1)便利なものは危険である。どのようなものでもその定理が当てはまる。便利さとは、人から何かを取り上げることだからだ。
取り上げられた仕事はしなくても良いので、その能力を他に割り振れる。その分、より広い体験、大きな能力、新しい発想などが得られる。しかし、それには前進するという意思が明確にある人に限られる。
その結果、社会においてますます欠かせない人材と、なんの役にも立たない人材という格差を生じる可能性が高い。ペッパーが受付業務を行い、自動運転の自動車(この言葉何か変だ)がネットワークで繋がれてタクシー業務を行い、コンピューター付きブルドーザーが特殊車両の運転業務を奪うだろう。
便利なものが世に続々と出た時、仕事を奪われた人にどのような仕事を提供できるのか? 貧富の差をあまり大きくしないようにするのにはどうすれば良いのか。その問いは受付ロボットを作るより難問だろう。国によっては、傭兵という仕事を考えるかもしれない。その国は、世界に混乱と争いを輸出するだろう。便利なものは、人類を破滅に導く可能性が高い。
2)スマホは便利である。それは基本的にインターネットに繋がれた、入出力機能も持つパソコンだからである。動画を見たりチャットをしたり、ゲームをしたりできる。時間つぶしには便利だが、大事な時間も潰してしまう危険性が高い。
モンスターを探して閉じ込めるゲームが流行っていると聞くが、その中に浸かる時間が長く且つ頻度が多くなると、その人はゲームの中から出られないのではないかと心配する。そして、街を歩く人もハンティングの対象のモンスターを見る感覚で見るようになるかもしれない。それは思い過ごしだろうか。
もしゲームの感覚が精神の成長に影響すると考えた場合、そのような人たちは周りの人間をモンスターなどの類型的な分類で理解しようとするだろう。突飛なことを言うようだが、相模原の大量殺人事件もそのような理解で障害者を見た結果ではないかと思う。
本来、人間はもっと複雑だし、社会もゲームの世界よりも遥かに複雑である。見る角度を変えれば全く違った世界が目の前に広がるのが、むしろ普通である。善人は悪人に、モンスターは天使になる可能性もあるのだ。
兎に角、小学生からスマホいじりで大きくなった人間は、想像力に乏しくオリジナリティーに欠ける人間に育つのではと心配する。そのような環境(スマホ環境)は、本当の意味で新人類を育ててしまうだろう。そして、旧世代の人間とは、言葉は通じず、感情の共有すらできないかもしれない。そのような世界にまともな未来があるとは思えない。
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