注目の投稿

人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2013年12月26日木曜日

安倍総理の靖国参拝について:

 靖国神社は戦争で命を無くした兵士達を神として祀る神社である。先ほどのニュースによると、安倍総理大臣が就任一年後の今日参拝した。それに対して、お決まりの、或いは、それ以上の批難が、日本国に併合された国や侵略された国(韓国及び中国)から出されている。(注釈1)
 靖国神社には、東条英機を始め先の戦争に責任のある当時の各省大臣たちも、合祀されている。櫻井よしこさんが週刊誌に書いた様に、所謂右翼系と目される人たちは、戦争責任者とされた人も赦免されて合祀されていると考えている。(注釈2) この合祀によって靖国は、時の政府の決定に従い、国を守るためと信じて戦死した兵士達を神格化した神社から、戦争を机上で計画して実行した人たちの神社へと、部分的にではあるが、変質した。自民党の靖国神社に団体で参拝した人たち及び安倍総理は、「戦争指揮者達の霊に参拝する為ではない。国の為に命を捧げた兵士達の霊に参拝するために靖国に行ったのだ」というだろう。もしそうなら、彼ら戦争を指揮した者たちの合祀以後参拝されなかった昭和天皇と彼らの考え方の差は何かを説明すべきである。“もっともだ”と傾聴に値するものは何一つ出てこないだろう。
 今回安倍総理の靖国参拝は、日本の今後にどのような影響を与えるかを十分考えないで行なわれた、軽薄な行為であると思う。“中国や韓国の国民や首脳がどのように感じるか”は、直接的には問題外であるが、“日本国がどのような影響を受けるか”を考える上には非常に大切なのである。今回の参拝は、隣国との摩擦を敢えて大きくし、中国に尖閣諸島へ軍を出動させるきっかけとなるかもしれない。
注釈:
1)国会議員団の靖国参拝に懸念を示す中国韓国を批判する安倍氏への反論(4月29日)
2)櫻井よしこさんの靖国参拝に関する考え方を批判する(8月29日)
(12月26日午後3時投稿、午後8時30分注釈を改訂)
補足:今回の安倍総理の靖国神社参拝に対して、同盟国である米国からも批判があった。それを政府筋は想定外だと思ったとのことである。私には米国の反発は当然のことと思っていた。つまり、今の政府要人の頭脳はその程度のことも判らないレベルだということである。
或いは、想定外というのは嘘で、安倍総理や自民党首脳にとって靖国神社参拝はそれほど大切なことなのかもしれない。「自分の命が無くなるとしても、家族とその子孫が今後平穏に暮らせるのなら、無駄死ではないだろう」と召集令状をもらい戦地に赴いた多くの兵士達は思っただろう。彼らの霊は、今回のような日本国を孤立へ導くかもしれない靖国参拝をけっして喜ばないだろう。昭和天皇ならそのように考えられたと思う。私のような典型的な日本人(と思っている)にとって、彼ら自民党首脳らは将に異教の徒なのかもしれない。(12/27朝補足)
補足2:靖国は神社であり、従って慰霊の場所ではない。拝礼する場所である。
また、この記事の最初に兵士を祀る施設と書いたが、実際は、神社は古代から戦争指導者として大きな働きをした英傑を神として祀る場所であり、決して一般兵士を祀る施設ではない。先の戦争は、負けた戦争ではあるものの、神社に祀るレベルの者は、戦争指導者である東条首相や阿南陸軍大臣等である。神社は彼らこそこの靖国に相応しいと考えている筈である。
 兎に角、日本国は”ごまかしと曖昧”で運営されてきた国である。昨日の沖縄知事によるの辺野古埋め立て政府案に対する同意も、同様である。辺野古での基地建設に9年かかるのに、「5年で普天間を撤去する」という主なる合意事項を極めて曖昧な形にぼやかして首相は提示し、知事は受け入れた。同じ類いの”ごまかしと曖昧”の決定である。まともな論理が支配する国家にならなければ、”曖昧とごまかしの東アジア”から日本国は抜け出られず、その底に沈むだろう。
(12/28朝補足;同時に本文の日本語の二カ所訂正しました。)

2013年12月23日月曜日

科学技術文明の発展と崩壊について

 自然科学(自然哲学)は二十世紀に大きく進歩し(注1)、その工業技術への応用は、人類に全く新しい生活環境を提供することになった。それに比較して、人間や社会を対象にした通常哲学と呼ばれる分野に関しては、素人目には自然科学ほどの大きな発展は見えない。(注2)その原因は、用いる言葉にあるのではないかと思う。与えられた言葉により、人間の思考の範囲は決められてしまうので、その言葉を使う限り哲学の発展にも限界があることになる。(注3)一方、自然科学が大きく発展したのは、言葉として通常の言語の他に数学を用いたからであると思う。その結果、通常の言語で与えられた、例えば、粒子と波、エネルギーと質量(重さ)などの基本的概念の壁をも、突き破ることができた(注4)。その発展した科学を基礎にして、現代の技術文明の中心にある電子技術や新材料技術などが発展した。
 その自然科学が奇跡的発展を遂げたことの原点にあるのは、やはりギリシャの哲学であると感じる。ソクラテスの”対話”を真理へ到達する方法とした考えに基づいて、現在の文明が築かれたのではないだろうか(注5)。科学は、対話という方法と数学という新しい言葉を用い、自然科学と相互作用的に発展した技術文明という土壌の上に、大きく育ったと思う。この自己駆動的に発展した”科学技術文明”にもやはり限界はあると思う。理由の一つに、人の寿命や知能が有限であるため、次の世代に整理された形で伝承することが可能な(文明に関する)情報の質と量に限界があるからである。更に、この科学技術文明は今や人間の直感を超えたところにあるため、人は屢々”携帯をもったサル”状態になってしまう。つまり、自分達が造り出した文明社会に人間が不適応状態になりつつあるためである。
 文明の情報量と人の感覚からの乖離(注6)が大きくなるに従って、人生の目的(調和的な人生)と文明を維持すること及び文明から受ける利益との間に、大きな差が生じる。その時、“科学技術文明”はその頂上に至ると思う。この高度にバブル的に発展した文明の終わりは、停止するという形ではなく、カタストロフィックな崩壊的なものになるだろう。例えば、核戦争での大都市数個の破壊とその後の世界経済の破滅のような、論理的に継続しない形をとると思う。(注7)

注釈:
1) 進歩の度合いを計る物差はたくさんあり得るので、古代より着実に進歩して来たという言い方もあり得る。ここでは単に表層的な変化について述べているだけである。
2) NHKで放送された"サンデル教授の哲学講義"で、正義についてのレベルの高い講義が放送されていた。しかし、たかが正義について近代哲学者によっても繰り返し議論されているとしたら、驚きである。(追記参照)
3)現在、少しずつ勉強しているに過ぎないので、この言葉は言い過ぎかもしれない。
4) 量子力学は、電子(古典的には粒子)を波動として取り扱うことで、その原子分子での振る舞いを理解可能にした。また、原子力発電の原理は言うまでもなく、原子核分裂の際、一部の質量がエネルギーとして放出されることを利用している。
5) 対話は英語でdialogueであり、ギリシャ語でディアロゴス(二つのロゴス)というらしい。つまり、二つの理の対立により真理へ到達できるのである。この方法は、個の都合を排して真理へ近づく最善の方法である。ここで二つは、神(=自然観察)と人(哲学者の論理)なのだろう。
6)通常言語の概念を超えて発展した科学とそれによる技術が、人の感覚から乖離した所にあるのは当然かもしれない。例えば、コンピュータに置ける数テラバイトの記憶装置や数GHzの演算速度は、一台で全国民の個人情報を管理解析出来るレベルにある。
7)リアルタイムで情報が世界中を伝搬するため、人は人間固有の時間スケールより遥かに早い応答を要求される。また、やり取りされる情報の性格付けが時として容易でないため、突発的に異常なことが起こり得る。また、数世代に亘り文明から受ける利益は、人を傲慢にし、その結果この危険性を増す。崖を落ちるように一瞬の悲劇は生じるかもしれないと想像する。その後、知的真空状態(或いは虚無状態)の中で世界は混乱し、社会は信用を失い、世界経済は破綻するような気がする。追加:一言で言えば、この世界は6歳児が戦車を持っている状態にある。
(出来が悪くて改訂を繰り返しています。何を感じてこのような文章を書いているかだけでも、理解していただければと思います。平成25年12月23日午後、24日、25日夕改訂)

追記(12/29):近代の哲学が存在や認識についていろいろ議論しているのは知っていますが、それらは何か実りあるものを人類に与えたか疑問ですので、注釈2)には上げていません。私は、人が創造された時に、人の認識は全て人の内部に用意され、決定されていると思っています。更に、人と同時に創造された言葉にその表現が準備されていると考えています。ただ、人の創造が神によりなされたかどうかは判りません。これについてはホームページの巻頭に書いています。

2013年12月17日火曜日

都議会は検察の下請けか?或いは遊んでいるのか?都知事と徳州会の件

 連日の都議会の様子をテレビで観て、表題のような疑問を持つ人は多いだろう。私には、都議会は検察のまねごとをしており、税金の無駄使いをしている様に見える。この見方は、一般の方の意見と同じであり、ここに披露したい。
 民間放送には、放送法第1条、”公共の福祉に適合する”という条項に反しているかどうかの疑問は少しあるが、表面上は”公共の福祉に反する”とは言えないので、それほどの苦情を言う理由はない。しかし、国民から視聴料を取っているNHKまで民法同様だらだらとこの件を報道しているのには呆れる。政治や社会運営(権利義務、議会、法などの近代国家)における、日本文化の底の浅さを知る思いである。西欧文化に関してこの部分(注釈)での未消化があるだけでなく、日本文化として定着していた「水に落ちた犬は打つな(不打落水狗)」や、"武士の情け"も消えたとしたら、テレビやインターネットなどの西欧からもたらされた新しいメディアによって、日本は益々住み難い社会に変わって行くことを危惧する。

注釈)日本など東アジアには、経済発展した社会を国家レベルで統治する文化はないと思う。西欧のそれを借用するしかないのである。例えば:ワイルドスワンズ(ユン・チアン著)に、「役人になって口利き料をもらわないのなら、何の為に役人になるのか?」というのが、中国の一般人の感覚であるという記述がある。
(理系人間ですので、常識に反した議論をしている可能性があります。ご指摘あれば感謝します。)

2013年12月15日日曜日

ユルキャラで観光客を集めようとする愚

 愛知万博の時ころからか、多くの地方で観光客などの誘致の為に、ユルキャラと言われる変装した人がマスコットを演じている。同じ目的であるにしても、どうしてもっとオリジナルな方法を用いないのか不思議である。他人事ながら、恥ずかしく思う位である。
 キャラクターの形が全く異なっていても発想が同じであるので、後に出てくるほど、非常に貧弱な印象をもってしまう。これは日本文化に、オリジナリティーという価値観が非常に希薄であることによる。類似の意味の無い或いは馬鹿げている風習を少し挙げる。例えば:
1) 小学生になると、何故かほとんどの子供が高価なランドセルを買ってもらい、ランドセルが歩いているような集団登校の様子が見られる。
2) 中学生になると、女子学生はどういう訳か、水兵さんの服を着て通学する。オリジナリティーは、スカートの短さで発揮している。
3) 学校のチャイムは何処に言っても、同じメロディーである。
4) 何処でエレベーターに乗っても、各階で止まる毎にバカ丁寧な同じ様なアナウンスが流れる。
5) スーパーマーケットでは、常にうるさい位の音楽らしきものが流される。売り上げに関係するのだろうか?
6) テレビでクイズ番組が流行ると、多くの局で同じ様な番組が多数放送されるので、芸能人は漢字の能力や京大や東大ブランドで飯を食えるようになるらしい。その他に、田舎を探訪するタイプの番組も、同じパターンで数局が放送している。もっと頭を使えと言いたい。
 中国がHONGDAブランドでバイクを販売していると言って、笑っている人が多いが、日本でも似た様なものではないだろうか。

2013年12月12日木曜日

特定秘密保護法案と報道の自由

  特定秘密保護法は、主として安全保障に関する国家の秘密を守る為の法律であるということであり(注1)、その必要性は理解できる。ただ、昨日石破氏の発言にあった様な、”法律違反(注2)で漏らしたと思われる機密情報の報道をメディアに対して禁止する“こと(注3)、つまり報道機関を機密情報の二段目の防波堤とすることは、やり過ぎであると思う。それは、一つの法律という範囲を超えて、もっと大切な価値を破壊しかねない。つまり、そのような規制は、言論統制の入口を通過してしまうことになり、人類が築いて来た知恵を否定する傲慢なものであると思う。
 本来、この法律は行政の都合で制定するものであり、他分野の基本的な自由を束縛してはならない。メディアの報道の自由(もちろん報道しない自由もある。)と国民の発言の自由は、正義に基づくとそれらが信じる場合、如何に政府の活動にマイナスになると現政権が判断する場合でも保障されるべきである。その情報伝搬の責任は、別の件として国民の良識などにより裁かれるべきであると思う。現在の政府は日本国を代表するが、日本国の中心でも全てでもない。言論と報道の自由の統制は、近代国家であるべき日本国の致命的問題であり、当座日本国を代表する内閣、つまり政府、が汚名に晒されても、守るべきものであると考える。
 上記の様な発言が与党幹部から出るところを見ると、日本国には近代国家で常識とされる諸概念が、未だ十分根付いていないのだろう。実際、この国では自由主義、法治国家、三権分立などが確立していないと思われる出来事が多い。最近の報道でも、“最高裁判所も、行政を追認する機関に過ぎない”とか、“法の適用も行政(検察)のさじ加減で変わる”などの印象を受けた。具体的には:最高裁が「7月の選挙は、一票の格差が4倍程あり違憲状態だが、違憲でない」(参議院選)という訳の判らない判断をしたり;国家公安委員長が、宣言速度が60km/hのところでも交通の流れに乗れば70km/hで走っても良いと言ったり;首相が私企業に労働者の給与を上げる様要請した、などである。より深刻なのは、これらをメディアもそれほど大きく報道していないことである。
 近代国家の枠組みや基本理念を学校でしっかり教えるべきだと思う。

注釈: 1) ウィキペディアの記事を参照のこと。
2) それが法律違反かどうかは、裁判をしなければ判らない。従って、その規制は、広い範囲の言論統制に変貌しうる。
3) その後、石破氏はこの意見を打ち消したらしい。(12/11投稿、12/12大幅に修正)
 <理系人間の意見ですので、批判等歓迎します。>

2013年12月5日木曜日

善人と悪人(親鸞のことばについての私的解釈)

 親鸞のことば「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」を理解するには、ある仮定を置く必要があると思う。それは、「親鸞は、この人間界で社会性を持った人(不特定の他人を相互扶助の相手として受け入れる人)のみを”善人”と”悪人”に分けている」と言うことである。(注1)この世には、生物学上のヒトであるが、”人間”とは言えない者もかなり居る。つまり、(母)親に愛情とともに育てられた人、或いは、社会の中で愛情を受けて育った人は、社会の中に生きることを受け入れる”人間”になるが、そのような幼少期を得ない場合は、外見は同じであるが、”人間”にまでなれず生物学上のヒトに留まる場合もありえる。阿弥陀仏の本願(他力本願の”他力”)が対象とするのは”人間”であり、生物学上のヒト一般ではないということである。

 善悪は社会を作って生きる人の間でのみ、意味を持つ価値基準である。そして、善は社会に貢献する行為や考え方、悪は社会において個人の利益を優先する行為や考え方である。人は社会の中でしか生きられないが、個人の利益を追求する姿勢が無くても生きられない。つまり、人は必ず社会に一時的に背く行為、つまり悪を為す事で生きている。(注2)そして、悪を為した後に何らかの精神的苦痛を感じる筈である。その苦痛は、悪の反対にある善を意識していることを意味している。

社会において苦しい境遇に追い込まれた人ほど、悪をなして生きる自分を意識することになる。「他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり」とあることから、善悪を特に意識しないで、生きる事の出来る(恵まれた)人より、自分が為した悪を意識して他力にすがる人が、救われるのだと解釈できる。石川五右衛門の辞世の句「いしかわや、浜の真砂がつきるとも世に盗人の種はつきまじ」は、この社会に悪は必然であることを歌ったのだと思う。貧しい時代に生きた五右衛門は、仕事が無くて盗人になって生きたのだろう。五右衛門を裁く側は生まれながらの幕府の役人で人生においてさしたる苦労をしなかったとしたら、どちらが極楽に近いと言えるか?親鸞の言葉は、そう解釈できると思う。

 善悪は社会に生きる人を前提にした物差だとすれば、それは社会の外を対象にしない。その社会の境界を国境と考える場合、国家間の戦争などで兵士が人を殺傷する行為は悪には入らないという考え方もあり得る。つまり、社会の内外をまたぐ場合、人は善悪という考え方から一時解き放たれる(注2)。それは、戦争が国家間の野性の原理に基づく生存競争であり、そこには善悪は存在しないのである。しかし、国を超えて“社会”(international community)と考えるべきであるとする考え方もあり、その場合戦争で敵を征服する行為は国家の手先になって悪をなすことになる。この”善悪”のブレによって、兵士は精神的苦痛を感じることになる。(注3)

 もとより私は地獄極楽などを信じる者ではないが、「善悪」は人に成長する段階で教育すべき概念だと思っている。ただ、社会を動かす力を持った人は、「善悪」は行為や出来事を計る物差しとして、社会の際をまたいでは役立たないことを、そして、”社会”と言える程にはなっていない国際社会において、世界の各国指導者達はそのことを承知して政治に参加していることを、承知すべきだと思う。(注4)

  注釈:
1) 野性の動物は善悪の枠の中に無い為、元々救済する必要がない。(つまり、善悪に苦しむ存在ではない)従って、野性のヒトも仏の救済の対象ではないし、仏を必要としない。
2) 人が個人の利益を優先するとき、社会との間に摩擦を生じる。人は、その行為を”悪”と言い、その社会との摩擦を(精神的)苦痛と感じる。
3)戦争におて敵兵を殺傷する行為は、社会の境界を超えているので、個々の兵に善悪という物差を当てることは意味がない。その代わり、”国際社会”の構成員である国家に、善悪の物差が当てられる事になる。
3) おそらくそのような人は、人口の0.1%位居ると思う。特に社民党の方には特にそう言いたい。
(12/10改訂)(2017/4/11; 改行のみ挿入)

