宣伝がなされ始めたことである。これがダレスの恫喝の効果であると考えれば、説明可能である。それは、同時に平和条約締結を諦めたことを示している。
3)原点から考えた北方4島領有権:
原点から私風にこの問題を考えてみる。明確なことは、ソ連が第二次大戦で日本に宣戦布告し勝利したこと、その結果として北方4島を占領し、現在もロシア共和国が占有していることである。
非現実的なのは、ソ連の宣戦布告が日ソ中立条約の有効期間内になされたとして、その違法性を根拠に、ソ連の戦争により取得した領地は、日本に返還されるべきであるという主張である。
ソ連は、日ソ中立条約は宣戦布告前に破棄したと言っており、通常のように通告後一年を経て無事終了するという話ではないとしている。破棄条項は条約にはないが、国家と国家の間には、突き詰めれば野生の関係しかなく、破棄は“野生の世界における個の自由”と言える。国際法は、その権威を担保する国際権力が無い限り「法」ではなく、単なる申し合わせである。
従って、敗戦の結果として占領された土地に対し、領有権があるとか無いとかの話は、第三国と国内に向けた政治的プロパガンダでしかない。
以下に、北方4島は日本の領土であるという主張は、そのような政治的プロパガンダとしても説得力がないことを示す。この1956年ころからの日本の主張は、厳密には以下のように言えるだろう。
戦争により勝者が北海道の東北部からカムチャッカ半島方向に向けて並ぶ島々を占領支配し、それらをクリル諸島と呼んでいる。そのクリル諸島の日本語訳は千島列島である。ところが日本の定義では、勝者が支配している島々の内、択捉、国後、歯舞、色丹の4島は、千島列島には入らない。従って、国際的な条約であるサ条約において日本が放棄したと勝者が主張し占領しているこれら四島は、それ以前の帰属の通り日本領である。
本来、この様な主張が敗者によりなされたのなら、勝者側は「その翻訳が間違っているのだから、正本(資料1)のThe Kurile Islandsを“千島列島及び択捉、国後、歯舞、色丹の4島”と訳してくれ」と言うだけである。島の呼び名よりも、戦争における勝者と敗者の関係は遥かに重いのだ。
4)戦後条約の破棄と、ロシア、中国、韓国による反日統一共同戦線の創設の危険性:
最後に条約の廃棄に関連して、一言重要なことを書いておきたい。それはある中国要人の恐ろしい意見である。それは中国外務省の国際問題研究所のゴ・シャンガン副所長が2012年に露中韓の三国による国際会議「東アジアにおける安全保障と協力」で演説した内容である。
ロシア、中国、韓国が反日統一共同戦線を創設し、第二次大戦後の対日講和条約を破棄して、新しく講和条約を結び直そうという発言である。その条約で、日本から、南クリル諸島、竹島、尖閣諸島だけでなく沖縄も放棄させようという主張である。http://rpejournal.com/rosianokoe.pdf
徴用工問題をデッチ上げ、日本企業の財産を差し押さえるのは、日韓基本条約と付属の請求権協定に違反しているのは明白である。それを日本は話が通じない野蛮な国の行為だと決めつけて、優越感に浸っているバカも多い。
しかし、それが上記反日統一共同戦線に先鞭をつける行為だと考えれば、文在寅の行為が理解できるのではないだろうか。つまり、文在寅日韓基本条約の破棄と、新しい基本条約の締結を目指しているのである。それを諦めさせるのは、本質的に野生の関係である国家間では、戦争以外に手段がない。
戦争を放棄し、核戦力を持たない日本にたいしては、本来野生の国際社会においては、その他の損が生じなければ、上記企みは可能である。つまり、外交は事実や論理でするものではなく、力と損得でするものだということである。
補足:
1)ウィキペディアから抜粋:
同条約締結直後の1951年10月19日の衆院特別委員会にて西村熊雄条約局長が[18]、同年11月6日の参院特別委員会に草葉隆圓外務政務次官が[17]、それぞれ「南千島は千島に含まれている」と答弁している(但し、西村・草葉は歯舞・色丹に関しては千島列島ではないと答弁した)。この答弁がされていた当時は条約を成立させて主権を回復することが最優先課題であり、占領下にあって実際上政府に答弁の自由が制限されていた[48]。この説明は国内的に1956年2月に森下國雄外務政務次官によって正式に取り消され[19]、その後、日本は「北方領土は日本固有の領土であるので、日本が放棄した千島には含まれていない」としており、1956年頃から国後・択捉を指すものとして使われてきた「南千島」という用語が使われなくなり、その代わりに「北方領土」という用語が使われ始めた。
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