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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2017年12月31日日曜日

清濁併せ呑む日本文化と善悪を峻別する西欧文化

1)中部大学の武田邦彦氏が、日馬富士の暴行事件に関する話をしていたが、その中で日本の相撲、そして日本文化について語った部分が印象に残ったので、その延長の形で日本文化を考えてみた。武田氏の動画から得た文章はイタリックで書いた。それ以外は今回のオリジナルな分析である。https://www.youtube.com/watch?v=JSIHkwix5ME&t=533s

大横綱の双葉山は「待った」をしなかったという。相手が幾分早く立ったとしても、待ったをせず、堂々と横綱らしく受けて立つ相撲だったのである。

西洋の対決型のスポーツでは、試合の場では格の上下などはなく、細かく定められた同じルールの下で試合をする。そして、ルール違反に当たらない技を総動員して双方が戦い、その結果としての評価は勝ち負けが全てである。しかし相撲の場合、力士に細かく別れた格があり、試合の前に紹介される。試合は、ルール違反の判別には同じルールが適用されるが、格上の力士は格上らしく戦わなければ、評価が落ちる。つまり、評価は勝ち負けだけでなく、独特の“美学”が持ち込まれる。

西欧のスポーツでは、スタートは審判が宣言するが、相撲では対決姿勢を取るところまでは審判つまり行司に足されるが、試合の開始は対決者同士で決める。行司は、その後対決が正当かどうかを審判する。(補足1)つまり、相撲は西洋のスポーツに似ているが、しかし、ルールが全てではない日本的スポーツである。相撲の歴史を考えれば、神へ奉納する真剣勝負的な伝統行事なのだろう。

その原点から考えれば、現在の日本相撲協会は営業を重視した会社的経営に徹している。そして、モンゴル出身の力士に対して、上記の日本相撲のエッセンスを殆ど敎育していない。何故なら、白鵬は横綱になりながら、そして、圧倒的な強さを誇りながら、奉納相撲にふさわしくない相撲の美学に反する勝ち方をしているからである。

立ち会いに“エルボー”で相手を失神させるような技や、殆ど毎回の様に顔面パンチを用いて、自分優位の体制を取ろうとする。それは双葉山の受けて立つ相撲とは180度異なる。また、真剣勝負であるべきにも拘らず、モンゴル力士を含めてかなりの力士たちが、八百長相撲(モンゴル語でナイラ)を疑われている。(補足2)日本の古い奉納相撲を全く無視したような相撲を取らせる協会の姿勢は、この際厳しく批判されるべきである。このあたりで、公益法人という資格は剥奪すべきだと思う。

2)武田氏のその話の中で、日本文化の「清濁併せ呑む」という特徴が紹介されていた。中でも印象的だったのは、動画の6分10秒位から始まるインドの社会学者の話の紹介である。その社会学者が、「日本には性産業が無い様に見えて在り、それでいて社会は健全に見えるのが素晴らしい」と発言したというのである。

武田氏はこのインドの学者の話について、それ以上は言及しなかったが、上記双葉山の相撲なども合わせ考えると、日本文化の特徴が見えてくるように思うのである。つまり、近代日本は、個人を同一のルールで縛ることを建前上取り入れているが、それは日本文化の世界とは本質的に矛盾するのである。

日本文化の特徴は、人は分をわきまえて行動し、社会が全体として調和的に動くことをよしとしているのだと思う。ナチスの全体主義とは全くことなる、全体主義的文化と言えなくもない。別の表現を用いれば、日本は国家でありながら一つの生命体を構成するのである。インド学者の指摘した様に社会全体が、生物として必然としている人間の全てを、各個人がその”分”を弁えて行動することで受け入れるのだろう。

一方、西洋社会のあり方は、人間の中の汚い部分を違法の中に押し込め、犯罪者を同時に生み出すことで処理している。つまり、人を善人と悪人の二種類にわけて、この世を神の子である善人の棲家として、醜悪なる部分を悪人或いは異教徒の仕業として罰するのである。それは、全体から美しい部分或いは上澄み(“表社会”)を取り、その“人工社会”を正義の支配する社会、神の意志を実現した社会と定義するのである。その正義や平和は、その上澄み社会のみでは永続的に実現可能でないなどとは、およそ想像すらできないだろう。

3)西欧の社会で語られる人権、平等、自由、自然保護、動物愛護などは、その人工社会の概念であり、それを振りかざして異なったタイプの社会の国家を攻撃する姿は、まさに中世の異教徒弾圧的風景である。善悪は神の領域であり、従って、かれらには迷いはない。つまり、社会が表と裏で全体を為し、表だけでは安定に存在できないという考えは、想像すらできないだろう。

一方、日本社会では“悪人”に対しても一定の棲家を与えている。日本には「盗人にも三分の理」という言葉がある。また、幡随院長兵衛に始まるとされる侠客やヤクザなどは、西洋の悪人とはかなり実体が異なるだろう。ヤクザは西洋的観点からは、現代法に反する行為を日常的に行う悪人という範疇に入るが、しかし現在でも“裏社会”を仕切っているようである。

現在、日本は西欧的法治国家を標榜している。その一方で、上記インド人学者が素晴らしいとして評価したことや、例えば都市部再開発などにおいて、地上げと悪の汚名をセットで受け持つそれらの人々(裏社会の人々)を、単に処罰するだけで良いのかという疑問が残る。https://www.youtube.com/watch?v=kr1rvu5vR40

21世紀の世界は混乱の世界だろう。そこで、行き詰まるのは西欧型社会である。神の論理と人間の本質の間の”ずれ”を、強引に退けるには犠牲者(生贄)が必要である。人の力が科学の力を借りて非常に大きくなった現在、その考え方では多大な犠牲者が必要となるかもしれない。それは人類の破滅に繋がる可能性すらあると思う。

インド人の学者が感心した日本の風俗などは、西欧の論理を用いれば二枚舌を用いているとか、悪に対する姿勢が毅然としていないなどの非難の標的となる。それは、人を全て同じ平面に並べた上で、人の性質を善と悪に分けるという、西欧の信仰に毒されているということではないのか?西欧的神の論理を原理としないで、人の“醜悪なる部分”も含めて全人格を受け入れる日本型社会(東洋型社会?)を世界が考えるとしたら、21世紀の世界を考える良い材料、或いは刺激になるのではないだろうか。

補足:

1)始まる前なら、力士は対決姿勢を一旦解除することを提案できる。それが「待った」である。双葉山は、相手が先に両手をついて試合を一方的にスタートしても、遅れを承知で手を付いてその試合開始に同意したのである。何れにしても手をつかなければ、試合は始まらない。
2)そもそも貴ノ岩暴行の原因(或いは誘因)に、横綱白鵬をボスとするモンゴル力士グループが、真剣勝負をする貴ノ岩に反感を持っていたことと、その真剣勝負で白鵬を破り稀勢の里の優勝をアシストした相撲があったという。

2017年12月28日木曜日

日本国は背骨の無い軟体動物である:貴ノ岩暴行事件をプローブ(検針)にして見た日本

1)「日本国は日本国民一人一人が支えている」と言えば、恐らく殆どの人が同意するだろう。しかし、日本国を支えているとの自覚は日本人にはあまり無いだろう。それが、貴ノ岩暴行事件に対する多くの人の反応を観ての感想である。

日本国を、一つの細胞にたとえると、壁に囲まれた色んな組織が見えるだろう。その壁の強さに順番があり、それを知ることが小学校以来教えられている「社会科」の最も基本的なテーマである。しかし、日本国民の殆どがそれを学んでいない。

日本国は、国民つまり個人により構成されている。その背景には、国土や歴史などがある。その個人は独立しており、他人が入り込めない領域を持つ。今用いている喩え話では、その個人を壁に囲まれた侵すことのできない領域を持つ存在と見ているのである。

近代国家では、その個人という領域が国内において外から明確に見え無ければならない。そして、その次に強い壁として、国家を取り囲む壁が存在する。これら二つの存在は、相互依存的である。国民の居ない国家はないが、国家無くしては個人の生存は危ういからである。国家を細胞に喩えたのは、それが世界における生存の基本的単位だからである。

勿論、個人は移民などとなって異なる国家を構成することもあるが、その場合はその新しい国家なくしては、その個人の存在は危ういのである。

その次に目立つ壁に囲まれた存在は、個人と同様、親族である。親族がそのように国家により認められているのは、互いの協力が国家の成立と安定に寄与するからである。親族の壁の中に手をいれる場合、国家の力も遠慮すべき場面がある。(補足1)

更に、もう少し弱い壁でつくられた色んな組織がある。法的人格が認められた存在の「法人」の壁も見える筈である。更に、法的人格は無いが、開放的或いは閉鎖的な個人が結びついた色んな組織がある。(補足2)

日本相撲協会は、その法人の一つである。相撲協会の人たちは、自分達の組織を「内部」と意識しているかもしれないが、それは国家あっての組織であり、国家の法の執行が当然優先される。法人は個人のあつまりであるが、その個人間には明確なすき間或いは空間がなければならない。その空間は国家の空気(つまり法秩序)が満たしている。(補足3)その部分を、公(おおやけ)という言葉で表現することもできるだろう。

今回の事件は、法人の壁の外で行われた私的犯罪である。貴乃花親方のすべきことは、相撲協会が如何なる取り決めをしていても、国家の組織である警察に連絡することであり、その捜査に協力することである。その結果、法人の業務に支障が出ると考えられるのなら、その事実について法人が知らされていないのなら、何らかの手段で報告する義務があるだろう。

しかし、その義務を果すことが、警察の捜査を妨害する可能性があると常識的に考えられれば、その義務違反で貴乃花親方が処分される理由はない。その常識として、「犯罪捜査は、犯行現場にいた人たちが互いに連絡を取り合うことを嫌う。そこで、捜査当局は関係者の夫々を隔離する」などが考えられる。

犯行の現場に最も近い相撲協会の担当理事が、そのように判断して事件の報告を直接理事長にせず、警察を経由して知らせたのなら、それは正しい判断である。

今朝の「とくダネ!」を観ていたが、元検事以外の人たちは、全く上記社会科の基礎がわかっていなかった。貴乃花親方処分はすべきでないという人はいたが、それも「犯罪を切掛として、貴乃花親方の協会内規違反が生じたのだから、処分すべきでない」というものであった。

2)因みに、①個人が国家に優先するただ一つの存在であり、そしてその個人が国家を支えていることを、日本人は意識していない。また、②国家が個人以外のあらゆる組織に優先することを、日本人は理解していない。更に、③国民が支える国家以外の強い壁は、その外には全くないということも理解していない。つまり、世界は国家と国家が互いの利益を追求する野生の世界であることを理解していないのである。

①や②は、③を原因としている。その原因は、ヨーロッパのように、国家間での悲惨な戦争を繰り返して、その結果、主権国家という概念に到達したという歴史を日本は持たないことである。この主権国家から、市民が支える国民国家になり、奴隷解放から民主国家になったのである。そして、民主国家の基本は個人主義である。

この個人主義や国民国家という考えは、西欧の伝統の中から生じたのだろうが、それを取り入れる決断を日本国が明治の時代にした。それは、日本国が独自に決断したと言って良いと思う。明治維新については、英国の企みであると言う人も多いだろう。しかし、それでも、その後の日本国の運命は日本国が背負うのであるから、外国の力と知恵を利用して、日本国が独自に成し遂げたと考えるべきであり、その覚悟を持つべきである。

それを、日本国は2,600年前から連続して存在するという風に考えようとするから、「明治維新という過ち」という解釈が出てくるのである。

(編集:17時20分) 補足:
1)親族間が庇い合うことを、国家もおおめに見る。例えば、犯人隠匿や証拠隠滅の罪は、親族の犯罪においては罰せられない場合もある。(刑法105条)
2)閉鎖的な組織として、高校の同窓会や米国の「ドクロと骨」のような組織がある。開放的な組織として、俳句の会や短歌の会などもある。
3)国内から個人の壁が明確に見えなければならないと上に書いた。換言すれば、国家以外の組織から個人が自立していることが、近代国家成立の要諦である。この個人間の空間から公を排除する組織がある。それらは、ヤクザであり、テロ組織である。相撲協会がヤクザ的組織になってはならない。

一昨年の日韓合意についての韓国文政権の検証について

韓国政府は一昨年、日本政府との間で、所謂慰安婦問題を最終的且つ不可逆的に解決するという合意を行った。韓国は、その後朴政権から文政権に代わり、その合意プロセスを検証した結果、”被害者”の立場を十分汲み取っていないという結論になったとし、それを元に今後の対策を考えると言っている。

また、「世論に配慮する半面、韓国政府は日本に対して否定的な検証結果が日韓関係に悪影響を及ぼすことも懸念している。このため、検証結果が発表されても、合意への韓国政府の立場は早期には示されず、先延ばしとなる可能性が高い」と日本との関係を蛇足的に報じている。 http://www.sankei.com/world/news/171226/wor1712260030-n2.html

韓国政府が国内の作業として、何をやっても日本政府に何か要求しない限り、問題にはならないのだから、今の時点でこのようなことについてグダグダ日本国内向けに報道する理由はない。you tube 動画では、三橋貴明氏が「日韓合意は安倍政権の愚策であり、韓国は何を言おうと放っておくべき」という意見をだしている。https://www.youtube.com/watch?v=aPNNCN6x3ZQ

そこで私は、以下の内容のコメントを投稿した。つまり:私は日韓合意直後に、あれは米国の圧力によるだろうとブログに書いた。韓国が蒸し返すだろうという理由ではなく、ウソに基づいて父祖を侮辱する合意だから反対したのである。安倍総理の独自判断なら、総理は無知だと言わざるを得ないとも書いたと記憶している。

チャネル桜の水島氏も日韓合意には大反対だった。理由は私の反対と同じである。しかし、合意直後に櫻井よしこさんが、快挙だと言ったのが気になっている。つまり、櫻井さんなどの安倍応援団の意見を聞いて、総理は判断した可能性もある。それについてもブログで攻撃した。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2016/01/20151228.html

三橋氏は安倍総理と直接話しが出来るようなので、直接聞いてブログ読者に公表して欲しい。ただ、三橋氏は慰安婦問題について話すのなら、事実について先ず語るべきである。何故なら、慰安婦が韓国の主張の様に日本軍が強制的に性奴隷にしたと、視聴者が思うからである。

慰安婦問題については山ほど議論したが、その中でこの日韓合意については、以下にも書いている。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42593794.html そこでは田中宇氏の分析「オバマ大統領の圧力でなされたのだろうが、その圧力の理由は北朝鮮の核問題に関する日米韓の結束を確実にするためである」を紹介している。

補足:
1)この当時書いたブログで引用した櫻井よしこ氏の動画は削除されていた。類似の生きているサイトは:
http://www.nicovideo.jp/watch/sm28027280
https://www.youtube.com/watch?v=vN8chjUne68 等。

2017年12月26日火曜日

民間企業の技術革新による生産性向上は、国家の財政拡大でスイッチオンできるのか?

三橋貴明氏のyoutube上での講義「お金とは何か?失業率と戦争、基軸通貨」第6回を視聴した。“安い賃金の外国人を受け入れたら、日本の未来はない。技術革新による生産性向上が明るい道”と主張する講義である。それを見ての感想を書く。 https://www.youtube.com/watch?v=6-HCaOWRRi8

1)三橋氏は、「日本のデフレ経済を脱却するには、財政拡大による景気刺激が必要である」と、1929年の大恐慌と比較して主張している。そして、三橋氏の友人の藤井聡氏(内閣参与の土木屋)は、国土強靭化計画を主張して、経済立て直しを主張している。(補足1)

国土強靭化政策は、例えば巨大地震に備えて、数十メートルの防潮堤を作るなどの馬鹿げた話だろう。他への波及効果はむしろマイナスではないだろうか。(補足2)最近、十勝沖地震の危険性を喧伝しているのは、その藤井という土木屋の安倍総理への影響力を利用して、ゼネコンなどが画策しているのだろう。 講義の中で「安全」に金を使うのは良いとおっしゃるが、使う金に限りがある場合、そんな簡単な理屈では困る。日本人の伝統には、災害から正面対決して克服するという愚かな考えはない。30mの岸壁をつくっても、もし史上空前の地震があって津波がそこを越えれば、岸壁を築くことなく逃げることを考えた場合の方が、はるかに被害が小さい。彼らは、安全への投資には明確な限度がないということを知らない。

また三橋氏は、日本は内需依存型の国だと常々発言している。確かに、GDPの内訳からはその通りだろう。しかし、全てマクロの数字で考えるのは非常に危険だと思う。日本は、エネルギー自給率6%、鉄鉱石やボーキサイトなど資源の自給率0%、食料自給率35%(程度)の国である。従って、日本は基本的に貿易立国である。

現在景気がよくないと判断し、しかも1929年の世界不況と同じような原因と考えて、内需拡大で景気浮揚を考えるのは、分析も対策も間違っているのではないのか。

大規模な内需拡大を財政で行えば、現在健全な国債に対する信用も悪化するだろう。一旦国債に不安が生じれば、日銀は大部分の資産を国債でもっているのだから、円の信用低下から円安と大きなインフレにつながると思う。日本国債は円建てであるので、そして、財務省が日銀の株をほとんど持っている現在、その償還は確実である。また、円安による実質賃金低下とそれによる国際競争力の増加、および円安による国債の実質的減少により、円安とインフレは一定のところで歯止めは掛ると思う。

最終的に国民の銀行預金の実質的な目減りという形で、日本の財政や金融は、新しい均衡点に落ち着くと私は考える。しかし、国民は大部分の預金を目減りという形で失うだろう。

尚、高橋洋一氏が初めて作ったと自慢する国家の貸借対照表を正しく見れば、財政状況は健全であり、PM(プライマリーバランス)にこだわりすぎるのはよくないというのはわかる。そして、景気浮揚の為に生産性の向上を図るべきだという意見も机上の議論としてはわかる。しかし、その方法はもっと根本から考えなくては駄目である。

2)20世紀後半の(第何次か分からないが)産業革命時においても、日本にはグーグルもインテルもアップルもテスラもマイクロソフトも発生しなかった。その日米の差は、何なのか?

日本では、ダイエーという先端を走った企業の破綻に始まり、凄まじい小売業の再編、伝統的に強かったシャープ、東芝などの破綻、三菱重工の停滞、最近では三菱マテリアルなどの不正があった。この流れは、三橋氏の考えるほど単純な方法で克服はできないだろう。そこを問題視しないで、PMにこだわる財務省ばかりを槍玉にあげる意見には賛成できない。

グーグルやテスラはあまりにも遠いので、身近な家電を考えて見る。日本のシャープ、東芝、ソニーなどのテレビは、韓国や中国のブランドであるLGやハイセンスのテレビの倍の値段である。日本で売れても、外国で売れる筈がない。一方、扇風機や掃除機のような小型製品でも、最新式のものは全てヨーロッパで生み出された。

友人どうしだという安倍総理に近い藤井聡内閣参与や三橋貴明氏(補足3)など、財政拡大で景気浮揚を考える人たちは、マクロ経済政策では解決できそうにないこれらの現実を全くみていない。

その原因などについては、これまで何どもいろんな面から議論してきた。(補足4)日本の教育、雇用、(その改善が一向に進まない)日本の政治(補足5)、その背景にある日本文化などに本質的な原因があると私は思う。例えば、日本の大企業においても、経営のトップ層にはまともな人材がいないのではないのか?

何故、発想力豊かな人材が、経営者のトップになり得ないのか?そこを考えるべきだと思う。カンフル的な財政拡大を考える経済評論家やそれを内閣参与に抱える政府は、思い通りに国を動かすことになれば、結果として国を潰す可能性が高いと思う。

財政健全化を勧めているのは、財務省(補足6)だけではない。IMFもそのように発言している。三橋貴明氏、高橋洋一氏、上念司氏、藤井聡氏らが、財政均衡を主張する人たちを非難しバカにするのは、何時も相手が居ないところにおける大衆向けのパーフォーマンスに見える。総理は気をつけてもらいたいと思う。

補足:
追加補足:日銀の今までの金融政策は勿論成功をおさめた。この点誤解を受けないように追加します。(PM 5:25)
1)藤井氏は、韓国の経済についても、政府がどんどん金を使えばよいのだと言って居た。従って、その方は経済には無知だと私は考えている。
2)景観を害して、観光客の足が遠のくとか、漁に出にくくなり漁獲量が減少するなど、マイナスの効果が出る可能性がある。
3)最近の動画で、三橋氏は安倍総理と食事を共にしたと言っていた。
4)ダイソンの扇風機は、一旦機内に空気を吸い込んでから吐き出すタイプである。このタイプはすでに東芝の技術者が考案していた。 それを何故育てられなかったのか?日本の経営者が優秀であれば、採用できていただろう。また日本が、仕事の命令系統では上司と部下であっても、そこを離れれば対等に口がきけるという社会なら、そのアイデアは別のお偉方に流れて、製品化だれていたかもしれない。本ブログの12/9; 12/11の記事参照
5)内閣が参与や有識者会議などの外部の人間を多用するのは、民主主義の原則から考えて問題がある。日本は、三権分立の国であったことはなく、長く官僚独裁で動いてきた。それに行き詰ったので、安倍政権が考え出したのが“行政の独裁”だろう。大きな派閥を持たないことを逆手に取って、全ての基本方針を上記内閣参与や有識者会議などを用いて内閣で打ち出すのである。
6)高橋洋一氏は、あるyoutube動画で、財務官僚を東大阿法学部出身だと揶揄して居た。そんな威勢の良い姿勢は、仲良しの総理や大衆には勇ましく見えるかもしれない。しかし、それは財務官僚と対峙した場面で言ってもらいたい。

2017年12月22日金曜日

日本の不景気と問題点:日本は社会構造から変革を目指すべきである

1)先日、国債暴落から高インフレになる可能性を指摘した大前研一氏の意見と、それと真っ向から反対する上念司氏や三橋貴明氏の意見を比較した。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43502877.html

多くの先進国では、経済のグローバル化により資本も仕事も発展途上国に流出する。そこで、政府が何も経済対策をしなければデフレ気味になる。企業の国内投資を促進すべく金融緩和が行われ、(補足1)その結果の円安で国内企業の競争力も高まり、日本製品の国際競争力が維持されて雇用が守られた。それでも、賃金上昇に至らないのは、同時に行われた非正規雇用の増大などの原因となった規制緩和の影響である。

労働市場の規制緩和も金融緩和も、そして、法人税減税も、全て企業競争力をつけさせるための政策である。最近は企業業績はかなり良いものの、労働賃金がなかなか上昇しないことで、世の中には不況風が依然吹いている。その原因の一つに、金融資産を多くもっている壮年及び老年層に将来不安があり、金を使わないので需要が伸びないという事情がある。(補足2)

上記のように設備投資や起業を非常に行いやすい環境にありながら、大企業も中小企業もその動きが貧弱なことは問題である。その一方、不正検査や不正会計など、ごまかしで当座の私的利益を守ろうとしているのも問題である。それらを総合して、日本の企業などの指導層に大胆な発想も、緻密な思考もないとしたら、それが日本の最も大きな問題である。

増税に関しては、今は時期ではないと思う。また同時に期待される財政拡大は、そのままGDPの増加になるが、現在の経済環境でその波及効果(乗数効果)に期待できるかどうかが問題だろう。また、通常のインフラ整備ならともかく、大震災に備えるタイプの財政拡大は、将来へ禍根を残すと思う。

何故なら、地震は日本国土全ての問題であり、ロバート・ゲラー博士の言う通り予知不可能だからである。最近の大地震を見ても、可能性が高いと考えられてきた場所以外で全て起こっている。それに、政府のその種の投資は、偏った富の分配に終わるのが、日本のこれまでの姿だろう。内閣の中にあまり経済のことがわかっていない土木屋(SF)がいる。千島海溝地震のことを言い出したのは、そのような人たちの企みではないかと疑う。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20171219/k10011263721000.html

日本は、鉄鉱石やアルミ(ボーキサイト)等の資源(0%)、エネルギー(10%以下)、食料を外国に頼っている。最も自給率の高い食料でも、自給率は40%程度である。その国が何で食っているかを考えるべきである。日本は海外との経済交流で稼ぐ以外に食っていく道はなく日本製品の国際競争力の低下の深刻度は、多くの先進国と比較にならない。

安易な財政拡大で、当面の貯蓄を食いつぶす政策を訴える人たちは、無責任である。日本の健全な財政(財務省は不健全だと宣伝しているが)、海外債権を世界から積み上げた健全な国家全体の財務体質は、日本に残された時間と考えるべきだと思う。

2)日本には根本的な問題が残されている。それは、日本は国際社会で生きなければならないにも拘らず、自分自身を知る作業を十分行なっていないことである。日本文化の特殊性は、日本にとって長所なのか短所なのか、日本で指導的立場にある人のほとんどは、さっぱり理解していない。例えば日本には、公(パブリックな)空間がほとんど無く、公私の区別さえ未だに明確でない。それは日本の長所なのか、短所なのか?(補足3)