2013年12月3日火曜日

米国航空会社の中国への飛行計画提出について—日本との比較ー

 日本では、米国政府が民間航空会社の中国政府への飛行計画提出を黙認することは、(米国政府の)中国による航空識別圏設定に対する姿勢が、中途半端であることを示していると受け取られている。この考え方は、ちょっとおかしい。
 この様な解釈をする人は日本政府が日本国全てを代表すると思っているのだろうが、そうではない。政府は、日本の行政を司る機関であるが、民間の活動を法による以外には束縛できない。単に要請しただけだという台詞は、航空行政を管轄する機関である以上吐けない筈。民間を動かしたいのなら、法に従って(そんな法があるかどうかは知らないが)飛行計画提出を禁止すればよい。既に書いた様に、民間航空は乗客の安全を第一に考えて、飛行計画を中国に送る自由がある筈。政府の姿勢に民間も“右に倣え”すべきだと言うのは全体主義的考え方である。
 また、米国民間航空の中国政府への飛行計画提出を米国政府が黙認したことを、中国政府は高く評価すると言っている。これも日本と同じ様に、民間と政府の区別がついていないか、或いは、その振りをして日本を非難するためである。
 尚、上記文章は前回の投稿とかなり重なるが、以下の引用を掲載したいこともあり、投稿することにした。防空識別圏に関して、田母神氏が、専門的なしかし非常に判りやすい解説をブログとして投稿しておられるので、ここでreferする。この説明では、中国の防空識別圏の設定は何ら問題が無く、中国が同時に出した公告が国際法違反だということである。この説明がマスコミではあまりないのは非常に不満である。

2013年12月1日日曜日

日本政府は民間へ干渉すべきでないー中国防空識別圏他ー

 中国が周辺諸国との調整無しに新たに防空識別圏を設定したことで、東アジア全体の緊張が高まっている。米国や日本の自衛隊機がそれ以前と同様に、中国に通告しないで飛行し、中国はスクランブルをかけたと報道した。
 この件に関し、私は11月26日のブログにおいて、日本政府が民間航空機に飛行計画の提出をしない様に要望したことを批判した。何故なら、民間航空機は乗客の安全を第一に考えるべきだからである。昨日、米国政府は米国の民間航空機に対して中国政府の求めに応じて通行計画の提出を進めた。そして同時に「防空識別圏における運用に対する中国の要求を、米政府が受け入れることを示すものではない」とも指摘した。この米国の対応は、自由主義の国では、通常政治と民間の経済活動をわけて考えるという趣旨から当然のことである。隣国のように、国を挙げてある国と対立するように政治が動くことは、政治の越権行為であり、本当の非常事態の時以外は慎むべきである。(注1)日本政府もこの米国の姿勢を見習うべきである。
 これと関連して、以前にも似た様な政治の動きがあった。それは、民間企業に賃金を挙げるように政府が直接要望したことである。賃金は民間企業と労働者(労働組合)が交渉すべき事であり、調整役として政府が間接的に関与する事があっても、直接企業に要望すべきことではない。(注2)これも自由な経済活動に政府が立ち入るという越権行為であると思う。政府の要望を受けた経済会と企業は、政府の要望を無視すれば、反政府的企業として国民から厳しい視線を受け、営業活動に悪影響が出るのではと考えてしまう。日本の社会主義的文化の傾向から考えて、そのような罠に陥ることはあり得ることであるが、それは外国から見れば、(自由主義を国是とする)我国政府の知性を評価する物差しの役割を果たしてしまう。
 次に、中国が米国機や自衛隊機に対してスクランブルをかけたという報道に関して、菅官房長官の何の利益にもならない発言が気になった。それは、29日夜、中国の通信社が伝えた中国軍機による自衛隊機と米軍機に対する緊急発進(スクランブル)について「特異な事例は報告されていない」と述べ、事実関係を否定した、ことである。中国が国内向けに、スクランブルをかけたと言っているのだから、そのまま放置すれば良いと思う。この発表は、スクランブルをかけるのなら、もっと真面目にかけるべきだと言っていることになり、非常に危険なことである。(注3)官房長官が、中国の悪口を国民に告げ口するような軽々しい行為は止めた方が良いと思う。

注釈:
1) 非常事態の時、どのように政治が動くかは予測不可能である。非常事態なのだから。
2) 要望は指導ではなく、何ら強制力を有しないので、あなたの批判はおかしいという意見があり得る。しかし、「政府の要望」は一般人の要望よりも遥かに重みがあり、半強制的な力がある。強力な武器を片手に持っていては、丁寧な言葉使いであっても、お願いは強制になるからである。
3) 中国から、「本当に喧嘩したいのか?」と居直られたらどうするのか?喧嘩を買う覚悟はあるのか?その時に、「親分助けてくれ」という台詞しか用意がないのなら、中国の国内向けの報道は無視すればよいと思う。

2013年11月30日土曜日

日中関係の改善へ努力すべきー尖閣問題(V)ー

 中国の防空識別圏設定により、対中国関係が緊迫しつつある。現在、米国を始め多くの国により中国の強圧的な姿勢に批判が出ている。そして、その国際世論に気を良くして、政府首脳はかなり強気である。安倍総理、岸田外務大臣、小野寺防衛大臣などは、「一方的な防空識別圏の設定には応じられない、領土と国益を断固として護る」とお決まりの発言をしている。しかし、昨日の投稿文に指摘したように、この日中緊張状態の出発点にある野田政権の時の尖閣諸島国有化に関連して、野中広務元自民党幹事長が中国で次のような趣旨の発言をした。「田中角栄総理は周恩来首相(元を省略)と会談した際、尖閣諸島の領有権を明確に日本の領有としたかった。しかし、そのような合意がどうしても得られなかったので、棚上げと言う形で日中共同宣言を何とか出す事が出来た」と田中元総理から直接聞いたということである。また、日中の間に未解決の問題を残す事が、将来日中が接近することを防止するために米国が仕組んだことであるという説もある。野中氏は優れた政治家であると以前より思ってきた。その彼が、今回の日中間の緊迫した情勢を日本の危機として捉え、その危機を乗り越える為の鍵として、田中角栄と周恩来とが裏で確認した「尖閣諸島領有権棚上げ」を使う時であると言っているのだろう。
 現在、中国は世界最大の人口を擁し、経済規模は世界第二位であり、世界一の米国債保有国である。また、かなり付き合い難い国であるものの、アジアで唯一国連の常任理事国、且つ、核兵器を持つ軍事大国である。その存在感は、残念ながら日本より遥かに大きい。そして、尖閣で日本の自衛隊と軍事衝突したとした場合、日本は局所的な勝利を得るかもしれないが、それは日本国の破滅の第一章であるに過ぎないのではないだろうか。国際的には疑問の余地があると看做されている(注1)、「尖閣諸島が日本固有の領土である」という主張に、国の命運を託すことは愚かな選択だと思う。今回は棚上げの為の国有地化であったという線で話を収めるべきではないだろうか。(注2)
 歴史を振り返った時に、軌道を換える事がその後不可能になる分岐点がある。それが今の様な気がする。(注3)切掛は石原前都知事の尖閣諸島の東京都による買い上げであり、石原氏のその後の計画が日中の争いの火種になると考えた野田前総理の国有化宣言である。これらは恐らく、中国当局による企みの始まりだった可能性がある。東京都の所有のままであれば、中国の反応を見て国が出る幕もある。しかし、国が前面にでてしまったため、尖閣諸島を挟んで直接中国と対峙することになった。中国に騙されて国有化したのかもしれないが、何れにしても、野田氏の非常に愚かな決定であった。(前ブログに記した通りである。)今となっては、出来るだけ損害の少ない形で、中国に矛を収めるチャンスを多少の犠牲を伴っても作るべきである。それが、直前の敗戦国、軍事力を奪い取られた国、非常任理事国、そして、非核保有国の採るべき態度である。他国は最終的に自己の利益で動く。第二次大戦のおり、全くあてにならない日ソ中立条約に(和平へ向けた)一縷の望みを託した愚かなことを繰り返してはならないと思う。もちろん日米の絆は日ソ中立条約とは比較にならないが、米国の経済は既に苦境にあり、世界の警察としての役割は果たせないかもしれない。中国が格好を気にする間は、国際世論もそれなりにあてになるが、中国も経済的に苦境に向かいつつある今、格好を気にしなくなると、日本は独自で裸で重武装の中国と向かい合うことになる。そんな覚悟があるのかと、日本政府に聞きたい。

注釈:
1) 国連の常任理事国の一つが「疑問点が残る」と言えば、その疑問点は国連では解消されない。国連以上の国際的権威が無い以上、「国際的に疑問の余地がある」と言える。田中宇氏のブログでは、英国のBBCは今回の中国が新たに設定した防空識別圏の問題を報道したが、淡々と事実のみを報じたという。完全な第三国は論理ではなく、利益で動く。
2) 日本が尖閣諸島を失うことは沖縄全体を失うことであるという、韓国の学者の論文 が出されているとのことである。その根拠は、沖縄はサンフランシスコ講和条約で米国の信託統治領となったので、国連加盟国である日本に沖縄を返還する条約は国際法違反であるというもの。しかし、米国は沖縄を戦時占領の継続の形で統治し、国連に信託統治の手続きをしていないので、その論文の説はあやまりだというブログもある。 この辺りの議論まとめた文章があれば知らせて欲しい=募集=。 3)中国による尖閣上空に対する防空識別圏設定の時点で、その分岐点は過ぎているかもしれない。 ==以上は元理系研究者の文章です。専門家の方の批判等歓迎致します==2013/11/30 am 9:30

2013年11月28日木曜日

参議院選の無効判決についてー一票の格差は何倍程度まで許されるか?ーー

 今日(11月28日)のニュースによると、広島高裁岡山支部で、 7月の参議院選挙が無効であるとの判決があった。 一票の格差が4倍以上とあまりにも大きいのがその理由であり、当然の判決だと思う。民主主義の国で、表題の「一票の格差は何倍程度まで許されるか?」という疑問文が存在しうる国は、日本以外には無いのではないか。少なくとも西欧先進国には無いと思う。地方自治体の区分けを超えて、出来るだけ一票の格差を小さくすべきである。上記質問文に関連して良く言われるのは、「地方の声を国政に生かすには、一票の格差が多少あっても仕方が無い」というものである。今回の件を報道するテレビニュースでも、このような意見を吐く参議院議員が映っていた。この詭弁に騙されてはならない。地方の声も都会の声も同じ重みを持つのが民主主義政治である。
 一つの国で、地方と都会の役割分担があるのは確かである。山間地は、都会に住む人の水源であるので、治山治水事業は大切である。田園地帯を維持することは、食料生産という意味で当然大切である。しかし、それらは田舎の人だけが考えることではなく、都会の人も当然考えるべきことであり、実際に考えていると思う。国民が国政に参加する時に、都会の人を軽く扱い田舎の人を重視する根拠は何処にも無い。考えられる理由は、田舎選出の現職議員達そして彼らが主に所属する政党のエゴイズムのみである。
 国政の課題には、治山治水や農業など第一次産業の他、教育、経済、国防、外交、など多くの分野に課題が山積している。英知を集めてこれら諸問題を解決するには、都会の知性も田舎のそれ同様に大切な筈である。一国の機能全てを考えて、都会の人も田舎の人も、政治に参加する場が国政選挙である。従って、田舎の人の一票は都会の人の一票に等しくなくてはならない。もし、田舎無視の国政になるとしたなら、その報いは都会の人を含めて国民全てに及ぶのである。
 戦後の国政においては、田舎選出の議員の所為とばかりは言えないが、熊やイノシシしか通らない国道建設や、役立たないダムなどのコンクリート工事などで、国民の貯金を国債で吸い上げ使って来た。また、多くの田園地方において、狭小な田畠を統合不可能な形で、補助金を使って(中小農家の所有のままに)温存して来た。このような国政の歪みが、一票の格差と無縁では無い筈である。最高裁判事らは、今回の岡山高裁支部の件が上告された際には、不要な行政への諂いを止め、真に三権分立の原則をプライドをもって貫くべきである。(注2)
注釈: 1)http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131128/k10013403131000.html。 2)最高裁が、2012年の衆議院選挙の一票の格差に関する訴訟において、「違憲状態(選挙結果は有効)」と「違憲(つまり選挙が無効である)」とを使い分け、当選した議員の職を護った。このような非論理的な判決文を書くことが可能なのは、恐らく出来の悪い日本語のせいかもしれない。日本語の問題ではなく、日本文化の問題だと言う反論があるだろうが、私は、両者は同根であると思う。

2013年11月26日火曜日

日中の緊急事態に対応出来ていない政府

ーーー中国の強引な防空識別圏設定は、安倍政権の“空威張り”に終止符を打つ時だろう。ーーー
(以下は、元理系研究者が素人から見た感想を書いたものです。批判、コメントは歓迎します。)

 中国の尖閣諸島上空を含む広い範囲における防空識別圏の設定は、日中関係を急激に険悪な情況に持ち込んだ。中国の強引な敵対行為は、相当な計算があってのことだろう。先ず中国は、キャロライン・ケネディー氏の駐日大使として赴任を、米国が日中関係には本格的に介入しないというシグナルとして受け取った可能性があるのではないか。そして、米国が日中間に軍事衝突が起こったとしても、中国批判はしても、決して軍隊を差し向けることはないだろうという読みが、或いは合意が、あるのかもしれない。
 安倍総理は日中間の関係に関して、「(尖閣諸島問題で冷え込んだ)日中間の対話に向けて、日本側の扉は常に開かれている」という意味の発言をされている。この言葉は、1)尖閣諸島は日本固有の領土であり、従って尖閣に関する領土問題は存在しない;2)日中関係の冷え込みの責任は、一方的に中国にある;3)従って、日中関係改善の端緒は中国が開くべきである;を意味している。この言葉は、言い換えれば、日中関係の改善は一方的に中国側の軟化という形でしかあり得ないというものである。しかし、1)に関して、野中広務氏は証言している。日中国交回復は田中角栄と周恩来が署名した共同宣言の形でなされたが、その時に「尖閣諸島の領有権問題の存在の確認とその棚上げについて秘密裏に話し合われたことを、田中角栄氏から直接聞いた」ということである。当時自民党の実力者であった野中氏の証言であるから、安倍総理は直接野中氏から話を聞くべきだったのではないか。このような情況で、挙げた拳の下ろしどころがない中国は、今回、中華思想で染まった自分の本来の姿勢を礼儀作法無視で日本に向けたのだと考えられる。
 外交は、そしてその延長上にある戦争は、自分の正当性と実力を念頭において、綿密な計画とともに行なうべきである。日本に中国と正面から戦争する実力がないのは、核兵器の有無を考えただけでも明らかである。更に、野中広務氏の証言が事実なら、日中間の冷え込んだ関係の責任の一部は日本側にもある可能性もあり、もうすこしソフトに対中姿勢を採る必要があったのではないだろうか。
 私は、石原慎太郎氏が尖閣諸島の東京都による購入を昨年4月に発表したとき、 野田前総理が国有化を言いだすのではないかと危惧した(注1)。 また、昨年9月野田前総理が国有化発表した際には、中国政府と打ち合わせ済みでなければ、めくら蛇を怖じずだと、 同じくヤフーの知恵袋に投書 した(注2)。素人の感覚で書いたのであるが、その通りに日中関係が変化したことを見ると、専門家であるべき野田前政権の面々は、外交音痴であったことを証明していると思う。私は、安倍政権には日中友好を政策の一つの柱にしてほしかった。そしてそのように 昨年11月に投書した(注3)。 しかし、安倍さんはそのような方向には舵を執らなかった。そして、今回の安倍政権の対応をみていると、そのレベルは前政権と同程度ではないかと危惧する。例えば今夜、菅官房長官は、民間航空機は中国に運行計画所を提出しないように要請した。民間航空機は乗客の安全を最優先するのが当然であり、そのような要請は無責任且つ愚かな行為である。中国は、スクランブルをかけて、台湾向けの航空機に搭乗した乗客乗員は、死の恐怖におびえることになるだろう。捨て身作戦で行くのなら、先ず自分が政府専用機にでも搭乗して、中国が新たに設定した防空識別圏を通過して台北に向かうべきである。
 私は、今後尖閣問題は、野中広務氏を政府に迎えて、命懸けで中国と交渉にあたってもらうのが良いと思う。小沢一郎氏が補佐役で同行すれば最善かもしれない。小沢氏は命懸けの仕事はしないかもしれないが、実力を発揮するかもしれない。

注釈:(上記サイトが上手くreferできないので、アドレスを示します。)
1)http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n64498 2)http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n116087 3)http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n132341
(2014/11/26)
追記、尚この文章は、ヤフーの知恵ノートとして投稿しています。最終編集日時はそこに示されています。(12/01)

2013年11月23日土曜日

秘密保護法案の危険性と国家が秘密を持たないことの危険性

 昨日の中日春秋に秘密保護法案の危険性が指摘されている。佐藤内閣の時代に中国が核実験に成功した時、日本が潜在的核保有国(注1)を目指すことが、政府により検討された。そして、核と宇宙技術の平和利用の陰に、潜在的核保有国という刃をしのばせることになったと指摘している。その経緯を元官僚らの証言を元に、この新聞が連載記事を組んだということである。そのような官僚の証言は、この秘密保護法案が成立すれば得られなくなることを、この記事を書いた中日新聞の重鎮は憂いているのである。しかし、政府は将にその様なインテリジェンスを防止する為にこの法案を作成したのであり、明確且つ説得力のある安全保障政策を対案として示さないで、単純に批判することはどうかと思う。同新聞の同じ一面に、「国民主権に逆行、デモ参加者怒り」と題して、この法案に反対するデモを報じている。議論が国会で行なわれており、そして、我国は間接民主主義の国であるから、「国民主権に逆行」という批判は成り立たないことを、この新聞編集者は知っている筈である。
 米国を始め多くの西欧諸国は、民主主義の名を語りつつ、民衆の知らない部分を政府が持つ制度を備えている。民主主義が衆愚政治に堕落する危険性は、戦前ドイツで民主的に全体主義国家に導いた人、そして日本でもワンフレーズで選挙を大勝利に導くような人、が現れたことにより実証されている。古代ギリシャで出現した民主主義が、一度衆愚政治として評価を落した事実や、古代中国で「由らしむべし、知らしむべからず」という言葉が政治の基本であると信じられた時期もあったことなども、民主主義の欠点を示していることを、我々は忘れてはならない。
 この記事を書いた方は、国際政治は将にダイナミックなものであり、悠長な議論の為の議論の末に問題を先に送る日本の様な国の政治を受け入れてくれないことなど、想像できるのだろうか? もし隣国が拡大主義をとるのなら、日本国も相応の準備をプロフェッショナルな議論を通して、また、同盟諸国との連携のもと執ってもらいたいと思う。全てを国民に知らせてから決断する政治では、専門家の議論は国民の感覚的反対とワンフレーズ政治家との連携により破壊される危険性を持つ。もちろん、適用範囲を限定すること、数十年後(30年が望ましい)に全てを明らかにして、歴史の検証に晒すこと、等を条件にすべきだと思う。そのように修正して国会で議決してもらいたい。(注2)
 尚、国際政治において、それぞれの機関や国家が掲げているスローガンと、本当の狙いに差がある場合が多い。宇宙開発は明らかに兵器開発が主目的であり、宇宙の資源開発や自然科学研究などはその隠れ蓑であることは常識である。資源開発としてはコスト的に採算が合わず絶望的だし、宇宙(たかが数百キロ上空)で行なう科学実験などほとんど茶番である。(注3)また、最近話題の地球温暖化問題も、発展途上国の資源消費を減少させるという隠れた目的で始められたが、国際舞台で途上国の発言力が次第に増すに従い、途上国が先進国から技術供与や資金援助を奪い取るということに、隠れた目的が変化して来ているということである。一方、地球温暖化を専門的に論ずるべき科学者の中には、地球は小氷河期に入りつつ在るという意見を出している人も多いが、それに耳を傾ける政治家は殆どいない。(注4)

