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2020年6月3日水曜日

俳句という文学と日本人の死生観

日本では今、俳句が静かなブームになっている。毎日放送毎週木曜日の夜のテレビ番組「プレバト」で、芸能人が俳句で競うコーナーがあり、その影響もあるだろう。そこでの指南役は夏井いつき先生で、生徒役の芸能人とのやり取りも面白い。(補足1)

 

私は、この俳句という軽妙な文学をメインロードに置く日本の文化に、納得していないと何度もブログに書いてきた。そこで、その趣旨をここに書いてみたい。その切掛は、今朝の毎日新聞一面の余録が与えてくれた。

 

今日の「余録」には、昼寝を季語(夏の季語)に用いた俳句が紹介されている。それらは、魂が身にぶっつかり昼寝覚め(上野泰)、生き返る方をえらんで昼寝覚め(井上菜摘子)などの秀句である。

 

昼寝でも当然意識はなくなる。そこからの目覚めを、前者は、一度離れた魂が再び体に戻ったと捉え、後者はY字路から生きる方の道に来たのだと詠ったのだろう。これらの俳句が唱う目覚めの感覚は、多くの日本人には共有できるだろう。しかし、外国人、特に一神教の人たちには共有されないと思う。

 

ここでふと思い出したのが、秀吉の辞世の句である。

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」(補足2)

日本の権力を握った秀吉でも、死ぬ時には、自分の命を露の一滴のように感じたのだろう。それは、一神教の世界には無い感覚ではないだろうか。

 

これらの俳句や短歌で詠われている命の感覚は、日本の文化の特徴ではないだろうか。

 

私は、この生命の感覚が、仏教の「四苦」や「生即苦」の教えと、神道の教えの融合によると思う。その結果、日本人は「整合性のある自然の時間的発展の中に、自分の生も死もある」と信じる(或いは感じる)ようになったと思う。

 

つまり、仏教の形あるものは本質的ではない(色即是空)という考えでは、自分の生病老死(四苦)も、自然の成り行きであり本質的ではないということになる。神道の自然崇拝の中で、この仏教の教えはスンナリと受け入れられる。その結果、上記の生命観が日本文化の中心に座ったのだろう。

 

西欧人には、その生死の感覚は“日本人の命の軽さ”と受け取られるだろう。西欧文化では、死は神の裁きの前に出ることである。自分の生のプロセスは、自分が天国に転生するか地獄に苦しむかを決定する。人の生は、従って、もっと重厚でなくてはならない。或いは、戦いの場にあって然るべきである。

 

その一つの反映として、自然科学でも文学でも、本が分厚い。その知的な分野での、西欧人たちが戦って得た労作を利用して、我々も大学等で学び、私もその延長上で仕事をしてきたと思う。その結果、自分の死生観も典型的な日本人のものから“歪んだ”のだろう。最初に下線部分に記したことが、理解していただけたと思う。

 

尚、ミネソタでの事件とその後の全米でのデモ、略奪、放火を見て、日本ではあり得ないと思う一方、彼らは”命を掛けて”生きていると思ってしまう。

 

 

補足:

 

1)水彩画などのコーナーもある。そこで活躍している多くの芸能人の方々、例えば千原ジュニアさん(絵や俳句)や東国原英夫さん(俳句)などの、才能の高さに驚いている。

2)この短歌の「消えにし」の用い方が今ひとつ解らない。高校で古文をならったのだが、殆ど昼寝の世界だった。なお、この秀吉の辞世の句についての解説を見つけたので、紹介しておきます。 https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4220

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