日本は法治国家と言えず、徳治国家的である。労働市場の問題とも絡むが、個人のあり方、個人に対する人物評価も日本は独特である。それは、高度に発達した社会構造にどのような影響を及ぼしているのか、政治や経済制度にどう影響しているのか。日本は今、経済改革の時期だと考える向きは多いが、文化と社会の改革時期だと考えるべきではないのか。

日本企業のトップに位置する人たち、日本政府のトップに位置する人たち、日本の官庁や地方行政のトップに位置する人たち、彼らは最適な人材なのか?少なくとも、明治以降の悲惨な歴史を見ると、リーダーの選出や組織のあり方が、世界を舞台にする以上、最善からは遠いのではないかと思う。

世界標準が最良だとは思わないないが、この地球上で生きて行く為には、社会のあり方についての考え方やその制度を世界の標準に適応させる努力はやはり必要ではないのか。そして、その変更した社会に適合した人材を配布する方法、そのための教育制度などの改革なども必要ではないのか。

この問題はあまりにも大きくて、筆者も十分考えている訳ではないし、考えがまとまったとしてもここに書けないだろう。そこで、一つだけ例をあげたい。それは最近問題になっている相撲取りが起こした暴行事件とその波紋である。それは日本の上記因子を考える大きなヒントになると思う。

3)この件は、西欧的見地に立てば、ほとんどプライベートな事件に見えるだろう。業務で地方に出向いていたとは言え、時間帯は自由時間内であり、スター選手が起こした事件ではあるが、単なる暴行事件である。刑事事件として鳥取県警が捜査し、検察から裁判所に捜査結果が送られて、犯人が処罰される。それだけでほとんど全ての手続きが終わる筈である。

しかし、何故かその犯人の所属部門(相撲部屋)の長が、相撲協会という法人の理事職を引責辞任しなければならないのである。つまり、日馬富士の起こした暴行犯罪は、日本文化と社会のルールに照らした場合、その部屋のトップも共犯なのである。ただ、法体系が西欧式であるため、国家により罰せられるのは日馬富士だけである。つまり、日本社会は西欧的な法体系によって組まれた国家体制に馴染んでいないのである。

その事件の真相報告とやらを、何故労働者を纏めて地方へ引率する責任者が、警察への連絡よりも優先して、その法人の長に連絡しなければならないのか? 連絡を怠ったのが原因で、何故責任追求されているのか? これらの現象を深く考えると、相撲協会は日本列島内の小さな独立国的な組織であることがわかる。つまり、日本のあらゆる組織は部分的に、西欧的な日本国家から独立しているのである。(補足4)

相撲取りの中で、横綱というポジションにある人は、品格及び技量ともに優秀で、優秀な取り組み成績を納めなければならないという。相撲がスポーツだと思っていては、この品格という言葉がでてくる理由は理解不能である。表向きの意味は、横綱は人格が優れていて、相撲の取り口に優雅さがなければならないということらしい。それは相撲のルールにはなく、相撲協会の希望というか要求を横綱に述べただけように見えるが、その希望に十分配慮しない力士は、横綱と言えども手痛い仕打ちを受ける。

相撲のルールそのものは、相手の顔面を手で叩いたり、足を蹴ったりするのも許される。猫騙しというふざけた取り口もルール上は許される。しかし、横綱はこれらの技を掛けるのはルールでは問題ないが、品格上問題だという。単純明快を欲する人間には、訳がわからない。

実際には、大関というポジションで2回連続優勝すれば、自動的に横綱になれるのだが、横綱になれば品格技量ともに抜群でなければならない。横綱はその力士が獲得する地位ではなく、その力士が演じるべき配役なのだ。 そして、横綱は品格・技量ともに優れているのは、その配役の脚本に書かれているのであり、その力士個人の性格ではない。

4)この国では何かで抜群に優秀な結果を残せば、全人格的に高い評価を獲得する。より正確には、獲得するのではなく期待されるのである。期待に背けば、仕打ちが非常に厳しいので、期待されるという西洋語を翻訳したような表現は、本当は適切ではない。

その証拠の一つだが、オリンピックで金メダルをとれば、国会議員となる資格も得られ、場合によっては大臣級ポストまで手に入れることができる。そして、単なる刑法犯罪を受けて、相撲協会に指導とやらをすることもできるのである。

新聞記事によれば:
"日本相撲協会が元横綱日馬富士関の暴行事件で関係者の処分を決定したことを受け、スポーツ庁の鈴木大地長官は21日、「暴力根絶に向けた厳しい処分。協会の姿勢が表れた処分になったのではないか」と述べ、対応に理解を示した" と報じられている。(補足5)https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201712210000384.html

鈴木長官も、金メダルをとり、代議士になった。しかし、そのポストは獲得したのではないし、授与されたのでも無い。その役柄を演じる運命になったのである。(補足6)彼は、「周囲の空気」にその役割を演じられるだろうと期待されたのだろう。彼はその地位で、独自の仕事をするのではなく、その地位に備わった脚本通りに振る舞う義務を負うのである。その期待を背負えなければ、自分から辞任しなければならない。それが日本の掟なのだろう。

このような法人と政府のトップクラスでの人材のあり方が、まさか、国際的環境で生きている大企業の中には無いと思いたいが、日本の中にそのような不連続な人材&文化前線があるとは思えない。習近平とキッシンジャーの日本評を、日本国民はもう少し真面目に受け取った方が良い。http://www.mag2.com/p/news/252419

尚、筆者には、この記事もかなり背伸びして書いているという自覚があります。遠慮なく、張り手、カチ上げを見舞ってください。 
(15:00編集;補足6は12/23am7:30追加)

補足

1)グローバル化の世界の流れに単独で逆らえば、そして、大幅な金融緩和や労働市場の規制緩和をしなければ、企業の国際競争力が失われ、本格的な不景気になる。
2)壮年、老年層の不安は、経済発展とそれによる家族制度の変質が原因である。日本社会では、個人は自立していないので、個人と個人の私的ネットワークがあまり形成されない。それが、産業の成長による人口移動と家族制度の一部崩壊により、要介護状態になった時の不安を高めているのだろう。
3)日本では会社に就職すると、そこの会社員になる。ただし、24時間365日そこの会社員である。退社後の時間は、法的にはプライベートな時間であるが、文化的には退社後も会社員である。
4)つまり、日本のあらゆる組織に所属する人間は、24時間その組織の人間である。ある組織の人間が起こした犯罪や事件などは、かなりの部分、その組織の責任となる。
5)鈴木長官殿、暴力根絶なんて可能ですか?冗談はよしてくださいと言いたい。
6)何かを獲得するのは個人であり、何かが授与されるのは個人に対してである。個人が明確でない社会では、地位は個人が獲得したり個人に授与されたりする対象ではない。従って組織では、その地位が仕事をしているのであり、個人が仕事をしているのではない。地位は組織に属し、その地位にある人が犯罪を起こした場合、個人の処罰を国家が、その地位の処分はその組織が行う。今回の場合、横綱という地位は相撲部屋の長の下にあり、24時間365日その関係は継続する。

2017年12月19日火曜日

日本相撲協会のごまかし体質

1)日馬富士による貴ノ岩暴行事件は、一段落したのかと思ったが、そうではなさそうである。捜査にあたった鳥取県警の公正さが問われる可能性も将来出てくるかもしれないと心配している。つまり、鳥取県警が事実をしっかりと把握しているか、事実を把握できるまで聞き取りや捜査をしたのか、心配である。

あるサイトに、「相撲協会がひた隠す「白鵬の嘘」と口裏合わせ 貴ノ花はいま何を想う?」と題する記事が掲載された。そこには、モンゴル勢が日馬富士の暴行を止めに入ったのは鶴竜であるが、「止めたのは白鵬である」と口裏合わせを行なったという風に書かれていた。

それより重大な疑惑は、協会に11月13日に提出された貴乃岩の診断書を作成した福岡県済生会福岡総合病院が、「当病院としては、重傷であるような報道がされていることに驚いている」旨のコメントを発表したことに関して、相撲協会の工作を匂わせるように書かれていることである。http://www.mag2.com/p/money/351432/2?l=qux0596bfd

最初に上記診断書の報道を聞いた時、医師が十分な日本語を話せないのかな?と疑問をもった。相撲協会に提出された診断書は「脳震盪、左前頭部裂傷、右外耳道炎、右中頭蓋底骨折、髄液漏の疑い」だった。その後、病院の医師は最後の”疑い”は、頭蓋底骨折及び髄液漏の両方に係ると言ったのである。https://cgskdgc.com/takanoiwa/

診断書の現物をみていないのだが、当時のテレビ報道なども同じだったので、上記文章を基に考える。頭蓋底骨折も疑いと読むのなら、疑いの範囲をそこで止める根拠は何なのかわからない。つまり、最初の脳震盪から全て疑いと読めないことはない。しかし、それでは診断書にならない。

まともに理系の大学を卒業した人間が日本語を使う時、このような場合は、“脳震盪、左前頭部裂傷、右外耳道炎、右中頭蓋底骨折と髄液漏の疑い”と書くか、更に慎重な人は、“脳震盪、左前頭部裂傷、右外耳道炎、右中頭蓋底骨折と髄液漏の夫々疑い”と書く。普通は、夫々を挿入する。このような並列の表現を間違っていては、論理が重要な理系の学問を習得することは不可能なので、並列表現はしっかりと早い時期に先生から教えられる。(補足1)

診断書を書いたあとで、「”疑い”は頭蓋底骨折と髄液漏の両方に係る」と言うのは、医師自身の都合或いは何者かによる工作の結果である。危機管理委員会が発表した報告書でも、診断書の頭蓋底骨折と髄液漏れは、双方とも「疑い」であると強調しているとすれば、相撲協会の依頼があってのことだろう。(https://cgskdgc.com/takanoiwa/

2)今後、この件は日本とモンゴルで人々の記憶に長く残るだろう。この問題が深刻なのは、日本社会のごまかしと隠蔽の体質が問われているからである。つまり、日本相撲協会は、ごまかし体質のままに、日本政府から公益法人の資格が認められているのである。この件以前にも、八百長疑惑などの不祥事もあったが体質は変わっていない。

更により深刻なのは、現在の大相撲の存在そのものが、ある種のごまかしに頼っていることである。具体的には、外国人受け入れの問題である。もし「相撲は国技」というのなら、何故外国人を力士として採用しているのか? 外国人を受け入れるということは、外国人の文化も受け入れる覚悟が必要である。しかし、相撲が国技なら、その覚悟は国技を否定することになる。

今回の事件の背景には、その中心的問題の議論を避けて、経営に走った協会の姿勢がある。天皇賜杯授与のとき、君が代の演奏が行われる。そこで、堅く口を閉じている外国人力士を見ても、逆に義理がたく口を動かしている外国人力士を見ても、日本人の多くは苦々しい思いを持つだろう。

日本相撲協会は、優秀なマネージャーを雇い、国際スポーツ団体として再出発するか、古来の奉納相撲を自然に行える団体に戻るか、どちらかを選択すべきだと想う。

補足:
1)英語では、並列表現「A and B, respectively」と言う表現を使う。ここで、理系学部では、respectivelyつまり夫々の挿入をしっかり教えられる。

2017年12月16日土曜日

日本は中国の属国になり、中国と朝鮮の虐めの標的となるだろう

1)国際社会は野生の原理が支配している。適当な相手を見つけ出し、弱みにつけ込み、罠をしかけ、つるんで用意した窪みに落とし、四方八方から攻撃し殺して餌にする。正義とか論理とか、そんな話は後で作れば良い。真実の定義は、強者の言葉である。

若干古いのだが、偶然次の記事を見つけて読み、そのような感想をもった。中国が、「ロシア、韓国に反日統一共同戦線構築を提案した」と題する記事である。 https://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2012_11_15/94728921/

2012年11月14日にモスクワで開かれた露中韓の三国による国際会議「東アジアにおける安全保障と協力」で演説にたった中国外務省付属国際問題研究所の郭 (ゴ・シャンガン)副所長のプレゼンテーションは、上記三ヶ国が抱える日本との領土問題を、戦後のサンフランシスコ講和条約の時点に戻って解決しようと呼びかけるものだった。

郭氏は、「51年にソ連と中国の承認なしに締結されたサンフランシスコ講和条約は内容が古くなっているとの見方を示し、それにかわるものとして新たな講和条約が結ばれなければならない」と語ったという。

しかし、日中はサンフランシスコ講和条約後に、それを前提として講和した筈である。また、日ソも同様に共同宣言で、サンフランシスコ講和条約を前提に平和条約の方向を決めた。韓国は当時日本に含まれていて交戦国ではなかったので、戦後1965年に講和条約ではなく”日韓基本条約”を締結している。

郭氏は、それらを十分承知しながら、強者の論理で歴史の捏造を提案したのである。この一つの出来事をとっても、中国という国家の恐ろしさが理解されるだろう。韓国同様、歴史も法や条約も過去に遡って書き換えられると思っている。

中国はすでに、パキスタン、スリランカ、バングラデシュ、ミャンマーに中国海軍が利用できる軍港を構築しているなど、AIIBや一帯一路構想という新たな拡張主義は、世界一の覇権国を目指していることを示している。http://blogos.com/article/21823/

中国の強い点は一党独裁体制であり、決断も早く実行の際の抵抗も少ない点である。その強い点は特に政治の面で発揮されるだろう。一方、経済の面では、独裁的に決定する方法は、いろんな面での小さい錯誤でも相互矛盾となって拡大し、上手くいかない。鄧小平が、独裁主義と自由主義を政経で使い分ける方法を発明したが、それは過渡的手法としてのみ有効だと思う。

現実には、独裁的手法がどうしても経済にも及ぶことになり、そこから歯車が狂い出すだろうと思う。そこで、政治の面での強さを用いて、他国から搾取する手法で乗り切る方法を考えるだろう。つまり、近隣にとって非常に厄介な国になると思う。

2)北朝鮮の核保持問題で世界は揺れているが、なんどもブログに書いてきたが、北朝鮮は本来日本の脅威ではない。何故なら、北朝鮮問題は朝鮮戦争の延長上にあり、当事国は米国(当時国連軍の衣を着ていた)、北朝鮮、中国(義勇軍の衣を着て居た)であるからである。

更に、北朝鮮問題で得をしてきた国、得をしている国は、それぞれ米国と中国であり、日本とは直接には無関係だからである。(補足1)それに、北朝鮮の核開発は、米国に対する防衛、つまり、朝鮮戦争における最終的勝利を目的に始められた。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43440054.html
https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43409195.html

北朝鮮問題で日本政府は脅威を感じているが、日本国民はそれほど脅威を感じて居ない。それは国家存亡の危機にあるのは、明らかに北朝鮮の方であるからである。勿論、金正恩政権の核を抱いた自爆は、大きな脅威であるが、それはないだろう。

ティラーソン国務長官の最近の発言などでも、北朝鮮の核保持を現在の状態まで認めることになると思われる。それは米国の支配層の本音である。例えば、オバマ政権で大統領補佐官を務めたコンドリーザ・ライス氏はニューヨーク・タイムズに寄稿したコラムの中で「我々は北朝鮮の核保有を大目に見ることができる。冷戦中にソビエトの何千もの核兵器を大目に見てきたように」と言ったという。https://abematimes.com/posts/2877513

これまでの絶対に核保持を許さないという姿勢は、単に日本での核武装論の高まりを考えてのことであり、日本に核武装論が起こらなければ、更に、日本に核共有論さえ起こらないのなら、核廃絶を北朝鮮に強要して金正恩の暴発を誘発する危険を犯すべきではないと考えている筈である。 日本の安倍総理以下の自民党政権と外務官僚たちは知性に欠けるため、米国追従を唯一の日本の命綱と考えている。それは、自民党結党時の政綱と矛盾しようが全く気にもとめていない。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43493531.html

その腑抜け的日本政府(補足2)の対応を見定めた上で、米国は北朝鮮と協議に入るだろう。それは、日本が最低限の威厳を保った生き残りのチャンスを与えてくれた暴れん坊北朝鮮の消滅を意味する。その代わりに誕生するのが、対日強硬路線をとる憎っくき統一朝鮮だろう。そして、それと連携するのが、中国だろう。

その結果日本は、核保持あるいは最低限必要な核共有のチャンスを逃し、これまでの哀れな韓国の役をすることになる。それは有史以来朝鮮が考えてきた姿、つまり、東夷の国が中国の朝貢国となり、朝鮮の下に位置する中華秩序の完成である。

補足:

1)米国はこれまでの極東域での派遣国としての足場を、北朝鮮との戦争継続で得てきた。具体的には、日米安全保障条約を結び、在日米軍を置く根拠となった。それは、日本の再軍備防止、東西冷戦の戦略的拠点、更に、インド洋から中東までを視野に入れた、世界戦略の基地として存在したのだろう。また中国は、現在北朝鮮を制御する姿勢で、国際政治における大国としての地位を確立した。

2)米国供与の命綱がかくも脆いものであることなど、今だに自民党や外務官僚は気にもして居ない。それは官僚と官僚上がりの政治家は、自分と自分の家族の楽な人生という小さい視野しか持たないからである。だいたい、安定職として公務員を、そして定年後の天下りを目指す人間に、政治家の素質などある筈がない。

2017年12月13日水曜日

”土俵”が護れないのなら、日本相撲協会は公益法人の資格を返却すべき

1)先日報道された日馬富士による貴の岩暴行障害事件も、検察の書類送検で一段落しそうである。しかし、それを教訓として相撲協会が活かし、いろいろ言われている大相撲の改革ができるのか注目されるが、その見通しはたって居ないようである。

1)先日報道された日馬富士による貴の岩暴行障害事件も、検察の書類送検で一段落しそうである。しかし、それを教訓として相撲協会が、いろいろ言われている件に関して、大相撲改革ができるのか注目されるが、その見通しはたって居ないようである。

一方、その事件が新しい展開を見せるかどうかにも、依然関心が持たれている。そんなおり、その事件の深層に関する「週刊新潮、中瀬ゆかり」と題する動画を見つけた。(補足1)そこには、私が予想していた通りのことが語られており、事件の真相を知った感じがする。その動画が語る事件の背景と進行に、整合性があると感じたのである。https://www.youtube.com/watch?v=hjlAZrz_9hI

それによると、今回の日馬富士による貴の岩暴行事件の背景に、モンゴル勢の間にも存在する八百長体質がある様だ。八百長を非難しそれに与しなかったのが、貴乃花親方の弟子の貴ノ岩であった。そして、白鵬が貴の岩に自粛するように指導したという「粗暴な言動」の中に、貴の岩のいう「俺はナイラはやらない」が含まれるのだろう。 ナイラとはモンゴル語で八百長を意味する。

今回の事件の遠因となっているのは、どうやら今年の初場所で貴の岩が白鵬に初挑戦した相撲のようである。貴の岩がまさにそのガチンコ相撲(八百長でない相撲)で白鵬を下し、白鵬の優勝を困難にした。その相撲が結果として、稀勢の里の優勝とその後の横綱稀勢の里誕生に繋がったのである。

その相撲を、貴の岩が自慢げに「ガチンコで白鵬に勝った」と方々で喋り、それが白鵬の耳に入ったようだ。横綱として優勝し続けることが、相撲界に君臨する為の必須条件であると感じる白鵬にとって、八百長してでも何とかしたかったのだろうと想像する。

これらの貴の岩の言動に腹を立てた白鵬は、横綱だが格下の日馬富士を利用することを考え、「お前のことも、悪く言ってたぞ」と耳打ちしたという。この話はよくできて居て、捏造とは思えない。

当日、暴行を止めに入った照ノ富士が殴られ、鶴竜が止めに入ったが十分な力がなく、最後に止めたのは白鵬だという。横綱と大関が止めても止められず、最終的に白鵬しか止められなかったという事実は、上記の話がなければ非常に不自然である。

以上を総合して、白鵬の思い上がり、モンゴル勢の八百長などが、今回の暴行の背景にあったと思う。もともと大相撲が「ガチンコ相撲」が原則なら、白鵬が負けた貴ノ岩に恨みを持つ筈はない。

あの九州場所での嘉風戦で、白鵬は対戦者の自分が審判も兼ねる様な態度を取った。また、千秋楽での自分が万歳三唱の音頭をとったことや「今回の件を丸く収めるべきだ」という協会への干渉と取れる発言、さらに、巡業部長の貴乃花親方の下ではその後の巡業に参加したくないと発言するなど、白鵬の態度は目にあまる。「大相撲は自分でもっている」と考え行動しているのだろう。

そのほか、週刊文春に掲載されたという白鵬の愛人の話、それに付随した白鵬の言葉(ここに書くのを躊躇うので、動画を観てもらいたい)に真実味がある。これら全てを総括すると、白鵬は日本の相撲を汚していると感じる。あの肘打ちで顔面を狙う、カチ上げや、土俵を割った力士を土俵下に突き落とす荒い相撲など、日本の神に奉納する意味などあるとは言えないだろう。

完全に相撲協会は白鵬に乗っ取られたようだ。そんな状態では相撲協会を、公益法人の指定を取り消すべきだし、NHKは全国放送などすべきでない。

2)ウインブルドン方式というのを政治評論家の手嶋龍一氏が語って居た。英国がウインブルドンテニス大会を、ある時世界に解放したことで、その大会とテニスの地位が高くなった。その成功は、ウインブルドンの関係者が、「テニスコートを守った」からであると手嶋氏は語る。

つまり、ウインブルドンを世界に公開するが、同時に大会を公正で品格のあるものに守る決意をしたというのである。https://www.youtube.com/watch?v=maKL72yOnNs

大相撲も世界に開くのなら、同時にウインブルドン方式に習って、「土俵を守る」という決意がなければならない。その決意を示すことに、相撲協会は失敗しているのではないか、そう手嶋氏は指摘したいのだろう。

大相撲を世界に公開したものの、「日本伝統の土俵」を護れないのなら、日本政府は日本相撲協会を公益法人にして税制上優遇し、政府の指導の下にあるNHKが全国放送するという形で、支援&擁護する理由などないのだ。(補足2)

補足:

1)週刊新潮12月14日号に詳細が語られているようである。また、関連記事が週刊文春の同日号に記載されている。
2)先日の最高裁判決にあった様にテレビ設置者はNHKと視聴契約をする義務があり、従って視聴料は税金とほとんど同じ意味を持つ。それは、NHK放送が公益に寄与することが前提である。もし、単に娯楽番組の提供と引き換えに視聴料を取るのなら、NHKは民営化し、放送法第64条は廃止すべきである。

2017年12月11日月曜日

「和の国」で成立しない議論:和は結果であるべき

北朝鮮危機がテレビ等で話題になっているが、日本では誰もそれに備えるほど危機感を抱いていない。政治家はその難問を避けて自己保身に走り、テレビの評論家は大きな声で喋っても、その意見に必死に情報を集め解析したという努力のあとが感じられない。彼らには、利己主義が蔓延している。

声の大きい人に二通りある。知識と自信に基いて明確に喋る人と、知識の有無は分からないが、自分或いは自分の所属する団体の利益を考えて喋る人である。どちらが正しいのか、声の大きさだけでは全くわからない。この国では、互いの主張が矛盾していても、正面衝突することは稀である。

本人達が避けるのか、報道機関などがそのような場面設定を避けるのか分からない。多分両方のメカニズムが、この「和の国」では働くのだろう。「和の国」というのは、議論を避けることを優先する国のことであり、我が国を指している。議論は、問題を洗い出して解決の方法を見つける為にするのが一般的だが、この国では多くの場合議論は口論の始まりであり、口論は喧嘩で終わる場合が多い。無駄に終わり団結を阻害するのなら、最初から議論など始めない方が良いと考えるのだろう。(補足1)

勿論、個人が自分の知識を基に信用できる人を探し出し、その意見を参考にして何事も自己責任で判断するしかないのだが、この国ではそれが一層難しいのではないだろうか。

「和の国」の政治家は能力がないし、官僚やマスコミは利己的である。マスコミは、コスト削減か何か知らないが、何時も評論家の顔ぶれは同じである。(補足2)米国べったりの元官僚や元新聞社の人たちが、何時も同じことを喋っている。

シリアスな政治番組など地上波放送局では出来ないと思ったのか、嘗てかなり聴きごたえのあった政治バラエティー番組が、全編お笑い番組のようになったものもある。(補足3)この危機の時に、三流週刊誌のような番組作りをする神経がわからない。司会者には、放送法一条を読めといいたい。

この国ではまともな意見を述べる人が出演するのは、ミニコミ的番組のみである。(補足4)何故そのようになってしまうのか?この「和の国」の特徴、マスコミなどで意見を述べる資格を得た人(=リーダー的存在)の能力、彼らの選ばれ方、などについて少し考えてみる。前置きが長くなってしまったが、以下本論を始める。

尚、ここで考える日本の特徴は、人間に共通するものである。それを特別に色濃く社会全体で持つのが日本であるというだけである。

[1]

「和の国」の掟は人の非難をしないことである。目の前の人がバカげたことを言ったとしても、この国ではそれを非難をした途端、大衆の刃は非難した人に向かう。正論を提げても、言論意味不明の「人格者」には勝てない。何処の国でも、一番恐ろしいのは大衆の刃である。中国やロシアでもそれは同じである。(補足5)