注釈:
1) 他国からの核兵器攻撃の脅威に晒され、国家存亡の危機にある時に、短期間に核兵器を作る能力を保持する国
2) もちろん、このような法案でも何でも、政治家が高度な知識と経験を有していることが基本的要件であるが、その点の不安は非常に大きい。従って、両手を上げて賛成という訳ではない。政治家の質の向上には先ず、一票の格差を小数点2桁まで是正することが民主政治として必須である。更に、詳細な危険性についての議論は, 田中秀征氏によりなされている。 行政機関の長が秘密の指定を行なうとのことであるが、その機関を具体的に書いてもらいたい。選挙で選ばれた機関の長以下のレベルが指定するのは、民主主義の原則に反する。
3) 無重力の影響などの実験が披露されているが、想像を超えるような面白い成果はない。物を浮遊させる実験は、強力な磁石と物質の反磁性を利用して地上で行なうことが出来る。その成果が、実際に科学雑誌に投稿されていた。この分野では、地球周回旅行が唯一例外的に、将来のビジネスとして成立するかもしれない。
4) http://dailycaller.com/2013/11/01/is-global-cooling-the-new-scientific-consensus/ 等でそのように書かれている。(田中宇氏の記事より孫引き)
==2013/11/23投稿;11/24修正===

2013年11月18日月曜日

株式についての一考察

 数年前までの私の株式に対する理解は、「株主総会に出て発言する権利と配当を受ける権利を示した証書」という程度であった。そして、配当の株価に対する割合や優待券が気になった。しかし、株価が高くなれば売って利益を得られる位のことは解るが、有名な米国アップル社や日本のガンホーエンターテインメントのように配当を出さない会社の株価が、何によって決定されるか今一つ理解出来なかった。その後、ある会社のある時点での相対的株価は、株価利益率(PER)、株価純資本比率(PBR)そして、総資本における純資産の比率、事業の将来性などにより、決まることまで理解が進んだ。そして、最近になって漸く、国全体の財政や金融政策を含む経済(マクロ経済)において、株式市場はお金のプールのような役割を果たしていること、そしてそれが重要な株価決定因子であることが解った。同様の役割をするものに金や不動産などがある。(注1)
 以上のような理解で株式に対する投資を考えてみると、現在の様に株式が高値を付けているのは、各国の中央銀行がお金の発行額を増やしていることが原因であることが解る。例えば米国は2008年のリーマンショック以来、通貨量を約4倍に増やしており、現在株価は史上最高値である。そして、経済指標が良くなると連銀(FRB)が量的緩和(QE)を早期に止めるのではないかという思惑から、株価が下がるという事態になっている。景気が良くなりそうだから株価が騰がる通常の法則が成り立たないという、異常な状態になっているのである。一方、日本は昨年までは殆ど通貨量を増加させていないが、昨年10月からの1年間に約40%増やしたので、株価は約2倍程度に増加した。しかし、未だに2007年の高値には達していない。前日銀総裁の時に、米国の様に量的緩和が出来なかったのは、既にゼロ金利であり、紙幣への需要がなかったためである。つまり、金を出しても日銀の当座預金が増加するだけで、企業への貸し出し=>企業の投資=>経済成長のサイクルが回らないと考えたからである。そしてこの考え方をとる人(例えば野口悠紀雄氏など(注2)、大勢いる)はアベノミクスには批判的である。この場合、余分なお金は株や不動産に流れて、所謂バブル状態になる。
 我々一般人はこのような情況下で今から株式市場に参加することには、かなりの危険が伴うことを承知しておかないといけない。株価は来年には日経平均で2万円になるかもしれないが、外国のファンドの空売りによる株価暴落の事態も覚悟しなければならない。(注3)バブル崩壊の時には、機関投資家はいち早く市場から逃げ、一般投資家が取り残される場合が殆どである。そして、機関投資家が外国人ならば、資金は外国に移動し(つまり日本の富が流出し)、日本人ならば銀行を通して最終的には日銀の当座預金として積み上がる筈である。最近NISAというのが話題になっている。これは一定額の株取引を無税にするという特別な証券会社の口座であり、一人一口座開設できる。政府は、株式譲渡や配当に関する所得税(分離課税)をこれまでの10%から20%にするのと同時にこのNISAを始めるのは、明らかに、株式市場に我々の少ない預金を吸い上げようとする企みである。

注釈:
1) もちろん何となくそのような役割があることを感じては居たが、理解というレベルではなかった。因に、株や不動産特に人の住まない都心のマンションなどに、お金のプールとしての役割を持たせ、且つ、それらがお金の受け皿となっていると知りつつ中央銀行が莫大な量的緩和を行なうことは、金融を不安定な状態にすると思う。紙幣は需要に従って発行し、その量は金利などによって調節するのが本来の姿だと思う。ゼロ金利でも金が出て行かないのは、経済界に活気が無い為で、それには別の薬が必要だと思う。尚、円高は政治に信頼がなく国民が貯金に励み、その金が国内に滞留して海外へ流れないことが原因で、これも量的緩和でなくて別の薬が必要だと思う。11/28に追加:安倍=黒田金融政策が成功したように見えているのは、円安になって輸出企業の賃金などの国内コストが、低下した為である。
2) 例えば:http://astore.amazon.co.jp/noguchionline-22
3) 日本の株への外国人の投資額は40%近い。過去、グリーという会社の株が2800円近いとき(H24/1)から、モルガンスタンレーやドイツ銀行などの外資系ファンドは空売りを始めた。その結果株価は暴落し、現在は当時の株価の1/3以下になった。これらのファンドが、グリーの将来に暗雲をいち早く観測して空売りのチャンスをつかんだのである。その当時、日本のアナリストのグリー評価は依然高かった。現在、グリーの株価は業績低迷に拘らず徐々に上昇しているのは、ファンドの空売り解消の買いが一因である。これらのファンドは大もうけした筈であるし、私を含め情況に詳しくない(同社のPERやPBRを知っていても)一般人は大損をすることになったのである。それに、インサイダー取引、株価操作など、法の網にひっかからないだけで、日常茶飯事であると感じている。
ーー 最近、大学時代の同窓会に参加し、そこで株が話題になった。そこで、ちょっと私の考えなどを書きました。(11/25修正)ーー

2013年11月15日金曜日

小泉元首相の無責任反原発宣言

 文芸春秋12月号に、山田孝男氏(毎日新聞専門編集委員)による小泉元総理の反原発の提言とそのマスコミに語る経緯が掲載されている。小泉氏の原発反対の根拠は核廃棄物の保存場所が無いことである。要約すると:1)核廃棄物の放射能の半減期が10万年位あるので、それ以上の長期に亘って廃棄物を保管する必要がある;2)日本は地震国であり、その地盤は安定しておらず、10万年間安全に保管する場所はない;3)廃棄物の保管場所が無い限り、原発はゼロにしなければならない、という論法である。一見明確な論理のように見えるが、少し考えればずさんな論理であることに気付く。また、小泉氏は原発推進から原発ゼロ派に換わったのは、大震災が契機であるとしている。しかし、上記論法は、東日本大震災による原発事故とは本来無関係である。巧妙に震災による事故と反原発を結びつけるやり方は卑怯である。私は、動機不純を感じる。(注1)
 上記3つの命題であるが、先ず1)の核廃棄物の半減期については科学的なもので、疑問の余地はない。2)の前半、「日本は、地震国であり地盤は安定していない」についても、場所により差があるものの、大陸に比較して地盤は安定していないだろう。しかし、それ以降の論理は、直線的で幼稚である。地盤が安定しているフィンランドでも、10万年間、最初の保管形態のままで、廃棄物が漏れ出ない保証などない。著者が、小泉氏の意見に対する補足として、「現在の技術で、十万年持ちこたえる構造物が作れるのか。そもそも十万年の耐久性を夢想すること自体ナンセンスではないのか」と書いている。その通りである。つまり、彼らは単純に一度コンクリート詰めしてトンネル内に放棄し、10万年以上放って置くと思っているのである。私は、当然一定期間毎のチェックとメンテナンスが前提とされていると思う。例えば「100年毎のチェックと数百年毎の補強」などのメンテナンスを予定している筈だと。そう考えれば、日本においてもフィンランドにおいても、その保管の方法に大差はないだろうし、フィンランドで出来るのなら、日本でも保管は可能な筈である。核廃棄物のガンマ線は1m程度のコンクリートでブロックできる。数百年後人類が死滅していなければ、優秀なロボットが出来ている筈であるから、数百年に一度、新しいコンクリート容器にロボットを使って入れ替えるなどの方法で、永続的に保管できるのではないか。
 著者が「潜在的核武装能力を失うと、国の独立が脅かされませんか?」と問いを投げかけたところ、小泉氏は「もともと核戦争なんか出来ないのだから。核武装なんて脅しにならない」と簡単に切り捨てている。この無責任さには呆れる。インドやパキスタンが核武装し、北朝鮮が核武装にこだわるのは、国体護持のためである。日本国民は北朝鮮や中国の核におびえてないというのだろうか? 
 現在、日本や世界の経済が順調に見える人も多いだろう。しかし、米国の通貨発行量(マネタリーベース)はリーマンショック後に4倍近くなっており、世界中の国もそれを模倣して、通貨安競争になっている。(通貨安競争の終着駅は、国民の富の収奪である。)米国だけでなく、世界中の国が、深刻な財政問題を抱えている。また、経済発展と不可分の関係にある貧富の差は、中国や米国だけでなくあらゆる国の政治を不安定にする可能性がある。例えば、株価が上昇し続けて一見景気が良さそうな米国では、食料配給に頼る人が10年間でほぼ倍増し、5000万人近い数に上っているとのことである。(注2)原発といった個別の比較的小さな問題よりも、国家の経済(そして世界の経済)こそ、最もその国を(そして世界を)危険で不安定な状態にするのである。
 世界規模の戦争は起こり難いだろうが、東アジアだけといった地域限定的な戦争が起こる可能性があると思う。私は、核兵器保持国において経済混乱がピークに達した時、その国をそのような状態に落し込んだとして、核兵器を強力な外交の道具として用い、日本国を支配するかもしれない。その際、日米の同盟などのメッキは簡単に剥がれるだろう。そして、“平和裏に”例えば多量の移民を送り込み、そこで要職に就かせる形で富の略奪をおこなうかもしれない。或いは、一気に核攻撃をして、豊かな列島をevacuateし、そこに数年後移民として乗り込んでくる可能性もある。世界の人は小泉氏が夢想するほど優しい人ばかりではない。(注3)数百年後、この地球上に生き残る国は、核兵器保持国だけになるかもしれない。
注釈:
1)週刊新潮、10月17日号、22ペイジ参照(週刊新潮、10月17日号、22ペイジ)
2)例えば:http://tanakanews.com/131111ushunger.htm を参照。
3)最近読んだ、ワイルドスワンに書かれている、毛沢東の大躍進運動や文化大革命の様子にはショックを受けた。人は、動物以上に残酷になれる動物なのである。

2013年11月8日金曜日

家庭薬のネット販売と楽天社長

 家庭薬がネットで販売されるようになるが、暫くは劇薬を含む数品目に関しては、その中に含まれないことになった。前面解禁でないことに不満をもった楽天の社長が、政府の産業競争力会議の委員(注1)を辞任すると発表して話題になっている。
 この三木谷氏の反応には違和感を覚える。産業競争力会議は規制緩和を一つの旗印にしているが、何でも規制を無くせば良いというものではない。毒物及び劇物取締法では、医用薬品に含まれるものの取り締まりは薬事法に任せることになっている。従って、薬事法を改正する場合は再度毒物及び劇物取締法との関係を考慮する必要がある。例えば、ネット販売では全国の薬店から並行して同じ薬品を購入することが出来るので、一人の人間が大量に単一の薬を入手することが容易に出来る。その場合、家庭薬の不適切使用だけでなく不正使用も念頭において、薬事法の改正を考えるべきだと思う。つまり、対面販売では抵抗を感じても、ネットでは不正使用の為の買い付けであっても心理的バリアーはなくなるのである。薬のネット販売にはこのような微妙な問題が存在するにも拘らず、自分の会社の営業に影響する為か、腹を立てて委員を止めるというのは、まともな動機とは思えない。更に、この薬品販売における規制緩和は、産業競争力向上に殆ど関係がない。(注2)
 産業競争力の向上には、新しい技術や製品の開発、新しい需要の開拓(人生における新しい楽しみ方の提案)、優秀なる人材の育成、各社製品のブランド力の向上などを如何に図るかかが大切である。インターネットの利用促進も確かにその中にあるが、それについてはその負の側面を議論出来且つ利害関係に無い人の議論が重要であると思う。

注釈:
1) 経済に関する民間人を委員にして、国の経済に関する重要な決定に関与させることは、民主主義の原則に反するように思う。それは一つには利益誘導を彼らが行なう可能性があるからであり、もう一つには、国民一人一人が同じ重みで政治に関与するのが民主主義の原則だからである。
2) ネット販売をゆるして、産業競争力をつけるのは楽天やアマゾンなどネット企業である。一方、薬店などは競争力を削がれる。売れるものの量は、不正使用などが無ければ殆ど変わらないので、何処に日本国の産業競争力と関係があるのか解らない。

イノシシ一匹に大騒ぎする警察

 昨日、岡山市の住宅街にイノシシが現れ大騒ぎになったという。パトカー17台、署員や市職員ら計約70人が捕獲に当たる一方、同署が付近の幼、保育園や小中学校計15校園に連絡し、巡回を強化したとのこと。(注1)また、取り押さえるまでに警察官2人が怪我をした。テレビ(とくダネ!)で放送されていたので、その場面をみたのだが、まるで、大きなスケールの鬼ごっこのように見えた。司会していた小倉さんのコメントは、「住宅街なので麻酔銃などが使えなかったのだろう」というものだった。
 このTV放送での場面や山陽新聞のインターネット・サイトを見て、イノシシ一匹に大騒ぎするこの国を、私は情けない国であると思った。包囲したあとチャンスを見て射殺すればおわりである。住宅街とはいえイノシシに噛まれて怪我をしても尚、警察官が拳銃を使えない国を他の国の人々はどう思うだろうか。また、このような下らない話題をテレビのトップニュースや新聞で報道する国をどう思うだろうか?
 最近、林業や山間地での農業を生業とする人が減少し、イノシシやニホンザルは人に対する警戒心をなくし、時々住宅街に出没している。その度毎に、このような大騒ぎが報道されている。イノシシやニホンザルに対する右往左往は大した問題ではない。多くの日本国民もきっと、遠くない過去に凶悪犯を目の前にしながら、取り逃がした幾つかのケースを思い出しただろう。何故、何も言わないのだ、人々は。
  注釈: 1)http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2013110712555882/

2013年11月4日月曜日

無責任な小泉元首相の講演

 小泉元総理は原発ゼロを言いだし、自分の存在を誇示している。テレビニュースによれば、昨日も十分な知識を有しない大衆を相手に、原発ゼロをあたかも安倍政権の政策を批判するような調子で講演している。現政権の政策をまともに理解もしないで、自分の拡声器が大きいことを利用していい加減な発言を繰り返している様に見える。真に日本を原発を廃止してもやって行ける国にしたいのなら、先ず、自分がその道筋を論文にまとめて新聞社か出版社に持ち込んで、公表すべきである。知識を積み、政治家として十分質の高い形で意見を持った上で、一流の専門家を各分野から招いて、“原発ゼロシンポジウム”とでも名付けて議論する場を開いたらどうか。数年前に総理大臣を行なった人間なら、それ位のことをしてから自分の意見を表に出すのが、国民に対する礼儀ではないのか。
 以下にその他、小泉氏の姿勢に対する疑問点を挙げる。
第一に、誰も原発全廃に反対などしていない。全廃の時期の問題で議論しているだけである。
原発に頼らないで、この国の経済が回って行くのなら、そして、エネルギー源を自然エネルギーに転換できるのなら、反対するものは殆どいない。太陽光発電を1.0 kWh当り10円(天然ガスによる火力発電)で出来るのなら、全て太陽光発電にすれば良い。風力発電や潮流発電なども同様にコストを下げる方法が研究されているが、未だに35円を切っていない。円安誘導で漸く国際競争力を取り戻しつつ在る国内製造業者は、電力料金の上昇によるコスト増大で再び競争力を失う。日本は貿易で利鞘を重ねなければ生きて行けないことが解らないのか?
第二に、聖域なき行政改革はその後どうなった?まだ政治に関与したいというのなら、自分が言いだしたことをやり遂げてからにしたらどうか。途中で投げ出すくせに、偉そうなことを言うなといいたい。
第三に、原発燃料の廃棄物の処理は、小泉氏が宣伝する程、困難でないかもしれない。また、核燃料廃棄物の問題は、原発全廃してもしなくても存在することを問題視していない。深く地中に保存することは、現在の技術だけでも可能だろう。放射性物質というだけで恐怖を抱くのは非科学的態度である。(注1)また、希釈した燃料廃棄物をガラス状に固めたものを海溝に放棄する方法も大前研一氏が提案している。海溝でプレートとともに地中深く潜ってしまえば、放射能が無くなるまでは少なくとも地表に出てこない。
注釈: 1)100兆ベクレルのガンマ線放射物質でも1メートル程度の厚さのコンクリートで取り囲めば、漏れてこない。アルファ線やβ線はアルミフォイルでとまる。紫外線をたっぷり浴びた顔をしながら、放射線を魑魅魍魎のように恐れるのは滑稽である。

