以下は、約6年前のブログ記事です。先程再録したものの後編です。
歴史上でも現代でも、真理を偽っていいかげんなことを語り、悟ったふりをして人を惑わす者が大勢居る。日本語が論理展開に不向きな言語であるため、そのような言葉のマジックが可能になる。その代表が、禅問答である。禅問答は公案と言われる訳の判らない問題を”解く”際のやり取りのことである。公案のほとんどは意味のないなぞなぞの類いで、無理会話と言われることもある。
三島由紀夫の「金閣寺」を最近読んだが、その中に“南泉斬猫”という公案が出てくる。その話は以下のようである。「山寺に一匹の美しい猫があらわれた。東西両院の僧達はその猫をめぐって争った。それを見ていた南泉和尚は、その猫の首をつかんで、草刈鎌を擬して、こういった。“大衆道ひ得ば即ち救い得ん。道ひ得ずんば即ち斬却せん”衆から答えは出なかったので、南泉和尚は猫を斬って捨てた。日暮れになって、高弟の趙州が帰って来たので、南泉和尚は事の次第を述べて趙州に質した。趙州は、履いていた靴を脱いで、頭の上にのせて出て行った。南泉和尚は嘆じて言った。“ああ、今日お前が居てくれたら、猫の児も助かったものを”と。」
このような公案を解釈するのが禅の修行の中の必須科目なのだという。現在でも、幾つかの公案が住職への就職試験につかわれるとのこと。もちろん、模範解答があってそれを暗記して答えるだけだろう。形式的にやるだけだろうが、馬鹿げているとしか言い様が無い。
小説金閣寺では、終戦の時の和尚の講和のなかで“南泉斬猫”が出てくる。元々回答不可能な公案であるから、和尚も適当な解釈を開陳しただけである。小説の中で重要なのは、二度目と三度目に出てくる、主人公溝口の友人である柏木の“南泉斬猫”解釈である。内飜足の柏木は、その美しい猫を「美そのもの」と捉え、それへの憎しみを込めて「美は単に厄介なもの(虫歯のようなもの)」として解釈している(1)。
そして、柏木は認識の剰余的なのものの幻影として美的なものを捉え(2)、何とか自分の醜い姿と同居しているが、その議論の中で、金閣寺を放火した主人公は「美的なものは怨敵なのだ」と白状している。美に恵まれない者は、美を無価値と看做して無関心を装うか、美を敵と看做して戦うかのどちらかである。柏木は無関心或いは諦め(趙州の態度)を、溝口は敵対(南泉和尚の態度)を選んだ(3)。二人とも、あまりにもプライドが高い為に、自分の醜なる一部にこだわり、それが壁となって隔たりを感じる一般社会を、敵とすることで自分の醜と心理的バランスをとって生きている。解脱にはほど遠い禅僧見習いである。
小説金閣寺の解釈には色んな意見があるが、病理心理学的見方をしない多くの評論は間違っていると思う。最近も、広島大文学部の有元伸子氏による”三島由紀夫「金閣寺」論”があるが、「金閣寺」の中では放火の動機が十分解らないとしている(4)。その上、溝口の心理などを含めてあまり理解できていないと思う。
もう一つ重要な点は、語り手はどの程度本心を語るのだろうか?と言う疑問である。この疑問は、芥川龍之介の「地獄変」を読んだ時にも強く感じた。後者の場合は、語り手が知りうる限りのことを語っていると考えると、訳がわからなくなる。(5)
禅問答に戻って、ところで、そのような“意味のない問答”が何故、禅宗の修行に存在するか? “禅宗における悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことをいう。 仏性というのは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」のことであるとされる。 悟りは師から弟子へと伝わるが、それは言葉(ロゴス)による伝達ではなく、坐禅、公案などの感覚的、身体的体験で伝承されていく。”と上記サイトに説明されている。ここで書かれている悟りの境地も、栄養心理や病理的心理学の領域で議論されるべきことではないのか。
因に、「金閣寺」にある解釈以外のネットで見つけた“南泉斬猫”の解釈の例をあげる。訳の解らない単語(仏性)を非論理的な言語で語ると、このようになる。それと、数学の簡単完結さとを比較してほしい。要するに、解らないことを解らないという思想(無知の知や経験主義)の発生は、論理的な言語の下でないと起こりえない。従って、東洋では産まれ得ないし、生まれなかった。これが思想においては、全く訳の判らない言葉遊び的(禅宗など;6)なものか、現実傾倒的(儒教)なものかのどちらかになってしまうのだろう。
注釈:
(1)柏木は、美と認識について以下のように言っている。「人は生を耐えるために認識という武器をもった。認識だけが世界を不変のまま、そのままの状態で変貌させるのだ。”美的なもの”は人間精神の中で、認識に委託された剰余の部分の幻影なのだ。」つまり、美は剰余的な認識であり、本質的でないと言っている。