多くの国では非難は議論の出発点になるが、この国では、非難は「和」の破壊という終着駅である。上述のように、議論は何も産まないからである。

和は大切である。絶対君主が支配する国でも、君主は一定の範囲だが、和の実現を体制維持の為の主要課題と考えるだろう。長期的には、広く国内全体の和が、その体制の命運を決めるだろう。しかし、「和」が社会での最重要な価値として宗教の様に信じられている国、つまり「和」絶対主義の国は日本以外にないだろう。

一般に国家の仕事は、国民の権利保障と福祉実現である。それは、国民の安全及び自由の確保と領土の保全といった国家の枠に関するものと、国内での「富の効率的な創生と公正な分配」に分けられるだろう。そこには和の実現という項目は不要である。何故なら、公正且つ豊かな分配の結果として、和が成り立つからである。表題に書いたように、和は結果であって方法ではなないのである。

つまり、和は目標であり方法ではない。しかし、「和」絶対主義の国では、「和」は方法であり且つ目的でもある。非常に深刻なことだが、この国では国際関係を考える際にも、「和」原理主義が、大手を振っていることである。どこの国が親日的でどこが反日的だとか、誰が親日的で誰が侮日的(反日的)だとかが、関心ごとの中心にある。(補足6)

社会という公の空間で和を中心に置くのは本質的に間違いである。何故なら、和は基本的に1:1の融和的関係の輪の広がりで達成される状態であり、公の(パブリックな)概念でないからである。

一方、議論や評論は、公の空間に投げかけ(パブリッシュし)、社会全体の(公の)空間でブラッシュアップされる。国家の運営は、公の空間でオープンに議論を行って、その方針を決定するのが基本である。(補足7)

[2]

正当なる分配は、分配の規則は何かという公の議論で決められるだろう。それが、社会への寄与と同じ社会に生を受けた人間の既得権の二つであるとして、それをどう評価しどう足し合わせるかするか。その方針決定には、解析的議論が不可欠である。議論が始まれば、複数の考え方が衝突し、方針はブラッシュアップされるだろう。その議論の場が公という空間の役割である。相撲で言えば土俵である。そして、その議論の積み重ねは、その社会の問題解決能力を育て、対外問題などが生じた時は能力の高い力の基礎となる。

しかし、残念なことに日本では、「和」は自己目的化しており、正当なる分配を議論するよりも、目で見える「横並び」で達成しようとする。

与党の国会議員らは、大臣ポストのバラ巻きで実現し、政党という社会での和を実現しようとする。そこには、公を向いた姿勢など存在しない。国権の最高機関にしてこのような非常にみっともない状況にある。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201708/CK2017080602000109.html 

同じ団地で、周囲の人が国産車に乗っているのなら、「和」の実現を考えて経済的に余裕のある人でもBMWやベンツは避けようとする。(補足8)個の自立して居ない人たちは、孤立とイジメをおそれ、社会で思いのままに振る舞う自由を無くしている。

横並びには“苦手な議論”は不要であり、偽りの平衡点に忍耐を持って立ち止まることで偽りの和が達成できる。「和」とは偽りの和である。その文化により、日本人は精神まで染め上げられている。小学生のランドセル、高校までの制服など、幼少期から極めて高い統一された姿に安心し、周囲に叛かないように教育される。それを明確に指摘したのは、山本七平だろう。

その「和の文化」の下、大金持ちでも質素に生活すること、能力があっても謙虚寡黙に徹する姿勢が、高く評価される。議論をする人間は、横並びから脱して高みを目指す理屈屋として嫌われる。明治の「万機公論に決すべし」は、日本に欠けたところを指摘したのだろう。

一方、文明国では組織がなければ社会は成り立たない。そして、その組織のリーダーや運営者の人選は必要である。自分が適当だと考えても、「和の国」では自薦より他薦が望ましい。その推薦は、「人格」と「能力」を基準になされる。人格者とは「和の社会」に適合した人の意味である。そして、能力は「人格」というブースターがなければ、他者に伝わらない。「能力」は本当の意味での能力ではない。

「人格」は一次元の物差し(高低)で測られる。これまでの「和の文化」での実績と、家柄、人脈、学歴、專門分野での実績などに基いて、周辺の人が作る。その人格という一次元の物差しで測った値が、これまでの所属した分野に関係なく人選の指標となる。

わかり易い例を挙げると、花を活けるのが得意な人が、日本相撲協会の評議員会議長になっていることが、最近の相撲界での事件で知れわたった。議長はテレビでこの事件について話をしているが、説得力は皆無である。法治国家の基本さえわかって居ない。その人は、家柄とその家で磨いた生け花の実績で、高い人格と評価されたのだろう。
http://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20171129-OHT1T50079.html
https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43485858.html

補足:
1)私は、この原因の一つとして日本語が議論に向かない、出来の悪い言語であると考えている。“日本語と日本教について” http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/01/blog-post_18.html “日本語と日本文化について”http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html
2)例えば、日曜の朝の時事放談という番組があるが、そこに出た評論家は必ずと言っていいほど、その日の別の局に出演する。録画を両方で同日(金曜日)に済ませるのだろう。
3)日曜午後のSIIKというお笑い政治番組は、嘗て、勝谷誠彦や橋下徹などの議論で相当面白かった。しかし、自衛隊に命を救われた人が司会者になって以降、お笑い番組になってしまった。不愉快な顔を見たくないので、現在観て居ない。
4)現在もっとも面白いのは、西部邁と伊藤貫両氏の議論であり、youtubeで観ている。右寄りだと意識して観れば面白いのは、3時間番組のチャネル桜の水島社長司会の番組である。社長が人選をするのは当然だとしても、佐藤健志氏ら意見が異る人を出さないのは度量不足だろう。
5)唯一、大衆の刃を矯める力を持った例外は米国である。ブレジンスキー(今年5月死去)の言葉がそれを物語っている。https://blogs.yahoo.co.jp/hetanonanpin/64822106.html 米国程恐ろしい国はない。従って、日本も米国とは喧嘩をしないほうが良い。それを理解しなかった過去の日本のリーダーは、無能であった。
6)何処かで誰かが、米国には日本人と比べて中国人の方が話しが通じるという人が多いと言って居た。
7)森友問題や加計問題には、公という概念に疎い人たちの醜態が隠れている。
8)近くに住んで居ても「和」の満たすグループではない場合、その違いを強調する意味でなされるのが、ネグレクトや誇示的消費である。「和」を考える範囲の外にあると見なされる場合、その境界は憎しみや蔑みの感情で明確に色分けされる。

2017年12月9日土曜日

国債暴落と激高インフレを懸念する専門家と完全否定する専門家

昨日たまたまyoutubeで大前研一氏の動画を観た。そこでは、財政破綻とハイパーインフレの危険が語られていた。https://www.youtube.com/watch?v=qbhrserTfnQ(2015年8月9日公開)

今後も国家は赤字を出し続けるだろうから、格付け会社による日本国債の格下げなどを切っ掛けにして、ハイパーインフレが何時起こっても不思議ではないと語られていた。

大前氏は、その事態に対する準備をすべきだと語っている。個人、特に年金受給者などには、株や不動産などの価値ある資産への預金の移動を勧めている。また、企業などに外債や外国株に投資することを勧めている。(補足1)

これらの発言は、大前氏の本音なのだろうかと疑う。日本の企業に外債や外国株に投資する様に勧めるなど、外国への利益誘導的な発言かもしれない。また、日本に於けるハイパーインフレの危険性を、トルコなどの国と同様に考えているのは、誠に不思議である。尚、高いインフレ率の懸念は、野口悠紀雄氏の持論でもあったと記憶する。

この他、上の動画では日本政府の財政改革の一環として、道州制の導入に言及している。また、移民の導入を解禁して経済を大きくすべきだとも言っている。それらについては補足で筆者の考えを記す。(補足2)

大前氏の動画を見ていた時に、上念司氏の動画のサムネイルが画面横に出てきたので、それを視聴した。そこでは、ハイパーインフレの危険性は全く無いとし、政府は国債を発行して敎育投資や防衛への投資などで経済を刺激し、2%程度のインフレの実現を目指すべきという、大前氏の考えと180度異る議論がなされていた。https://www.youtube.com/watch?v=3mLdQQmStbY

経済を專門とする著名な評論家の間で、このように真っ向から意見が違うのは、日本で経済学が未だまともに発展していないからだろう。因みに、野口悠紀雄氏は東大工学部卒で元官僚、元東大教授の経済学者である。大前研一氏は早大理工学部卒で経営コンサルタント、スタンフォード大経営大学院客員教授などの錚々たる肩書を持つ。国債暴落の危険性を指摘するこの二人は、大学は工学部卒の経済学者・評論家である点も共通している。

一方、国債暴落とか、高いインフレ(ハイパーインフレ)など起こり得ないと解説している評論家に、三橋貴明氏、上念司氏、高橋洋一氏らがいる。国債暴落などあり得ないという三人のうち、二人は経済学部を卒業している。

私自身は殆ど上念司氏や三橋貴明氏の、国債を更に発行をして景気刺激しても、ハイパーインフレにはならないという説を正しいと思っている。以下は上念氏、三橋氏、高橋氏の動画などから学んで、筆者がまとめたものである。

その第一の理由は、日本国債は円で発行されていること、そして日銀が国債価格が急激に低下(長期金利の上昇)する兆候が出れば、直ちに国債を買取るという方針を続けるからである。国債を買い支える限り、国債の価格低下は起こらず、金利上昇も起こらない。

日銀の貸借対照表は膨張するので、円安を心配する人が多いかもしれない。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43424501.html しかし、円安になれば、日本の製造業は国際競争力を持つ。現在、経常収支は黒字であり、外貨を円に換えて国内に持ち込む流れは変わらない。それに加えて、製造業がドルを余計に稼ぐことになれば、外国から持ち込むドルの量がその分増えて、円安を解消することになる。日本は、円安にブレーキが掛かるメカニズムを持っているのである。

国家の貸借対照表(BS)は依然として、米国よりも日本の方が健全である。この点、高橋洋一氏は、日本国政府の収税機能を資産に換算すれば、その健全さが分かると言っている。兎に角、円建てで国債が発行出来る限り、基軸通貨発行国の国債と同程度に安全であると思う。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2017/09/blog-post_22.html

野口悠紀雄氏は、動画で何れ日銀は量的緩和を終了する必要があると、その出口に言及していた。その際、国債を売らなければならないが、そこで暴落するのではないかと言うのである。しかし、米国連銀のように怪しげな住宅ローン債券などへの投資は日銀には無いので、BSの縮小を急ぐ必要は無いと思う。

何年か経過して物価が倍になれば、国債の価値は実質半額になるので、そのまま日銀の資産として持っていても良いと思う。また、物価が上昇しなければ、その場合も国債は健全な資産である。

日銀の緩和政策で要注意なのは、突然且つ急激に予定していたインフレが進行した場合である。それは、日銀当座預金に積み上げられた約400兆円に登る預金が、金融業者などにより株式投資などに大量に廻った場合に起こると思う。その際、株式市場はバブル的になる可能性がある。

資産価値が上昇した部分のいくらかは、消費市場に流れて物価上昇が起こる。それが行き過ぎた場合は、日銀は更にバブルが成長しないように当座預金に付利をつけることや、国債の放出を考えなければならないだろう。それは、日銀の収益に悪影響を及ぼし、経営の悪化を導くのではないだろうか。それは円安懸念の原因になる。日銀は今の株高進行を少し警戒すべきだと思う。

またもう一つ恐ろしいのは、国際関係で異常な事態が生じることであると思うが、それは今回の議論の対象でないので省略する。

(以上は、元理系研究者のメモですので、批判コメント歓迎します。)

補足:

1)外国債の購入を勧めるのは、自説の日本国債暴落を実現したいためと言われても、抗弁できないだろう。米国債は、日本国債以上に危険かもしれない。財務情況は明らかに日本より悪い。 https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43416690.html

2)限られた人たちの考えが、議会等の議論なしに走り抜ける現在の日本政府のような政治体制よりも、大前氏の提案している道州制の方が良いと思う。日本は、知的に優秀、且つ、リーダー的素質を持った人が、国家などの組織のトップになりにくい文化の国である。従って、物事はできるだけ分散的に解決するほうが効率的である。そして中央国家は、防衛とか外交という国家の枠組みをしっかりと構築維持することに専念すべきだと思う。

次に、「移民解禁は当然」という大前氏の意見には唖然とした。日本経済は日本人のためにあり、外国人の為にあるのではない。人手不足は、デジタル技術の導入などに設備投資をして、労働生産性の向上で対応すべきであると思う。外国人の流入は、優秀で日本の為になる人に限るべきである。移民を安価な労働者として入れるのは、労働生産性を高める機会を逸することになる。

2017年12月7日木曜日

放送法64条が合憲だとする最高裁判決について

1)放送法第64条は、「テレビを視聴可能な状態で設置したものは、NHKと視聴契約をしなければならない」と規定している。今回、最高裁は、その強制契約が合憲であると判断した。

一方、日本国憲法は、憲法13条(個人の尊厳)と憲法29条(財産権)で契約の自由を保障している。これら憲法の条文は、何れも「公共の福祉に反しない限り」と枠をはめている。従って、今回の最高裁判決は、テレビを設置しながらNHKと視聴契約をしないことは、公共の福祉に反する行為であるということを意味する。

法律面からNHKの公共性を裏打ちするように、放送法第3節にはNHKの経営委員会の設置、委員の選定、職務等が記載されているので、法的には今回の判決は整合性があるようだ。この点、昨日の記事は誤っていることを認めざるを得ない。(補足1)

つまり、NHKの放送内容とか、国民の知る権利を確保する上でNHKが不可欠かどうかなどは、最高裁の判断することではないということである。法的な整合性のみ最高裁は判断するのであり、NHKの受信料のシステムが時代錯誤的であるとすれば、それを改めなかったのは立法府の怠慢であり、その修正を指示することは最高裁の仕事ではないということだろう。

2)受信者が契約を拒否した場合、NHK側は「この契約は、契約の申し込みをNHKが行った時に成立し、支払うべき受信料はテレビを設置したときに遡る。」とこの放送法64条を解釈している。一方今回の判決では、NHKが裁判を起こして勝訴した時に視聴契約は成立し、「受信料支払の義務は、テレビ設置の時点に遡る」としている。

このNHKが裁判をおこして勝訴することで契約成立と見做すという点を取り上げ、NHKが全てのテレビ設置済の未契約者を対象に裁判を起こすことは困難であるとして、NHKは敗訴したのだと宣伝する「不払い運動の指導者」もいる。https://www.youtube.com/watch?v=80J1hzVRXdk

しかし、スタンプを押すように、被告欄に名前を書くだけで訴状が出来上がるのなら、それほど困難ではないだろう。今後、NHKの現状やその受信料のあり方を不適当と考えて居られる方々は、その運動において別の戦略を取るべきだと思う。つまり、相手にすべきは総務省及び国会であり、最終的には放送法を改訂させる方向を考えるべきだろう。

放送内容への干渉は経営委員会で可能だが、有識者として選任されるのは異なった分野での成功者が多く、期待薄である。

3)この情報化社会にあって、NHKが未だに国民の知る権利を実現するための不可欠な存在だというのは、時代錯誤の極限だと私は思う。現在、我々国民が知る権利を十分活用しえないのは、情報が提供されないからではない。何が本物の情報であり何が作為的に流された情報であるかの識別方法を持たないことである。その点に関して、後で述べる様にNHKの報道は、知る権利を侵害する側である。

繰り返しになるが、各種情報をしる上でNHKに頼る必要は殆どない。現状では、国会中継などを除いて、NHKは何の役割も果たしていない。公共放送としての役割は、現在のNHKの五分の一で足りるのであり、その意味では視聴料は現在の五分の一以下で良い筈である。

国会中継や総理大臣談話などの公共放送として重要な部分には、例えば、NHKの一つのチャンネルを完全に使い、その放送の経費のみをテレビ設置税として徴収すれば良い。その税の根拠は、丁度自動車税と相似であると思う。公共放送を受信する上で、視聴料を支払わなければならないという論理は、私には理解不能である。

それ以外の娯楽番組は、民営化して視聴料を徴収するなり、民間などからスポンサーを受け入れるなりすればよい。前者の方法をとるのなら、未契約者のテレビ画面にはスクランブルをかければ済むことである。現状NHKは、立法府や行政府の怠慢により、抱き合わせ商法で金を稼いでいるといえる。今回最高裁は、その行為に免罪符をあたえたことになる。

つまり、三権夫々の立場から、NHKの現状を擁護しているのである。

4)NHKの放送内容であるが、公共放送を標榜しながらその質や姿勢は国民の利益に合致しているとは思えない。例えば、1996年に放映した「51年目の戦争責任」では、慰安婦募集に関連して軍が出した通達文を改竄して紹介し、不正な方法を用いてでも慰安婦を調達せよと命じていた証拠を突き止めたとして、その非道を糾弾してみせた。http://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/4d3e5b172db4f6f8f032777a918177ba(補足1)

NHK受信料の契約を渋る多くの人達は、この国益に反するNHKの“公共放送”に不満を持っているのである。そのNHKの姿勢が原因なのか結果なのか分からないが、近い過去(自身或いは親)に朝鮮半島などにルーツを持つ人を多く採用していると聞くが、それも国益に反する放送を生む土壌となっていると思う。その根拠は、以前書いたブログ記事をご覧ください。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43060935.html

補足:
1)昨日の記事では、一方的に最高裁の判断を契約の自由を根拠に間違っているとしたが、「公共放送が国家の機能として必要である」と考えられれば、放送法64条の規定は合憲ということになる。現在のNHKの実態が、その役割を果たしているかどうかの審査や、現在のような大きな組織が必要かどうか、視聴料金が高すぎるのではないか、などの判断や適正化への指導などは、総務省や経営委員会の仕事である。
2)慰安婦問題については、朴裕河氏の「帝国の慰安婦」(日本語訳)が公平な視点でかかれている。朴裕河氏と思われる人のブログ記事を私が訳したものを引用しておく。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2017/07/blog-post_15.html (17:00、補足1の加筆)

2017年12月6日水曜日

最高裁は日本政治を劣悪にした原因の一つである(削除予定)

追補:

NHKの視聴料の問題は、最高裁の他に総務省(NHKの指導)や内閣(経営委員の選任)も責任があると思います。その点について、次の記事に書きます。

本文:
最高裁は三権の一つの役割を全く果たさない。それは戦後の日本政治を混乱に陥れた。例えば:
自衛隊が違憲であることは、日本語がまともな言語なら憲法9条の条文で明らかである。その判断が最高裁により示されなかった為に、日本は国家の体をなさないようになった。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2017/10/blog-post_24.html

今年の安倍総理による理由なき解散も、最高裁がまともな判断をしなかった結果である。国権の最高機関である筈の国会を、行政の長がなんの理由も無く、スクラップにできるのである。これを違憲としなかったのは、最高裁は単なる行政の下部組織であり、専門家としてのプライドよりも自分の利益を優先するインチキ法律家が判事になっていることを示している。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2017/10/blog-post_30.html

今回、NHKの受信料制度が、憲法が保障する「契約の自由」に反するかどうかが争われた訴訟の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は6日、この制度を「合憲」とする初判断を示した。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171206-00000058-mai-soci

下級審の「受信料制度は、公共の福祉に適合し必要性が認められる」という判断が追認されたことになる。

NHKの受信料制度は放送法64条を根拠にする。放送法第64条:協会の放送を受信することの出来る受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。(以下省略)

ここで重要なのは、「この契約は、契約の申し込みをNHKが行った時に成立し、支払うべき受信料はテレビを設置したときに遡る。」と言うNHKの解釈であり、これら解釈も(テレビのニュースでは)追認されたと放送していた。

追補:12/7/am7, 前半の契約の成立の部分は、今朝12/7の中日新聞によれば間違いです。受信契約の一方的な成立は、裁判でのNHK側の勝訴によって確定する。その時の料金請求はテレビ設置の時点まで遡る。}

最近、櫻井よしこさんがyoutube動画上でこの件を議論している。放送法64条とNHKの受信料取り立ての問題点は、そこに全て出ている。https://www.youtube.com/watch?v=q2N4p9SX

「契約」は、当事者双方の合意に基づく行為である。その日本語の解釈まで曲げて、このNHKの略奪行為を法的に追認したのは、違憲とした場合の混乱を考えた行政的配慮だろう。日本の最高裁は、憲法解釈を全て行政に阿る姿勢で行っている。

重ねて言うが、日本は三権分立の国ではない。最高裁は、行政の下の役所に過ぎない。最高裁長官は、専門家のプライドよりも自分の利益を優先する、他の官僚たちと同じく利己主義者である。

2017年12月5日火曜日

フラットな社会に安定国家は成立しない(国家は、高貴な階層の人間を必要とする)

1)現在の社会はフラットであると言われる。総理大臣も一介のサラリーマンも社会的には差はない。言葉も同じであり、趣味も何もかも大してかわらない。その傾向は、米国にも出現しており、大統領の言葉と下町の言葉に大差ないことが話題になっている。

二年程前のあるテレビ番組(Sokomade I.I.)で、左翼のある女性(YT)が、「天皇ってかわいそうだよね」と発言した。人権も自由もないという類のことをその理由として喋っていた。しかし、それは根本的に間違っている。日本人の中で天皇は特別な存在であり、天皇には我々庶民が俗っぽく考える自由な振る舞いはあり得ない。そして、天皇は我々庶民には超えられない天井の上に存在し、そもそも世界が違うのである。

西洋にはnoblesse obligeという言葉がある。このフランス語は、「高貴さは(義務を)強制する」と訳される。上記の発言は、特別に高貴な天皇としてのobligeを不自由と感じる貧しい心が生んだのである。自分の思考における不自由がもたらした発言であることに気付かないのは、その女の人が完全に左翼信仰に染まっているということである。(補足1)

その“noblesse oblige”(英語でnoble obligationという)を感じる人が、日本にも世界にも殆ど居なくなった。貴族は通常金持ちではあるが、金持ちということは貴族を意味しない。貴族は金銭に支配されないという点で、経済的に豊かな人達は貴族の候補ではある。“貴族階層”の中の本当の貴族は、有史以来各種の俗な欲望以外を(も)考え追求してきた人たちである。その階層は、貧困層が混沌の中に停滞している中で貴族の文化を形成し、その中から近代文明が生まれた。

しかし、現在の金持ちの殆ど全ては、俗世界の経済活動にむしろ積極的であり、金に支配されている。それは、現代の日本社会(多分世界も)が単一の階層からなるフラットな社会になり、貴族と貴族文化が存在しないからだろう。(補足2)

数年前、ある新興金持ちのM氏が、「金儲けは悪いことですか」と喋ったテレビの画面が今でも目に浮かぶ。現在の金持ち達は、貴族階級を形成できずに巨大になり、世界の文化も何もかも破壊する最前線を担うことになっているように思える。そこから、調和的な新しい社会を構築する処方箋を人類は未だみつけてはいない。

2)太古の昔、「ヒト」は野生の動物であった。そこから社会を造って生きる「人間」となったプロセスを、再構成するシミュレーションは、社会の今後を考える上で参考になるだろう。

ヒトが人間になるまでに得た最も本質的なものは、言葉である。(補足3)その言葉は、社会構造の複雑化(発展)に伴って、より複雑(高度)な言語となっていく。つまり、社会と言語が密接に関連しながら発展し、そこに文化が生じる。例えば、武士の社会には武士の言葉があり、そして武士の文化が生まれる。また、農民には農民の言葉があり、農民の文化があっただろう。更に女性も、“部分社会”をつくり、特有の言葉や文字もあった。勿論、用事があれば話をするわけだから、言葉の構造や用法には共通の部分が多いだろう。

それらの部分社会の地位に自然と上下ができるが、それを階層と呼ぶことができる。例えば、武士の文化は、国(その社会集団)を守り安定化するために適したものだっただろう。国を守ることが、全ての住人の生存に必須であるので、武士階級は高い地位を自然に得たと思う。そして、それら各階層の文化は、社会を分業して担うのに重要な役割を果たした筈である。

我々は、それぞれの階層で身につけた知識や価値観、つまり、武士階級で言えば戦士としての勇気や、対面した相手に対する端正さなどを、身に纏う服の様に考えがちである。しかし、その喩えは部分的にしか正しいとは言えないだろう。服なら着替えが可能だが、その武士としての性質は、着替え不可能な皮膚の様なものであると思う。従って、成人した武士、農民、職人、商人は全て「別種の人間」といえるだろう。

逆に、人間社会で育た無かった野生のヒト、例えば狼に育てられ、狼の群れの掟の中で育ったヒトは、人間社会の基本を身につけることは最早不可能であり、いかに学習を重ねても服を着る様には人間にはなれない。例えば:http://karapaia.com/archives/52147667.html

上記の事実が示す重要なことは、「誕生間もないヒトは高度に可塑的な粘土のようなものであり、それを人或いは人間に成型するのは、社会の文化でありそれを身につけている両親や周囲の人達である」ということである。もし、適当な時期に相応しい形に成型しなければ、社会で生きる人間にはなれず、理解不能な無秩序な、或いは、奇異なヒトに成長するだろう。