2013年11月2日土曜日

再び体罰について=体罰と暴力の違い

 今年の一月、大阪の桜ヶ丘高校バスケット部での体罰について、本ブログでも書いた。(注1)その中で、日本の文化として教育者と披教育者の間でのビンタ程度の体罰が、1)当事者間に了解(暗黙の了解も含む)があり、従って、2)その場で私憤が無ければ、許容されていると書いた。
 本日中部地方で放送された“激論コロシアム”というTV放送で、体罰の問題が議論されていた。しかし、なかなか要領を得ない議論に終わり、結論を得なかった。その中で、”体罰は悪というには、体罰と善悪の定義が必要だ”という言葉が戸塚ヨットスクールの校長からあったが、その中身についての議論がなかった。その点について、少しここで書く。
 もっと解りやすい譬え話を用いると:病院で外科医が手術台に患者を縛り付け、ナイフで開腹することは、暴行や障害にはあたらない。それは、病院において医者と患者という当事者間で、それらは病気を治す目的で行なう行為であるという同意があったからである。(注2)従って、了解の範囲にない手術で患者が不利益を被った場合は、業務上過失が問われる場合もある。ここで、“病気の治療”を“教育或は矯正”に置き換えれば、学校での体罰事件を考える上にヒントになると思う。例えば、戸塚ヨットスクールで、30年以上も前に体罰事件が立件されたのは、そこが学校と病院の中間に位置するからであると思う。しかし、戸塚ヨットスクールは今も存在し、病気とは言えないまでも”病的”と父母により判断された生徒が、更生のために在籍していることが、社会的に一定の機能を果たしていることを証明している。戸塚校長により体罰を無くすることで、更生までの期間が延び、経費的にも親の負担が増加することになったという。これらを考えあわせると、上記病院の譬え話が学校での体罰のあり方を考える良いヒントになると思う。
 以上から、体罰が暴力とは異なるところに、”教育”及び”先生と生徒という上下関係”を用いて定義出来ると思う。
つまり、生徒は一人前ではなく、潜在的に持つ全ての人権を顕在化出来る存在ではないとする。親権者と教育者(機関)との間の同意に基づいて、生徒にたいする先生による一定の範囲での物理的罰(体罰)が許容される。私憤は、一時的に生徒と先生の関係を破壊するものであるから、それに基づく物理的力は暴力と看做される。この様に定義すれば、大阪桜ヶ丘高校で起こった悲劇をどのように処理するか、そして避けるべきかについて考察することが容易になる。つまり、40発にも及ぶ平手打ちは、一定の範囲を超えるので、私憤に因ると判断され暴行として処罰する。また、教育者と披教育者という“当事者間の関係”を事前に解消すること(桜ヶ丘高校のケースではバスケット部からの退部)を、学校の他の職員(上司)や両親が仲介すべきだったと言うことになる。
 尚、教育基本法では体罰を禁止している。従って、上記は理想論かもしれない。荒れる教室で授業が体を為さないとしても、教育者の責任ではなく立法府の責任ということになる。そして教育熱心な先生も、行政からお叱りを受けるので、怠けた方が利口である。社会的トラブルの責任は最終的には政治にあるということになる。(11/2投稿、11/3; 11/4改訂)

注釈:
1)http://island.geocities.yahoo.co.jp/gl/mopyesr 2)手術前に書面で同意を明確にすることが多くなった。

反原発で飯を喰う人々

 園遊会で山本議員は天皇陛下に反原発の趣旨で手紙を手渡した。この件の議論は既に、「天皇陛下の政治利用を試みたので、議員辞職ものだ」という表向きの結論を得ている。しかし、私は、山本氏は本気で天皇陛下を政治利用して、”早期原発廃絶”を実現しようとしたのではないと思う。そもそも山本氏の頭には政治など無く、在るのはマスコミなどで自分の存在を誇示し、次も割の良い”参議院議員という職業”を確保することだけだと思う。その目的の為に”反原発”及び”天皇陛下の政治利用”を利用したのである。つまり、山本氏の発言「マスコミが騒ぐから逆効果である」は嘘で、思った通りマスコミが騒ぎ、成功したのである。
 元総理の小泉氏やマスコミで活躍の中部某大学の武田氏も、似たタイプの”反原発派”であると私には感じられる。反原発で騒げば、ある程度の票やある程度の人気が採れるのである。ただ、山本氏とはレベルが違う。小泉氏は反原発の狼煙を挙げるために、先ずフィンランドの核廃棄物処理施設を見学に行ったのだから。また、武田氏は原子力の元専門家であり、原子力発電のアキレス腱をつくことにかけては他の追随を許さない。因に、武田氏はテレビでのコメンテーターという職業に慣れ親しみ、素人ながら生物学や精神医学などの勉強もして、積極的に素人学者的発言をしている。
 このタイプの活動が出来る人は、利己主義者でなくてはならない。私の人物を嗅ぎ分ける嗅覚(自分では優れていると思っている。)はそう訴えている。

2013年10月28日月曜日

伊豆大島の土砂災害と町長の対応についてのマスコミの不十分な報道について

 台風26号による伊豆大島の被害は甚大だった。火山灰地の雨に対する弱さは誰でも知っていることであるから、大雨の中気象庁により送られた土砂災害情報のファクスを、長時間放って置いた大島町の対応は責められるべきである。(注1)しかし、そのファックスを見なくても、気象庁のサイト(http://www.jma.go.jp/jp/radnowc/)で、豪雨の様子を実時間で見ることが出来る。伊豆大島町長である川島氏が、大事な時に遠く島根県で宴会と二次会で羽目を外していたと、批難されるに十分な理由があると思う。(注2)
 この件で私が非常に不満に思うのは、川島市長の態度ではない。それに対するマスコミの対応である。週末の辛坊治郎氏が司会するウエークでも、市長の責任を問う場面は無かった。島根に出張中であったということも報道されなかった。その後、次の台風27号の接近に際して、町長はNHKなどの取材を受けていたが、台風26号の際の土砂災害に関する責任追及は無かった。新聞(中日新聞)にも、その論調の記事には気が付かなかった。我々日本国民は、真実を知る為には新聞やテレビではなく、週刊新潮や週刊文春に頼らなければならないということである。
 もし、明らかに何の落度も大島町になければ、責任問題の議論は不要である。しかし、断片的に町の責任が報道されているのであるから、マスコミや政府担当省庁はそれらについて考察とともに公にすべきではないか。大島町と町長に対する責任追求と彼らの受け答えを合わせ総括することで、今後このような事態に際して、伊豆大島以外の多くの地方自治体の長がどうすべきかを学ぶことが出来るのである。責任追及は、個人や大衆の鬱憤ばらしの為にするのではない。事故や災害は、行政等社会の機能や状態を映す鏡になり得る。そして、議論を通してそれらの欠点を明らかにし改革するのが、正常な民主的社会であると思う。

注釈
1) 個人の安全対策は自分自身で行なうのが基本である。しかし、その為の情報を迅速に伝達する責任は、自治体にある。
2) 週刊新潮10月31日号、22ペイジ参照。もちろん市長には反論があると思う。口論ではなく、冷静に大島市と市長の対応を議論すべきであった。そこで、取るべき責任が明らかになれば、市長はそのように甘受すべきである。

2013年10月23日水曜日

国連でなされた核兵器不使用声明は核兵器保有国の工作かも

 国連において核兵器不使用声明が出され、日本等もそれに加わった。私は、核保有国が参加しないのだから、このような声明に日本は参加すべきではなかったと思う。核兵器を持っている国が不使用声明を出すなら兎も角、持っていない国が自分で自分を縛るような声明を出して何になる。こんな下らない声明は無いと思うが、新聞は今まで参加しなかった日本政府を批判している。これは恐らく米国や中国など核保有国が裏で核兵器の拡散を防止して、それらの国の核保有国としての特権性&有利性を保持するための工作だろうと思う。
 そのような無駄な声明よりも、核兵器保有国に非保有国への不使用宣言を出させる様に国連は努力すべきである。もちろん、地球上から核兵器廃絶出来れば良いが、それは時間を逆進行させる位に難しい話である。エネルギーでも知識でも何でも、拡散するのが自然の法則であり、政治主体が200近くある地球上で出来る筈がない。せめて、北朝鮮に核兵器廃棄させ、馬鹿げたものではないと証明してから、声明参加国を募集してもらいたい。たぶん、「核兵器保有国を核廃絶に導く第一歩として、このような声明を出すのだ」という人も多いだろう。世の中に、第一歩が大切であるという人も多いが、元々不可能だと解っていることへ向かっての第一歩は、エネルギーを浪費するのみで無駄な行為である。(注1)核兵器廃絶が可能になるのは、政治主体が一つになった時、つまり世界政府が樹立したときである。世界政府の樹立は、世界中の人が経済的に豊かになった時に初めて可能になるが、それは夢のまた夢である。

  注釈
(1)不可能なことで、この種の第一歩に富とエネルギーを浪費するケースが多い。例えば、「人類が移住出来る惑星を探す」とか、「宇宙に資源を求める長期計画」とかいう口実での、所謂宇宙開発もその一つである。しかし、これにも上記声明同様に良く知られた“裏”がある。兵器開発である

2013年10月21日月曜日

経済発展と人材不足

 19世紀以降の急激な工業技術の発展により、我国そして世界の経済規模は飛躍的に増大した。それとともに、“文明”の中での所謂科学技術の役割が大きくなり、学術分野の拡大をもたらした。(注1)その結果、高等教育の分野拡大と細分化、人生における教育を受ける時間の割合増加、そして、社会に於ける学生等の人口比率の増加をもたらした。例えば、“医術”といわれていた医療技術は“医学”とよばれるようになり、先端的科学技術分野の中に転生し、我国においては秀才を集める様になった。また、各分野の発展には、その分野でプロとして通用するには、幼少期からの教育が必須になった。(注2)そして、所謂“専門バカ”の大量生産となり、社会の実相を眺めるに必要な広い分野での知識を持った人材が希有となってしまった。つまり、文明の拡大と各分野の専門化は、一つの分野での優秀な人材と総合的視野を持つ人材の両方の枯渇に結びついている。
 国家の実力は、社会のインフラとそこで活動する企業群、政治的安定と社会における信用、及びトータルな人材の質と量にある。土地の形状面積と気候、そこで産出する資源なども重要であり、地政学的リスクは政治的安定と不可分であるだろう。経済的な諸分野への人材配分は、相互の利益追求というメカニズムによりある程度効率よく行なわれる。しかし、政治分野への人材配分においては、日本にそのような機構がないので、(注3)安易に官僚からの転身(天下り)や世襲により定員を埋めてきた。
 今後、国家の隆盛と国民の幸福を決めるのは何かと考えれば、やはり政治が最も大きなそして同時に不安定な要因として存在すると考える。未だに国民が自由にものを言えない体制にあり、且つ、核兵器を保有する複数の国と、法治国家の概念が裁判所判事にすら行き渡ってない国に囲まれているという、地政学的リスクが大きくなる可能性大である。(注4)
 現在の日本を見ると、“科学技術”の分野では米国を除いた諸外国と殆ど対等と言えるレベルにあるが、政界や経済界の表舞台で社会を動かしている人を見ると、その実力は諸外国のそれに比較して大きく劣り、且つ劣化の一途であるように見える。これは、本文のテーマである文明の拡大が一つの原因であるが、それに加えて、日本国の硬直した人材養成の様式(注5)と社会の労働流動性の無さ(注6)や硬直した社会の層状構造(注7)が優秀なる人材の登用における障壁として加わっている。
 これらの問題の解決には時間を要するが、会社再建の方法と同じで、組織のトップに最も優秀なる者を持ってくるメカニズムを先ず創るべきである。そして、稟議とか会議とか無駄の多い決定プロセスを廃止して、国民に選ばれた首長がトップダウンで政治を行う体制にすべきである。その様な体制に耐える首長を各レベルで選ぶには、沈黙よりも議論を、精神よりも結果を、(注8)平等よりも実力による格差を、(注9)それぞれ重視する社会通念を育てることで、優秀な政治家を掘り出すメカニズムとすべきであると思う。

注釈
1) 哲学(philosophy)は知恵を愛することであり、人間、社会、自然全てを対象にする。“科学技術”文明の発展は、このうちの自然に関する部分である“自然哲学”を、科学と命名して独立した学術分野とみなし、科学は細分化されて、物理、化学、生物学となり、工学と結びついて、機械工学、化学工学、薬学、etcなどとなり、その他の哲学全体よりも遥かに大きな学術分野となった。
2) その顕著な例はスポーツ界である。教育の分野でも、私立中高一貫学校など、幼少期から方向を定めて行なう場合が多い。
3)本来選挙がそのメカニズムになるべきだが、小泉チルドレンや小沢ガールズで解る通り、選挙は正しく機能していない。取りあえず、一票の格差を完全に解消して、都市部の知性を軽視する選挙を改めるべきである。
4) 所謂儒教圏にある国家は、法の近代社会における重要性が理解されていない。日本国も、制限時速を10km/h超えても場合によっては良いじゃないかという国家公安委員長が居ることでも解る様に、法治国家とは言い難い。
5) 大学入学までがこの国での教育である。そこからは、大学のブランドと本人の“人柄”が全てを決める。明治時代以降、この教育制度と人材配布の様式は変わっていない。
6) 英国バーバリーのCEOが米国アップルの経営陣として加わることになった。日本でトコロテン式に昇進したCEOでは勝負になる訳が無い。
7) 「優秀な大学教授は弟子を育て大学教授等に出世させることだ」という言葉を良く聞く。学閥や同期などの言葉で人事が語られる限り、優秀なる人材を得ることは困難だろう。
8) 最近の紅綬褒章に関して、ひと言ブログで述べているので見ていただきたい。
9) 平等に最高の価値を置く考え方は、共産主義が社会を支配するまで待ちたい。しかし、共産主義国家が標準になる時代は、永久に来ないだろう。

2013年10月17日木曜日

無責任な発言を繰り返す小泉純一郎氏

 小泉純一郎氏は、政界を引退した一市民である。しかし、経歴から考えて、政治的発言をすれば、マスコミが反応することを承知している筈である。それにも拘らず、原子力発電再稼働問題というエネルギー政策の根本に拘り、且つ、国民が最も感心のある問題の一つについて、無責任な発言をしている。小泉氏の原発に関する発言は、十分な知識を以てなされているとは思えない。何故なら、一見説得力のある、「核のゴミを捨てる場所がないのに原発に頼ることは無理である」という氏の発言の中で、“場所がないのに”が十分な考察の結果とは思えないからである。小泉氏に「この根拠を国民の前で語る前に、何故廃棄場所が見つからないのか、探す事も出来ないのか、現在候補に上がっている処理廃棄方法以外に別の方法は無いのか、などの問題に関する分析をされましたか」と聞けば、威勢の良い態度が一変するだろう。核のゴミは地中深く、強靭なコンクリート構造をつくり、その中に永年貯蔵するという有力な方法がある。単に住民の同意が得られていないだけであり、過去高知県のある町で具体的な問題として検討されたこともある。この方法は、危険性が十分低くすることが出来ることを、説明能力の高い専門家を派遣し、時間を懸けて住民の理解を試みれば、同意が得られる可能性が未だあると思う。また、その場所を人口密度の低い海外に求める方法もある。更に、巧妙な方法は以下のブログに書かれている。http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51710655.html   小泉発言の動機は、安倍総理への嫉妬か退屈しのぎか、その程度のものだろう(週刊新潮、10月17日号、22ペイジ)。NHKなどのマスコミは、安易に小泉氏の発言を報道することは避けるべきである。既に引退した一老人の配慮に欠ける講演内容を一々報道することは、有害なだけである。(一種放射線取扱主任者免許保持者)

2013年10月13日日曜日

日本維新の会が、堺市長選に敗北したことが意味するもの

産経の記事:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131010-00000529-san-pol は堺市長選後の、維新の会の低迷する状態を報じている。そこには、既存政党の醜い姿が報じられている。既存政党には、政治を職業とする政治屋が集まっているのであり、自分の職業を維持することが市民へのサービスに優先することを示している。また、このような状態に維新の会が追い込まれたのは、橋下氏の維新の会があまりにも安易に、同士として人材を登用ししてきたことを示している。堺市長選の結果は、仮に多少日本維新の会の目指す方向を理解したとしても、一度手にした特権を手放すには、相当の人材(品性知性ともに)でなかればならない事を示している。維新の会が人材不足であり、かなりいい加減な基準で同士を集めて来た事は、既に指摘して来たが、今回も東国張氏が次回の宮崎県知事選に出馬する意向を示した事でも証明されている。
 更に、今回の堺市長選の結果は、堺市民がおおむね今の日本国と堺市に満足していることを示している。海の表面温度が27度以上にならなければ、強烈な大気の渦巻きが生じないように、市民の鬱憤が山の様に蓄積しなければ、大衆は動かないのである。大衆が政治に与えるのは、単にエネルギーであり、政治の方向ではない。エネルギーだけでは、政治は改革の方向に進まない。能力とカリスマ性を備えたリーダー及びそれを取り巻く優秀なる人材が必要である。そのようなリーダーの出現が遅れれば遅れる程、政治改革が望ましい方向に進みだすまでに、大きな犠牲を伴うのである。
 ギリシャで衆愚政治と堕落し、そしてアラブの春で証明されたように、元々民主主義は政治形態として最善かどうか疑問に思われて来た。所詮、大衆のエネルギーを日常的に吸収するメカニズムに過ぎないのである。もし、民主主義体制で政治が円滑に機能しているとすれば、民主主義が政治の表に現れる部分に過ぎない筈である。完全な民主主義体制になってしまえば、そして、自立した知性ある個人が選挙民でなければ、国は滅びるだろう。日本が、辛うじて平和と繁栄を維持できたのは、裏打ちするメカニズムとして、いままで親米官僚機構であったことを、昨年まで3年程続いた民主党の政治における数々の失敗が証明している。その官僚機構を破壊するなら、それに変わるものが必要である。その代わりは別途何らかのエリート集団でなければ、この複雑なグローバル化した政治経済社会で反映した国家を築くことは不可能だろう。

平成維新を諦めた橋下市長

  昨日の維新の会の研修会で、「国会議員には、自民党に対抗する政党を創ってもらいたい」とのべたと伝えられている。(Yahoo news 13日朝)これは、二大政党制を育てるというと聞こえが良いが、橋下氏が彼と石原共同代表とで、日本の政治を刷新するという野望を捨てたことを意味していると思う。
 彼の目的は、維新の会が日本全国を制覇し、この65年間積み上げられて来た政治の延長ではなく、全く新しい政治の種を育て成木にするという試みだった筈である。戦後の政治は、脚本は官僚が完成し、政治家である自民党が舞台で演じるというものだった。野党は観客席にいてヤジを飛ばす位の役割しか無かった。そのことは、テレビ中継される予算委員会や本会議の質疑をみていれば解ることである。その戦後政治を、原点に戻って刷新する筈だったと思う。
 ここで二大政党制を育てるという、小沢一郎氏が一度失敗した路線に戻ることは、橋下氏が堺市長選での敗北を重く受け止め、維新の会創設時の熱意を無くしたことを意味している。維新の会が、初期に創ったシナリオ通り事が上手く運ぶには、大衆の支援が大きな波として全国に広がることが必須条件であり、その事を橋下氏が十分承知していたのである。元々、橋下氏の手法は、端的に言えば、素人の手法である。(注1)所謂腐敗したプロの政治家が用いる政治手法とその伝統を完全に否定することからスタートしなければ、この国の政治が良くならないことが解っていた筈である。従来のタイプの政治家が大半を占める霞ヶ関で、野党連合を考えることはそれを諦めたことを意味している。
 彼はよく頑張ったと思う。大阪府の財政の健全化などは、従来型の地方の首長では出来ない事であり、その手法を大きく展開出来れば、日本の政治も維新を迎えることが出来たかもしれない。しかし、今回の堺市長選の敗北は、日本人は口では不平不満を言いながらも、おおむね現在の政治に満足していて、改革のエネルギーは大衆の中に無い事が明らかになったのである。この事実は堺市長選までにすでに明らかになっていた。最初から、彼の周りに集まった人材は、石原氏を除いて二級品ばかりであり、(注2)大きな助けにはならなかったのである。
 国家も人も、落ちるところまで落ちなければ、底を蹴ることが出来ないのだろう。
 
