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2020年5月9日土曜日

女系天皇を許容する皇室典範改正は憲法違反の疑いがある

1)天皇は政治的存在の前に宗教的存在である:(補足1)

 

前のブログ記事本文に書いたが、ローマ・カトリックも日本の神道も、規模の違いはあるものの、独立した宗教である。ローマ・カトリックでは代々男性が、日本の神道では代々男系が、其々の教皇の座についた。それらは其々の宗教の本質であり、その変更強制は宗教弾圧を意味する。

 

男系というのは、現在の科学の用語を用いると、要するに同一のY染色体を受け継いだ子孫ということになる。つまり、日本神道における神性は代々父系の血統により受け継がれるのである。

 

教皇という宗教的存在である天皇と政治的存在である西欧諸国の王位とは根本的に違う。この部分についての説明は、これで十分だろう。

 

現在の天皇には、憲法に定められた政治的側面がある。しかし、天皇という存在には、その憲法の規定以前に、上記の宗教的側面がある。近年になって発生した政治的役割の“改善?”のために、宗教的な天皇に質的変更を加えようとするのは、宗教弾圧であり、憲法に違反する。つまり、女系天皇を法律改定により定めるのは、憲法違反の疑いが濃い。ただ、法治国家かどうか疑わしい日本では、何があっても最高裁は行政に阿るだろう。(補足2)

 

兎も角、憲法第1条「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」は、「日本国は神道の教皇を国の象徴と仰ぐ伝統を持つ」という表明である。これと憲法の第20条の「信教の自由」は一見矛盾するように見えるかもしれないが、そうではない。(補足3)

 

憲法第1条は日本国民の伝統(或いは現状)を定めたもので、憲法20条は個人及びその集団の権利を定めたものである。従って、天皇が宗教的面をもつことを理由にして、憲法第1条の廃止を主張する(憲法改正を要求する)権利は各個人に存在する。一方、国会はその主張を理由に処罰する法令を定めることは出来ない。(補足4)

 

2)日本の天皇制の経緯

 

天皇を政治的な面で論じる場合、江戸末期の革命(或いはクーデター)のときに天皇を政治利用した歴史から考えなければならない。私の知る限りでは、岩倉具視などの貴族と薩長の武士らが、孝明天皇の死去を期に、強引に作り上げた明治という政治体制の中に強引に組み込んだのである。(補足5)

 

孝明天皇は徳川家に政治を任せる方針だったのだが、錦の御旗の偽造と幼帝(明治天皇)の拉致により、戊辰戦争を勝ち抜いて作ったのが明治政府である。そして、明治の革命政府は天皇を京都の皇居に返すことはしなかった。

 

令和の時代に入り、明治から始まった政治上での天皇制を議論する場合でも、それ以前の飛鳥の時代から千年以上の間一貫して存在する宗教的存在としての天皇を否定することはあってはならない。

 

政治的存在としての天皇に、男系と女系の区別がふさわしくないというのは、喩えがふさわしくないかもしれないが、八百屋に行って魚がないという類の要求である。

 

政治的な全ての存在に男女の差があってはならないというのなら、政治から天皇を切り離すべきである。それは憲法の改定を必要とするが、男系男子の現在の天皇制に賛成する日本国民の割合は、90%以上だろう。(補足6)

 

3)国を束ねる存在:

 

現代世界では、独立した主権国家が国際社会を形成し、互いに他国の主権を認め、安定で平和な関係を目指している。その安定な国際社会形成のためには、先ず各国が、大多数の国民の意思に基づく安定な国家を築く必要がある。

 

そして各国家は、自国の伝統と固有の文化に基づいて、国民を束ねることが好ましい。他国を敵対視することで国民に民族主義的感情を高め、自国内の政治的安定化を図るのは、東アジアを始め世界各国で見られる。後者の方法は、国際関係を常に紛争の予備的情況に置くことになる。

 

また、宗教や伝統を全て廃して、唯物論と現実論に堕すれば、金と力と策略(或いは戦略)の中世的絶対主義政治に帰着するだろう。それでは、国民を幸せには出来ない。「人命の尊さ」「自由と平等」など世界の人類の殆どが大切にする価値観は、形而上の概念を含む思想であり、唯物論しかない人の集団からは出て来ないと思う。

 

 

補足:

 

1)女系天皇を可能とする法案に関する前回のブログに対し、質問をいただいたので、それに対する返答として書いた。

 

2)この種の判断を裁判所が避ける理由は、“国家統治の基本に関する高度な政治性”を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、これゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論(統治行為論)だろう。しかし、そんな理論は法学者の一つの学説であり、それを裁判での根拠にするのは御都合主義である。

 

3)この種の一見矛盾した情況は、例えば、米国にもある。信教の自由を述べながら、連邦議会では開会の際に牧師が祈りを捧げるという。

https://americancenterjapan.com/aboutusa/profile/1939/

 

4)戦前は不敬罪という犯罪があった。現憲法では不敬罪の制定はできない。

 

5)原田伊織著「明治維新の過ち」を参照。

 

6)この90%以上の数字は、前回のブログ記事で示した東久邇宮の5人の王子の存在を示して、不特定多数の国民に街角で聞いた場合の数字として、水間政憲氏によりしめされた。

 

 

水間政憲氏の動画

 

 

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