この事実は少年犯罪における保護観察処分などの制度には、深刻な欠陥が存在することを示唆している。そして、異る文化圏にある国の間では、本当の意味で言葉が通じることは期待できないことを示している。言葉は翻訳できるのだが、通じないのである。また、同じ国でも、過去の歴史の出来事を現在の言葉や感覚で理解することには、本質的な壁が存在することを示している。(補足4)

3)ほとんどの日本国民にとって、現在最も大きな運命共同体は日本国家である。それは殆どどの国でも同じだろう。全ては国家あってのことである。その国家の複雑な構造の中で、人々は分業を行ってそれを支え、生きている。 

  その安定と繁栄は、各構造の力で決まる(勿論、ある弱い構造が全体を決める場合もある)。あらゆる構造を担う人材の育成、及び適材適所の配布は、国家の繁栄と安定に必須である。上記は当たり前の論理だが、ただ「人材の育成」には特別の意味を持たせたい。それは、人をパソコンに例えて話をすれば、単に各分野に相応しいソフトウエアをインストールしなければならないと言っているのではない。パソコンの基本設計から、そのインストールソフトを意識して、行わなければならないのである。  

特に高度な専門職、各構造の整合的な働きを実現する総合職(=国家の中枢を担う人材)などは、昔の貴族的な特別な教育が必要だと思う。それは、敎育現場の環境だけでなく、その中で生まれ育つ社会環境から、それら人材の育成に相応しい環境が必要だろうと思う。つまり、現代でも国家の中枢を担うような人材の育成には、そのための特別な階層或いは”部分社会”(相応に閉鎖的な社会)が必要なのではないか。  

最初に述べた皇室もその代表かと思う。天皇はその家系に生まれるという意味で、生まれながらに天皇としての準備ができており、その後成人までの環境は最も高貴な人を作り上げる為に必須の役割を果たしていると思う。また、日本の政界などでも、一国の宰相となり相応の活躍ができるのには、素材としての能力(上の言葉では可塑性)だけでは不可能だろう。 

フラットな世界では、何処で切り取っても同じ社会であり、そこで家族だけが特別であっても、国家を担うレベルの宰相は出来上がらない可能性がたかい。また、それを支える知的集団を、他国を真似て造ってみても、俄には機能しないだろう。  

我が国と比較して、高度な国家中枢を作る準備を整えた国がある。それらは米国や英国のなどの西欧諸国、それに中国である。中国は共産党という階層を作り、その中から人材育成をしている。ただし、共産主義思想は権力者による国家統治という考えと矛盾するので、共産党の階層が権力者的な国家の宰相を育てる環境となり得るかどうか今一つわからない。  

米国の場合、政治貴族は大金持ちの企業経営者とその周囲に一定の閉鎖性のある社会を作っており、政治を支配する階層となっている。エール大学などのアイビーリーグが作るエリート層(その中の特別な組織、スカル&ボーンズなど)などがそれである。その構造の中にCFR(外交問題評議会)やCSIS(戦略国際問題研究所)が組み込まれているのだろう。英米政府がこれまで国家をうまく操縦してきた様に見えるのは、そのような社会の構造があったからであり、表向きに標榜している民主政の所為では無いと思う。  

その民主という表の思想と裏の支配構造との暗黙の了解が崩れ、民主が前面に出かかっているのが現在のトランプ政権の成立のプロセスの可能性がある。それを揺り戻す動きが、政権内外で起こっていると思う。 

(21:50編集あり;理系人間のメモですので、批判等歓迎します。)

補足:

1)人間の創った壮大な文明における“noblesse oblige”を考えた時、obligeは下層或いは大多数からの視点での描写である。その強制(oblige, obligation)という部分は、高貴な上層の言葉を用いれば、誇り高き世界における自由ということになる。上記YT氏の言葉は、例えば、「哲学者って可愛そうね。一生頭を使って苦しんでいる。」と言う粗野な人の発言と似ている。その“強制”が高貴な身分と同居することを知らず、下層の言葉で不自由として抽出したのに気がついていないのである。それは、下層と上層の間での、無益な言葉のやり取りである。その下層の視点で壮大な文明社会を体系化したのが、左翼思想である。その視点は既にその思想の限界を示唆している。
2)高貴さは、全体として貧困を感じる社会の中でのみ維持されるのだろう。経済的豊かさを温度の上昇と考えれば、現在の情況が分かり易く説明できる。つまり、現在の社会は、多くの分子(人間)が結合して有機体(社会)をつくっていても、温度上昇により分子がバラバラになり構造が破壊された情況に近いのである。更に温度が上昇すれば、原子状態から素粒子状態にまでなる。それは、人間社会に話を戻せば、人格破壊を意味するのである。
3)通常、日本語で「もの」は、物か者である。“言葉は喋るときにつかうもの”という「もの」の使い方に自信がない。
4)この文章を理解した後に、ルトワックの「戦争にチャンスを与えよ」と言う本の題名、或いは、ブレジンスキーの「政治に目覚めてしまった百万人を説得するよりも、殺す方が簡単である」という講演を聞けば、その人たちの考えが理解出来るかもしれない。ブレジンスキーの言葉:https://blogs.yahoo.co.jp/hetanonanpin/64822106.html

2017年12月2日土曜日

キッシンジャー氏は生まれながらの反日親中か?

1)昨日、政治評論家の加藤清隆氏のyoutube動画を観た。そこでは、トランプ大統領の知恵袋的なキッシンジャー氏に対する批判が語られていた。キッシンジャーは、米国において中国の利益を代表する人物であると語っている。https://www.youtube.com/watch?v=aSlZ_aiC4OU

キッシンジャーが10月にホワイトハウスに招かれた際、米中の取引で北朝鮮を平和裏に治める案を吹き込んだ可能性があるという。その内容はニューズウイーク紙の11/28日号に、中国専門家のBill Powell氏の記事として書かれているという。

それによれば:1.中国は全ての手段を用いて金正恩に核計画を諦めさせる;2.米国が検証し納得する;3.米国と北朝鮮を正式に承認し、経済援助を行う;4.在韓米軍は撤退する、の4項目であるという。(補足1)

この4番目は、日本にとって最悪のシナリオとなり得る。韓国にとっても最悪だと、加藤氏は言っているが、現韓国大統領にとっては織り込み済みのシナリオかと私は思う。

また加藤氏は、「トランプ大統領はキッシンジャーの意見に従ったために、米中首脳会談でも米国の主張が出来なかった。」更に、「キッシンジャーは中国の利益を代弁し、“日本に未来永劫核武装を許さない”という姿勢を米国政府に持ち込んでいる」と言っている。(「」中の文は話の内容であり、語りをそのまま書いたのではありません。)

その上で、キッシンジャーは「日本にとっては有害な人物と言う事もできる」と語っている。その様に語るのなら、その理由も具体的に語るべきである。「虫が好かない」レベルの「キッシンジャーは反日である」という議論は、有害無益であると私は思う。

2)キッシンジャーとともに、米国の国際戦略に重要な役割を果たした人に、ブレジンスキーがいた。あの「ひよわな花・日本」を書いた人である。今年死亡したらしいが、そのニュースが大きく報道されなかったことは、日本が政治と報道の両面で後進国であることを示している。

北野幸伯氏が自身のメルマガ「ロシア政治経済ジャーナル」にブレジンスキーの死去にふれている。そこで、伊藤貫氏(補足2)の著書「中国の核が世界を制す」の中の「ブレジンスキーもキッシンジャーも反日親中である」を引用し、更に、つぎの様に書いている。

キッシンジャーと同様の親中外交論を主張してきたブレジンスキーは、「中国こそは、アジアにおける”アメリカの自然な同盟国”と言ってよい。アメリカの国防政策は、日本政府の行動の自由を拘束する役割を務めている。この地域で優越した地位にある中国こそ、アメリカの東アジア外交の基盤となる国だ。」と述べているというのである。

一方、「この二人には違いもある。ブレジンスキーは日本人を小馬鹿にしているが、日本人を憎悪してはいない。それに比べてキッシンジャーは、日本人に対して鋭い敵意と嫌悪感抱いている。」とも書かれているという。
https://news.goo.ne.jp/article/mag2/world/mag2-250961

ところで、何故この二人の米国外交の中心的人物が日本軽視の戦略論を展開してきたのか? 私は、それを語らずして“誰それは日本に有害な人物である”と言うべきではないと思う。上記北野幸伯氏の文章では、その反日親中は、中国が彼ら二人の生い立ちから調べ上げ、プライドの高い二人の特性を利用して取り込んだ結果だと書いている。

それもその通りだろうが、キッシンジャーの反日姿勢(憎悪感を持つ)について、もう少し別の背景があるように思うので、それを書いてみたい。

3)加藤氏の話にある通り、反日キッシンジャーは“日本には未来永劫核武装はさせない”と思っているだろう。しかし、キッシンジャーは“日本も核武装をすべきである”と考えた時期があったと、或る本に書かれている。片岡哲哉著「核武装なき改憲は国を滅ぼす」である。そのことは既にブログで紹介した。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43129251.html

日本が佐藤栄作政権下であり、米国はニクソン政権下であった。そのニクソン政権の安全保障担当の補佐官がキッシンジャーだった。私の理解したところでは、米国が自国のアジア戦略において、何処に重点を置くかを考えた時、第一に日本を考えた。つまり、日本を核武装した米国の同盟国にすることを考えた。しかしその時、無能な佐藤総理が、日本はそのような役割はできないと断ったのだった。その結果、未来永劫日本国民は、中国、ロシア、米国、更に朝鮮の核の脅威に怯えることになったのである。そして、中国を米国のアジア戦略のパートナーと考えることになったのだろう。(補足3)

更に日米繊維摩擦の際、ニクソン大統領は佐藤総理に何とかして欲しいと対策を依頼した。沖縄が交渉の末に1972年5月に返還されたのだが、そのような時期だけにニクソンは佐藤が合意に基いて有効な手を打ってくれると思っていたが、佐藤は何もしなかったという。そこで、ニクソンは烈火のごとく「ジャップの裏切り」と怒ったという。佐藤は、愚かにも日本のもの(沖縄)は返還されて当然だと考えたのだと、書かれている。(ウイキペディア参照)(補足4)

つまり、そのような歴史的背景を念頭において、キッシンジャーの対日対中姿勢を考えなければならないと思うのである。「戦略なき政府は国を滅ぼす」である。

補足:
1)上記4項目とティラーソン国務長官の「四つのNO」とは関連があるという。1.北朝鮮の政権交代を望まない;2.北朝鮮の政権は滅ぼさない;3.半島の統一は加速させない;4.米軍を38度線以北に派遣しない、は北朝鮮の主張を取り込んだもので、これも出処はキッシンジャーではないかと加藤氏は言っている。
2)訂正:「核武装なき改憲は国を滅ぼす」の著者を伊藤貫氏と書いた事があるかもしれません。正しくは片岡哲哉氏です。
3)上記片岡哲哉著の本の中に、ニクソン政権の時、佐藤政権の日本に核武装を打診した旨の詳しい記述がある。その時の安全保障補佐官はキッシンジャーである。「北朝鮮の核武装と日本の核武装論」https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42740249.html
4)「核武装なき改憲は国を滅ぼす」では、その怒ったニクソンの下に派遣されたのが田中角栄であり、田中は米国の駐留経費に金をつぎ込むことで解決したと書かれている。つまり、戦略もなにもなく、金で解決するという日米安保体制が出来上がったと書かれている。米国が、戦略的同盟の意志を無くすのは当然かもしれない。

2017年11月29日水曜日

62年間安全保障に関する政綱を実現出来なかった自民党は解党すべきである

1955年二つの政党の合併により自由民主党が立党された。その時の国民への約束として定められた政策目標が自民党の政綱である。 https://www.jimin.jp/aboutus/declaration/100285.html

その第6項目に、「独立体制の整備」がある。

平和主義、民主主義および基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う。世界の平和と国家の独立及び国民の自由を保護するため、集団安全保障体制の下、国力と国情に相応した自衛軍備を整え、駐留外国軍隊の撤退に備える。

佐藤健志氏は、改訂後の日米安保条約には、どちらか一方が解消の意思を示してから一年後、安保条約は消滅することを考え、遅きに失した感があるものの、その準備、つまり駐留外国軍隊の撤退に急ぎ備えるべきであると言って居る。 https://www.youtube.com/watch?v=FpGVxVgHCp0&t=955s

しかし、62年前から憲法改正と自衛軍保持を国家の必須要件と考えてきた政党が、そして、ほとんどの時間を与党として日本政治に君臨してきた自民党が、なぜその国民に対する約束を守らなかったのか?

もし国民の同意など得られそうにないというのなら、そして、その政綱が尚正しい方向だと思うのなら、一旦解党して自分たちの国民を説得する能力の無さ、無能さを恥じて、政治家をやめるべきではないのか。

高校や大学の授業でも、教師が本当に理解できていないことは、生徒に伝えられない。しかし、教師が本当に理解しているのなら、解説の方法を何通りか変えることでなんとか伝達できるものである。

つまり、自民党の政治家が、政綱の上記項目について62年間かかっても国民の理解を得られないとしたら、それは借りものの言葉を並べ立てて、政綱なるものにつくり上げたからであり、その本当の意味をかれら自民党議員も理解していないのだ。

その程度の国会議員からなる政党なら、62年間幻の政策を看板にしてきた大罪を、解党と政治家の辞任という形で償うべきである。

自前の立派な毛布を手配しているという空約束のリーダーを信じて、国民は借り物の毛布で長期間暖をとってきた。そのため、その毛布が借り物だったことも、外の寒さがどの程度であるかということも、今や判らなくなって居るのだ。

一旦裸になって、幾らかの凍死者をだしても、外の空気に触れるべきかもしれない。それを大寒波の来る前にやっておけば、自前の毛布を手配するべきだという空気が湧き上がり、ふさわしいリーダーがその中で選ばれるだろう。

日本の総理大臣は、核の脅威に対応できる安保体制を「具体的」に目指すべき

北朝鮮は大陸間弾道ミサイルの実験を今日未明に行った。安倍総理は、「政府としてはミサイルの動きを完全に把握し、危機管理に万全の態勢をとった」と強調した。そして、国際社会に制裁等の必要性を指摘し、「我が国はいかなる挑発行為にも屈することなく、圧力を最大限まで高めていく。引き続き、強固な日米同盟のもと、高度の警戒態勢を維持し、国民の命と平和な暮らしを守り抜く」と述べた。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171129-00000013-asahi-int

言葉尻を捉えるようだが、ミサイルの動きを完全に把握することが、何故危機管理に万全の態勢を採ったことになるのか、さっぱり分からない。用意万端、迎撃ミサイルを配備しても、そんなもので撃ち落とせるかどうかは運次第である。迎撃システムは抑止力にはならない。米国からイージスアショアを買うなんて補完的対策でしかない。

日本政府としては、国際社会と米国を頼みにするという表明以外に何も無いようだ。彼ら西欧人は、日本の上記のような言葉を聞いた時、すぐに「God helps those who help themselves」という言葉が頭に浮かぶだろう。そして、日本も北朝鮮の様に核兵器保持を始めることになっては大変だ。ここは、日本に調子を合わせて、「北朝鮮の核兵器保時を断固ゆるしてはならない。その為にあらゆる角度からの国際協調で、北朝鮮に圧力をかけるべきだ」と言って、日本の“国際協調とやらの音頭”に唱和しよう」というのが、本音だろう。

核兵器の脅威から日本を守るには、核兵器による抑止力しかない。迎撃ミサイルを持っても、電磁パルス攻撃には対抗できないし、単弾頭ミサイルや多くのミサイルの同時発射などを考えると、完全な防御は日本のGDP全てを費やしても無理だろう。ギャングのマシンガンに対抗するために、防弾チョッキや盾をもって対抗するようなものだ。

しかし、現在の米国の支配層(その番頭役が、キッシンジャーやCSISなどの戦略機関)は、北朝鮮の核兵器を容認しても、日本の核兵器は容認しないだろうと考えられている。そのような日米関係では、独自核武装は無理だろう。しかし、北朝鮮や統一朝鮮が核兵器を保持して、日本の最大の敵国となる環境には日本は耐えられない筈である。

日本の総理大臣たる者、それをどう避けるのか、具体的に模索すべきである。今回、折角北朝鮮がその機会を呉れているのだから、国際協調で北朝鮮に圧力をかけるための音頭を取るという類の馬鹿げたことよりも、日本に対して米国が持つ同盟の意志をこちらも強い意思を持って、確認すべきである。その第一段階として、例えば北朝鮮が核兵器の小型化と中距離弾道ミサイルへの搭載が確認された時点で、米国が日本において核兵器の共有に応じるという文書(安全保障条約の付則)に両首脳が署名するなどが考えられる。

更に、オーストラリアなど環太平洋諸国を対象にNATOと同じような条約に発展させることも考えられる。この種の考え(太平洋安全保障条約)には米国は反対であった。しかし、日本は「今回の事態を含めて現在の東アジア情況は、地域の安保体制を根本的に再考する時期だ」と表明すべきであると思う。

勿論、その件だけを考えて、イエスとノーの間の議論では拉致があかない。そこで、少なくとも日本には広い選択肢があることを米国にも示すべきである。つまり、ロシアとの北方千島領域での大規模な経済協力構想、更に中国との一帯一路構想への積極的関与などである。それらは、日本が独立国であり様々な選択肢を考えているという米国や世界各国に対するメッセージになると思う。

繰り返しになるが、現在の状況で、「政府としてはミサイルの動きを完全に把握し、危機管理に万全の態勢をとった」とか、「強固な日米同盟のもと、高度の警戒態勢を維持し、国民の命と平和な暮らしを守り抜く」というだけでは、日本国の総理としては不十分だと思う。また、そのような議論が国会で発生しないということは、日本の国会はまともな知性のあつまりだとは思えない。総理には、出来れば独立国としての姿勢を示しうる人物に、少なくともそれを目指してその出発点に立てる人がなるべきである。(午後3時40分編集)

2017年11月28日火曜日

日馬富士の暴行事件:相撲協会は刑事事件をもみ消すな

日馬富士が貴ノ岩に暴行した事件で、日本相撲協会は独自調査をしたいようだ。危機管理委員会というのがあるそうで、今回の事件を相撲協会の危機と捉え、その対策を練るらしい。http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3223316.html

しかし、障害事件の捜査や調査は警察が行い、司法が犯罪性の有無と、それがあれば犯人の量刑を判断することになる。それ以外が独自調査するのは、警察の依頼が無いのなら、警察に対する干渉(妨害)になり慎むべきである。相撲協会は何故、その様に考えられないのか不思議である。

この事件は、仕事がオフの時間帯に、外で起こったことである。関与したのが相撲協会に所属する人間である以外は、本来相撲協会とは直接的には無関係な事件である。その種の事件が起これば、相撲協会が打撃を受けるだろうが、起きてしまった事件はどうしようもない。

相撲協会は、関係者の処分を何れ検討するだろう。また、力士の教育プログラムなどを、事件を参考に再検討したいかもしれない。そのためには、事件の詳細が必要だろう。しかし、それは司法の判断が出た後に、司法機関から情報提供を受ければ良い。

また、その事件に関する相撲協会の調査に協力しないとして、貴乃花親方を叱責するような発言を、横綱審議委員会の北村とかいう委員長がしていた。これも、全くおかしい。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171127-00000223-sph-spo

繰り返しになるが、刑事事件の捜査は警察の仕事であり、相撲協会の仕事ではない。横綱審議委員会が日馬富士の処分などを議論して、相撲協会に進言するのは、警察が捜査し、司法が判断した後であるべきだ。その原則に沿って、第三者の聞き取り調査を拒否している貴乃花親方を叱責するのは、行政と司法の基本をわきまえて居ない。

これは想像だが、相撲協会は事件の詳細を警察より早く知り、現場にいたモンゴル出身の力士たちに口裏を合わさせて、事件を小さく治めたいのだろう。それは、警察への妨害行為であり、法の下の平等を無視したとんでもない行為である。

大相撲は国技だという法的根拠はない。仮に国技だとしても、日本相撲協会は治外法権を持つ筈はない。この件に関する日本相撲協会や横綱審議委員らの騒ぎ方は、無知と思い上がりが原因である。

2017年11月25日土曜日

世界の宇宙旅行計画とロケットの性能&アポロ計画との比較

1)BBCニュースによると、2016年の宇宙事業全体の規模は、金額で約36兆円だったという。その大半(75%)は現在私企業が行っている。http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-41383244

利用目的としては、通信、偵察、気象など本来政府が行うべきインフラ的なものが大きいだろう。更に、各種実験や天文学的観測などもあるが、最も大きな影の目的は軍事だろう。(補足1)私企業と言っても、政府の支援があってこそ可能なのであり、実態は私企業としての完全な自立を前提としない官民連携事業だろう。

しかし、上記考えに真っ向からチャレンジする計画がある。それは民間人を対象にした宇宙旅行ビジネスである。それは或いは影の目標を隠すための隠れ蓑かもしれない。兎に角、すでに数社が計画を発表しており、2-3年の内に民間人の宇宙旅行出発のニュースが世界に配信されるかもしれない。

尚、国際宇宙ステーション(ISS)を利用した宇宙飛行は既に、億万長者数名が体験しているという。ロシアの宇宙ロケットで従来の宇宙飛行士のように訓練をして、ISSに滞在する。費用として数十億円支払ったらしいが、これはビジネスと従来型の国営宇宙開発の中間的性質のものだろう。日本の代理店はスペーストラベル社である。http://spacetravel.jp/tours/orbital/

以下、民間人を対象にした宇宙旅行ビジネスを紹介する。

① 南アフリカ系の起業家イーロン・マスクのスペースX社(米国)は、火星移住計画構想を発表して話題になった。https://matome.naver.jp/odai/2135409072033199001また同社は、2018年中に月周辺に2名を送る計画だという。http://www.bbc.com/japanese/39111989

どうもこの会社の計画は過大宣伝というか、話題になることだけを狙っているような気がする。まともな理系の感覚を持った人間は、火星移住計画が21世紀前半に実行可能であるとは決して考えないだろう。また、月周辺への宇宙旅行は、NASAの協力で可能になったと書かれている。従って、月周回旅行が実現できないときに、NASAから十分な協力がなかったと言うつもりだろう。(補足2)

尚、別のニュースでは、「スペースXのイーロン・マスクCEOは野心的な期限を設定しつつもそれを守らないことで知られる」と書かれている。https://www.cnn.co.jp/fringe/35108421.html

② 一方、アマゾンのCEOで富豪世界一を争うジェフ・ベゾスのブルー・オリジン社(米国)も宇宙旅行を2019年4月までに実現する計画である。(すぐ上の①のサイト参照)100kmを超える宇宙空間に人を運び、頂上付近で弾道軌道に移り、無重力状態などを体験させたのち、帰還するという。6人ひと組みで宇宙に向かうという。運賃一人当たり25万ドル合計150万ドルでは、採算がとれないだろうが、最初の試みとしては理解できる。 http://sorae.jp/030201/2016_03_13_bo.html

③ 英国のコングリマットであるヴァージン・グループは、宇宙旅行のためのロケット(宇宙船)SS2を開発し、高度100kmを超える宇宙空間(補足3)への旅行の予約を取っている。料金は20万ドルで、名簿には日本人の名前(平松庚三、山崎大地ら)もある。SS2はグライダーに似た形を持ち、母船から発射されて滑空で帰還すると考えられる。(ウイキペディア参照

最初の旅行は、2018年末までに実現する予定らしい。これも、6人一組みで宇宙に向かうそうである。日本の代理店もあるので、関心のある方は、以下のサイトを見て欲しい。http://www.club-t.com/space/

尚、日本の私企業にこの種の野心的な試みがない。日本の企業の生命力というか発展する力の限界を感じ、ちょっと残念である。堀江貴文氏のチャレンジがあるが、宇宙ビジネスへの参加の試みはまだ非常に低いレベルにある。

2)ロケットの性能と月旅行の可能性:

以下に用いる略号をリストします。 :低高度地球周回軌道LCO;静止トランスファー軌道:GTO;RLG=LCOへの打上可能重量とGTOへの打上可能重量の比

スペースX社は、国際宇宙ステーションへの補給に自社の「ファルコン9」ロケット(直径3.66m、高さ70m)を使っているので、宇宙開発には実績がある。このロケットは中規模二段ロケットで、打ち上げ後に垂直着陸で帰還し、再利用可能なことで話題になった。LCOには28トン、GTO(補足4)には使い捨ての場合8.3トン、再利用する場合は5.3トン運ぶことが其々可能である。

一方、ブルー・オリジン社は「ニュー・シェパード」や「ニュー・グレン」といったロケット打ち上げシステムを開発している。これらも垂直着陸機能を持つと言われ、再利用によりコスト低減を図る。着陸帰還するのは第一段目である。ニュー・グレンは大型ロケット(直径7m,高さ95m)で、LCOに45トン、GTOに16トン運ぶことが可能だと公表されている。http://sorae.jp/030201/2017_03_08_glenn.html

SS2は既に述べたように、滑空で帰還すると思われるが、月旅行などを対象としていないので、ここで比較の対象にはしない。また、宇宙旅行のサービスはないが、日本の宇宙開発事業団(JAXA)最大のロケットH2B型(直径5.2m、高さ56.6m)の性能を見と、LCOに19トン、GTOに8トン打ち上げ可能である。