注釈:
1)プロの弱点は、ゼロベースで考えて、その結論を素直に発言出来ないことである。
プロの弱点の一例を挙げる:最近の「慰安所に婦女子を集めた手法などについて調査し、もし、国家の政策として、強制(親権者と本人の意志に反して)連行したようなケースが明らかになれば、新たに謝罪と賠償を行なうべきである。」という趣旨の橋下氏のテレビ番組での発言が話題になった。「この様な場合、新たな謝罪と賠償が必要だと思いますか?」という質問を投げかけられたプロの政治解説者である大谷昭宏氏は、今後のテレビでの仕事の事か何かを考えたのだろう、何度も繰り返し質問されても答えられなかった。(名前を忘れたが、ある芸能人が橋下氏に小金稼ぎで出演していると言われて、番組を降りた時の一場面である。)
2)最近、東国張氏は再び宮崎知事選に出馬する意志を然るべき筋に伝えていることがニュースにながれた。
 
==これは理系素人の意見ですので、批判等歓迎します。==

2013年10月9日水曜日

憲法9条と最高裁判所の怠慢

憲法9条と最高裁判所の怠慢

 憲法の中で改正の必要性がもっとも頻繁に議論されているのは、第9条である:

「第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
 最初にこの条文に関する疑問点を挙げる。まず全体について:この文章のわかりにくさの原因は、主体が不確かなことである。つまり、日本国民が憲法策定の主体であるのなら、第二項は不要な筈である。第二項は、日本国民の後ろに連合国が存在していると考えれば、理解できる。(注1)次に、第9条第一項の最初の文だが、「希求し」の“し”は単に動詞を重ねる助詞の“し” (広辞苑第二判)なのだろう。何故文章を切らないのだろうか。しかし、文章を切ってしまえば、既に前文に同様の文章があるので不要になる。  第一項後半、”国際紛争を解決する手段として、戦争、武力による威嚇、そして武力の行使を放棄する”と宣言しているところに疑問点はないが、この文章に関して、市井で聴かれる「自衛戦争は放棄していない」という解釈は一寸無理があると思う。(注2)

  第二項の最初に、“前項の目的を達するため”とあるが、「--が目的である」という文章が第一項に無い。「---を永久にこれを放棄する」のが目的なら、国民が主人公の統一国家で、その国民が放棄を宣言したところで、目的は達成される筈。「放棄したので、その為の道具は国家に持たせない」なんて条項が何故必要なのだ。(注1,3)
以上が、第9条の文章に関する私の疑問点である。  現在、日本には自衛隊という軍隊がある。英語でSelf Defense Forceと訳されており、Forceは軍隊なので、国際的にも軍隊を保持していると看做されている。これは明らかに第9条第二項に違反している。何の為であれ(前項の目的を達するため、)「戦力は、これを保持しない」と明確に書かれているのだから、よくある”いかさま解釈”は成り立たない。(注4)、何故、このような憲法に違反する自衛隊を持つにいたったか?それは、軍隊が国家を維持する上で不可欠だからであると思う。丁度、腕(arm)や力(force)を持つことが、人の生存上、必須であるのと同様にである。
 このような混乱した情況が長く続いた事の責任は、最高裁判所にあると思う。明らかに違憲である自衛隊を、三権分立の基本に反して行政におもねり、合憲としてきたからである。然るべき機会に違憲判決をだしていたのなら、その後、早々に改憲されていたと思う。そして、東アジアの一部の国々が、憲法改正に触れる我国の政治家に右翼のレッテルを張り、それを外交の道具に使うことが出来なかったと思う。
注釈:
1)第二項は、「性犯罪人なのだから、懲罰とその後の宣誓だけでは不十分である。去勢しなければならない。」と読める。これが、連合国が日本国民の後ろに見えるという意味である。こんな文章を、日本国民の総意として書くのか?最高裁判所の判事の連中は憲法読んでいるのか、そして平気なのか?
2) よくある憲法解釈に、第一項は「自衛戦争を放棄していない」というのがあるが、自衛戦争と国際紛争が独立した概念ではない(つまり、大抵同じもの)ので、無理な解釈である。

 3) この憲法条文を読んで、私はアニマルズのヒット曲、「朝日のあたる家」を思い出した。その歌詞の一部を掲載する。
With one foot on the platform  And the other foot on the train  
I'm going back to New Orleans  To wear that ball and chain 
ボールとチェインは、朝日の家という刑務所のようなところで不良少年の主人公が足に付けられる、鉄の玉と鎖である。
4)前項の目的を達する為でなければ、軍隊を持つことが可能であるとする解釈である。第二項の文章は、「前項の目的を達するための陸海空軍は、これを保持しない」 でなくてはならないと思う。


==これは元理系研究者の文章ですので、専門の方の批判を歓迎します。==

2013年10月6日日曜日

知恵の木の実を食べた人類の末路

 科学は最初、ヨーロッパの貴族社会のサロン的な場で産まれた。技術に転嫁されて経済的利益を生じることが、科学界への持続的な研究費の流れのメカニズムを発生した。そして、“科学技術文明”として地球上に君臨することになる。その結果、高度に訓練された知的人々が構成する各学会のものであった科学が、一般社会の所有になった。(注1)その結果、科学と技術の区別も明確でなくなり、元々泥臭い仕事に過ぎない技術開発が、エリートの職業となり、“科学技術”の発展方向を一般社会が決めることになる。例えば、原子核分裂により大きなエネルギーを発生することは、質量とエネルギーが本来等価なものであるというアインシュタインの公式を実証した。科学の範囲では、ここで興味は尽きるのだが、“科学技術”に転化したあとは、原子爆弾や原子力発電の開発という方向の方がより重大な関心となる。細胞生物学(科学の一分野)では、体性幹細胞などの発見が重大事である。人工的に作られた胚性幹細胞(i-PS)は生物学としても大きな成果であるが、本来技術の範疇に入るものであると思う。しかし、その人類の未来に於ける役割は、正か負の両極端に振れるほどのものである。そう言う意味では、オットー・ハーンの核分裂発見と並んだ大きな意味を持つ。
 ここで私が思い出すのが、創世記の知恵の木の実の話である。この話の中の“人”を“人類”に置き換えた場合、知恵の木の実は我々が享受している科学技術文明であると考えることが出来る。その譬え話を延長して、人類の死滅の原因を考えると、幾つかが頭に浮かぶ。地球温暖化、人類に何らかのプロセスで組み込まれて行く不妊、核戦争などである。i-PS細胞研究は、進路を誤ると間接的かもしれないが、人類の死滅につながる位のものであると思う。(注2)
 現代の政治形態の主流は民主政治である。ギリシャの時代のデモクラシーは衆愚政治に堕落して一旦消え去ったが、産業革命後科学技術文明の発展と同期して甦り、近代民主主義と呼ばれている。制限のない民主政治は、再び衆愚政治に堕落し、発展した科学技術文明を持て余して、上記人類破滅のシナリオの一端を担うのではないだろうか。
注釈:
1) このプロセスはスポーツにも当てはまる。昨日の体操の世界選手権で、未だ高校生の白井選手がシライと名付けられた、“後方伸身宙返り4回ひねり”を決め、金メダルを取った。この種の技は、幼少期から高度な訓練をして初めて可能になるもので、それは、体操選手という職業が人生の目標に設定され無ければ、あり得ない。それは、体操界の経済界との強い結びつきを意味する。
2) 最近、不妊治療は顕微授精などの極限的レベルまで進んでいる。ここで、次に登場するのが当然人工胚性幹細胞である。米国などの国では胚性幹細胞の作成を禁止しているが、いずれ忘れ去られるだろう。

2013年10月5日土曜日

老人を助け損ね踏切で死亡した女性に紅綬褒章と感謝状銀杯授与した阿部首相の思惑

 この件、大橋巨泉さんを始めネットでは多くの人により議論されているので、今更という感じがするが、一寸書いてみる。  巨泉さんは、官房長官が出向いての褒賞授与を、政治的パーフォーマンスとして批判しておられる。(注1)論点は明確である。つまり、踏み切りの仕切り棒が降りている時に、線路内に入るのは違法行為であり、その“違法行為”に政府から褒賞を贈るのはおかしいという論理である。このような明確な批判が、マスコミ界で飯を喰っている人からあまり聞かれないのは、「この国はものが言えない国」ということを示しているような気がする。
 私は、その女性が咄嗟の判断ミスをして死亡したのであると思う。また、そのような救命行動をとった勇気は誉められるべきだが、他人に勧められる行動では無い。ましてや、それにより死亡したことを誉めたたえる安倍総理や菅官房長官の言葉には、非常な違和感を覚える。もし、成功した場合、官房長官が出向いて紅綬褒章を授与するだろうか?本当は、成功したときの方が賞賛に値する筈なのに、死亡したことに特別の意味を持たせる今回の褒賞は一体何を意味しているのか?過去に、山手線のホームから落ちた人を助けに韓国人青年と日本人カメラマンがホームに降りたが、3人とも死亡した事故があった。その当時、事件は大きく報道されたが、政府要人が遺族を訪問していない。
 ところで、私はこの件を考えていた時に、突然、安倍さんが過去の戦争で命を失った多くの人を思い出したのではないかと思った。日本国民は昔から、他人のために命を捧げることに対して、最高の価値を置く感覚を持っていたと強調するための褒賞及び銀杯ではないかと。終戦間際に戦闘機で艦船に体当たりする行為は、犠牲でもなんでもない。ただの無駄な死であったと思う。優秀なる若者を無駄に死に追いやるという愚かな政策を採った、当時の日本国指導者の多くは、東京裁判で死刑になった。しかし、櫻井よしこさんを始め、所謂右翼的な人は、そのような人も日本国内の視点では戦犯ではなく、靖国神社に祀られて当然であるとの考えである。(注2)
 国の指導者の責任を問うか問わないかが、民主主義と全体主義の違いだと思う。櫻井さんは戦前の全体主義的政治を良しとする感覚をもっているのではないかと思う。そして、安倍さんを始め多くの自民党議員達も同様だろう。マスコミ人は、今回の特別な褒賞の理由を首相に正すべきだと思う。
 上記感想は、ちょっと想像し過ぎかもしれない。安倍さんはもっと単純に、愚民政策的に人気取りをしただけかもしれない。何れにしても、悪質である。
注1)http://www.youtube.com/watch?v=YA7OMkIphkk
注2)http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/08/blog-post_29.html

2013年9月29日日曜日

JR北海道と過疎化

 JR北海道で線路幅が基準値からずれていたのに放置されていたことが問題になっている。脱線事故の原因究明の過程の中で、報道されるようになった。これはずさんな経営ではあるが、根本原因はJR北海道の財務情況が芳しくないことであると思う。同じような情況にあるのがJR四国であり、橋桁の修理もままならない情況であるとのことである。サンデーモーニングで河野洋平氏が、「国鉄分割民営化の時に既にこのような情況になることが解っていた。解決はこの時の問題点に戻ら無ければ出来ない(細かいところは間違っているかもしれない)」と言っていた。何故、河野洋平氏が解っていたことに目をつむって、分割民営化したか?おそらく、河野洋平氏の理解は中途半端であると思う。つまり、国は民営化されたJR#に、地方の採算のとれない路線を廃止して、採算のとれる様にスリム化することを期待したのではないだろうか。つまり、国の行政としては出来ない地方切り捨てでも株式会社なら出来るので、後の処理を民営化後のJR#に任せたというのが本当のところではないのか。その厳しい仕事が、出来なかったのは、中途半端な形で国との癒着がのこっていた事が一つであり、もう一つは私企業として経営が出来る優秀な人材を経営者として据えなかったことだと思う。力のある人がJR東海やJR東日本などの良いポストを取り、残った人がJR北海道などに配属されたのでは。この重要な人事の問題を、政府主導で行なわなかったのではないのか。
 ここで更に書きたいことは、JRについての上記議論を一般化して、過疎化への対応という問題についてである。一般に、経済構造が変化した時に、人の再分配が行なわれるのは必然である。誰でも生まれ育った土地に愛着があり、不便だがその場所に残る人も多いだろう。しかし、それは元々個人の選択の問題であり、その不便さや経済的困難な情況を、過疎(過度に疎になる)という言葉で表現するのは、正直に言わせてもらえば、一寸身勝手である。それは、地震などの天災で損害をうけた人は、本来自己の努力で、その損害を引き受けなければならないのと同様である。経済構造の変化は明らかなので、予見可能な分、天災に見舞われた人よりは対応は簡単だった筈である。他の地方の人が出来ることは、その自助努力への善意に基づく協力という範囲に限られる。一方、日本に於ける“民主政治”は、一票の価値を過疎地に2倍程度有利にしており、その結果、地方の過疎化を異常事態と捉え、その解消を政府の重点課題の一つとしている。人口再分配の経過措置として予算を計上するのは、行政としては当然のことであるが、それを阻止する方向で行なうのは間違っている。もちろん地方の自治体が新しい人を引きつける手段を創造すれば話は別であるが、中央政府の仕事ではない。
 更に一般化すれば、国民の間の危険や不幸を最少にすべく、本質的及び制度的な面で行政が関与するのは重要な仕事であるが、個々の災害や不幸は、セイフティーネット的なものは別にして、個人の負うべきことである。そこのところを国民に、正しく理解してもらうという努力を、日本の行政は十分行なっていないのではないのか。
注釈:
(1) JRは民営化された後の一定期間は、国(清算事業団など)との繋がりは継続されるが、その後は一私企業としての責任を果たすべきである。

2013年9月27日金曜日

日本病の症状について=具体例1

 福知山線の事故に間して、会社の経営者が業務上過失致死罪で強制起訴されたが、無罪になりました。NHK午後6時のニュースで、法律の専門家と思われる人が、刑法には枠があり、経営者を処罰することは無理なので、新しい法律を造るべきと言っていました。この方、ピント外れのコメントをしています。
 あの事故において、法で処罰されるべきは、運転士(いませんが)や不適応な運転士を業務から外さなかった現場の上司だと考えます。会社の最高幹部には本来の仕事がある筈。もちろん安全な設備や運行形態を実現するように、関係部局に指示するのはその一つであることは言うまでもありません。しかし、それ以下の具体的なことの責任は現場にある筈。日本社会で、最高幹部に関する典型的な理解は、双六の上がりのポジションのようなもので、会社の看板となることである。何かあるとテレビカメラの前で深々と(心の中とは無関係に)頭を下げることが一つの大事な仕事で、また、会社が看板を一新する場合には、首を差し出すのが最後の仕事のようです。この日本病に感染すれば、電器系S社やP社(失礼)などの大企業でも危機を迎えます。そんな国で、現場を知らない最高幹部を罰する法律を造れば、一寸雨が降るだけで、列車が動かなるのがオチです。
 この件で問題にすべきは、検察審査会という無駄な組織・制度だと考えます。法律の専門家数人(検察官、弁護士、裁判官)が証拠と論理的な討論の末出した結論に、素人が感情の趣くままに検察審査会を利用して、強制起訴するという馬鹿げた制度ですから。このことは、小沢一郎さんの政治資金規正法違反のケースで、証明されています。従って、行政の無駄だけはなく、有害な制度だとおもいます。廃止すべきです。

2013年9月22日日曜日

韓国政府は、対日歴史の捏造を企てている。日本国民は目覚めるべきである。

 韓国政府は過去の歴史を脚色して世界に宣伝することで、現在の韓国国民の不満の捌け口をつくり、且つ、日本の国際的地位を低下させることで間接的に利益を得ようとしており、それらの行いは、既に外交というよりも冷戦に近いレベルであると考える。つまり、過去の問題を論じているのではなく、過去の歴史は単なる冷戦的敵対行為の材料でしかない。日本政府と日本国民は、韓国の行為を正しく評価して、対韓国対策を戦略的に策定すべきである。

 韓国政府は、太平洋戦争以前の日韓併合と日本による統治、戦争中の日本軍の振舞、戦後の竹島占拠に対する日本の抗議などを激しく非難している。韓国はこれらの問題を真実の解明というスタンスで日本に抗議していない。例えば、竹島の問題でも、国際司法裁判所への提訴を日本国が呼びかけても応じることはない。(注1) 婦女子を国家がその政策の一環として、強制連行して性的サービスに従事させたという朝日新聞記者の記事についても、(注2)その事実の解明よりも、国際的に宣伝することを優先する姿勢も同じパターンである。これらから言えることは、韓国のやり方は、歴史は創り上げるもので、解明するものではないという理論で裏打ちされている様である。(注3)

  従って、日本国が執りうる対抗策も、正攻法と多角的な方法の二面作戦を執るべきだと思う。正攻法は言うまでもなく、国際司法裁判所などの力を借りて、韓国の主張するところの日韓の間に刺さった棘(とげ)の真偽を明らかにすることを目指す。この場合、例えば、国家として朝鮮半島の婦女子を強制連行して、性的サービスに就けるという事実があったのなら、改めて謝罪と賠償を行なわなければならない。その覚悟を明確にして、韓国政府と対峙すべきだと思う。また、単に家が貧しくて、親が本人に通知することなく対価を受け取った様な場合は、当時の日本やその他の国での社会情況を考慮に入れて、国家が謝罪すべき問題でなく、国際的な非難があっても毅然たる姿勢をとるべきである。また、同時に戦争時多くの地域や国で起こった、軍隊等による婦女子の性的暴行問題の調査と被害女性への保障問題を議論する場を立ち上げる様に提案すれば良い。平時の感覚で戦争時の犯罪行為を裁くことの空しさに気づく筈である。

 もう一つ、奇策に入るかもしれないが、日韓両国並びに国際社会に向かって、李王朝時代の朝鮮時代の半島の状態や、日韓併合に至った経緯、その後の政策などについて、研究公表&宣伝すべきである。(注4)日韓併合の真実とでも題して、シンポジウムをニューヨークで開くとか、色んな方向があるだろう。国立系大学は、その種の講座をもうけ、大規模に研究活動を展開することを第一歩とする。日韓だけでなく、東アジア歴史講座とする方が良いかもしれない。

 兎に角、日本国民全員が本腰を入れて、真実を最優先する姿勢と誠意を背景に、対韓国キャンペーンを展開すべきである。(注5)

注釈:

注1) 小和田氏は国際司法裁判所から退くべきである。それが、韓国の同裁判所に中立的判断は期待できないという言い訳を防ぐことになる。
注2) 吉田清治、本田勝一らの飯を食う為のネタ作りであったと言われている。
注3) 韓国は歴史を捏造しようとしているのだ。100年経てば、真実として定着する筈だと思っている。その試みを破壊すべく、戦略を練るべきである。
注4)併合後、日本国家が半島へ多額のインフラ投資を行なったことを宣伝すべきである。帝国大学も名古屋帝大や大阪帝大よりも早くソールに造られているのである。欧米の植民地支配とは全く異なる事を全世界に知ってもらうべきである。
注5) 対馬の寺から仏像が韓国人により盗難にあった。しかし、昔韓国にあった仏像だから、対馬には返さないという韓国当局の判断にはあきれる。安倍政権は、100%の危機感をもって、あの国に対峙すべきである。