(2)美は確かに認識の中心にはない。しかし剰余的なものというより、美は認識とその認識主体との相互作用の産物だと思う。柏木は認識とその”剰余的な一部分である美”(柏木説)を人間一般に共通のものと捉えているが、それは間違いである。柏木は、片輪故に美を畏れ、美を個人の意識として捉える余裕をなくしているのである。
(3)小説「金閣寺」で二度目に出てきた”南泉斬猫” の解釈は柏木によりなされる。そこで、柏木は「今の所、自分は南泉和尚で君は趙州だが、いつの日か、君は南泉で僕が趙州になるかもしれない。」(文庫版、155頁)と言っている。つまり、主人公溝口が猫を斬る行為に及ぶことをここで予言しているのである。美の象徴である金閣寺に放火することで、柏木の予言(かもしれないと書かれているが)が当たるのである。
(4)有元氏の論文のイントロで、「金閣を焼くという行為に関しては、従来から大きく二つの説に別れている様である。一つは、現実の金閣を焼くことによって、戦争末期のような絶対的な金閣との一体化の知覚を取り戻そうとしたと読む説であり、もう一つは、自分の内部にある金閣の絶対性を開放して、真に相対的な生に生きようとしたと解釈する説である。しかし、小説金閣寺ではこの二つの読みが並立するのを許容するように描かれているのであって、「(小説)金閣寺」内部からは主人公はどちらの方向をとったかは明らかにはされてはいない。」 私は、こんな解釈は意外であり、どちらの”これまでの説”も小説「金閣寺」が全く読めていないと思う。このような読み方をする人達は、上述の「私にとって美的なものは怨敵なのだ」といった主人公の本音をどう解釈するのか?
また、主人公が自分の性アイデンティティーに悩むというような解釈をしているが、それは著者の三島由起夫を意識し過ぎだと思う。美しい女性を前にして不能になる主人公は、性アイデンティティーを確立していないからではなく、自分の劣等意識からである。その同じ現象が、柏木と最初の美女との交際に関して、柏木自身の告白の形で書かれている。(文庫版105頁)自慰や夢精をし、遊郭においても有為子との行為を夢想する主人公の性アイデンティティーは明白であると思う。
(5)地獄変では堀川の大殿を”善人”として語っている。しかし、本当は”悪人”である。絵師の娘を自分のものにしようとしたが強く拒否する娘を、絵師の言った「実際に見なければ描けない」の言葉を得て、絵師の前で焼き殺した。絵師は自分のプライドをかけて名作を完成して、大殿との確執に闘い勝ったのだ。その後、娘への愛を縊死と言う形で証明したのである。語り手の言葉をそのまま信じると、芸術至上主義などという解釈に至るかもしれないが、それは誤りであると思う。
同様に、金閣寺の語り手はこの小説のもっとも鍵となる部分、「美女との行為の直前に金閣があらわれる」を正直に語っているのか解らない。全く同じプロセスを(4)に追記したように柏木が告白しているからである。正直ならば、病理心理学的観点を本小説の解釈に持ち込む必要がある。嘘を語っているのなら、柏木の告白と同様である。私は後者だと思う。 つまり、三島由紀夫は、語り手が語り得ない部分を別のケースで予め示しておく手法をもちいているのだろう。もう一例を上げれば、金閣寺の空襲での焼失を願ったが、実現しなかったので自ら放火したことのモデルは、有為子の死を願い成就することとして、始めの部分で与えられている。
(6)仏教特に原始仏教は、世界における高度に発達した宗教の片方を構成すると思う。西欧で主流なのは”創造神”の考え方であり、それに対して、東洋(東アジア)では”空”を”縁”主張する仏教が主流だと思う。その他の宗教はそれに関係する人口が仮に多くとも、”高度”とは言い難いと考える。
(7/10投稿、7/11語句の修正と注釈(2−4)の追加及び拡充;7/16注釈(5、6)を追加)
引用サイトの明示:
http://ja.wikipedia.org/wiki/公案
http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/07/blog-post.html
http;//www.chusugi.jp/feature/policy/thesis/thesis201301.pdf
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q137333603;
http://ja.wikipedia.org/wiki/臨済宗;
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/832991.html;
追記)その後、サイトにこの件を議論して、三島は仏教が解っていない云々の記述がありましたので、一言:
小説は、登場人物に作者の思想を語らせる場ではありません。何故なら、登場人物はその小説上の設定にあった発言をし、思想を語るからです。
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