アポロ計画の時のサターンV型ロケット(直径10.1m,高さ110.6m:11282)だが、LCOに118トン、月周回軌道には47トン、其々打ち上げる能力があるという。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3V この47トンという数字だが、LCOへの118トンの打ち上げ能力から考えて、大きすぎるように思う。しかし、月着陸船が約15トンで、司令船と機械船の合計重量が約30トンなので、この数字以上なければ月着陸は不可能である。https://moonstation.jp/faq-items/f509

以上のロケットに関して、その打ち上げ能力を少し見てみたい。注目したいのは、LCOへの打上可能重量とGTOへの打上可能重量の比(RLG)である。そのRLGは、ニュー・グレンでは2.815(=45/16)、ファルコン9では2.75(=22.8/8.3)、H2Bでは2.375(=19/8)である。ところが、サターンVではそのデータは見つからなかったが、GTOへ運ぶよりも月周回軌道に運ぶ方が数十パーセント大きなエネルギーを要することを考えると、上記各社の値よりかなり小さな比が推定される。

3)エネルギー的考察:

地球の重力により1kgの物体が地上で受ける引力は、F=MG/R^2(^2は二乗の意味;F=9.8kgm/s^2)で与えられる。Gは万有引力定数、Mは地球の質量、Rは地表の地球中心からの距離は6400km(地球の半径)である。従って、地表面での1kgの物体の持つ位置エネルギーは、上式を無限遠方から6400kmまで積分すれば良い。簡単に-MG/Rが求まる。(補足5)

向心力=引力の式なども用いると、LCOに打ち上げた時に得る荷物の力学エネルギーは、1kgあたり0.5MG/Rであり、GTOに打ち上げる場合は凡そ0.85MG/R、静止軌道に打ち上げるのに0.925MG/R(補足6)、月の近くまで運ぶにはほぼMG/R必要であることがわかる。

現在各国が用いているロケットでは、RLGが2以上であるので、荷物に与える力学エネルギーを単位質量あたり70%増加させる(GTOに載せるため)ためには、積載する荷物を半分以下にしなければならないということになる。

その理由は以下の様に考えられる。ある軌道に荷物を打ち上げるには、荷物とロケットの両方が軌道に乗らなければならない。それは陸上輸送でも何でも同じである。ロケットを使い捨てにする場合でも、荷物に燃料を使い切ったロケット本体をその軌道に持ち上げるエネルギーも必要となる。

同じ単位質量あたりの力学的エネルギーを荷物(質量mで、()内は軌道を表す)と最終段のロケット本体(質量M)に与えると考えると、
RLG = m(LCO)/m(GTO)=1.7+0.7(M/m(GTO)) ———--(式1)
となる。(補足7)つまり、ロケット本体が質量ゼロの場合、RLG値は1.7となるが、ロケット本体がm(GTO)と同じなら2.7となってしまう。これが、上記多くのロケットでRLG値が2以上になる理由だろう。

月まで運んで周回軌道に乗せるには、地球の引力と月の引力が釣り合う峠を越える必要がある。そこまでの段階で単位質量の荷物が得る力学エネルギーは0.97MG/R位だろう。其処で、機械船、司令船、月着陸船が連結された形でロケット最終段から切り離されたとすると、更に減速して月周回軌道に入る時には、荷物1kgあたり必要なエネルギーはMG/R位になるだろう。(補足8)

つまり、LCOへの打ち上げ重量の118トンや、現在のロケットでそこから GTO軌道に上げるだけで搭載可能重量が40%程度に減少することなどを考えてみると、47トンはGTOへの搭載重量だろうと考えてしまう。つまり、サターンVで月周回軌道に乗せる重量は47トンには届かないだろう。また、月着陸船が用いたとされる、垂直下降して着陸する技術は、最近ようやくスペースX社やブルー・オリジン社が開発して可能になった。それが40年前に月でできたと考えるのは、楽観的すぎるとおもう。

アポロ計画の成果はデッチ上げである可能性が極めて高い。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2016/12/11.html

1)NASAの職員が語る宇宙開発の目的:http://toyokeizai.net/articles/-/13923 しかし、十分納得力のある内容とは思えない。
2)スペースX社から上記のような依頼があれば、NASAには断る理由がない。何故なら、アポロ計画で既に月に飛行士を送って、無事帰還させたことになっており、月周回は技術的には遥かに簡単な筈だからである。もし申し出を断れば、アポロの成果が捏造だったと認めることになる。
3)高度100km以上の上空は宇宙と見なされている。そこを外国のロケットが通過しても、領空侵犯には当たらない。(因みに、北朝鮮の東北上空の通過は、領空侵犯ではない。トランプ大統領の言うように迎撃していれば、北朝鮮に非難の口実をあたえただろう。)
4)静止軌道は高度36000kmの円軌道だが、遠地点が高度36000kmの図(1)の楕円軌道を静止トランスファー軌道(GTO)と呼ぶ。そこから、遠地点でロケット噴射をして速度を増せば、静止軌道に近づく。
5)従って、地球の引力圏から脱出させるには、MG/Rだけの運動エネルギーを与えれば良い。地球の重力加速度gは9.8m/s^2がわかっているので、v^2=9.8m/s^2*2*6400000m(*は積を表す)より、11.2km/sが得られる。これが宇宙速度である。また、36000km上空の軌道では、v^2=9.8m/s^2*2*(36000+6400)kmから静止軌道上での速度3.07km/sが得られる。
6)この場合、凡そMG/R*(1-6.4/42.4)にそこでの並進速度のエネルギー(小さい)を足し算した値となる。静止軌道の地球中心からの距離は42.4kmとした。更に、静止軌道上に上げるには、MG/R(1-3.2/42.4)となる。これは、静止軌道を回転する運動エネルギーを加算した結果である。従って、静止軌道に打ち上げるに必要なエネルギーは0.925MG/Rとなる。
7)LCOに荷物(重さ: m(0)+m(GTO))を運ぶ際、燃料が空になった最終段(重量(M))も運ぶだろう。GTOに乗る時も燃料が空になった最終段は同じだが、荷物の重量はm(GTO)だけになるとする。同じロケットで打ち上げるので、その両方でエンジンから投入されるエネルギーが等しいとすると、(式1)が得られる。
8)逆推進の際、姿勢制御が大事である。その為には、位置情報と姿勢に関する情報を正確に取得することが必須である。弾道軌道で月の近くまで来る間に、姿勢は軌道に沿っていないだろう(ロケットにはライフルの銃弾の様に軸方向の回転が加えられていない)。同じことが、地球帰還の際にも言える。上図の様に、NASAの計画では地球周回軌道に乗らないで、帰還することになっている。無理だろう。(補足8は翌日朝追加)

2017年11月22日水曜日

日馬富士の暴行事件について(2)

1)日馬富士が貴ノ岩を暴行した事件が話題になり、そのプロセスで依然として古い相撲協会の姿や、外国人力士の特殊性が徐々に明らかになっている。今放送中のテレビ放送のスクランブルでも話題になっているが、その中で、今回の事件はモンゴル人力士の間の派閥抗争的な面があるという新聞報道が紹介されていた。

貴乃花が現役で活躍した時期を最後に、大相撲の上位番付はモンゴル勢に占拠されている。そして、時々モンゴル勢の土俵上などでのマナーが問題になる。(補足1)それらは、大相撲を真面目に考える人には、看過できないだろう。つまり、現在大相撲は単なる人気格闘技になっているのである。その一方で、大相撲は日本古来の神事であり、その継承を使命としているが故に、日本相撲協会は公益法人となっている。

例えば、優勝力士の表彰での君が代斉唱の際、モンゴル人力士に”口パク”をやらせている。この木に竹を継ぐという状態は、相撲協会のあり方にも見られる。昔ながらの年寄制度で、引退後の力士の面倒を見るのは、限界がある。才能のある力士候補生の入門を国内で求めるには、昇進できなかった若者の再就職制度を考える必要がある。(補足2)

それらの改革を真面目に考えている代表的人物は、相撲協会内では貴乃花親方である。現在の執行部は、何もかも中途半端な状態で、古い体質のままに発展途上国や経済的に落ち込んだ東欧などから外国人を入れることで、なんとか大相撲を維持している。異なる文化の異国にあって、しかも数世紀前の古い体質のままの社会の中で生きる外国人には、ストレスも多いだろう。その様な大相撲の矛盾が、一点に集中したのが今回の事件の様な気がする。

この相撲協会にとってのピンチは、問題点を考えるチャンスでもある。その際、たたき台となる意見を出せるのが貴乃花親方だろう。時期巡業から貴乃花親方を外すなど、相撲協会は将来を考える時に欠かせない人物を除外する方向に進んでいるのは、情けない。

2)元に戻って、今回の事件の背景と動機について考察してみる。 動機は、何処か別の場所で下位力士との飲み会で、貴ノ岩が「もう、あの人たち(日馬富士や白鵬)の時代は終わった」という意味の言葉を喋り、それを聞いた力士が白鵬ら伝え、それに対して白鵬らは怒りを募らせていたというのである。(補足3)その話を翌日聞いた貴ノ岩は横綱に謝罪したと言われているが、それで治らなかったのだろう。

その後開催されたモンゴル人力士の懇親会で、日馬富士が説教をはじめたが、それを最優先しないで携帯にかかってきた電話をとって貴ノ岩が話をし始めたのが、横綱には生意気に映ったというのである。この部分だけを取り出して、前回ブログ記事を書いたが、それは一般論として正しいと議論だと思うが、この件の議論としては不十分であった。

同郷のよしみで集まった会合は、同窓会やクラス会的なものである。(補足4)そこには本来仕事場での上下関係は持ち込むべきではない。そのような現代的な考え方が、貴ノ岩にあったのではと想像する。しかし、それは古い大相撲の常識ではなかったのだろう。横綱と平幕の地位の差は、24時間中天地の差となって、力士を支配するのかもしれない。それに反発する貴ノ岩の考えは、合理的に考える貴乃花親方の考えが影響したのかもしれない。それは、モンゴル勢の中で浮いた存在であるとの指摘と一致している。

また、この件で貴乃花親方が何も語らないのも、その合理的判断が働いた結果だろう。つまり、暴行や障害事件の処理は、警察と司法であり、相撲協会ではない。相撲協会だけに、先ず協会で話し合って、収拾がつかない場合は警察の出番になるという、ローカルなルールを認めれば、「法の下の平等」という近代国家の大原則に反する。

3)貴乃花親方の相撲協会改革に期待する: 貴乃花親方が相撲協会に先ず被害の状況を報告すべきだったという池坊保子氏(相撲協会評議員)の意見がテレビ(スクランブル、ゴゴスマ)で紹介されていたが、この発言の趣旨は理解できない。その理由はすぐ上に書いた「法の下の平等」である。このような前近代的な意見しか言えない、不勉強な人間を評議員にすることに相撲協会の古い体質の一因があるのだろう。

また、スポーツ評論家の玉木氏は巡業中の出来事なので、巡業部長の貴乃花親方は責任追求されるべきだと言っていた。更に、守るべきは大相撲であるといっている。この人も池坊氏と同様に、法律も法治国家の原則も何もわかっていないレベルの人間である。巡業中だからと言っても、業務以外の時間はプライベート時間であり、その時間に街に出て生じた事件の第一の処理は、関係者個人と警察である。その後、第二の処理、つまり相撲協会でこの種の事件の防止や今回の協会としての処分を考えるのは、その結果が出たのちである。

日本の伝統としての大相撲を守るべきだと玉木氏は言うが、大相撲の古来の伝統はすでに破壊されている。つまり、異なった文化圏に育った外国人力士を大勢入門させ、その段階で相撲協会は伝統から営業優先に変化したのである。現状では、日本相撲協会の公益法人の資格を取り消すべきだと私は思う。税金を支払い、一般の法人として再出発すべきだろう。

もちろん、モンゴル人力士は優秀であり、現在では大相撲にはなくてはならない存在であるだろう。大相撲が国際的関係においても重要な役割を担っている可能性もある。日本相撲協会が国際化を含めて相撲のあり方とその組織の近代化を同時進行的に進めることができるのなら、公益法人としての役割を別の形で担うことができると思う。そのために、今回の事件を十分咀嚼してもらいたいと思う。それが出来ると思われる理事を拒否するようでは、相撲協会に将来はない。

補足:
1)プロレスの様に格下で弱いと思われる相手にも拘らず憎悪の感情を表に出した粗い相撲、懸賞金をガッツポーズで受け取る仕草、勝負が付いた後のダメ押しで相手を土俵下に突き落とすこと、などが指摘された。しかし、これは入門時の教育とその後の指導でなんとかなる問題だろう。
2)貴乃花親方は再就職の為の教習施設を考えていると昨日のテレビ放送で、あるコメンテーターが発言していた。
3)週刊誌にモンゴル人力士に派閥があるという記事が載ったと言う。貴ノ岩は他派閥の若い人に喋ってしまったのかもしれない。(全くの推測だが)
4)今回の事件の背景に、プロ格闘技に対する貴乃花親方の考え方があったのだろう。親方は、同じモンゴル出身力士であっても、互いに真剣勝負で明日にも戦う可能性があるのだから、本場所前に懇親会を開いて仲間意識を醸成するのは好ましくないと考え、貴ノ岩のその会合への出席に反対だったという。その様な考え方と、それに対してモンゴル勢の意見が割れていたこともこの事件の一因かもしれない。
その点について、野球界で活躍した長嶋一茂氏は、「真剣勝負で戦うことを前提に観客は相撲を見るのだから、その前に宴会を開いて仲良くしているのを知れば、相撲ファンは白けるだろう。プロ野球でも、シーズン中はそのようなことはしない。」と何処かで言っていた。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171117-00000045-dal-ent(このサイトは長島氏の発言を十分反映していないのですが、適当なのが見つからないので差し当たり引用します)

2017年11月19日日曜日

安倍総理のお友達優遇政治にウンザリ:基本的な問題と大きな問題

1)加計学園問題は、全国で獣医師が余っているにも拘らず、そして、その獣医学科の新設計画が不十分であるにも拘らず、安倍総理のお友達がその学園を経営しているという理由で新設認可をした疑いが濃いことである。

かなり前になるが、獣医師は足りているし、なぜ三流理科大の経営者に獣医学部新設をさせる必要があるのか、さっぱりわからないという趣旨の記事を書いた。(2017/5/24; 6/14の記事参照)

森友問題では、森友氏の処分は刑事罰まで進展しそうだが、それは森友氏とVIPとの友達関係がそれほど強くなかったからだろう。

安倍総理の支持する人たちは、弁護に詭弁を弄している。高橋洋一氏の下の発言もその一つである。学科の新設認可に関して、石破4条件を閣議設定したのだが、その4条件の成立可否に関する挙証責任が認可側にあるとして、加計学園側を支持しているのである。http://www.zakzak.co.jp/soc/news/170722/soc1707220007-n1.html

石破4条件は、(1)新たな分野のニーズがある;(2)既存の大学で対応できない;(3)教授陣・施設が充実している;(4)獣医師の需給バランスに悪影響を与えない、の4つである。この4条件の内この部分が欠けていますと、新設不許可の理由として、文科省が示さなければならないのか、それとも申請側が4条件全てに合致していますと、示さなければならないのか、というのが挙証責任の問題である。

前川前文科省事務次官は、申請者側にあると発言したが、高橋洋一氏がそうではなく、文科省側にあるという意見であり、それが上記ZAKZAKの記事内容である。その中で、高橋洋一氏は、我々国民を馬鹿にしたような理屈をあげている。

それは、「4条件の挙証責任は文科省にはないという立場だ。実際、前川喜平・前文科事務次官ほか、文科省関係者はそう主張する。しかしこれは誤りだ。文科省の学部新設の認可制度は、憲法で保証されている営業の自由や職業選択の自由を制限するので、挙証責任は所管官庁の文科省にあるのだ。」というものである。

トンデモナイ屁理屈としか言いようがない。大学設置を何かの商売と混同しているようだ。大学の運営は、国家から巨額の支援金が支払われる公益事業である。申請者がこのように条件にあっていますと立証するのは、当然である。いい加減な申請書を出して、どこに不適合があるか立証しろと居直る権利は、総理の友達だとしてもない。

最近の報道では、その申請書類も相当酷いもので、その4条件に合っていないという例もかなり挙げられている。例えば、その獣医学部の“目玉施設”では、通常生体を用いるところをぬいぐるみを用いて実習するのだという。 http://news.livedoor.com/article/detail/13898064/ 高橋洋一氏には、この記事を見て、反論してほしいものだ。

そういえば、内閣官房参与という職を、お友達の失業対策に使っているという疑惑もある。その種の問題を取り扱う正規職員(大臣等)は、官房参与に任せて遊んでいれば良いということだろうか?兎に角安倍総理の権力があれば何でもできるという考え方は、どこか隣の国のトップのやり方に似ている。内閣を構成する人や、評論家までイエスマンに成り下がっている。https://news.yahoo.co.jp/pickup/6261662

2) 加計問題や森友問題は、安全保障などの問題に比べて小さい問題である。しかし、日本国の政治のあり方(安倍政治のあり方)という、根本に対する問題である。この件、優れた政治評論家である馬渕睦夫氏などでも、大きな問題に目が眩むのか、何の疑念もないと言い放つ。

どんな大きな装置でも、ネジの規格が合わなければうまく組み立てられない。日本においては、公平性は政治と日本国民全との間を繋ぐネジのようなものである。森友問題と加計問題は、その国民と政治を繋ぐネジが古いアジア的なコネなのか、日本や欧米のような法令に基づく公平性なのかに疑念を抱かせる問題である。ネジが混在していては、大きな装置である国家全体の政治が組み立てられなくなると思う。それがコネなら我々庶民は政府に対して、そっぽを向くだけだ。

最高裁は、行政のすることに違法性や違憲性の判断をすることのない、サラリーマン的判事が構成しているので、この国では司法は正常に機能していない。それも、最も近い国とよく似ている。(2017/10/24の記事参照) だから、国会で追求するしか方法がない。

安全保障という大問題を持ちながら、くだらない議論をしなければならないのはこの国の不幸である。

2017年11月18日土曜日

日本が普通の国になるためには、不当な米国の日本敵視を無くさなければならない

1)米国が、西太平洋地域での覇権を失うとすれば、現在の米国の属国的な位置から静かに逃げる道を探さなければならない。もし、米国が不死鳥の様に、太平洋地域で覇権を維持出来ると考えた場合、そして、日本が米国と同盟関係を深化させることで、この地域で日米同盟を命綱的にして生き残る方針なら、その鍵になるのは米国と日本の相互理解が今までとは違った次元に深まるかどうかである。

また、仮に日米同盟を当てにしないで、生存を図る場合でも、米国と友好関係を保ちながら独自の軍事力を整備し、国家としての体制を作り上げることが大切なステップであると思う。しかしながら現在、親米国の日本は、米国にとっては仮想敵国であると思う。米国の中枢は、たとえ朝鮮が核武装しても、日本だけに核武装はさせないと考えている。つまり、キッシンジャー&ニクソンの訪中のときの密約は未だ健在だとおもわれる。(http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/10/493.html

米国在住の国際政治の専門家である伊藤貫氏は、2013年夏の西部邁氏との討論で米国国務省のアジア担当官の半数は、日本の憲法改正にすら反対していると言っている。https://www.youtube.com/watch?v=DLrGGEymC8Q (24分以降)その後、安倍総理や日本への印象が変化した可能性はあるが、核保持に反対する態度は変わっていないと思われる。

上記動画の中で、例えば中国と米国で太平洋を二分するという話になった場合、日本は単なる搾取の対象となる可能性大だそうである。それは、日本とロシア(ソ連)に挟まれた朝鮮の様であり、ドイツとロシア(ソ連)に挟まれたポーランドの様でもある。伊藤氏の発言によれば、米国の覇権が東アジアに残る可能性は殆どゼロであり、日本の環境は当にその方向に進んでいる。

何れのシナリオでアジアの歴史が進行するとしても、日本は近代史の総括を行い、世界の歴史認識とこれまでの日本の歴史認識のズレを客観的な視点でレビューしなければならないと思う。勿論、国が違えば歴史認識が違うのは当然である。しかしその違いは、「国家が自国の尊厳を維持し、今後の繁栄を目指すのは当然である」という観点から、他国が理解可能な範囲になくてはならない。

つまり、世界に主張可能な歴史認識を持てば、少なくとも話の通じる相手であると認識され、普通の国家となる障壁は低くなるだろうと思う。しかし現状では、日本の保守勢力の歴史認識は自分勝手なものであり、且つ、野党勢力の歴史認識は全く売国奴的であるので、何れも日本国が世界に主張すべきものではないと思う。

2)日本が世界の中で生きていく為には、世界の標準的な歴史認識の方法を持ち、それを前提にして普通の国としての要素を持つことが必須である。それら要素は、経済力、軍事力、それに固有の文化と価値観である。(上記動画での西部邁氏の解説参照)それは、一人の独立した人間の要素と同じである。しかし、現在の政権政党右派の歴史認識は、我が国国民一般のものとはずれていると思う。そして、それは江戸時代までの伝統的文化や価値観に根ざしては居ないと思う。

右派民族主義者達は“明治維新”は日本の歴史的快挙であり、その結果西欧の国民国家と同じタイプの国家が出来上がったと主張するだろう。しかし実際は、 “明治維新”の主人公である薩長土肥の武士たちと下級貴族らが天皇を利用してクーデターを起こし、新しい貴族階級を形成して作った専制の帝国主義的国家であった。そこでは、国民は国家を担うという意志のないままに、強制的に兵士として駆出された。(次のセクション参照)

つまり、暗黒の江戸時代の戸を開け、やがて新貴族になる人たちによって行われた政変を一種の市民革命であると考えるのは偽造史観であり、それを作り上げ守り通したのは、現政権までの150年間日本政府の中心にいた上記新貴族とその子孫たちであると思う。(補足1)

中国侵略からの“大東亜戦争”は、欧米列強からの防衛と大日本帝国の生存空間の拡大であったのは事実だろうし、それを現在の価値観で非難するのは可怪しいだろう。ただ、それを「西欧の植民地主義をアジアから排して、大東亜共栄圏を構築することであった」と主張するのは、説得力に乏しいと思う。そして、そのような計画は、右派の人たちの主張と違って、国民の総意に基づいたわけではなく、当時の軍事独裁政権が作成したものである。

歴史を後から裁くのは、愚かなことであると一般に言われる。それは、歴史は事実と事実をつなぐ物語であり、その物語の書き方は主観的であるのは当然であることと、判断ミスまで裁くのは神以外は不可能であるという主張が根拠だろう。その部分について裁くのは確かに愚かなことである。しかし、事実を偽って書いた歴史を裁くことは、まったく正当な行為である。

歴史認識問題で最も象徴的なのは、靖国神社に対する姿勢である。大陸侵攻も、痛々しい敗戦も、伴にその軍事独裁国家の中心人物たちが主導したのであり、その責任を負うべきである。靖国神社には、その本来責任者として弾劾されるべき人たちが軍神として祀られている。上記明治の新貴族に由来する民族主義者達(=上記右派民族主義者)が何と言おうと、普通の日本人の感覚なら、軍神として祀られる優先順位は将軍が最上位であり、佐官、尉官が続き、兵士は最下位である。従って、靖国参拝は、戦争責任者である将軍たちを崇拝すると解釈されるのは当然である。(補足2)

米国が日本との同盟を、属国と宗主国との同盟から普通の国の間の同盟に(考えを)変換する際の最大の障害は、日本の明治以来の支配層とその延長上にいる現在の上記民族主義的勢力だと思う。彼らの多くは現在、米国との同盟関係を実利の面から支持するだろう。しかし、同時に彼らはより深いところで、米国を敵視している。米国が日本を不審感を持って眺めるのは、その右派勢力から与党勢力に広がる民族主義的傾向であると思う。

つまり、日本が世界の中で生きていく為には、保守主義者一般と右派の薩長土肥歴史観に基づく民族主義者たちの区別化、つまり、分断が大切なステップだと思う。そして、新しい上記民族主義者以外の保守勢力をつくることが大事だと思う。

3)日本人に帝国を担う意識はなかった:

西欧諸国では、王族支配に反発して市民戦争を経験し、その結果として国民国家の実体と概念を対で得たが、日本はそうではない。江戸時代には、殆どの日本人は地元の殿様(=王)の下で、革命の気配など一切なく暮らしていたのである。幕末の政変は、薩摩と長州の両藩と京都の下級貴族が中心になって行った倒幕(クーデター)であり、国民が立ち上がった訳ではない。彼らは、外国の力(英国)と知識を、幕府よりもそれ(フランス)を有効に利用することに成功した。(補足3)

明治以降、日本列島の住民は、天皇の臣民という形で大日本帝国の国民として訳も分からない内に入れられた。支配層民族主義派は、それをあたかも市民革命の結果獲得したかの様に記述し、歴史の捏造をしたであった。明治維新を下級武士達が達成したという、“下級武士”という表現もその為に用いただろう。実体は、身分は兎も角、殿様の高い評価を得た武士たちであり、殿様の意思が全く働かない訳ではなかった。実際、長州の殿様は、彼らの立案した方針を「そうせい」と命令形で承認していたので、“そうせい候”と呼ばれていた。