2013年9月16日月曜日

言語空間とその進化、及び現実社会からの独立性

 野性の状態で生きている動物は言語をもたないことでも解る様に、言語は高度な社会を造って生活をするために存在する。人が他の人にその感情や経験を伝える場合、言語空間へそれら感情や体験を投影し、言葉に変換して伝える。言語空間をそう定義すると、言語の特徴及びそれを用いた表現の限界が理解出来る。個人のレベルで存在する記憶が言語でなされるではないか?という反論があるかもしれない。しかし、記憶したことを日記に書く場合には、言語空間に投影する作業が必要であり、多くの人がその時点で或る種の困難に遭遇することから解るように、体験は言語空間への投影を経ず記憶されていると考えられる。言語能力とはこの投影作業の能力であり、言語空間をなす基底(ベース)が言語である。現在、言語は体系的に整備されており、教育により記憶体得される。
   高度に体系化された言語の発生について、昔から疑問に思っていた。言語を神が造ったと考えれば理解は簡単であるが、神の存在を確認出来ない以上、上記疑問は消え去らない。(注1)
 ここでは、哲学の発展に伴って言語空間が整備されたとする方向で、この問題を考えてみたい。哲学は、人間、人間が造る社会、そして自然を、言語を用いて理解することだと思う。換言すれば、哲学とは、人間、社会、そして自然の、言語空間への投影作業であり、言語空間内の領域にある。(注2)
   言語が数千年或はそれ以上に亘って整備されたことは、我々人類が、個人やローカルな社会から独立した共通の“言語空間” (注3)を持っていることを意味する。人間や社会に関する哲学が発展した古代ギリシャの時代に、社会のあり方としてデモクラシーが考えられた。つまり、“公の社会とそこへの個人の参加の仕方”が、考察されたと思う。そして、“公の社会”への参加は、社会の抱える問題とその解決法を、公の空間で言葉により表現することでなされる。そのプロセスで、社会と人間、その両者の関係に対する理解が深まるのである。また、同時進行的に事象の論理的な言語空間への射影を可能にする、独立した(動かない)言語空間とそのベースとなる言葉ができたのではないだろうか。その伝統を持つ、西欧の言語が論理的に優れた構造を持つに至ったと考えられる。
 以上の考え方をサポートする証拠として、数学の発展が挙げられる。数学は広い意味での言語に属する。そのことは、数学は自然科学を表現するために用いられる道具であり、存在物から独立しているという事実から明らかである。(注4)
 そして、言語である数学は、それを用いて表現する科学の発展に伴って、発生整備されて今日の形になったと考えられる。このことは、一般の言語が整備された形へと発展したことと“公の社会空間”の発展が、丁度DNAの2本鎖のようにして進んで来たことと相似的である。
 さて、以上の考察から、何故言語空間の独立性(揺らぐかどうか)に地域差(文化の差)があるか?が解る。日本語は、残念ながら、論理的に整備されていない言語であると思う。その原因は、オリジナル日本語という小さな言語体系に、大きな体系を持つ漢語や西欧語が、“有力な管理者”がいない状態で輸入され定着したためと思う。この詳細も別に述べたので省略する。(注5) この現象論的な理解の他に、上記の”公(おおやけ)としての社会”の発展度の違いから解釈することも可能である。つまり、日本国民が共有している言語空間が、十分な普遍性と論理性(鏡の平面性に相当)を有していないことの裏側に、日本国は歴史的見て、「公としての社会」の未発達な段階にある事実が存在すると考えられる。
 今回、本文章を書くきっかけになったのは、最近造られた特別警報ということばである。警報を出さないで被害者が出た場合、気象庁全体の責任だということになり、トップの数人がテレビカメラの前で頭を深々と下げることになる。この外から見て滑稽で、内から見れば屈辱的な光景を避けたいため、予報官が警報を乱発してしまった。その結果、警報だけでは自発的に非難する人は殆どなく無視されるため、新たに造られたのが“特別警報”なのだろう。今回、福井、京都、滋賀にだされたこの特別警報は、経験したことの無い、命の危険に拘る事態であり、「命を守ることを各自最優先するように」という警報である。(注6)しかし、床上浸水した家屋の数は非常に多いだろうが、ほとんど死者はでないだろう。何れ、特別警報のインパクトは無くなるだろう。その時は、超特別警報なることばをつくるのだろうか?

 このような“ことばのインフレ”現象は、日本では確たる言語空間がなく、本来言語空間への投影対象となる筈の、社会のリアルタイムの風潮や個人の感情からの独立性が明確でないために生じる現象である。従って、現象を投影するスクリーンが動いてしまう一方、光源もぼんやりとした光しか発していないのである。この現象は、上で既に議論したように、“公としての社会”が未発達な状態の日本社会を示している。
注釈:

(1) http://island.geocities.jp/mopyesr/kantou.html


(2) 小説は言語空間から実体験空間への逆投影を言語側から行なったものと解釈される。

ところで、言語空間とひと言で言っても、そのベースである言語の出来次第で、鏡のような平面で像を映すのに良く出来たものから、ことばを受け取った側が、頭の中で被投影物に再構成する際に大きな困難を感じるものまである。ここでは、この揺らがない平坦な鏡のような言語空間へ進化するプロセスを論じているのである。
(3) これは、概念としての言語空間という意味。米国人を日本人では等しく言語空間を持つが、言語が違うことでその言語空間の性質はかなり異なる。 (4) 繰り返しになるが、自然科学の発展に伴って考えだされ発展した数学ではあるが、数学は自然科学の一分野でないことは周知の通りである。 (5) http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html


(6) 滋賀の安曇川上流に住む兄に電話したところ、避難をする程でもないし、大丈夫だということで安心した。

2013年9月13日金曜日

正常な医療行為を超えている不妊治療ー医学の進歩(?)は誰の為か?

  現在日本では、不妊の検査や治療を受けたことのある夫婦は、6組に1組の割合であるとのこと。そして、不妊治療専門のクリニックが世界一多く、体外受精の実施数も世界一になっていると言われている。http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/0623/ その種のクリニックが繁盛している様だが、一方でダウン症などの異常児の出産との関係が議論されており、日本民族の将来が心配である。この不妊治療が多いことの原因の一つとして、女性の社会進出に伴って晩婚化が進み、自然妊娠が出来ないケースが増加したことがあるという。日本社会の西欧化に伴った歪みの一つであり、根本的な克服は困難かもしれない。ここでは、不妊治療に話を限って、問題点を考えてみたい。  不妊治療には色んなレベルがある。大きくわけて一般不妊治療と生殖補助治療(ART)の二種類に分けられる。一般不妊治療は子宮のコンディションを整えることとか、排卵を誘発するなどの方法、そして医師の手による人工受精で受精確率を高める方法などがある。一方、ART(Assisted Reproductive Technology)では、精子、卵子を直接取り扱い、生殖を補助する“工学的”不妊治療(私の造語)を意味する。ARTは、体外受精(IVF)と顕微授精(ICSI)にわけられる。顕微授精の場合、漢字として受精ではなく授精が用いられるのは、直接精子を卵子内に注入する方法だからである。ARTの場合は、胚を子宮に移植するのが一般的で、他に比べて障害児となる危険性は増加するだろう。数千万とも言われる精子間での競争で受精が行われることで、人間という種(しゅ)が守られて来たのである。その事実を無視する傲慢(医者と治療希望者の双方)な方法である。  男子に不妊の原因のある場合、精管の閉塞などを外科的に治療するタイプから、精子を精巣から直接採取するTESE(Testicular sperm extraction; 精巣からの精子採取)やMD-TESE(顕微鏡下で精子を探しながらのTESE)といった方法で、不妊治療がなされる場合がある。これらの場合、顕微授精を併用することになるだろうから、非常に人工的なプロセスで出産まで進むことになるだろう。ただ、TESE-ICSIでの受胎率は非常に低く、それだけに多額の費用と多くの危険性を覚悟する必要がある。注(1)  障害児が産まれる危険性は、これら種々のケースによって大きく異なると思うが、そのデータが蓄積公表されていない。注(2) それにも拘らず、不妊治療が保険外治療として広く行われ、医師たちが多額の報酬を得ているのは問題である。これは、医師の収入をねたんでいるのではない。保険外で高収入が得られる事が、医療の本来の姿を歪めている可能性があるからである。これらの医療は果たして、不妊に悩む人のためにあるのか、それとも医者の為にあるのか疑問に思う。
 古来より、子供を得ることを、子供を授かると言って来た。この表現には、新たな命を生じることは神の領域にあり、人知を超えた厳粛なる出来事であるという考えが根底にある。その伝統をいつの間にか破壊し、「子供を作る」という人間の領域に移して、埒外のARTなどで神の領域を犯しているのが現在の不妊治療だと思う。 実際、ネットで検索すると、ARTによる不妊治療に関する悩みや不幸な現実が掲載されている。例:http://blog.goo.ne.jp/uhb123/e/c19678692234b420b82f4c6888501485
<これは理系とは言え、他分野の元研究者の文章です。訂正すべきことがありましたら、ご指摘お願いします。>
注釈:
(1)コーネル大のページ(下のアドレス参照)には、この方法を実施する際の重要なことが書かれている。
a)TESEを行う前に、無精子症が治療可能かどうか完全な原因調査と健康診断を行う。
b)また、TESEを決める前に、女性側の妊娠可能性の評価を行わなければならない。そして、ここでは排卵サイクルを考えてTESEを実施している。
c)このTESE-ICSIでの妊娠確率は20%程度でる。
https://www.cornellurology.com/clinical-conditions/male-infertility/sperm-retrieval-techniques/non-obstructive-azoospermia-and-tese/
(2)障害児出産の確率は、外国での研究報告がいくつかある。この種の治療は、データが揃ってから行うべきであることを強く訴えたい。http://keywalker.afpbb.com/headline/search?q=%22ICSI%22&sort=date&type=text 注釈:

2013年9月8日日曜日

乞食から貴族へ:社会に於ける“価値の物差”の変化

 ここ数日ある漫画家の引退に関するニュースが何度も現れ、それに対する所謂“有名人”のコメントがテレビで報道されている。一人の漫画作家が仕事を止めることに、高いニュース価値があるのだろうかと驚いた。過去何度も止めるといって、止めなかった人であるから、今回も本当のところは解らないのに。手塚治虫氏の死去したときのニュースより大きいことに気づいた時には一寸不愉快な気分になった。(注1)

 そこでその原因を考えてみた。そして直ぐに思い付いたのが、漫才や落語で、そして今回の引退ニュースの主人公も含めて、近い過去に文化功労者が何人も出たこと;それほどでもない女優が国民栄誉賞に輝いたこと、などと同じ現象ではないかということである。つまり、社会における“価値の物差し”が刻々変化しているのである。昔、「物を生産しないし、社会への貢献が無視出来る程度である」として、“河原乞食”と言われた芸人たちが、今や豪邸に住む貴族になったのである。

 それに気づけば、原因の追求は終わったようなものである。つまり、テレビとインターネットの発展である。そして、その道の原点が、量子力学とその原子分子への応用である。(注2) そこを出発点に、半導体の発見およびその理論的理解から、トランジスターやダイオードを駆使した電子回路という工学の分野が飛躍的に発展した。白黒テレビは真空管の発明で可能になったが、その後の発展やインターネットは、この半導体工学なしには不可能であったと思う。そして、その名も無い理学や工学の秀才たちが創った舞台の上で、踊っているのが、低い社会的身分から貴族的身分に登りつめた人たちである。上記ニュースの主人公もその一人である。(注3)

 言うまでもなく、人間は社会を為して生きている。社会は複雑な構造をしており、その全容は天才でも一人では理解できないだろう。それは、人間と同様、骨組みから、頭脳や神経器官、循環器、消化器、内分泌器、解毒排泄器、運動器官、などで喩えられる分野がある。テレビ俳優(タレントというらしい)、スポーツ、漫画といった分野で活躍して居る人も、社会の一部分を支え、且つ、社会の他の部分から支えられているのである。本来、貴族になる理由はないのである。

 最近、家の門扉の廻りの割れたレンガを敷いた部分の修理を、左官屋さんに依頼した。暑い最中に、汗を流しながら、一人で黙々と作業が続けられた。冷たいものを飲んでもらおうと、清涼飲料水を持って行き、その際話を聞いた。「技術を息子さんに教えられたのですか?そして、後を継がれるのですか?」という問いに、その方は、「こんな仕事は勧められない。息子は電気の方に進んだ。それで良いと思う」との返事であった。かなり安い代金で良い仕事をしてもらい、大変感謝している。ただ、「こんな仕事は…」という台詞が非常に気になった。工事代金は、社会が決めた物差しにより決定されるのであり、私が無理を言った訳ではない。  つまり、物差しが歪んでいるのである。(注4)

注釈:

(1) 手塚治虫氏は、大学の医学部を出て、そこから今ではアニメといわれる分野の創始者となった人である。もちろん評価は非常に高いが、当時の“社会の物差”からは、さしたる表彰の対象となる存在ではなかった。

(2) 量子力学は物質の性質を支配する電子の挙動を説明する際に産まれた学問である。その分野の開拓者の何人かはノーベル賞の対象になっている。しかし、その波及効果は、その程度ではなく、将に世界を変えたのである。

(3) 舞台俳優になるには、特別の才能と努力を必要とし、科学者として大成するのと同様に、評価されるべきであると思う。従って、芸能を磨き伝承してきた人たちを乞食呼ばわりするのは、当時の“社会の物差”も歪んでいたからである。 (4) 否、その解析では中途半端である。乞食だって、禅僧とどう区別するのか?全ての人は、「産まれて来て、生きて死ぬ」ことで社会へ参加し貢献しているという見方が正しいと思う。この注釈が結論であるが、上には敢えて結論は書かない。ここは、仏教を論じるところではないのだから。

2020東京オリンピック

 今日、2020年のオリンピックが東京で開催されることとなった。シリアの件が無ければ、イスタンブールが最適だと思っていた。スペインはバルセロナで1992年にやっているので、そして、経済危機の可能性もあり、東京の方が適しているだろう。ただ、日本でやるなら、そして、政府が前面に出るのなら、本当は四国や九州の方がバランス的に良いと思う。  7年後と言えば、世界がその間にどのように変わるかも(もちろん自分がこの世に居るかどうかも)、心配の種である。経済的な枠組みも現在の姿から大きく変わっているかもしれない。(注1) 東アジアにおける日本の位置も同じく心配である。(注2) テロを避けて、イスタンブールを避けたが、東京も緊迫感が無いだけに心配である。何とかそれまでに、北朝鮮とは国交を回復し、安定な外交関係を築くべきだと思う。国交が無いだけに、白紙の紙に絵を描くごとく、しっかりした関係を持つことも可能だし、台無しの関係にもなり得るだろうと思う。 寺島実朗さんが関口さんの番組で言っていた様に、「これを機会に、戦争の出来ない、しかし、国際的に確固とした地位を持つ国になって欲しい」(私の理解であり、発言をそのまま再現したものではありません。)と思う。 注釈 1)ドルを決済通貨とした国際経済が、ユーロや元が決済通貨に加わるような事になったら、米国の多額の債務がどうなるのだろうか?経済は全く解らない人間だが、何となく心配である。 2)最近の韓国の姿勢にはあきれる。日中関係の修復が大事だろう。

2013年9月4日水曜日

最高裁判所判事はまともに議論しているのか?婚外子も嫡出子と同等の権利をもつのですか?

 最高裁で、「婚外子の遺産相続分が嫡出子のそれの1/2であるとする民法の規定は、法の下の平等を保障する憲法に反する」という判断が示された。(注1) 最高裁の判決の中でそう示されたのだから、民法をその規定を含めて矛盾の無いように改めるしかない。ただ、本当に妥当な判断だろうか?14人全員の一致した判断だというのだから、無効にすべきではないだろうか?(注2)などと思ってしまう。
 婚外子と言ってもいろいろある。事実婚状態にあった男女の間のこどもで、父親が死んでしまったと言うケースもあるだろう。そのようなケースでは、配慮はあって然るべきだと思う。だが、次のようなケースもある。所謂、二号さんや三号さん?に生まれた子供である。子供が同等の権利を有するとなると、人生の最初の婚姻関係として、お金持ちの二号さんを目指す女性も増加するかもしれない。民法の規定に反して、重婚を認める方向に一歩近づくことになるからである。これから格差社会になって行くから、最高裁もそのような事態にそなえているのだろうか?日本国は、そのような乱れた国になって行くのだろうか?
 言うまでもなく日本社会の枠組みは、一夫一婦制で出来ている。今回の判決は、既に日本国において一夫一婦制の原則が、部分的に破壊されていると、最高裁が判断したことになると思う。子供には責任はないという論理は、子供の全ての性質や情況に当てはまる。嫡出子である無しの他に、頭の良し悪し、外見の良し悪し、身体の良し悪し、全て子供の責任ではない。後の3つに関しては、子供に責任はないものの、最高裁判事を含めて誰も何もしてくれない。金持ちは、社会に於ける勝利者であるとすれば、ほかの人より平均して頭が良く、体力もあるだろう。法的差別も社会の偏見も少なくなるのなら、金持ちの二号さんを母に産まれるのも、結構ラッキーなことじゃないのか。法の下の平等というが、そもそも法(民法)が想定していない婚姻状態から産まれた子供である。従って、今までの解釈(1995年の最高裁判決)が全くおかしいという訳ではない。法に定めていないことを原因に持つ事に関して、法の下の平等という理屈は解らない。(注3) 
 高裁の判決を、何回もひっくり返せば時代遅れの価値観を持った人だと言われるだろう。14人全員一致の判断だという不自然さは、そろそろ、このような判決を出すのが無難だという”打算の産物”なら説明がつく。1995年から、日本国はそんなに変わってはいないのだから。(注2) とにかく、最高裁の判事なんて、何かにつけ、真面目に議論をしているようには思えない。例えば、「一票の格差」に関する裁判でも、2.0を超えたら違憲だとか、アホなことをこの前まで言っていたのだから。(注4) 
注釈:
1) http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130904-00000073-jij-soci
2) イエスの処刑を全員一致で決めた判決は、当時の規定により無効であった筈といわれます。(サンへドリン規定)今回も、偏見、興奮、そして全員一致の打算の何れかによるので無効とすべきです。1995年に同じ民法の規定に対して合憲判決が出たのに、18年後の14人全員一致の違憲判決は不自然である。上記本文の理由に加えて、一人だけ反対すれば、目立ってしまう;全員一致なら自分だけの責任ではない;などの理由も考えられる。何れも最高裁判事には相応しくない理由である。
3)子供を差別するのは可哀想である。しかし、それで社会の骨組みが緩んでくるとしたら、そのような子供を少なくすることが完全ではないが最善の対策なのだ。全ての判断には2つの面がある。一面しか見ていないのでなければ全員一致なんてあり得ない。つまり、最高裁は真面目に審議をやって居ないのだ。
4) 一票の格差が1.1倍でも、可能な限り選挙区の区割りなどを考えて解消しなければならない。それが民主主義の原点である。そんなことも解らん連中が、最高裁判事になっているのが日本国の現状である。「完全に1.0にすると、田舎地区を代表するものの考えが国政に反映しない」という論理はインチキ論理である。街の者が、田園地区の必要性を考えなないで投票し、国政上マイナスになったとしても、それは選挙制度の責任でなく、選挙民の責任である。

