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2020年5月1日金曜日

三島由紀夫著「金閣寺」の感想 (再録)

過去一定の閲覧があったものを再録しています。以下は2015年1月に投稿のものです。

古いものは、グーグルでの検索に引っかからなくなるので、読み直して価値があると自分で判断したものを再録しています。

 

三島由紀夫著「金閣寺」の感想


(補足:この感想文は、7月10日の禅問答と小説金閣寺の前編です。是非、後半もご覧下さい。2015/1/12記す)

 小説はあまり好きではないので、ほとんど読まないが、以前から金閣寺の事が気になっていたので、読んでみた。三島由紀夫の本は、初めてである。正直言って難解な部分もあったが、自分流の解釈も加えて以下に粗筋と感想を混ぜて書く。(1)

 内容のエッセンスは、人は社会を造って生きる様に出来ているため、人から拒絶されることを過剰に恐怖する場合が多いということである。主人公は吃りであり、それが社会との関門となって一生苦しみ、やがて自分の苦悩を言わば(苦悩とバランスをとる様に)美として変化させ貯め込んだ心象としての金閣寺が大きくなり、それに耐えられなくなって実在する金閣寺に放火することになったのだと思う。

 小説はその主人公の語りで進められている。子供のころ父親から金閣寺の美しさを聞かされてはいたが、始めてみた金閣には全く美を感じなかった。金閣寺に弟子入りしたものの、孤独と特に女性関係において進歩の無い人生を、幼少期からの乗り越えられない吃りとそれによる自己嫌悪の所為にする癖から抜けられない。一方その消化しきれない心理的抑圧に耐えるため、金閣の美への憧れへ逃避することにより、辛うじて生きて行くエネルギーを得ることになる。初めて見た金閣に、全く美を感じなかったことでも判る様に、金閣への憧れは自分の停滞する人生と心理的にバランスを取るためのものである。そしていつの間にか、自分の劣等意識の証人的存在である金閣が、空襲により焼失することを願う様になる。しかし、京都への空襲は無く、金閣は戦火を逃れる。

 金閣の焼失を願う様になった経緯は、数年前の中学生のころ、密かに心を寄せた近所の女性有為子との出来事と相似的である。ある日の早朝、憧れが原因で咄嗟に自転車で出かける有為子の前に、立ちはだかったことがあった。そこで、何か言い訳をすべきところで、言葉が喉から出る直前で詰まってしまい、有為子にバカにされることになる。有為子の告げ口で、彼女の親が下宿先に抗議にきた。そして、有為子の存在は恥と劣等感の証となり、彼女の死を願うようになったのである。その後、有為子は海軍病院で知り合った兵士と恋仲になり、その兵士の子供を宿すことになる。そして、経緯の詳細は書かれていないが、その兵士が脱走兵となり、捜索する軍兵士と捜索に加わった主人公の目の前で、二人は強い絆を見せつけるように心中したのである。主人公の願いはかなえられ、自分の呪いの力を信じることになるが、この体験は主人公の劣等意識に加算され深く刻み込まれる。

 大谷大学予科で知り合いになった柏木は、内飜足でありながら、そのハンディキャップを逆に利用するほど世俗的になることで強く生きていた。その友人に何度か女性を紹介されるが、喉まで出て来た言葉が詰まってしまう吃りの症状のように、最後の段階で失敗をする。その際、金閣寺が女性との間に立ちはだかる様に表れる幻想を見る。それは劣等意識の為の失敗であっても、金閣が開き始めた自分の人生を妨害するかのような錯覚を持つ。そして、「いつかきっとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ない様に、いつか必ずお前を我が者にしてやるぞ」と金閣に呼びかけることになる。

 金閣に放火することを決めてからは、そのエネルギーを得るために、金閣寺の住職に嫌われるような行動を敢えてとるようになる。また、柏木から借りた金で、生まれ故郷の方向に出奔することなどで、住職から「お前を跡継ぎにすることも考えたこともあったが、今はその気はない」という趣旨のことを言われる。その後は、坂道を転げ落ちるエネルギーで、金閣を破壊する決断をすることになる。この当りからは、私はこの本を駆け足で読むことになってしまった。

 自分の吃りというハンディキャップから、世界と自分の間に厚い壁を作ってしまった主人公は一生その壁を取り除くことができなかった。近くに鶴川という暖かい友人と柏木という内飜足というハンディキャップを乗り越え強く生きる見本を見せてくれた友人を持ちながらである。柏木は特に、そして鶴川とて同様に、思い通りにならない人生を生きていることに、全く気付かないほど自分の劣等感と常に対峙していたようである。

 最後にこの小説にたいする疑問点を書く。それは、最後に、「生きようと私は思った」と書いている点である(2)。もちろん、金閣寺放火直後に自殺する筋書きでは、放火犯の一人称で小説を書くことは矛盾しているのは判るが、金閣寺を放火しても、“私”に生きる力はわいてこない筈である。何故なら、主人公が自分を決して受け入れない社会の全てを、想像上の金閣寺に押し込んだのであり、実際の金閣寺はその象徴に過ぎないからである。金閣寺の放火は、自殺の始まりだからである(3)。
 

 

 注釈:


1)http://ja.wikipedia.org/wiki/金閣寺_(小説) ウィキペディアに粗筋と諸氏の評価・分析が書かれている。
2)上記サイトに小林秀雄との対談として、三島自身の言葉として「殺した方がよかったですね」と書かれている。
3)この小説の至る所に、著者の人や世界にたいする理解の深さを感じる記述がある。例えば、父親の遺体を前にしたときの記述:”屍はただ見られている。私はただ見ている。見るということ、ふだん何の意識もなしにしているとおり、見るということが、こんなに生けるものの権利の証明であり、残酷さの表示でもありうるとは、私にとって鮮やかな体験だった”

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