つまり、国民国家が前提の「戦争も外交の延長である」という西欧の政治思想など国家の“主人公でない国民”に理解出来る筈はない。米国の支配者たちが考える、或いは考えたい、原爆が軍事独裁の全体主義国家を退治するために使われたという論理も、同様に理解出来るはずはなく、原爆による被災を単に天災の一種と感覚的に把握しているのである。それは、昨年広島でオバマ米国大統領と原爆被爆者との間の抱擁が証明している。その感覚は現在でも全く変わっていない。あの光景は、被災者と米国は直接の敵ではないことの一つの証明である。

つまり、日本国民の多くが「戦争だけは避けなければならない」と考えているのは、単に平和主義を採っているからだと考えるのは間違いである。そもそも国家を自分たちが構成しているという意識などなく、国家が行う外交と自分たちの生活の間の関係についても、現実的にシミュレートする頭脳の活動は全く無いのだ。つまり、戦争は上記のように日本国民にとって天災と同じであり、自分たちの意思が反映した結果だとは考えていない。(補足4)

一方、日本の上記民族主義者、つまり右翼の人たちはそうではない。彼らは、明治の政変を国民国家の創生と捉え、明治維新と呼ぶ。明治の政治を立憲君主制とし、議会は民意を繁栄したもので、過去の戦争遂行も全て日本国民の総意と考えている。そして、東京裁判で戦争犯罪人とされた全ての人の名誉回復に努力し、彼らの全てを靖国神社という国営慰霊施設を兼ねる神社に祀った。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/08/blog-post_29.html

日本の政権与党と政治評論家のかなりの人々は、この民族主義的な人たちを多く含んでいる。彼らは、靖国神社に参拝することを義務と考えているのである。しかし、それは米国が主張する対日戦略の“正当性の全て”を否定することになる。そのように米国が日本の政権与党を構成する人たちととそのブレイン達をを考える限り、米国は真の同盟国として日本を受け入れないだろう。

(以上は、理系人間のメモです。批判等歓迎します。)

補足:

1)現在の安倍総理や麻生副総理、その祖父に当たる岸信介と叔父の佐藤栄作、戦後長期政権を担当した麻生の祖父の吉田茂など、薩長土肥の侍の子孫である。勿論、これは事実の列挙であり、現在の安倍政権を批判している訳ではない。

2)右派民族主義者たちは、靖国神社を国家を守るために命を捧げた兵士たちを祀る施設であるという。しかし、敗戦に至る指揮をとり、兵士の命を消耗品の様に扱った人たちを何故祀るのかという問には、まともに答えない人が殆どである。更に、その時の国家は、日本列島の住人を真に代表したものではないにも拘らず、「日本列島の住人全てとその住処」と同一視している。

3)日本にとって幸運なのは、諸外国にとって日本は侵略する魅力に乏しい上に、軍事力としての武士は勇敢だったことである。その武士団と武士が構成する優秀な官僚団は江戸時代までに作られたものである。江戸時代を低く評価して敎育するのは、明治のクーデターを美化するためである。

4)従って、大日本帝国と当時の国民との関係は、支配者と被支配者の関係であった。敗戦後、米国マッカーサー将軍を簡単に受け入れたのは、国家の敵将であっても、国民にとっては支配者の交代に過ぎないからである。現在でも国家に対する関心は薄く、国政選挙は単に芸能人やスポーツ選手の人気投票の感覚か、幾分意識の高いレベルの国民でも、議員となるべき人間をその能力ではなく、日常生活の中でその人物の行動を想像して、より好ましい“人格”を目安にして選んでいる。

2017年11月16日木曜日

日馬富士の暴行事件について:言葉の暴力と身体的暴力

1)ここ二三日、一番話題に上っているニュースが、横綱日馬富士の貴ノ岩に対する暴行事件である。モンゴル出身力士の懇親会で、貴ノ岩が非常に失礼な言葉を横綱に対して浴びせたことが暴行に至った原因のようである。法的な処罰は、違法行為を行った日馬富士が受けることになるだろう。

この事件はテレビなどで頻繁に放送されているが、その捉え方は、相撲協会の隠蔽体質だとか、相撲協会や所属部屋の親方の責任や謝罪などに、拡散している。しかし、この件は個人的犯罪であり、今後責任問題に関係するのは、基本的には被害者と加害者の二人と、法的処分をする国家だけだと思う。相撲ファンや相撲部屋の親方の介在する余地はあまりないと思うし、そのように問題を広げるのは日本の悪習であると思う。

今朝のとくダネ!でも、司会を補佐する人間が、親方が相撲ファンにまだ謝罪していないことを問題視していたが、そもそも親方に謝罪する義務など全くない。モンゴルでも報道されており、一部にはモンゴル人の横綱が多いので、日馬富士を追放する陰謀だと言う意見を紹介しているものもあると報道されていた。兎に角、報道機関というのはどの国でも、煽って視聴率を稼ぐことばかり考えているようだ。

この国では、組織に属する人間が個人的な事件を起こした時でも、組織のお偉方が揃って頭を下げる場面がよく放送される。そのようなテレビ放送を見る度にうんざりした気分になる。普通、謝罪とは責任を認めることであり、責任を認めることはそれに対する償いの義務を負うことと捉えるだろうが、この国では問題を小さく治めるために謝罪するのである。(補足1)

この件も、手続きに従って処分をして、あとは当事者に任せることで十分だと思う。そして、今後相撲で頑張って欲しいと思う。彼ら当事者にサジェストするとすれば、今後閉鎖的な場で、アルコールは飲まない方が良い。

また、横綱もそれ以下の地位にある相撲取りも普通の人間であり、大相撲を殊更神事と考えることは時代錯誤的だろう。相撲協会が、それらの刑事事件を隠蔽することがあったとしたら、それは無くすべき古い体質だが、それを殊更相撲協会全体の問題と考えることもまた無くすべき別のタイプの古い体質である。

2)この事件だが、一方的に日馬富士の方に非があったとは言えないと思う。つまり、貴ノ岩の言葉の暴力が、日馬富士の物理的暴力となって返されたのだろう。言葉のやり取りが、傷害事件に発展したことは、彼ら二人には本意ではなく不幸なことだったと思う。

似たケースで思い出すのは、セレブ達が集まったパーティー(米国)で、デビ・スカルノ夫人によるフィリピン大統領の孫娘だったミニー・オスメニャに対する暴行事件である。https://matome.naver.jp/odai/2139040955692250701

デヴィ夫人は喧嘩の原因として、「ミニーが自分を娼婦(Whore)呼ばわりしたため」と主張したという。失礼な発言をした方はその瞬間はスッキリするだろう。しかし、それを許さないでシャンパングラスで相手を殴ったデヴィ夫人の気持ちも分かる。

現在の法制度では、そのような発言があったとしても、それを処罰する法令はない。しかし、言葉であっても、個人の尊厳を汚した人間には処罰が加えられるべきである。その場合、自分の尊厳を守る意味で国家による処罰を覚悟して、相手を殴るしか処罰の方法はない。

つまり、肉体的な暴力は絶対にいけないが、言葉の暴力はやりたい放題ではない筈である。勿論、喧嘩両成敗が正しいのだが、現行制度でも暴力を振るった方が刑事罰を受けることで、解決すれば良いと思う。ただし、その後加害者に関係する組織が他の罰を加えるには、慎重に考えることが条件である。

日馬富士と貴ノ岩のケースで説明すると、日馬富士がうける処罰は、貴ノ岩の痛みと怪我と九州場所からの欠場という損害とバランスが取れれば良いということである。それ以外のところに、大きな痕跡を残さない様にすべきだと思う。相撲協会が受ける損失など計算できない部分の責任も、事件化した日馬富士が負うべきだろうから、相撲協会が出場停止などの処分をするだろう。それだけをルールに従ってすることが、相撲協会の仕事だと思う。

因みに、言葉の暴力は現在ハラースメントという範疇に入れられている。ハラースメントだけでは法的に罰することは難しい。法的に罰せられない悪事は、普通、社会から例えば人事面での冷遇などの法的でない処分を受ける。

閉鎖空間では、そのような処分が期待できないので、ハラースメント的暴言が炎上的に連続して、最終的に物理的犯罪に至る場合が多いと思う。従って、トラブルが考えられる人の集まりは、閉鎖空間に閉じ込めないで、出来るだけオープンな空間を利用することだろう。

言葉でのハラースメントとそこから発生する上記のような事件は、完全に無くすることは不可能である。従って、言葉は場合によっては相手の尊厳を汚す暴力となること、従って、個人的な話題に関しては、相手の情況などを考えて慎重にするべきであることなど、年少時によく敎育すべきであると思う。

勿論、社会についての基礎を敎育すべきことは言うまでもない。それらは、現在の社会は独立した個人によって成り立っていること、個人の間の信頼は社会のインフラであること、言葉でも身体的なものでも、暴力はそれらを破壊することである。

(以上、17日早朝に加筆修正しました。オリジナル・バージョン(11月16日)は、https://ameblo.jp/sakizakimademo/entry-12328800176.htmlに残します。)

補足:
1)この国では多くの場合謝罪と許しがセットになっている。従って「こちらがしっかり謝罪したのに許さないあいつはけしからん」という、会話が成立する。

2017年11月14日火曜日

米中の覇権の中で日本はどう生きるか:問題点の整理

1)あるブログサイトに青木直人著「田中角栄と毛沢東」の紹介記事を見つけた。印象的なのは、日中国交回復の際の毛沢東と田中角栄との会談の様子である。すこし長くなるが、それを紹介したい。

毛沢東から招かれた時、田中角栄は護衛官抜きで、大平正芳、二階堂進とともに会った。護衛官は、一緒に行くことを主張したが、田中は「ここまで来れば煮て食われようと、焼いて食われようと、いいじゃないか」と云って、ニッコリと笑った。

毛沢東の家でのやりとりは以下のようである。相手の品定めかも知れないが、雑談的な話の後毛沢東は「田中先生、日本には4つの敵があります」と切り出した。「四つの敵」という言葉は、中国を訪問する前に行われた外務省のブリーフィングで、何度も聞いていた言葉だったから、田中は内心くどすぎると思った。「アメリカ帝国主義」、「ソ連修正主義」、「日本軍国主義」、「日本共産党宮本修正主義」の「四つの敵」は、中国革命外交のキーワードだった。(補足1)しかも、日本の軍国主義については、中国訪問の当日からさんざん説明し、中国側の理解も得たはずのテーマである。

だが、毛の口から出た「四つの敵」は田中の想像を裏切るものだったのである。指を折りながらその4つをあげた。「最初の敵はソ連です。」それから、アメリカ、ヨーロッパ、そして最後に、中国の名をあげた。(補足2)毛沢東は、田中に本音のレベルの話ができる能力をみて、それをぶつけたのである。

そして、世界中を敵に回して負けたヒットラーと東條英機を馬鹿な男と評し、「あなた方は、もう一度ヒットラーや東條の選んだ道を歩むのですか。よく考えなければいけません。世界から孤立して、自暴自棄になって自滅するのですか。アメリカ、ソ連、欧州、そして中国、この四つを同時に敵にまわすのですか」と言った。

その先の会話をブログのオーナーは推理している。「今後の世界は、アメリカ、ソ連、欧州、中国が基軸になる。この4大国は歴史的に見ても相容れず、今後とも協調しつつ対立していくだろう。そこで日本はこの4大国とどう関わり合うか、それが問題である。4大国全てと仲良くできそうにない。どちらかの陣営と連合する以外に生き延びる事ができない」と。http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/phirosophy_higekisei.htm

2)毛沢東の指摘は、ソ連がロシアに変わったとしても、本質的に正しかった。日本を取り巻く情況は、現在もその時の情況と全く変わっていない。キッシンジャーが「ジャップめ」といって、日中国交樹立を悔しがったことがよく知られているが、それも毛沢東の予言した範囲内であった。しかし、その本当の意味を探らず、単にキッシンジャーを「反日ユダヤ人」ときめつけて納得して済ませている人が多い。(補足3)

日本は、田中角栄がアメリカに潰されてから、アメリカを選択したかのようにアメリカ追従を続けているが、アメリカはそのようには受け取っていない。米国に本音を聞けば、「日本が我々アメリカと組んでいると思ったとしたら、思い違いだ。日本は、単にアメリカの属国として甘えているだけだ」と言うだろう。日本経済の長期低迷を失われた20年というが、政治的には田中以降でも失われた40年である。

上記、毛沢東が田中に言った問が、北朝鮮問題を契機に45年後のこんにち、日本の喉元に突きつけられたナイフの様に不気味に姿を現した。2006年の北朝鮮の最初の核実験のときに、米国ライス国務長官が飛んできて「日本は米国が守る」と発言した時にも、目の良い人にはそのナイフは明確に見えた筈である。そして、そのライス長官の言葉を「日本は、米国の属国(敵国)にすぎません。決して、核武装はさせません」と翻訳できた筈である。

このままでは、米国が何と言おうと、米国の覇権ラインが近いうちに第二列島線まで後退するのは必至である。そこで日本のとる戦略は、米国に協力して米国圏のフロンティアになるか、北方から降りてくるロシア圏のフロンティアになるか、中国圏に入るか、それとも十分な独自防衛力を持ちどの勢力圏にも入らないか、その四つの道の中の一つだろう。しかし、どれをとってもかなり困難である。なかでも自主独立は、毛沢東の指摘通り殆ど不可能である。

国際正義と信義に基いて、非武装中立を貫くという選択は、よほどの幸運に恵まれなければ成立しないだろう。それを訴える政党やその支持者が、今でも日本に1/3位は存在する。地球上での争いは常に存在しているが、日本がその争いから避けられる位置に今後とも座り続けるという可能性はないだろう。

田中角栄なら、毛沢東の言葉を心に刻み、差し当たり米国への依存を減らすべく独自防衛の道を模索しただろう。何れかの領域の中で生き残ると決断しても、独立国としての一定の体裁を整えなければ、そこへの移行は不可能だからである。属国のまま存在し続けることもまた不可能である。属国は家畜と同様であり、売られるか、屠殺されるかしかない。日本はアメリカの愛玩動物であると思うほどの馬鹿は、流石に居ないだろう。

3)米中露の覇権が錯綜する西太平洋地域において、自主独立が許されるのならその単純さは魅力的である。しかし、上に述べた様に、そして、毛沢東が45年前に予言したように、まわりの大国に妨害され、自主独立の必須条件である独自核武装など日本には許されないだろう。(補足4) 何れにしても、米中の反対を巧みに躱しながら、憲法9条の改正から、再び国家としての威厳を取り戻す位は実現しなければ、日本に将来はないと思う。

その次に、将来の米中露の西太平洋地域における力のバランスがどのようになるかについて、日本は考えなければならない。もし、真の意味での日米同盟が構築され、且つ、日本の協力があれば、①米国が今後とも西太平洋地域で覇権を維持出来ると考えるのか;或いは、②米国は何れ第二列島線まで20年位の間に後退するのかの予測を立てる必要がある。それには、米国の能力と意思の両方を読まなければならない。

①の場合、現在の延長線上で考えれば、米国に協力して米国覇権のフロンティアになることが、活性化エネルギー(つまり超えるべき峠の高さ)が最少の道である。しかし、その場合、日本が米国と同盟関係を本質的なレベルまで深化させることが可能かどうかについて、考察する必要がある。つまり、米国が日本を仮想敵国から永久除外し、真の同盟国と考えることができるかどうかである。それは、米国が日本での核兵器の共同管理に同意できるかどうか、或いは、日本の核武装に同意出来るかという問題とほとんど同意である。

真の日米同盟には、歴史問題の克服が必要である。日本は、中国や朝鮮と歴史問題を抱えているので、相互理解が困難だと言う言葉は頻繁に聞くだろうが、日米の間の歴史問題についてはテレビや新聞ではあまり語られない。しかし、日米同盟の深化を達成するための日米間での歴史問題の克服は、中国とのそれよりも遥かに困難だと思う。

歴史問題を簡単に言えば、それは終戦前の半年間に行われた都市部空襲、中でも原爆投下に関して、日米両国間に存在する不幸な歴史である。更に、東京裁判という形での米国の日本に対する復讐劇とその判断の正当性を押し付けた戦後占領政治は、両国間関係に消し去る事ができないほどの傷を残した。それは現在、日本では乗り越えられている様に見えないことはない。しかし、米国在住の政治思想家の伊藤貫氏によると、池田内閣以降、日本政府は忘れた振りをし、経済を優先する道を選択しただけだと説明している。https://www.youtube.com/watch?v=Xx_tsuvu9i4(補足4)

②のケースでは、西太平洋の覇権を埋めるのは中国である。この場合、中国の覇権内で日本が生きる道を探し出さなければならない。そして、米国覇権内の属国的身分から、どのような身分で中国の覇権内に移動するかが問題である。その際、米国は日本から吸い取れる利益は全て吸い取ろうと努力するだろう。もし、米国が②のケースを想定しているのなら、その対日政策は既に始まっているかもしれない。

以上、問題点の整理をしたが、夫々についての考えについては、今後出来れば書いていきたい。

補足:
1)http://www.econfn.com/iwadare/page157.htmlにその4つの敵が解説されている。田中角栄は、毛沢東に本音をぶつける気にさせたのだった。
2)中国にとっては、第一の敵はアメリカ、そして、ソ連、ヨーロッパ、インドとなっただろう。
3)http://www.mag2.com/p/news/250663/2
4)伊藤貫氏の「核武装なき憲法改正は国を滅ぼす」という本に記載されているとおり、自主独立には核武装は必須である。
5)伊藤貫氏と西部邁氏の討論、「国家に必要な3つの要素」において、経済力、軍事力、価値観をあげている。価値観とは、国民が持つ形而上の価値、或いは哲学と言えるだろう。人間に必要な形而上の価値としての、独立心(independence)、尊厳或いは自尊心(degnity)、完全性(integrity)を現代の日本人忘れていると分析している。

2017年11月13日月曜日

「国際間は野生の原理が支配」を安倍総理はわかっているのか?

野生の原理は、強いものが残り弱いものは滅びるという生存競争の原則である。そこには善悪や正邪はない。国家間は、本質的にその野生の原理が支配している。国際法という申し合わせは、「法」ではない。「法」には、権威と権力が背後になければならないからである。

つまり、北朝鮮が日本国民を拉致したと、国際法違反だとか言って騒いでいる連中は、本当は何も分かっていない。自国民を守れなかった日本国が悪いのであり、取り返すべく戦わなかった日本国が悪いのだ。約束違反だという場合の根拠とすべき、日朝条約もない。国連憲章に違反すると言っても、国連軍は動いたか?動きはしない。つまり、国連は仲良しクラブに過ぎないのであり、国際法を法たらしめる権威も権力もないのだ。 

日本国民だけでなく、政治家(外国の意思で動く人を除く)も殆どが、その原理原則が判っていないようだ。政治家で、何かあると国際法を持ち出す連中は、それが判っていないことを白状しているのだが、同様に判っていない人間には気づかれないだけである。 

安倍総理が「北朝鮮へ圧力と制裁を」と国際舞台で各国首脳を説得しているのは、日本政府の発言として非常に違和感がある。それは、米国指導部の総意として、日本政府に核兵器を装備した独自軍を持っても良いという意思表示をし、それを予め国際的に明らかにしていないからである。(補足1) 

もし、米国が言うように北朝鮮が中距離核ミサイルまでを持っているのなら、日本国に北朝鮮軍とまともに戦う力などない。日本国民の1000万人が殺されても良いという覚悟を持って、米国の下働きをしているのだろうか。安倍総理はその点を十分承知していないのではないかと、国民の一人として危惧する。

トランプ大統領が、「日本は武士の国だから自分で北朝鮮を叩く可能性がある」と中国向けに言った。しかし、新聞などでは、これが重大発言のようには取り上げられていない。もし、米国が中距離までの核ミサイルを北朝鮮が既に配備していると考えているのなら、その発言は日本国民の米国への期待を裏切るものである。 

それらのことを総合すると、馬渕睦夫氏がチャネル桜などで言ってきたことは間違いだということになる。つまり、トランプは日本にとって歓迎すべき大統領ではない。そして、トランプの下で働いている様な安倍総理の発言は、日本の総理としてふさわしくないことになる。 

今回、あまり長い文章を書く気がしない。以下に引用の伊藤貫氏と西部邁氏の討論の動画を見て欲しい。伊藤貫氏の本、例えば「核武装なき憲法改正は日本を滅ぼす」(正確ではないかもしれない)などを既に読まれた方にも、推薦する。

伊藤貫「米国は中国人朝鮮人が核をもっても日本人だけは絶対ダメ」と題する動画: https://www.youtube.com/watch?v=2JV_UPDjW0U&t=651s それに伊藤貫氏の出演する同じシリーズの動画: https://www.youtube.com/watch?v=Xx_tsuvu9i4 など、勉強になる。

補足(追加:11月14日早朝)
1)ルトワック氏か誰かが、(アメリカの利益を考えて)核武装ではなく敵基地攻撃能力が大事だとテレビか何かで言っていた。しかし、それを日本人は信じてはならない。核武装は使わなくても効力を発揮するが、敵基地破壊能力は使わなくては何の効力もない。その効力の差は、前者が人民に直接恐怖を与える能力があるからだ。

2017年11月12日日曜日

米中の覇権争いと北朝鮮問題、日本の今後

1)世界には、現在二つのタイプの争い(又は戦争)がある様に見える。内戦或いは部族間闘争的なものと、覇権の戦争(争い)である。覇権の争い(以下覇権戦争)は、世界の幾つかの大国(覇権国)が、その経済圏や軍事圏の中に他国を組み込む際の争いと定義できると思う。勿論、明確に分けられないので、覇権戦争が部族間の争いとして表面に出ることもある。

覇権国間の戦争は冷戦として進む事が多いが、戦闘になれば大きな被害を覇権の境界領域で引き起こす可能性がある。北朝鮮の問題(紛争?)も、覇権戦争である朝鮮戦争が出発点であり、その延長線上で考えなければならない。何度も書いてきたが、日本の報道はその視点を無視したものが殆どであり、それは日本にとって致命的かもしれない。朝鮮半島の次は日本がその舞台となる可能性が高いからである。今回その視点で、朝鮮の部分をまとめてみたい。

改めて覇権戦争を定義すると、それは世界の幾つかの国家を舞台とする安全保障や物質及び金融経済の利益を巡る覇権国の影響範囲を巡る争いである。北朝鮮を囲む3つの覇権国は、中国、米国、ロシアである。(補足1)その中で、ロシアは現在若干オブザーバー的であり、北朝鮮問題に関係が深い主な二つの覇権国は、当然、中国と米国である。

米国が引いた覇権の境界(覇権ラインと呼ぶことにする)は、韓国、沖縄、台湾、フィリピンの西側の線であり、中国がさしあたり引いている目標とする覇権ラインは、所謂第一列島線であり、上記の東側である。北朝鮮の問題は、朝鮮戦争の続きだが、それを切っ掛けにして、この覇権ラインが現在のものから、アチソンラインに移るプロセスが始まると思うのである。
北朝鮮と韓国の対立の構図は、主に米国が第二次大戦後、東アジアを覇権の範囲と考えて作ったと考えられる。(補足2)アチソン国務長官の米国の防衛ラインは上の左図の赤い線であるという発言(補足3)で、金日成が南進したのが朝鮮戦争が始まり、最終的に現在の国境(休戦ライン)で休戦状態になった。休戦協定では確か3ヶ月以内に、高いレベルの平和条約の話し合いを始める様に要請するとなっていたが、米国はそれを無視した。

休戦から約22年経過した時、国連総会は1975年に朝鮮戦争の休戦協定を平和条約に置き換え、国連軍を解散することが望ましいと決議した(ウィキペディア参照)。国連軍というが、実質的には米軍であるので、北朝鮮は国家体制の承認を米国に要求したが、米国はイエスとは言わずに、北朝鮮問題を温存した。

米国は覇権の及ぶ範囲(以後覇権ラインと呼ぶ)の維持のために、朝鮮戦争の再開に備えるという口実で、米韓軍事同盟と在韓米軍が置かれ、毎年米韓軍事演習が繰り返されてきた。北朝鮮も強力な米韓軍に対抗して、朝鮮戦争再開に備えなければならない。それが、北朝鮮の軍備拡張の理由である。その軍備拡張に、中国やソ連は協力してきた筈である。

2)米国は、最近の急激な世界経済の膨張に伴い、覇権の及ぶ範囲を縮小せざるを得なくなった。(補足4)一方、中国は、その経済発展により覇権ラインを拡張しつつある。その結果、米国が東アジアに設けた、従来の覇権ラインが崩れ、中国の覇権ラインは近いうちに第一列島線(アチソンラインの少し東;九州から琉球諸島が線上にある)まで来るだろう。中国が目指すのは最終的に第二列島線である。小笠原諸島からグアム近辺に走る線である。(補足5)