2013年9月2日月曜日

ヒトの幼児性と知性&文明の関係

  今年の二月、もう半年以上も前になるが、グアム島で凄惨な通り魔殺人事件が起こった。元々善良な人と評価されていた犯人が、失恋かなにかで気が狂ったようになり、行った惨劇だった。4年ほど前にも秋葉原で似た事件があった。犠牲となった人とその遺族の方は非常に気の毒であり、凄惨な現場の情景をテレビで見た時、背筋が凍る思いであった。それを出発点にして、以下のような考察を行うのは遺族の方々には申し訳ない気持ちがするが、どうかお許しねがいたい。


 
 これらの事件は誠に憎むべき凶行であるが、計画性も何も無く、従って、幼児的な自己喪失の中で行われた様に私は感じる。つまり、自分の心の中で担いきれない精神的重荷が与えられた時、それまで善良に振る舞ってきた人が、人が変わった様に凶行に及ぶのである。これと対比的な捕食者的殺行為は、ライオンなど肉食動物では普通であり、ヒトが行う場合は例外的で精神障害(サイコパス)の結果であると考えられている。私は、グアムでの犯行は、「ヒトが幼児的性質を生涯持ち続ける」ことと関連して起こる人間社会に普遍的なタイプの犯行だと思う。“濃淡”は大幅に違うが、同じ様な“色”の行いは、普通に行われている。例えば、成人男性の行う卓袱台返しなどもその一例である。大きな60歳の男が行っても、何の得にもならず何の説得力もない、ダダをこねる行為と本質的に同じであると言う意味で幼児的である。

 ところで、この幼児性であるが、たまたま人間が持つ、くだらない性質ではなく、「(幼児性が)ヒトのヒトたる所以に深く拘っているのではないか」というのが、ここでの主題である。我々は、高度に発展した文明社会に生きている。その社会の根幹を為すのが、ヒトとヒトの密接な情報及び感情の交換である。それにより、緻密なルールを作り広い範囲において共同作業を行い、この文明社会を成長発展させてきた。「ヒトが緻密に感情などの交換を行う能力は、ヒトが幼児性を持つことにより得た、ヒト独特のものである」というのが私の考えである。

 どの動物でも幼児である間は、その生命を維持する上で100%母親に依存している。そして、幼児は親との接触で、(他の個体である)親との間に感情的な親和性(つまり、密接な感情の交換)を持つ。ヒト以外の動物の場合、成長して親から離れると同時に幼児性を失い、その結果、他の個体は親と云えども生存競争の相手になる。一方、上の例でも解るように、ヒトは一生涯この幼児性をのこしていると考えられる。ヒトが哺乳動物で唯一肌を露出していることは、成人になったあとでも幼児性を残していることを象徴していると思う。「裸と裸の付き合い」という言葉は、互いの親和的な感情を表している。


 ここでかなり大胆な仮説を提唱する。"他(タ)"に依存することを特徴とするヒトの“幼児性”が、"自と他"の区別やそれに基づく外界への探究心の根源になっているのではないだろうか。それは、他を意識しないで自分という存在を意識することはないからである。「我考える。故に我あり」という言葉において、「我あり」との結論にデカルトが至ったのは、他を意識しそれとの関係を“我”が考えたからである。つまり、「我、他を考える。故に我あり」だと思う。ヒト以外の動物、例えば、成長したライオンに「我」という意識があるだろうか?私は無いと思う。(注1)

 その理由は、他の個体を、自分の生命活動(食べて生きることと生殖活動)(注2)

の対象以外のものとしては捉えていないと思うからである。“我”の発見があって“他”を区別でき、そこで初めて「他と我との関係」を深く多角的に思考分析することが可能になる。そして、“他”の中には仲間のヒトのほかに、ヒトが活動する舞台としての自然などがあることを知るのである。つまり、知性の根拠としてヒトの幼児性があるのではないだろうか。別の表現では、「幼児性という不完全性が、他の存在への関心と探求の根源である」といっても良い。もし神が存在するとしても、完全なるが故にヒトの知性に相当するものはなく、従って神罰は神の思考の結果ではなく、数式適用の如く瞬時に下される筈である。 以上から、ヒトの作った高度な文明社会は、ヒトが幼児性を備え、“不完全である我”という意識を持った結果であると考える。

注釈:

注1) 従って、ライオンの成獣は人間より完全なる存在であると思う。厳しい自然の中で生きる動物の姿に気高さを感じるのは、その動物達が自立した完全なる生物に見えるからだと思う。

注2)生殖活動を行うオスはメスを同種の個体として意識する。人間以外の動物でも、唯一知性が関係する時期だと思う。

2013年9月1日日曜日

潘基文(パン・ギムン)国連事務総長の日本批判について

 潘国連事務総長は、「日本のリーダーには(歴史問題に関して)深い省察と、未来へのビジョンが必要だ」(http://www.j-cast.com/2013/08/29182501.html)と韓国で帰省中に発言したということである。これは、明らかに国連事務総長という立場を忘れた発言であり、潘氏のその地位への適性が問われるべきである。

 安倍総理は、しかしながら、「歴史の問題については専門家の議論に任せていくというのが安倍政権の基本的な方針だ」という逃げの姿勢を貫いており、官房長官も潘事務総長の中途半端な訂正発言を有り難く頂戴して、早々に矛を収めてしまった。国連事務総長に、あなたの仰る「未来のビジョンとは何ですか?」「ひょっとして、日本が中国や韓国のプロパガンダ的歴史認識をそのまま認めることですか?」と強く問いただす機会であったのに、それを逸した内閣の無能さにはあきれる。これでは、「詳しく調査すれば、事務総長の言ったことが正しいということが解る」ということを認めたことになるが、それで良いのか?中途半端な和は問題をもっと深刻な形で将来に送ることになることが未だに解らないのか。(注1)

 彼ら内閣の政治家と比較して、橋下氏は明確な立場をとっている。例えば、「当事国を含めた国際的調査団を組織し、例えば、当時の日本国家が朝鮮半島の女性を強制連行して、所謂“従軍慰安婦”としたとの証拠が得られたのなら、日韓の講和条約とは別に、公的な謝罪と当事者への補償をすべきである」である。私は、この様な方向が、日韓の歴史問題、日中の歴史問題の未来志向な解決策であると思う。この際、潘国連事務総長に、東アジア歴史問題調査団を、西欧諸国やアジア諸国の中立的立場をとりうる当時の政治家や歴史家を中心に組織し、詳細に調査研究することにより、東アジアの近代歴史の確定を行うよう提案したら良かったと思う。

 ここで一つ追加したいのは、日本のマスコミのレベルの低さである。先日日本維新の会の政党パーティーが開催され、橋下氏が憲法問題などについて演説したとのことである。しかし、日本の全てのマスコミは取材しなかった。その理由は、明らかにしないか、政党パーティー券購入することは特定の政党支持につながる、という下らない理由である。何らかの協定を水面下で行ったのかと疑う。パーティー券15000円が、特定の政党支援につながるというのは、東証一部上場の企業の台詞ですか?取材費に計上して、日本維新の会の主張を橋下氏の演説から汲み取り、疑問点があれば質問を堂々とする良い機会だったと思う。どうせ、Ohさんレベルの解説委員を使っている会社なので、そこから選りすぐりを派遣しても、かえり撃ち質問が怖かっただけだろう。(注2)

注釈:
1)「歴史的事象に関する評価は、当時の感覚を取り入れて行わなければならない。」というのは、部分的に正しいと思う。政治家は、歴史書はどのように書かれて行くかをもっと研究すべきであると思う。つまり、政治をリアルタイムで進めて行くために、一定の時間内に歴史の評価を一旦暫定的に決めるのは政治家の仕事であると思う。その後、現実の政治とその歴史的事象が深く拘らない時代になって、詳細に歴史を確定するのが歴史学者の役割である。つまり、先の大戦の歴史は、未だ、現代政治に影響を持つ、政治家が関与すべき段階であるので、歴史家に任せるという発言は、”単に逃げている”ととられても反論できない。
注2) 「たかじんNO マネー」の番組で、水道橋博士の番組降板で話題になったシーン直後の、大谷氏と橋下氏の議論が非常に印象的だった。強制連行があったとして、その際の慰安婦の方に補償をすべきだと思いますか?「YESですかNOですか」という質問を何回も繰り返す橋下氏に、Oh氏はYESともNOとも答えられなかった。
ーーこれは元理系研究者の素人としての意見ですので、専門に近い人の厳しい批判をお願いします。ーーーー

2013年8月31日土曜日

アベノミクスの指南役”浜田宏一氏”の本を読んで:


(7月ホームページ付属のブログに投稿したものを若干修正して掲載します;http://island.geocities.yahoo.co.jp/gl/mopyesr/view/201307)

 昨日、「アメリカは日本経済の復活を知っている」と題する本を本屋で見つけて買った。著者の浜田先生はアベノミクスの指南役のような立場の方であるということなので、一度、読んでみたかった。内容は一言で言うと、通貨供給量を増やせば、為替は妥当な円相場(\100-110/$)にもどり、輸出企業は復活するだろうというもの。ゼロ金利に近く企業などに借り手が無くても、強引にやれば良いということである。円高になった原因はリーマンショック以後、他国が通貨供給量を増やしたのに、日本はほとんど増やさなかったからということである。用意されたグラフ(図表9;ソロス・チャート, p102)を見ればその点は明らかである。

 ただ、低金利政策なら日銀はやったと思うが、既にゼロ金利だったことが、日銀が何もしなかった或は出来なかった理由だと思う。金の借り手が無くても、通貨供給量を増やす具体的な方法が、そこではなく、ずっと後ろの方に書かれていた。
以下その方法:1)日銀が多量に国債を市場から買い上げて、政府がその金をインフラ整備などに使う“財政出動”である(ほとんど法律違反であるが)。(注1) 
その他に、2)いろんな債券や投資信託などを購入する。

 株価指数連動型上場投資信託(ETF)などを買う場合には、株価の上昇を後押しする。また、不動産投資信託(REIT)を購入した場合には、不動産価格が上昇するだろう。これも日銀は投資会社ではないので、一部の業界へのプレゼントのように見える異常な手段である。

 つまり、何れの方法も緊急避難的であり、政府の堕落の危険性と経済分野における不平等性を含むと思うが、そのあたりは非常に楽観的に書かれている。日銀の金融緩和に反対する経済通の人は、1)の方法をとることによる、国家財政規律崩壊と破綻を心配している。IMFも何とか破綻を防ぐ対策をとる様に(つまり、財政再建)勧告してきているので、浜田名誉教授の書いておられる程安全ではないと思う。多くの大口の円通貨保持者は海外に資金を移動するだろうし、悪い噂が流れた時には銀行に人が列をつくることになるかもしれない。また、国家が破産しても国民が破産するわけではないとおっしゃるが、ずっと郵便貯金で持っていた人は酷い目に遭うのではないでしょうか?実際には長期金利も低く、破綻の心配はないということであるが、逃げ足の速いプロの投資家は直前まで心配ないというだろう。日銀が相手なら最後までやれば投資家に勝ち目は無いとはいえ、後始末がたいへんだろうと思う。(つまり、極端な場合は国債を全部買い上げてしまえば良いとまで書いてあったと思う。)

 浜田名誉教授の説明される円高の弊害は、国内コスト、特に賃金が国際比較で高くなり過ぎ、輸出企業に不利になるということである。そして、それを是正する為に通貨発行量を増加し、円安に誘導するということである(p73)。日銀の白川さんが通貨量を増加しなかったのは、既にゼロ金利だったことと、多額の国債発行残高があったためであり、日銀だけの失敗ではない。ただそのとき、対策をとり得るのは日銀だけだったということで、矢面に立っているだけである。農業への株式会社の参入などを許さない規制温存の政治、ダイナミックな国際展開などを思い付かない老人幹部の(人事が停滞した)企業なども原因である筈。今の政治では国民は将来に不安を感じ、出来るだけ貯蓄をして老後に備えようとするだろう。そもそも、伝統的に政府不信の国民は、貯金を多く溜め込むことを無条件に良い事と考えている。金のある人も無い人も、一億人が貯金に励むことが、通貨の循環を阻害し、不景気の主原因の一つとなってきた筈。(注2) 

 実際、第4章以降に、日本の教育、文化、などが、国際基準からみて大きく異なっており、競争は大学入試で終了し、同じ分野での競争をへて優れた人材が指導者として浮き上がるメカニズムが無いなど、日本の文化に疑問を呈しておられる。それらを国際標準的に正すことが、日本経済復活の原因療法の一つであると思っておられるのだと思う。明確にそう書いてほしかった。
また、与謝野さんや藤井さんをデフレ擁護論者と言っておられるが、そうではなく、財政再建優先論者だと思います。彼ら政治家としては誠実ではあるが、経済をあまり知らないのでそう言われても仕方ないということでしょうか?与謝野さんと藤井さんに本を書いてもらいたいものである。

「注釈」
1) 国債の直接引き受けは法律で禁止されている。市場からどんどん買えば良いというのは、屁理屈に聞こえる。
2) 「だから、政府は金を使う役を引き受けて来たのだ」といいたいのであろうが、そう言う理屈を古来より、「盗人たけだけしい」というのである。

「携帯を持ったサル」再考

 携帯を持ったサルは正高信男氏の著書のタイトルである。携帯電話を持て余しているヒトを表している。つまり、「携帯電話という先端技術製品の前では、サルに過ぎない人が多い」ということである。人が、ことばと論理を操ることが出来る唯一の動物であることは確かである。しかし、近代科学とそれに基づく技術文明の開花は、ある種奇跡的な現象であると思う。正高氏のことばを延長して、我々は「高度な科学技術文明を持ったサル」ではないだろうか。


 さて、この文明の基礎をなす科学が高度に発達した理由として、1)この世界は神が創造したので、緻密かつ美しく出来ている筈;2)従って、その構造は、“ことば”を用いた論理的考察により解明できる筈;3)人の和よりも真理に最高の価値をおくべき、の3つの信念をもち、この自然界の成り立ちを哲学する有閑階級の社交の場、つまり学会が存在したことであると思う。会う人毎、情況毎に異なったことを言う東アジアの文化の中では、このような科学は決して生まれなかった筈である。つまり、日本の科学文化は全く西欧キリスト教文化圏のものの模倣でしかない。この異なった文化圏或は奇跡的な文明の中でつくられたものに、(日本の)人は順応できるだろうか?という質問が、本稿の「携帯を持ったサル」という表題の意味である。



 ところで、携帯を持った"サル"は、日本の若い人が電車の中でもひたすら携帯と向かい合っている姿を見て得た着想だと思う。確かに、日本で顕著に見られる病状である。今の若者の集団において、携帯電話から発せられる電波がまるで、“場の空気”というより“場の電波”として、集団を支配するような情況になっている。河合隼雄さんは、日本は場が支配することとそのメカニズムを“母性社会、日本の病理”で分析している。また、その一つの現象として日本の“平等信仰”を指摘している。


 私流に例をつくってみると、人は皆平等という心理的縛りにあった社会は、例えば同じ質量の多数の玉(平等)が、同じ定数[フックの法則のF(力)=kX(Xは伸び)のk]のバネで結ばれた規則正しい構造に喩えられる。そこでは、瞬時に伝搬される電波で玉が運動を始めると、大振動となって全体が揺れるが、一部に少し差のある不純物的玉があると、そこで構造破壊(いじめなど)が起こる。そのようなことがないと、最初の運動を始めた玉の方向に、全体の集団的移動(そこの女子高生全員が超ミニスカートを着るなど)が起こるかもしれない。“携帯を持ったサル”は、猿にその知性を遥かに超えたものを見せたときの反応を観測した記録と言える。例えば、ネコに鏡を見せた時の反応;猿にロボットを見せた時の反応;そして、三流女子高生(失礼)の一群に携帯電話を持たせた時の反応、を併記すればその表題の意味が良くわかる。このような失礼な表題の本を、マスコミは叩かず、民衆はボイコットせず、長い間本屋に陳列されてよく売れたものだと思う。



 ここで書きたいのは、このようなことだけではない。日本の科学会のことで一言ある。上記のような病理は女子高生に限ったことではない。日本人全体、そして、知性の本丸と思われているかもしれない学会においても同じであるということである。つまり、西欧の伝統である“科学”の分野で、“真理”に最高の価値を置く社交界の“学会”において、三流大学教員から亜流研究所の研究員に移った研究者の研究を、そのまま物まねして科学研究費を申請し、仲間内の審査で通した後、その成果に学会賞を与えるというようなことも起こるのである。(参照)  また、スパコン開発に多額の予算を計上するように、”科学や技術の研究に必須だから”と、専門外の偉い先生が恥ずかしげもなく堂々とテレビの画面で訴えかけ、数百億—千億の予算を計上する文部科学賞の連係プレイの愚かさ(おっと!某企業のトライアングルだった)も、西欧の学会という制度を使えこなせない"サル"同然ではないだろうか。(参照)


 因に、上記河合隼雄先生の本では、“平等信仰”の日本でも、現実には社会が回って行かないので、「分」という概念を以て調和ととって来たと書いている。つまり、「身分という限界を生まれながらに持つものとして受け入れ、それによる不平等は運命的に受け入れる」(80頁)というのである。つまり、スパコン開発費計上は、理化学研究所の理事長や東大教授が仰せになることだから、認めるというのである。知性の本丸まで"サル"である。(これは、ホームページ付属のブログに6/2掲載したものを書き直したものです。)


2013年8月29日木曜日

櫻井よしこさんの靖国参拝に関するコラムを読んで解った事。

 週刊新潮8月15・22日号の連載コラム「日本ルネッサンス」(172頁)に掲載された櫻井よしこさんの文章を読んで、所謂右寄りの人たちが靖国に参拝する理由について、私は重要な誤解をしていることに気づいた。櫻井さんを始め多くの上記自民党議員たちには、単に戦死した多くの兵士達の慰霊だけではなく、戦争主導者達(所謂A級戦犯を含む)を含め全戦犯の慰霊も、重要な参拝理由であることが解ったのである。

つまり、彼らは戦争責任者などいないという考えを持っているのである。櫻井さんは書いている、「独立を回復したとき、全国で戦犯の赦免及び保釈の運動が湧き起こった。赦免を求めて署名した総数は4739万人だった。A級戦犯注1)をはじめとする全ての戦犯の赦免こそ、国民とほぼ全ての政党の切なる願いだった。」更に、「A級戦犯を含めた全ての戦犯は、日本国内外の合意と承認を得て赦されたのであり、合祀の時点ではもはやどの人も戦犯ではなかったのである。」と。

 この文章において、櫻井さんは明解な、しかし私にとってはとんでもない、主張をされている。その為、歴史的データを自分に都合の良い方向に解釈されている。例えば、1)4739万人の署名は、全ての戦犯の赦免を要求するものだったのか?という疑問がわく。つまり、戦犯のほとんどはB・C級戦犯であり、極限情況での捕虜虐待などの犯罪行為を裁かれ投獄中の人たちである。東京にいて戦争を指揮し、既に絞首刑になったA級戦犯たちを念頭において署名しただろうか?しかし、櫻井さんは強引に、「A級戦犯を始め全ての戦犯の赦免こそ、殆ど全ての国民の願いだった」としている;