北朝鮮の軍事的発展と米国との対立も、その様相は複雑であるが、その流れの中にある渦のようなものだと思う。つまり、中国覇権の朝鮮半島全体の包み込みプロセスの中にある。韓国は既に、中国圏に入る準備は出来ている様に思うし、沖縄に対しても中国は街宣車を走らせて、工作を進めている。沖縄県知事と韓国大統領は、同じくらい親中国の姿勢である。
上の図は、世界のGDPシェアを示している。1994年では中国は無視しうる経済規模だったが、20年後、日本のGDPは全く変化しなかったが、中国のGDPは20倍程になった。米国のGDPは3倍程に成長したが、それでも世界シェアは相当減少した。

この大きな世界経済の変化が、今回の覇権移動プロセスにあると思う。もう20年ほどすれば、日本はどのようになるのだろうか。政府は無策であり、マスコミは日本破壊工作と思われるような下らない議論と放送をし続けている。

3)複雑な北朝鮮問題のレビュー:

鄧小平(在位:1978/12/22~1989/11/9)の資本主義の導入により、中国と米国との関係が緊密化したために、中国にとって米国や韓国は取引の相手国となり、距離が近くなった。孤立感を徐々に深めて行った北朝鮮は、毎年の朝鮮戦争再開をシミュレーションした米韓軍事演習に脅される中で、当然の選択として核兵器の開発に向かった。中国やソ連(&ロシア)は、見えない様に応援しただろう。巨大な核抑止力を持っている両国に、北朝鮮の核兵器はそれほど大問題ではない。それに、独裁国家にとって、命の値段は(市民のそれも)安価である。

核兵器開発は、核拡散防止条約(NPT)を脱退したのちは可能な筈であるが、それは非核保有国(韓国や日本など)にとって脅威なので、国連でNPT脱退を思いとどまるようにと決議された。(国連決議825号;1993年)その後、地域の安定を害するとの理由で国連は国連憲章第7章に基づいて、北朝鮮に対して核兵器開発中止と制裁を決議する。(国連決議、1695、1874、2375など)(補足6)

米国は北朝鮮の核開発を止めさせるべく経済的及び軍事的圧力をかけた様に見えるが、本当は支援してきたのかもしれない。米朝枠組み合意(1994年)は、明らかに北朝鮮の核開発にプラスになっている。東アジアでのトラブルとそれに対する米国の関与は、米国の東アジアでの覇権を世界に確認させるプロセスとも考えられるからである。6カ国協議も、その為の儀式と考えれば、分かりやすい。

中国は、国連決議に違反する北朝鮮に対し、あからさまな支援が徐々にし難くなった。現在まで北朝鮮を支援してきたのは、所謂中国の江沢民派である。同派が勢力を持つ、瀋陽軍区(現在は北部戦区)の人民軍上層部は、北朝鮮利権とそれに伴う私的利益を手中に収めてきたのは想像に難くない。

金正日までは、その中国江沢民派との協力体制が出来上がっていたのだが、その次の金正恩になった時、そのパイプ役になっていた叔父の張成沢の存在が大きくなり、金正恩は自分の地位つまり命の危険を感じたと思う。

何故なら、金一家がトップを継承するのなら、長子相続の原則から、金正男が本来の相続者でなくてはならないからである。中国とのパイプ役の張成沢が金正男をトップの座におき、自分が権力を掌握しようと考えたとしてもおかしくはない。

その猜疑心もあり、金正恩は張成沢を排除するとともに、核武装を完成して国家として強い権力を持つという強績をあげ、それで自分の地位を確立したいと考えたのだろう。しかし、張成沢の粛清とそれによる中国との太いパイプの喪失、そして、国境を接する中国瀋陽軍区の人民軍上層部が徐々に習近平の支配下の者に移行するに伴い、益々孤立化を深めることになる。

その様に考えれば、金正恩のこれまでの姿勢は至極当然であり、マスコミで宣伝されているような、野蛮とか暴君という批判は全くあたらない。

4)独裁国家でも、そのトップは民衆の支持がなくては安泰ではない。自分の確かな実績をつくりたいのは、一帯一路構想やAIIB(アジアインフラ投資銀行)で中華圏の拡大を目指す習近平も同じである。一帯一路構想では、西欧諸国からも金を集めたAIIBの融資で、周辺国、例えばカザフスタン、などのインフラ整備を行い、中国の雇用と企業利益、更に、それらの国の富の収奪を考えているだろう。人民元で融資し、工事費用を人民元で回収するということは、元の基軸通貨化の最初のステップと考えられる。その構想は、非常に良くできていて、日本の行政など比較にならないレベルの戦略的能力を中国政府は持っていることを示している。

習近平にとっては、江沢民派は中国国内での大きな対抗勢力であった。その勢力圏の瀋陽軍区と北朝鮮を自分の勢力圏におさめるために、北朝鮮との関係改善も当然重要事項として考えている筈である。その一方で、経済的関係が深い米国の敵となった、金正恩を支援することは難しいだろう。

しかし、金正恩と米国、韓国、日本などが対立し消耗することは、第一列島線までの覇権域をさしあたりの目標にしている習近平にとっては大きな利益である。そう考えると、中国の北朝鮮問題に対する関与の仕方が見えてくる筈である。北戴河会議で結論されたという、“米国と北朝鮮を消耗させる様に放置する”方針を貫くのである。(今回のトランプ=習近平会談)

差し当たり、アチソンラインまでを習近平は目標とするだろう。その中国側には、韓国も台湾も尖閣諸島も含まれる。その際障害になるのは、台湾の政権と日本の政権である。更に、独立色を強めている北朝鮮の金正恩である。韓国の政権は現状で、直ちに中国の勢力圏に入りうるので、全く問題ではないと思う。(補足7)

米国の覇権は第二列島線まで後退するのは必至である。それは米軍がグアム島へ移転する計画を進めていることからも明らかである。https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM27H3O_X20C17A4EAF000/ そのような情況下で、米国も北朝鮮とまともに軍事衝突することは、避ける筈である。韓国まで中国の覇権内に入る将来を考えれば、現在の休戦ラインの維持に努力するのは無駄なことだからである。

5)日本に対する核兵器の脅威は、北朝鮮の核兵器だけに限らない。しかし、日本列島が中国の勢力圏と接する時、日本が米国の覇権ラインの維持に努力するのなら、米国はそれを助けるだろう。もし、その気がないのなら、何れ中国が言うように米中で太平洋を二分することになるだろう。つまり、第二列島線まで中国が支配するのなら、それに日本も主体的な行動をとらないのなら、敢えて北朝鮮の核兵器を取り除くために、米兵の血を流すことはないだろう。

そこで日本のとる戦略が問われる。口先だけで、米国と一緒に戦うと言ってみても、米国に対する説得力はない。米国が日本を仮想敵国から永久除外し、真の同盟国と考えることができるかどうかであり、日本がそれにふさわしく振る舞うかどうかである。もし真の同盟国になれば、核兵器の日本での共同管理に米国が同意し、中国の太平洋への進出は暫くはアチソンラインで止まるだろう。その時、朝鮮(統一朝鮮?)の歴史問題を持ち出した脅迫も、何の効果もなくなるし、米国本土の慰安婦像は全て撤去されるだろう。

日本が米国の真の同盟国になると口先で言っても、権力の中枢にいる人間が靖国神社に参ることを義務だと考えている現状では無理だと思う。つまり、明治以降の歴史のレビューが必要だと思う。それは、天皇を政治利用した明治の日本のシステムとそれを改めることが出来なかった支配層の所為で、日本が軍事独裁国となり東アジアの支配に突き進んでしまったことを誤りだと評価することである。それができれば、日本と米国の同盟関係は新しい段階となるだろう。それは、政権与党が民族主義者と別れることを決断しなければならない。

追記:5)は、日本が根本から変化すれば、米国の対日姿勢が変化すると仮定した場合です。その目星がつかなければ、9日のブログに書いた様にロシアとの関係強化しか、日本に道は残されていないかもしれない。(18:30)

補足:

1)世界には主に4つの覇権国家がある。それらは当分の間、真に独立した国家(群)として存在する。それ以外の国は、それらの中の勢力圏の中になければ、安定的に存在できない。それらは、ソ連、アメリカ、ヨーロッパ、そして中国ではないだろうか。
2)朝鮮戦争が、初代大統領に据えた李承晩の韓国と金日成の北朝鮮の間の戦争であり、それに国連軍及び中国人民軍が介入したのなら、休戦協定には形だけでも韓国軍将軍の署名がなくてはならない。しかし、韓国の将軍の名前はない。それは、国連軍の名を借りて、米国が戦争を乗取ったのか、或いは元々米国の戦争だったからではないだろうか。(最初の図参照)
3)アチソン国務長官のこの発言はうっかり言ってしまったと言う説もあるが、わざと言ったと考える方が分かりやすい。つまり、米国は朝鮮戦争を起こし、そこの現場に居座り、ソ連や中国という共産圏の見張り台を作りたかったのである。
4)覇権国は、経済圏の中心でもある。米国はその中心にふさわしく、国際決済通貨の米ドルを発行している。決済通貨は、米国中央銀行FRBの負債として発行される。FRBはそれに相当する資産(多くは米国債)を国内に保有しなければならない。世界経済が膨張すれば通貨への需要が増大し、その信用を維持するだけの経済力を持つことは困難になる。さらに、黒字国は正常な為替を維持するためには、資本を流出させることが重要だが、それに答えているのが主に米国債である。IMFが加盟国から出資を受けて、それに対応する債務証書として特別引き出し権(SDR)を分配している。それを通貨と考えれば、世界通貨的ではある。しかし、世界国家の財務省としての格がなければ、無理だろう。
5)数年前の中国漁船団によるサンゴ乱獲騒動は、小笠原諸島までの距離感を得るための演習だった可能性が高いと思う。
6)国連決議1695は、非常任理事国の日本が中心になってまとめた決議。国連憲章第7章により、制裁を含めた決議にする予定だったが、中国とソ連が拒否権を行使すると主張したため、制裁は含まれなかった。その後、決議1718,1874など制裁を含む決議がなされた。最新のは、2017年9月の2375号である。日本が中心的に活動していることに、日本国民は注目すべきである。
7)韓国の文在寅大統領は、北朝鮮を混乱なく抱き込んで、中国の友好国である統一朝鮮を作りたいのだろう。しかし、それも至難である。北朝鮮は、韓国をまともな交渉相手とは見做さないだろうし、韓国は併合の対象であっても合併の対象ではない。韓国政府の解体と韓国内での多大の犠牲を覚悟できないのなら、米国側につくしかない。

2017年11月10日金曜日

キッシンジャーの最後の仕事?

トランプ米国大統領のアジア訪問の峠は、中国の習近平との会談であった。そこでは、日本で偉そうに見えたトランプも小さく見えたのは私だけだろうか?あの歓待に目がくらんだのか、あれだけ中国の悪口を言っていたのに、今度は習近平に完全迎合である。I don’t blame chinaだそうだ。

孫娘が中国語で歌い踊る録画を人民公会堂の晩餐会でスクリーンに映し出し、晩餐会では、メラニア夫人はチャイナドレスで登場したという。まるで、朝貢しているみたいだ。

宮崎正弘氏のメルマガでは、「習近平を徹底的に持ち上げ、面子を立てて譲歩を引き出せと助言したのは、おそらくキッシンジャーであろう」と書いている。どういう譲歩なのだろう。習近平は、トランプとの共同記者会見でも明確に北朝鮮との対話路線を強調している。トランプのこれまでの姿勢が総崩れのように見える。

以前書いたように、日本人はユダヤ人に比較的親近感を持って居ても、キッシンジャーを始めとするユダヤ人は日本人には敵対心を持っているだろう。おそらく、第二次大戦に至るプロセスの中での満州での事件、シモン・カスペの誘拐殺人事件を始め、ヒトラーと同盟関係にあったことなどが原因だろう。杉原千畝を持ち上げるのは、日本帝国全体としてはユダヤ人を大切に扱った歴史を隠し矮小化するためだろう。

  キッシンジャーの反日姿勢を始め、米国支配層の根本にある反日姿勢は、そこに原因があるのかもしれない。トランプの陰に、ユダヤ人のクシュナーという娘婿の姿がちらつく。

イヴァンカが日本に来た理由がわからないといった評論家がいたが、それはクシュナーを始め、一族の中国での親密な姿勢を一部中和する意味だろう。イヴァンカが訪韓すれば、その意味が消えるので、敢えて訪韓しなかったのだろう。トランプを始め米国は、韓国はやがて北朝鮮の一部になることを黙って見ていると決めているのかもしれない。その前の一稼ぎのセールスが、アジア訪問の唯一の実質的成果なのだろう。

習近平の中国は、「新しい大国関係」を演ずるためにも、米国と安易な妥協を拒否した。トランプはやがて失脚すると思う。今回の中国訪問の様子では、無能だと決めつけられても当然である。キッシンジャーの最後の仕事は、トランプを潰すことだったかもしれない。

これは、全くの素人のメモなので、適当に読み飛ばしてください。

2017年11月9日木曜日

米国も中国も北朝鮮問題を外交の武器にしている:日本にはロシアとの関係強化しかないかも

中国は、北朝鮮問題に対して何か効果的なことをやる予定はないだろう。それは北戴河会議で、北朝鮮と米国との間は消耗戦をさせると決めたことに沿っている。米国も北朝鮮の攻撃など、自分からはやりたくはない。

トランプ大統領の「北朝鮮の脅威に適当な対処がなければ「武士の国」である日本が自ら事に当たる可能性もある」と言ったという報道はそれを示している。韓国は勿論のこと、ロシアも北朝鮮を応援するが、制裁などすることはないだろう。  http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2017/11/blog-post_7.html

つまり、日本だけが北朝鮮の核兵器のターゲットになりうる存在である。北朝鮮にとって、日本を脅すことに関しては何の躊躇もいらない。日本は平和ボケで、核兵器の意味すら知らない。日本人の多くは、核兵器を持つことは、戦争をして、核反撃で被爆(殺される)することだと考えている。国民の多数を支配しているのは、論理ではなく言霊だからである。 

米国はかなり北朝鮮の核兵器の小型化技術やICBMへの搭載技術などの進展情況を掴んでいるだろう。まだ、弾道ミサイルに搭載するほどの技術を得ていない可能性もある。北朝鮮危機は、トランプのBig Stickなのかもしれない。トランプ大統領は、米国からアジアに来た兵器のセールスマンなのかもしれない。習近平は商談ではこちらが上だと言わんばかりに、28兆円の商談で応じた。 

北朝鮮は、米国の現在のレベルの脅しで非核化なんか同意する筈がない。空母がウロウロしていても、何もしないことは分かっている。米国からリークされている可能性すらあるだろう。このままでは、立派な核保持国が半島に出来るだろう。 

唯一それを防ぐ可能性があるのは、日本の核兵器開発である。(日本人は、伊藤貫氏の本を勉強すべきだ。)その計画が具体化しそうになると、米国は中国と協力して圧力をかけ、日本に核保持の断念を強制するだろう。トランプも、日本と日本の政治家を馬鹿にしている。それを日本のマスコミは隠している。 

「中国の核が世界を制す」(伊藤貫)と、日本は朝鮮(統一)と中国のATMになるだろう。暗唱番号は、慰安婦と南京大虐殺など「歴史認識問題」である。恐らく、それらを避けようと思えば、唯一残された道は、ロシアとの関係強化だろう。つまり、日本がロシアカード(補足1)を保持すると米国が思えば、上記のシナリオが変わる可能性もある。

  中国とロシアは永遠の友好国たり得ないのは、地政学的に明らかである。米国は、イスラム圏とロシアを敵に廻すには中国と宥和的に成らざるを得ない。中国が日本を敵視する限り、米国は日本にとって永遠の同盟国たり得ない。(補足2)そして、これまでの70年間、米国は日本を隷属させることしか考えなかった。中国が日本と本質的に友好国になるとしたら、革命後だろうがその確率は小さいだろう。 

従って、日本にとって対米国&対中国の対策としては、当分ロシアカードしか残されていないのだろう。(補足3)ロシアが日本に対して真摯な態度をとるのなら、過去を乗り越えて関係を構築する共通のメリットがある。それは北方諸島の帰属問題を、日ソ共同宣言を遵守することで解決することだと思う。

補足:
1)ロシアカードと言う言葉が外交的に特別な意味を持つかもしれない。ここでは、ロシアとの関係強化を武器にすると言う意味で使う。
2)米国は日本と先の大戦の時に、忘れられない大罪を犯してしまった。それが過去に送られることを願っているだろう。それには二つのシナリオがある。いずれも、日本にとっては悲劇的なものである。詳細は想像してほしい。

3)それは、非常に危険な道である。そんな道しか残さなかったのは、戦後の吉田茂内閣以来の米国追従策以外、何も考えなかったのが原因だろう。
(最終編集11/10/18:15; 変更が多くなり申し訳ありませんでした。)

2017年11月8日水曜日

学校でのイジメなどの社会の病気は、個人を傲慢にした戦後教育が原因だろう

1)同朋大名誉教授の中村薫氏が中日新聞(11/7;12版15面)に無量寿経を引用する形で、最近、人間関係で互いに緊張感が不足していると書いている。お経の言葉は「汝、起ちて更に衣服を整え合掌恭敬して、無量寿仏を礼したてまつるべし。」である。

中村氏は、この言葉を引用し「互いに衣服を整え、緊張感を持って、一人ひとりが、互いの人格を敬い合う人間関係の樹立が大事だ」と説いている。

「権力におぼれ、自分たちの主張を無理やり通そうとする国会議員。また、当選のためなら無節操に党を変わる議員など、襟をただした緊張感が足りないのではないか。家庭においても、嫁姑だけでなく、親子など家族同士で憎しみあうことが増えた。」と。

なるほどと思って、ネットサーフを始めた。そうすると、このことばは有名であり幾つかの解説を見つけた。下に紹介するのは、真宗大谷派専念寺の釈祐耕住職の解説である。

お釈迦さまが、長い大無量寿経を正しい姿勢で聴聞していた阿難尊者に「あなた、それでいいですか」と注意された言葉だという。真剣に聞いているつもりでも、仏さまを忘れて、いつの間にか自分が勝手に解釈した世界に座り込んでしまう人間の習性に、「起ち上がりなさい」とおっしゃった言葉だという。 http://www.sennen-ji.jp/moty/archives/news/20160101085848.html

2)最近、個人が公の空間に出ても、独居の時と同じ感覚で、緊張感をなくし唯我独尊というか、傲慢になっているように見える場合が多い。また、現代の日本社会に、“自分らしさ”を発見し、それを前面に出して生きることにこそ然るべき人生であると考える風潮がある。そして、そのプロセスに対して“自分探し”という表現が屡々用いられる。

これら個と社会の関係において、個を過剰に評価し尊重する風潮は、個の放任となり、現代の多くの“社会病”の原因となっていると思う。これは日本だけでなく、世界的な傾向かもしれない。(補足1)

しかし、人間は高度な社会を造って生きており、そこでは野生において個が持つ要素の内、多くを社会に委ねている。そして個の要素は、個が持つべき社会に規制された部分とそれ以外の個性として広がりのある部分に分けられる。この標準的な部分をキッチリと持つ様に育った人間を紳士(淑女)と呼ぶのだろう。

初等及び中等教育で大事なのは、社会で生きられるように、社会に貢献できるように、社会に規制された部分を身につけることである。それにプラスして、個性を伸ばすこと、そしてそれを社会の成長に活かせる様に、自分を作ることだと思う。(補足2)

その為に、初等教育においては先ず敎育すべきは、緊張感をもって先生の授業を受けるという姿勢である。中等教育までは、社会の仕組みとその中で生きるという人としての初歩を徹底教育すべきである。個性を伸ばす部分では、上記社会の成り立ちと教育の目的とともに、教えるべきである。

3)イジメについて:

そのような敎育をしておれば、学校におけるイジメなどあまり起こらないだろう。新しい知識を教わるという緊張感が学校の雰囲気を支配しておれば、その緊張感は生徒の「自分勝手」を封じる筈である。

学校のクラスルームは当然のことだが、一つの社会である。その社会への貢献、社会の成長と防御などを、生徒が自ら実践するのが、義務教育での必須であるのなら、社会の崩壊であるイジメを無くすることは、教育の一環に含まれる筈である。

自分を抑え、過去の人類が築いた叡智に学ぶ姿勢を持った人間は、自分を見る目と同時に社会を見る目ももっているだろう。その基礎知識を身に着けた人間には、その社会の欠陥や不足と同時に自分の適正も見えている筈である。

「自分探し」とは、自分を知ると同時に自分の生きる社会を知ることである。従って、社会を十分学ばない者には、自分のあるべき姿など永遠に見えないだろう。(補足3)

4)現代社会は、個人が襟を正す姿勢を奪ってしまった。その原因は、恐らく戦後英米文化を誤解して導入したのが一因だろう。その原因の一つに戦後の占領政策も大きな要素だろう。何故なら、上記社会に適合し、社会に貢献し、社会を防衛する姿勢は、日本古来の姿勢であり、日本が再び大国として復興しない様にそれを徹底的に破壊したのが、WGIP(戦争犯罪情報プログラム;war guilt information program)だと思う。

自由、平等、そして人権は、近代西欧社会の大事な概念だという。しかし、それらはあくまでも社会の中の自分について、権利の側面を言ったに過ぎない。それを最大限に主張し、義務の部分を無視する様に育てられたのが、日本社会党などの左翼政党である。それをGHQは支援したことはよく知られている。(補足4)

社会の中に生きることを運命付けられた人間には、当然社会に於ける義務を負う。個人の自由は、社会のルールに従い、社会を防衛すること、他人の自由を尊重するという義務を知る人間のみの権利である。平等も、社会のルールが定める平等であり、個人が平等・不平等の決定権を持つ訳ではない。人権についても、現在の世界では国家あっての人権であるから、社会国家の安定に寄与する個人のみのものである。(補足5)

つまり、自由、平等、人権などの言葉を使う時に、社会の中の自分という視点で、それらの言葉が理解できていることが必須である。紳士淑女は個の主張においては謙虚であり、社会や国家を守るという意思と勇気を持つ筈である。(補足6)ただ、戦前の国粋主義は、国家は個人の為にあるという第一原則を無視しているので、論外である。つまり、国民全員が積極的に政治に参加し、政治家のレベルをあげることが大事である。(11月9日6:50編集)

補足:

1)世界がポピュリズムの方向に向かっていることは、それを示している。
2)戦前の国の為に身を捧げるという戦時敎育の反動と言えるだろう。しかし、長い歴史と高度な文明を持つ社会では、個人の社会への貢献なくしてはそれを維持できない。能力に限界のある個人は、自分探しよりも社会の構造やダイナミックスを学び、そこに自分を適応させる作業こそ急ぐべきことである。
3)ドイツの政治家、ワイツゼッカーの言葉「過去に目を閉ざすものは、現在に対しても盲目である」は有名だが、「世界に目を閉ざすものは、自分に対しても盲目である」とも言えるだろう。自分とは、時空4次元空間の中の原点であるから、これらは当然である。
4)GHQ民政局が、社会主義政党を支援したことはよく知られている。(ウィキペディアの55年体制参照) また、米国における社会主義者の進出、マッカーシーによる赤狩りについては文献も多い。
5)この社会、それを包含する形での国家に対して、それらを害する行動をとるものに人権はない。
6)紳士であることを目指す意思を個人に植え付けることが、教育の目的である。札幌農学校のクラーク博士の言葉を引用して、ヤフーの知恵袋に質問の形で投稿したものを引用します。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1155470071

2017年11月7日火曜日

日本は北朝鮮問題の正面に立つのは間違いである:米国と中国に任せるべき

1)トランプ大統領の東アジア諸国訪問の大きな目的の一つは北朝鮮問題であり、もう一つは対外貿易不均衡の解決だろう。その二つは、密接に関係していることは、日本に米国製軍需品を買うべきだというトランプ発言で明らかである。

大事なことは、北朝鮮の核兵器は日本にとって脅威でも、米国特にその支配層にとっては脅威ではないことを日本は知るべきである。その結果、北朝鮮の核兵器は米国にとって足枷というより、日本を始め近隣諸国との折衝の武器となっている。

そのような理解に基づけば、日本は外交関係において主な交渉窓口を米国だけとするのは非常に危険だと思う。今朝のテレビ「スッキリ」において、ロバート・キャンベル氏が言っていたように、安倍総理が機嫌よくトランプ大統領と話をして、北朝鮮問題は米国に協力しておれば大丈夫だと思っていても、中国へ行き習近平主席と話し合った途端に日本での話がひっくり返る可能性がある。

トランプ大統領は8,9月に北朝鮮が日本列島を超えて打ち上げたミサイルを日本が迎撃すべきだったと語ったという。https://jp.reuters.com/article/idJP2017110401001904 また、最近のAFPの報道によれば、「トランプ大統領は11月2日、中国に対し、北朝鮮の脅威に適当な対処がなければ「武士の国」である日本が自ら事に当たる可能性もあると警告した」という。http://www.afpbb.com/articles/-/3149247

つまり、北朝鮮を非核化させるための攻撃は日本や中国にやらせて、日本にはそのための武器を売りつけ、中国は消耗させたいということである。それは、「アメリカ第一」で国際政治を進める米国にとっては確かに賢明な方法かもしれないが、東アジア諸国にとっては迷惑な話である。何故なら、何度も本ブログで書いている(下にも書いた)ように、朝鮮戦争の終結責任、そして終結が遅れたための北朝鮮の核武装に対する責任は、米国にあるからである。

2)中国共産党の最高機関である中国共産党全国代表大会(中共党大会)が、今年10月に開かれ、新しいチャイナ7が選ばれた。李克強を除く5人の中央政治局常務委員のうち、江沢民派だったのは韓正一人だが、現在韓正氏も習近平に忠誠を誓っているという。(補足1)

その中共党大会の2ヶ月程前に、北戴河会議という長老を囲む秘密会議が慣例に従ってひらかれた。通常、そこで中共党大会での決議事項の原案が決まる。その内容について、元警視庁通訳捜査官の坂東忠信氏が、あるネット記事の内容として紹介している。 https://www.youtube.com/watch?v=4wJc3Mb5dGU&t=3213s

その信憑性についての判断は慎重でなければならないが、以下のようなものである。
1。ロシアとの関係強化し、ロシアにヨーロッパや日本など他国を近づけるな。
2。北朝鮮と米国との間は消耗戦をさせろ。飛び火してこない様にしろ。
3。インドとは今はあらそうな。

以上は実際に北戴河会議で話あわれたかどうかと関係なく、中国の姿勢として合理的であり、従って信憑性が高いと感じられる。

夫々、非常に重要であり、東アジア外交の鍵となるような項目である。ここでは、短期的に北朝鮮問題を考えるために注目すべきは2。で、中国は北朝鮮問題に積極的に関与したくないと言うことである。北朝鮮への制裁決議があっても、制裁する振りだけは十分するが、実質的には殆ど何もしないことなど、今までの中国の対応を考えると、2。は一環した中国の姿勢だと合点が行く。

この件を考える上で、朝鮮戦争の歴史を振り返ることが必須である。つまり、国連総会は1975年に朝鮮戦争の休戦協定を平和条約に置き換え、国連軍を解散することが望ましいと決議した(ウィキペディア参照)。国連軍というが、実質的には米軍であるので、北朝鮮は国家体制の承認を米国に要求したが、米国はイエスとは言わずに、北朝鮮問題を温存した。

もし、韓国を休戦協定に参加させ、その後平和条約に休戦協定を書き換えておれば、今日のような事態には至ってなかっただろう。従って、今日の北朝鮮問題は米国が解決する責任があった筈である。

中国や最近ではロシアも、北朝鮮が核大国化するのに協力したのは確かだろう。中国の動機は、上記2。にあるように、北朝鮮問題を大きくして利用することだろう。ロシアも北朝鮮に味方し、且つ、日本と協力して千島開発をするなどして、西太平洋に覇権を拡大したいのではないだろうか。

東アジアにある4つの核保持国の内、一つが制御不能だというのなら、残りの3つの核保持国がその解決に当たるべきであり、日本と韓国はその責任の外に有る筈である。それにも拘らず、日本を巻き込もうとしているトランプ米国大統領とそれに協力する安倍総理の方針は、日本国を崩壊させる最初のステップとなる可能性がある。

ここは、石破茂氏が言うように日本が核技術を持つなり、核兵器を持つなりして、独自に北朝鮮の核の脅威には屈しない体制を築くべきだという姿勢を周辺諸国に示すべきである。http://www.sankei.com/politics/news/171105/plt1711050026-n1.html そのためには、外交の表舞台では中国やロシアとも、もう少し親密な関係を築くべく演出すべきだと思う。

補足:
1)5人は、栗戦書67、汪洋62、趙楽際60、王滬寧62、韓正63である。夫々についての詳細は、ニューズウイークの記事にある。李戦書は古くからの有人で、王滬寧は前政権時から中枢で仕事をしてきた知恵袋的存在だという。中国に詳しい川添恵子氏は、この二人が習近平の両腕だと表現していた。同氏によれば、趙楽際は、習近平の祖父と趙楽際の祖父の兄弟が関係深い間だという。また、韓正は江沢民はだったが、北朝鮮利権がなく、習近平に忠誠をちかっていると言う。 http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/10/post-8767.php

2017年11月6日月曜日

「アポロ計画陰謀論のウソ」はウソか?:ある閲覧数の多いブログ記事について

「アポロ計画陰謀論のウソ」と題するインチキブログがあったので、紹介する。https://matome.naver.jp/odai/2147856572723596101 政治的目的で書かれているようで、理系人間の私からみれば、説得力など皆無である。それでも、(アポロ計画、陰謀論)でグーグル検索すると、ウィキペディアの記事の次に出て来るので、敢えて反論する気になった。因みに、私はアポロ11号で人が月に送られて帰ってきたというのはウソであると思うので、その根拠を下の記事としてまとめた。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2016/12/11.html

ここで議論するnaver.jpというサイトにある記事では、怪しげな論理を使いアポロ計画で宇宙飛行士は月面に立った筈だと訴えている。箇条書きに、可怪しい(可笑しい)と思う点について少しだけ指摘しておく。

1.ブログ記事の表題「アポロ計画陰謀論のウソ」は、何か変である。アポロ計画は米国の巨大国家プロジェクトであり、陰謀ではない。

2.「今、月に行けない理由は、膨大な資金が必要だからである」と書いている。アポロ計画の予算は250億ドルで、それは現在の貨幣価値で1350億ドルになると試算し、それだけ高額な予算がかかるので、今では月に行けないというのである。しかし、アポロ計画の費用の殆どは、技術開発の費用の筈である。そこで集積された技術を再現して一度だけ月に行くのなら、アポロ計画の予算の数%の資金で可能だろう。こんな誤魔化しをするのは、政治的動機で書いたからだろうと思う。 (補足1)

3.宇宙飛行士が月着陸をしたという発表がウソであるという主張を始めたのは、“地球は球ではなく聖書にある通り平である”と主張するキリスト教の一派であると書いている。

この“アポロ計画で月に人が立った”というのは捏造であるという説で、まともに取り上げるべき最初のものは、ロケット開発の会社に勤務していたビル・ケーシングの本(1976年)だろう。そして、重要なのはそれを取り上げ且つ独自の情報を収集して「人の月面着陸は捏造である」と論じたBBCの放送である。

 ここで記事を終わっても、上記サイトの記述が科学的議論の対象たり得ないことが分かるだろう。また、ダラスでアポロ計画を始めたケネディ大統領が暗殺されたが、その時にケネディ大統領は宇宙人の存在について演説の中で喋る予定をしていたという。その意図について10月27日の本ブログに書いたが、それは「アポロ計画」を知る重要なヒントになると思う。

4.月面に残されたくっきりとした靴跡の問題については、「水も空気も存在しない月面の砂(レゴリス)は、粒が細かい上に侵食を受けていないため丸まっておらず、地球の砂に比べて非常に固まりやすい性質がある」と書いている。

月の砂“レゴリス”で実験した様な記述である。筆者が飛行士なら、その特殊な砂を1g程持って地球に帰る。何故なら、あのような靴跡は、砂粒子表面の界面張力と水の表面張力の両方が、働かなくては出来ないと考えるからである。それら界面張力の働きにより、水を介して密に接触した二つの砂粒子が容易に離れられないからである。

仮に砂粒子が丸まっていなくても、あのような靴跡は出来ない。これは物理化学的考察である。反論があるのなら、同じく物理化学的にすべきである。また、砂を靴で踏みつけた時に静電気が発生すれば、それは靴跡を崩す働きをするだろう。

5.https:www. flick.com/というアドレスにあるアポロ計画の書類を紹介している。何故、NASAのアーカイブを紹介しないのか。NASAのホームページのかなり下の方のディレクトリにアポロ計画の成果が紹介されている。しかし、データの数、写真の数は非常に貧弱であり、人類初の月面着陸という誇るべき成果にふさわしくない。

6.バン・アレン帯については、ロケットで無事通過できる可能性があると思うので、私は議論しない。

7.アポロ宇宙船の着陸跡の写真を紹介している。それに十分説得力があるのなら、アポロ計画での発表を疑う議論はなくなるだろう。しかし、写真の捏造など、だれでも出来る。また、「月の石」についての議論で、表面に微小なクレーターらしきものが見えると書かれている。しかし、このブログの筆者が屡々引用しているウィキペディアで「月の石」に関する説明を見たが、そこにはそんな写真はない。

尚、上に紹介した私のブログ記事では、NASAの発表した画像にある地球の半円形の像と、着陸地点で建てた星条旗の旗の影の長さが矛盾することを示した。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2016/12/11.html

補足:
1)ペンス副大統領は今年(2,017年)10月に、再び人を月に送ると表明した。http://sorae.jp/030201/2017_10_06_nasamoon.html アポロ計画後21世紀に入ったばかりの頃に一度、米国は再び月に人を送ると発表したが、中止になった。今回は是非やってもらいたい。1960年代に蓄積した知識が本物なら、予算的にも技術的にも簡単に行ける筈だ。

改憲反対集会とその中での元最高裁判事のスピーチ: 情けない日本の姿

11月3日は憲法公布から71年目にあたる。中日新聞26面(12版)によると、国会周辺で憲法9条改定に反対する集会が開かれ、元最高裁判事の浜田邦夫氏も9条改憲反対のスピーチをした。

この記事によると:
“集会では、「憲法の番人」である最高裁の判事だった弁護士、浜田邦夫さんも壇上に立ち、「民主主義、立憲主義、法の支配を守るため、国民一人一人が勇気を持って発言していくことが重要」と主張。「改憲の検討自体は反対しない。しかし、安倍政権の独裁的手法を認めるわけにはいかない。安倍政権が目指しているのは、戦争ができる普通の国。戦前の日本に戻るコースだ」と訴えた。”

この新聞は何を考えて「憲法の番人」なる言葉を、最高裁の形容に用いているのか?最高裁は長沼ナイキ事件で、自衛隊は憲法に違反するかどうかが問われた時、“統治行為論”という屁理屈で憲法判断を避けた。憲法判断を避ける裁判所をどうして「憲法の番人」と呼べるのか? (筆者は最近、最高裁の憲法判断を避ける姿勢を批判したばかりである。10月24日と 10月30日の記事参照)

この記事によれば、浜田邦夫氏は2001-2006年に最高裁判事を務め、退官後の2015年の参議院公聴会で、集団的自衛権行使容認を違憲と指摘。それに関して、「民主主義の危機に黙っていられなかった」と語ったと書かれている。

この元判事は、全く我が国と国民の安全など考えていない。何故なら、現在の日本は「民主主義、立憲主義、法の支配」を守らず、核ミサイルを我が国に向けて、「日本列島を海に沈めることもできる」と脅す国と、それよりも巨大でもっと恐ろしいかもしれない独裁国を隣国に持っていることなど、念頭にあるとは思えないからである。この元判事には、現在の憲法を堅持し、それに従った外交でどのようにして国民の生命と安全を守れるのか、答えて見ろと言いたい。

安倍政権は独裁的手法を用いると言って非難しているが、それも全くおかしい。何故なら安倍政権は、選挙で選ばれた国会議員たちにより、法に従って作られた政権だからである。3日前にも、我々日本国民により10日程前に新たに選ばれた国会議員たちにより、安倍晋三氏が再度総理大臣として適任だと確認されている。それをまるで民主主義に反する政権の様に言うのは、小学生の論理さえ持ち合わせていないか、他国の利益のために発言しているとしか思えない。

集団的自衛権行使を可能にするという憲法解釈も、国民が信任している内閣のものである。それに反対しているのなら、今回の選挙でも自民党が勝利をおさめる筈がない。

昨日の集会で、「安倍政権が目指しているのは、戦争ができる普通の国。戦前の日本に戻るコースだ」と訴えたそうだが、「戦争ができる普通の国」を目指すことのどこが悪いのか?(補足1)普通の国になるのがいけないというのは、異常な国のままでいてほしいということだろう。また、普通の国に戻ることが何故戦前の日本に戻ることなのか?何も考えないでいい加減なことを大衆の面前で喋らないでほしい。ボケているのなら、家に居ろと言いたい。

兎に角、最高裁判事がこのような人から構成されていては、まともな機能は果たさないのは当たり前だろう。非常に寂しく悲しい気持ちになる。

補足:
1)ワシントンの米戦略国際問題研究所の上級顧問である、著名な戦略家のエドワード・ルトワック氏は、「戦争にチャンスを与えよ」(訳本は2017年4月出版)と言う本を書いた。20世紀の前半までは、この本の主張でもある、「戦争は外交の一環である」という考え(クラウゼウィッツの戦争論)が世界の標準だった。そして現在でも、戦争ができる軍事力は、戦争を避ける軍事力でもあるという厳然たる事実に変わりはない。日本人の「戦争だけはしてはいけない。そのためには非武装が良い」という全くナイーブな考えなど世界に通用しない。全ての日本人は、中国の李鵬首相(当時)がオーストラリア首相が訪中の際(1993年)に言った言葉「日本は取るに足らない国である。30年程したらだいたい潰れるだろう」を反芻すべきである。

2017年11月2日木曜日

二つの宗教:自分が生きる為の宗教と他人を支配する為の宗教

宗教には表題に書いた二つのタイプがあるようだ。また、代表的な宗教は、二つの側面を持つようだ。以下は先日宗教について書いた文章の続きである。(22:45 大幅に編集しました。)

1)日本人にとって身近な宗教である神道を考えてみる。神道での二つの宗教とは、オリジナルな神道と伊勢神道(筆者の命名)である。オリジナルな神道は、自然に対する畏敬の念がそのまま宗教になったものであり、所謂アニミズムに属する。何度も取り上げて恐縮だが、深沢七郎の小説「楢山節考」の中に出てくる楢山信仰がその例である。高い山を神格化し、そこに参ることが死出の旅の始まりであるという宗教である。楢山参りは、人生設計の中にしっかりと組み込まれている。

神道を信じることは、人として生まれた自分も自然の一部であり、自然は全体として調和的に存在し動いていると信じ、感じることだと思う。それは、草木、昆虫、動物から、岩、山、川、海、空に至る自然全てに対して畏敬の念を持つことであり、日本古来の文化となって定着していると思う。

一方伊勢神道は、世界を創造した神とその子孫である天照大神の信仰である。それは、天照大神の子孫である天皇家に対する忠誠を、人々の間に醸成するという政治的意図を伴っている。原始的アニミズムに分類されるオリジナルな神道と比較して“先進的”と言えなくもない。(補足1)

伊勢神道は、天皇を国家の象徴とし国民団結の旗頭とする意味があり、それは日本人がこれまで国家を維持し生き残る上で、大きな役割を果たしただろう。しかし、靖国神社を建立し兵士を鼓舞する方向に伊勢神道を用いたのは、結果として宗教へ頼り過ぎたのではないかと思う。そして、先の大戦での大きな犠牲は、知恵と戦略に欠けた為政者の無責任の結果であることを、後の戒めとして再確認すべきだろう。その為政者まで合祀したのは、時の宮司の国民に対する裏切り行為だと思う。(政治家の靖国参拝を支持する櫻井よしこ氏を批判した文章:https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/41369336.html)

現在の何かとグローバル展開される世界において、伊勢神道は日本民族の故郷であるが、そこに拘っていては日本に生きる道はないと思う。
それとは次元のことなる、他人を支配する宗教も多く発生している。それらは邪教というべきだろう。それについてはここでは触れない。

2)世界最大の宗教神は、エホバ神(ヤハヴェ神)だろう。それを信仰する宗教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。それらに於いても、濃淡の差はあるが上記の性質が“二つの側面”として存在するだろう。つまり、人が生きる為の知恵が集積された本として、聖書を見ることができる一方、特にキリスト教において、後述のように政治的に利用されやすい側面があると思う。ユダヤ教やイスラム教も、同じ宗教の人たちを率いるという政治的側面があると思う。

旧約聖書は創世記で始まる。その創造神話は、自然と人間に対する極めて深い理解が背景になければ書けないので、本当に神のことばかもしれないと思う程である。人に、それらの本質を教えてくれる、知恵の書であると思う。そして、ユダヤの歴史の部分は、やはり民族の団結を意識したものだと思う。

イエス・キリストの“ことば”は、ローマの支配下にあった人々に生きる勇気を人々にあたえただろう。そのイエス・キリストの言葉を用いて新約聖書を編纂し、新しい宗教として組織化し、強い勢力となるようにまとめ上げたのが、パウロだろう。(ウイキペディア参照)

キリスト教の一派であるイエズス会が、ローマ帝国の宗教を世界に広めたのだが、それは世界各地の植民地化プロセスの最初の役割を果たした。それはまさに宗教の政治利用だった。キリスト教は“愛”の宗教だと言われるが、他国の人や政治を堕落させる武器ともなるのだろう。(補足2)

その辺りについては、ニーチェのアンチクリストの翻訳書の一つを読んだ感想として、以前書いたことがある。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43225234.html

3)宗教は広い範囲に広がれば広がるほど、同時に政治的色彩が強くなるだろう。アニミズムの範囲の神道は、個人や集落や部族のものであるが、伊勢神道は日本国全体を制覇すると同時に、政治的色彩を強くしたと思う。それと同じく、キリストの教えもパレスチナの宗教、ローマ帝国の宗教、そして世界の宗教と対照範囲が広がるが、それぞれの段階で政治的色彩が強くなったのではないだろうか。

人間の歴史を通して、大衆が満足した時代は少ないだろう。厳しい現実の中で、絶望的な将来に向かって希望を与える言葉が、結果として二枚舌になってしまうのは不思議ではない。パウロは、「神は世の中の弱い者を、世の中の愚かな者を、軽く見られている者を、お選びになる」と言った。それは大衆の心を掴むが、神がいない以上、現実は「神は自ら助くるものを助く」(God helps those who help themselves.)ということになる。

上記パウロの言葉は、人間社会の大多数を占める下層に、上層に位置する人間の否定を教えたのである。その考えには政治的意図が含まれていると考えられる。おそらく意図的に挿入された政治的要素だろうし、世界に広がった理由の一つだろう。言葉で飾る民主主義とキリスト教は、非常に親和性があると思う。

民主主義の価値観である、自由、人権、平和、正義といった言葉で、世界を統治できるのなら理想的である。しかし、現実は利益をどうあげるかで動いているのである。そのメカニズムを熟知した世界の国々は、理想論を表にだして、現実論で動くという国際政治を採用している。それは同じ人間の中に同居している以上、二枚舌と言わなければならない。それが世界の標準であるということを理解しないナイーブな国の代表が日本である。

補足:
1)学者は、アニミズム的宗教を原始宗教に分類する。その分類に従えば、伊勢神道は先進的ということになる。時代が進み、人の集合(社会)の単位が、大家族、部族、国家と大きくなるに従って、宗教も政治的側面を持つことになる。時の経過を進歩と呼ぶ習慣に従って、アニミズムを原始的と呼ぶだけである。それは“学問的偏見”の一つだろう。
2)母親の愛は、幼い子供を育てるが、成長したあとは子供を堕落させる恐れがあるのと同様である。

2017年11月1日水曜日

孝明天皇を祀る官営神社がなかったのは何故なのか?:孝明天皇暗殺説と明治天皇すり替え説

政治を考える上で、国家の成り立ちの経緯を理解することは非常に大事である。現在とるべき政策は、将来の日本の方向を考えて定めるのだが、その為に必須なのは現在の日本が十分理解されていることである。しかし、それは日本国だけの事ではないかもしれないが、時の権力は国家の歴史を隠し、国民から正常な歴史感覚と政治における理解力と判断力を奪っている。

日本の近代を知る上で、明治維新の理解は非常に大事である。しかし、そこに大きな歴史の捏造が行われたのでは無いかという疑いが浮上している。(補足1)2年前に、それまでに読んだ本などから、明治維新について整理しブログ記事として書いた。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42241483.html

今回焦点を当てるのは、愛知県知多郡武豊町にある寂れた神社、玉鉾神社である。そこは、薩長に協力した下級貴族(岩倉具視など)に暗殺されたかもしれない、孝明天皇を祀る神社である。孝明天皇は、薩長の下級武士たちが中心となった倒幕運動において、最も邪魔な存在であった。(補足2)その創建に至る話は異常に思え、孝明天皇暗殺説や明治天皇すり替え説をサポートする情況証拠のように思えるので、ここで紹介したい。

異常だと思うのは、孝明天皇を祭祀する神社を新政府は作らなかったことであり、作ることを妨害し、そして出来た神社を冷遇したことである。新政府側が孝明天皇を祀ったのは、1940年(昭和15年)になってからであり、しかも平安神宮の祭神に加えるという形だった。それと対照的なのは、明治天皇の祭祀である。明治神宮が創建されたのは、大正9年11月1日であり、それは天皇没後8年、皇后の没後6年のことである。

孝明天皇を祀る神社が無いことを悲しんだのか、一民間人である旭形亀太郎という人が創建を願い出た。旭形亀太郎は、幕末の文久3年に宮中警備隊長になり、蛤御門の変では玉座の守備にあたった人である。(補足3)長い間の運動で漸く正式に許可されたのは、明治32年のことであった。ただし、祭祀されているのは孝明天皇だけではなく、神話時代の神が含まれているとのことである。https://ameblo.jp/zonebalance/entry-12085958158.html

玉鉾神社をグーグルマップでみると、まともな駐車場も無く、アクセスも悪いように思う。元天皇の神社であるにも拘らず、神宮と呼ばれない寂れた神社である理由は、その維持管理に国家から何の援助もなかったからだと思われる。

明治中期以降、日本の神社は社格制度で分類され、それに従って一部は国家から支援をうけた。その社格による分類は、官社、諸社、無格社である。官社は神祇官が祀る官幣社と地方官が祀る国幣社に分けられ、夫々に大、中、小に分類されていた。その中で、玉鉾神社は最低の無格社だった。無格社に支援金は出ない。(補足4)

武豊町のホームページには何の紹介記事もなく、http://www.town.taketoyo.lg.jp/contents_detail.php?co=cat&frmId=874&frmCd=4-2-10-0-0 武豊町史の中に他の神社の詳細な記事と比べて、ほとんど何も書かれていない。詳細な記述を避けていると思うのは考えすぎだろうか。http://www.geocities.jp/kamankara/text/documents/d-tak.html#玉鉾神社

これらのことを知れば、今まで不思議だったことの説明が簡単に出来ることに気づく。その一つは、明治政府に皇室祭祀の主導権が移されると、南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになったことである。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96 そして、後醍醐天皇の建武の新政の立役者である楠木正成の像が、現在の皇居(北朝の子孫の宮殿)外苑に設置されている理由も、はっきりと分かる。この件については、以下のブログにかなり書かれている。http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2015-05-24

明治天皇の即位は満年齢で14歳の時である。皇子であったときと即位した明治天皇の体格に大差があるという指摘をする記事も多い。また、何故素早く東京遷都をしたのかという疑問も、すり替え説をとれば簡単に説明できる。孝明天皇が実父でないなら、それを祀る神社を作らず、作らせず、またできた神社を厚遇しない理由も、簡単に説明可能なのである。

明治維新と呼ぶに相応しい日本の夜明けなど無かったのではないのか?江戸時代は暗黒の時代などではなかったのだろう。そして、未だに明治から昭和の時代の負の遺産が、現在の四面楚歌の日本の情況を作っているのではないのか。江戸時代は、考えてみれば、今より遥かに地方分権社会であった。(補足1)

補足:

1)「明治維新の過ち」を書いた原田伊織氏は、近代史の総括なしに日本の未来はないと言っている。そして、世界は江戸システムに向かっていると書いている。http://manet.murc.jp/thinktank/rc/quarterly/quarterly_detail/201702_16.pdf 

2)孝明天皇は江戸の官僚組織を頼りにした。そこで、薩長下級武士たちや岩倉具視などの下級貴族は、病気で数日休んだ天皇とその皇子を暗殺し、代わりに長州の田布施地方出身で長州力士隊の一人(大室寅之助)を明治天皇に仕立て上げたという説がある(有力である)。孝明天皇の毒殺説は、半島一利著「幕末史」も支持している。その本の中に、英国外交官だったアーネスト・サトウの日記には、天皇が暗殺されたと明記されているとある。(幕末史、p260)ただ、半藤氏は明治天皇になる筈だった睦仁親王については何も書いていない。

3)旭形亀太郎は力士隊に属し、蛤御門の変で玉座を護った功績により、孝明天皇より天杯等を賜った。下記サイトに、日本相撲協会の『日本相撲史中巻』に、「旭形亀太郎の盡忠」という見出しで、旭形亀太郎について記載しているとある。 https://www.degucci.com/%E5%A4%A7%E7%AB%8B%E8%80%85-%E6%97%AD%E5%BD%A2%E4%BA%80%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%AE%E5%B0%BD%E5%BF%A0%E3%81%A8%E7%8E%89%E9%89%BE%E7%A5%9E%E7%A4%BE/

4)なお、太田龍著「天皇破壊史」という本には、伊藤博文が玉鉾神社に弾圧した旨の記述がある。(P108)他に文献として、落合莞爾著、「南北朝こそ日本の機密」などがある。 http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2015-05-24