2)「全ての戦犯が赦免されたのだから、靖国に合祀された段階では戦犯では無かったのである」と勝手に解釈している。赦されたのだからその人達は戦犯ではなかったという、とんでもない理屈である。注2) ボケた頭のせいなら兎も角、全体的に練られた文章の中に、このようなとんでもない理屈を入れるという手口は悪質としか言い様が無い。

 また、絞首刑にされたA級戦犯の多くは、終戦時内閣を組織し、原爆や空襲で数十万人の民間人に死者を出しながら、尚、自分達ではポツダム宣言受諾を決められなかった指導者である。注3) 西欧諸国に戦争を挑み国家の存立さえ危うくなってもなお、自分達の立場に固執して何百万人を無駄死に追いやったのである。国民の平穏な生活を守るというような視点はなく、国民全てを自分達の危険な賭けのチップとしたのである。そのような人たちを英霊として何故拝まなければならないのか? 戦争は、ましてや一億玉砕や神風特攻隊は日本国民全員の本来の意志ではない筈である。そのように国民を煽動した者達の霊を拝む必要はない。

 戦死者のほとんどは国家へ命を捧げた方々であるが、何故神社ではなく墓地に埋葬し、国民が純粋な気持ちで墓参できるようにしないのだ? 明らかに靖国神社は、戦死したら神になるというごまかしを用い、兵を死すべく戦場に追いやるのに用いられた国家主義的施設なのである。

注釈:

1)日米開戦には慎重派の閣僚でも、開戦時内閣の構成員だったという理由でA級戦犯となった人もおり、一括りにして論じるのは不適切であると思う。櫻井さんは全ての戦犯を同等に考えておられるから、文字通りで良いが、私は、A級戦犯を以下戦争指導者の意味で用いる。

2)A級戦犯合祀が1979年4月に毎日新聞のスクープ記事となった直後、靖国へ参拝した大平首相は、6月の参議院内閣委員会での質問には、「(A級戦犯についての)審判は歴史が下すであろうとかんがえています」と答えた。その後12月には中国を訪問した際、多いに歓迎された。中国の姿勢が変化したのは、中曽根首相が85年8月15日に10回目の参拝をした後の9月20日である。明らかに政治的な理由がある」と書いておられる。中曽根首相の終戦記念日での参拝に対する批判までに、6年近く経っていることから、中国は政治的に利用していると結論している。明確に先の大戦と関係つけて参拝したのが終戦記念日に参拝した中曽根首相であるのなら、中国の批判は瞬時ということになるが、その点には何もふれていない。

3)ポツダム宣言は前の米国の駐日大使であった、グルーの努力により日本を救う為に出されたということである。厳しい内容の中に、そのような意図が汲み取れない指導者は、一国の指導者たる資格はないと思う。
(2014/1/2改訂:日本語的におかしいところを改訂しました。何故、旧稿のような日本語になっていたのか不思議である)

2013年8月27日火曜日

善と悪:再考

 善を尊び、悪を憎んで人間社会が運営できれば理想的である。しかし、歴史上現実の世界はそのようには運ばなかった。この理想と現実のズレは、本質的なものなのだろうか?
 元々、弱い生き物に過ぎない人間は、大きなグループ(注1)を造ることで個人の多様な能力の総和をとり、全体として大きな力の集団を形成する必要があった。その為には、グループへの帰属意識とそのグループ内での揺るぎない結束(=信用)を作ることが重要である。家族関係にない個体間にも、固い繋がりを可能にするための背景として、“善と悪”という価値(倫理)が創られた。(注2) その結果、他の生物を圧倒することが出来、人間がその生存を懸けて対立するのは、他のグループの人間ということになった。もちろん他のグループでも、同じ様に“善と悪”を背景に構成員が結束している。このグループの形は、相似形をなすため、“善悪”という倫理的物差は普遍的に人間社会に君臨することになる。(注3)
 ところが、マルサスの人口論にあるように、地球は有限であるが人口は急速に増加するため、他のグループとの生存競争が生じる。必然として、人の歴史は戦争の繰り返しとなり、敵を討つ事がグループ内で評価される。その為、善悪はグループ内だけで成立する価値となる。私は、この人間生存のメカニズムが、自然現象のように進んだと思う。その結果、平均的な人間は敵地において、善悪を始め多くの人間的価値を脱ぎ捨てる事となる。しかし、この善悪に境界があることを常に認めると善悪の価値が崩壊するので、人類にとっては公然の秘密である。(注4)
 現代、上記グループとして最も適当な領域は、国というレベルまで大きくなった。近代史において欧米の民主主義が世界を席巻し、その結果善悪に適用領域を設けないで生きることが可能な世界国家を目指しているように見えなくもない。しかし、国際社会というかなり獏とした権威により、戦争にも一定のルールができ、(一定の範囲の国の間では)外交の中に包含することが出来る様になったのが精々である。(注5)
   現代政治の世界において、この戦争行為を大衆に向かって正当化することは困難である。そこで、理想主義と現実主義という二極を設けて、その後に理想主義を退けるという方法で、上記善悪の適用領域という問題を避けて来た。民主政治の根本的困難は有権者一般が大きな世界を俯瞰的に把握することが困難なため、理想に高い価値を置き、政治の世界の現実主義を汚いものとして嫌うことである。その結果、政治の世界は巧妙に嘘を用いて、この困難を克服?して来たと思う。(注6) また、人類の創る社会は国家のみではなく、複雑な多層構造を創っていることである。日本では、会社や官庁の省庁まで、共同体的グループである。その結果、善悪がその境界の内外で不確かになり、社会の信用環境を損なっているといえないだろうか。一神教の国では、要するに神の戒めに従うことが善であり、それで善悪からは自由になる。つまり、善悪を神に返すことで永遠の命を得ようとしている。注3) その結果、宗教以外のグループの地位は低下し、相対的に個人は自立する。「一神教、個人の自立、民主主義の正常な機能」の一組は、切り離せないのではないだろうか。(注7)
  『注釈』
注1) 人間は家族関係、血縁関係、地縁関係といった重複した社会構造を持つ大きなグループを作る唯一の動物である。
注2) 更に、大きな国家レベルでは、その中に多くのグループが多層的に含まれてくる。そのため、厳密な定義と強力な執行力を伴う“法”を併用することになる。その場合でも、善悪は社会生活を送るうえで、重要な信用という環境を養っている。
注3) 創世記によると、善悪を知る木の実を食べたイブとアダムは楽園から追放され、死ぬ存在、つまり生身の人間となったのである。
注4)知る人ぞ知るという意味。親鸞(浄土真宗)のことば、”善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや”は、悪を人間が生存する上での必然と見抜いてのことばだと思う。
注5) イスラムの世界やアフリカを見ると、そして、現在頻繁するテロリズムを考えると、これも一時の幻想かもしれない。
注6) 欧米の政治家は嘘がうまい。太平洋戦争開戦時の、米国のルーズベルトなどが良い例である。
注7) 小沢一郎氏は日本列島改造計画において、民主主義には個人の自立が重要であることを論理的に説明している。

2013年8月25日日曜日

有識者会議を表に出して利用する非合法な政治

 小泉内閣の時に皇室典範を変える目的で組織された有識者会議が、表の政治で大々的に利用された。法的根拠などない総理の私的組織であるからには、その議論は総理の見解となって初めて表にでるべきものである。従って、そのメンバーの名前や経歴とともに有識者会議の様子やその見解がテレビなどで報道され、それを取り上げる形で総理が政治に使うのは、民主主義を歪める卑怯な手法であると思った。仮に、その分野の有力な学者で組織するとしても、今まで結論の出ていない問題に関しては、意見が別れるのが通例である。その“有識者群”の中から、政府の決めたい方向を支持する者を選んで組織し、他の意見を持つ有権者からの批判をかわす為に用いていることが、ある程度の知識のある者が見れば明らかである。小泉内閣の皇室典範を改めるための有識者会議では、小泉さんの女帝容認論があり、それにそった結論を出させる為に、元東大総長のロボット工学専門の方が座長になって有識者会議が組織された。予想通り、ロボット工学の人が小泉氏のロボットになって、女帝を容認するという結論を出した。丁度そのとき、皇室に男児が出生して、その話が立ち消えになった。小泉氏が矛を収めると、その座長もロボットであることを証明するがごとく、電源が切れてしまった。  今回の消費増税に関する有識者会議も、既に法案になっている消費増税案を、今更議論している。消費税増税案は選挙で選ばれた議員が、そしてその中から選ばれた野田総理大臣が中心になって法案化したものである。今回の有識者会議など法的根拠は無く、それの議論の結果を用いて、増税を遅らせる法案を提出するとしたら、安倍内閣は、完全に民主主義無視の政権である。  また、内閣参与なるものが表に出るのも問題である。総理大臣が、浜田宏一氏などの意見をいろいろ聞くのは問題ない。しかし、それは安倍総理の考えを形成する為に用いるものであり、内閣総理大臣の作業の一部に含まれる筈である。従って、その方が、まるで、権力者の片腕のような形でマスコミに登場することに違和感を持つ。  いったいこの国は民主主義を理解しているのか?

2013年8月24日土曜日

北朝鮮との関係改善を急ぐべきでは?

 北朝鮮は新しい指導者の下、国際社会への復帰を考えているように見える。それが、時代の流れであることを留学経験のある若い指導者は、知っているようである。例えば、脱北者に帰還を求め、応じた者に現金の供与も行っているとの報道もある。 http://www.reuters.com/article/2013/08/18/us-korea-north-defectors-insight-idUSBRE97H0D120130818 また、韓国とケソン工業団地の操業再開や、金剛山の観光再開を話し合っている。このような韓国の動きは、外交標的を日本に絞っている証拠ではないだろうか。注1)
 日本国は、古い体制にあるものの新しい方向を模索する新体制の北朝鮮に対して、拉致被害者の救出、経済協力、平和条約の締結を目指すべきであると思う。北朝鮮が現在一番必要としているからこそ、経済協力が高く評価され、平和条約のための戦後保証金を低く抑えることが可能である。経済発展後、日本との距離が遠くなった場合、多額の保証金を提示され、日本の最大の脅威となるだろう。また、北朝鮮と拉致問題などを解決し、平和条約を締結することは、注2)韓国が中心となって進めている日本封じ込め政策への強力な対抗措置となりうるのではないだろうか。
 韓国の司法は、日韓平和条約において解決済みであるにも拘らず、戦時中徴用され民間企業で働いていた人の賠償請求を認める方向にあるなど、中国も巻き込んで日本封じ込め政策を強力に進めているようである。また、当時無かった従軍慰安婦というような言葉を用いて、米国の多くの都市にその像を設置したり、その他、安重根という名を戦艦につけたりと、日本に対する敵対姿勢を強めている。日本国も、太平洋戦争の歴史的評価をその中での指導者達の役割と責任を含め、総合的に行って国民に公表すべきである。本質ケジメをつけるためにも必要であると思う。注3)
http://island.geocities.yahoo.co.jp/gl/mopyesr/view/20130815/1376526533 日本国としては、尖閣諸島の防衛体制を整備する一方、これ以上の島への投資は遠分しないなど、中国に一定の譲歩を行うことで、反日の動きを封じる様にすべきではないだろうか。野中広務氏によると、田中角栄と中国首脳らとの日中国交回復交渉の際、尖閣諸島の領有権問題については棚上げにするという合意があったとのことである。 http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1307090015/ 日本には、「中国に一歩譲ると、全てを獲られてしまう」という、被害妄想的議論があるが、それは米国ベッタリの官僚たちが政治家を洗脳しているのだと思う。日本国が自信をもって、中国と交渉すればそのようなことになり得ないと思う。
 日本の国際的地位を護る為には、差し当たり対韓国戦略を重点に置くべきだと思う。米国は、日本がこのような動きをしたとしたら、「日韓が一致して、北朝鮮の核兵器を廃絶させるべく協力すべき時に、何を考えているのだ」と不愉快になるだろう。北朝鮮は核兵器を放棄することはあり得ない。韓国と対等に振る舞うには核兵器が差し当たり必要である。米国を標的にすると言う説が圧倒的であるが、北朝鮮が開放的な政策を今後執るとした場合、米国が北朝鮮を攻撃することはあり得ない。そして、北朝鮮にとって米国はミサイルの標的ではない。我々が肝に命じておくべきことは、米国は表向き親日的であるが、その下層にあるのは日本封じ込めである。田中角栄が日中で平和条約を結んだとき、キッシンジャーが「あのジャップめ!」といって、腹を立てたという話を想起すべきであると思う。
注釈:
1)私は元理系研究者ですので、この分野に詳しい方の指摘を歓迎します。
2)「核兵器を保持する北朝鮮と平和条約を締結するなんて、とんでもない」という意見が圧倒的だろう。しかし、北朝鮮は今後中国型の国家になることは確実であり、経済発展こそ軍事的脅威を減らすことになると思う。また、北朝鮮が早期に崩壊すれば、東アジアは大混乱となり、それこそ大きな脅威となる。
3)東京裁判史観を受け入れることを条件とした、米国等との講和条約との矛盾をさけるため、独立行政法人を設立して、そこを研究の中心とする形で進めたら良いと思う。

2013年8月23日金曜日

苛めが無くならないのは、苛めとは何かを社会が理解していないからである。

苛めによる中高生の自殺が続いている。その原因の一つとして、苛めという言葉が社会において十分理解されていない為、その有効な対策をとり得ないからだと思う。(注1)


 本来、我々が社会の中で生活する際、なんらかの利害の発生を伴う対人行為は、全て法律になければならない。しかもそれが間接的とはいえ、人の命に拘る行為であれば、なおさらのことである。しかし、”苛め”はこの様な対人行為として法律用語として存在しなかった。今年、いじめ防止対策推進法(平成25年法律第71号)が制定されたが、“いじめ”の定義が十分な形でなされていない。(注2) 誰も何も言わないのは、日本が社会で生じた問題を、法律に照らして解決することに慣れていないことの証明である。例えば、最近の小倉さんの朝のTV番組(愛知県、地上波1CH;8:00~)によれば、自殺した高校生が校内でお腹を膝蹴りで暴行されているのを目撃したという、クラスメイトの証言があったという。この番組でも、学校長へのアンケートや教育委員会の考えなどが放送の中心であった。この行為は法的には暴行事件であり、警察の出番の筈であるが、全くそのような言及はなかった。全ての中高生達にも、たとえ平手打ちでも法的には暴行になり得、(注3)告発があれば刑法208条に従って刑事事件として処罰される可能性があることを教えるべきである。


 ここで、“いじめ”を私なりに定義しておく。「いじめとは、ある共同体において、特定の構成員を孤立した状態及びそれに近い状態に置いて、集団での心理的圧迫や肉体的暴行を加える行為である。」(注4) このように現在いじめと言われている行為になるべく近くなるように定義すれば、自ずとその対策が見えてくる。心理的圧迫には、個人のその集団からの離脱を勧めることを含めたカウンセリングを、暴行には警察を利用することで、解決される。もちろん、解決とは言え、当事者“双方”に負担となることは当然である。その負担が苛めを減少させることになると思う。  苛めによる自殺が示唆する、根本的なもう一つの問題点は、個人と共同体(ここでは学校のクラス)の関係を被害者を含めて構成員が重く考え過ぎていることである。幼少期には仕方がないが、中学生以降は個人の自立を教育の一つの主眼とすべきである。大人の社会を含め、日本では個人が共同体に依存する割合が高すぎるのではないだろうか。


注釈:
注1)私は元理系の研究者であり、法学は大学の教養課程で一年間学んだだけである。指摘事項があれば歓迎したい。
注2)殺人(人を殺したるもは、。。。)などについては刑法に定義はない。これは言語上明確だから問題はない。
注3)平手打ち(平手で顔面を殴打すること)でも、相手が侮辱された又は被害を受けたという感覚を持ったなら、暴行である。つまり、被害者がどう受け取るかにより変わりうる。それは裁判において決せられると思う。

注4)苛めの対象となる個人も苛めを行う側も、同じ共同体に属していることが大切な点である。上記法律の第2条の定義らしき文にはこの点が欠けている。

2013年8月21日水曜日

韓国の戦時徴用訴訟で新日鉄住金が賠償金を支払うのは間違いである。

 産経新聞8月18日(日)の配信記事によると、朝鮮半島の日本統治時代に日本で戦時徴用された韓国人4人が未払い賃金などの個人補償を求めた訴訟で、被告の新日鉄住金(旧日本製鉄、本社・東京)は敗訴判決が確定した場合には、賠償に応じる意向であることが分かったとのことである。 私企業が、差し当たり金額がたいしたことが無いいう理由と、韓国と摩擦を起こしたくないという理由で、理不尽な韓国裁判所の決定に従うとしたら、他の次から次へと出てくる可能性のある同種の訴訟に影響を与え、大きな問題になる。当時韓国は日韓併合条約で合法的に日本の一部になっており、決して外国ではなかった。従って、国策の一環として徴用にかり出されたからといって、賠償金支払いを要求するのはおかしい。国民としての義務を果たしたにすぎず、徴用された多くの日本人(現在)と同様賠償請求権などない。韓国という国の前近代的裁判所の非論理に一々付き合っていれば、気が付いたときその被害は甚大になっているだろう。韓国での批判はかわせても、自国での会社の姿勢への批判により 不利な情況に追い込まれるだろうから、無視すべきである。差し押さえとその後の競売などの措置に韓国が踏み込むからという理由で脅しに屈するのは、プライドも何も無い守銭奴的企業というそしりを免れない。また、そのような措置は韓国の利益にならないだろう。  一般に、講和条約締結後、「戦争時に個人が相手国から受けた損害は、自国が対処する」という国際ルールは、戦争を”民族全体の生死を懸けた闘い”から、”話し合いで決着不可能な問題の最終的な外交的解決方法”にレベルを下げることに役立っている。それは、白旗を上げたのちの講和条約で、一応処理済みとなるからである。例外としてのナチスのケースは、民族の殲滅を図ったのであるから、戦後処理も例外的であっても不思議ではない。  今回の日韓の問題は、このレベルに遠く及ばないものである。つまり、当時韓国は日本国の一部であり、日韓の間に戦争は存在しなかった。日韓併合条約は力で強いられたということを根拠に損害賠償を要求するのも、常識外れである。この不平等条約に対する不平は、自国である韓国に対して言うべきであり、今になって日本に言うのは単なる泣き言であり、国際常識からはかけ離れている。「条約は常に強者に有利に出来ている」というのも国際的常識である。ペリーが日本に来た時も、不利な開国条約を結んだ。そして、その後条約をより有利な形にすべく日本国は努力をした。それが、本来の国家のあり方である。昨今の韓国の姿勢を見ると、あの国は中国以上にまともではない。

2013年8月19日月曜日

宙に浮く独楽=回転は磁場からの力を平均して純粋揚力をつくる。

空中で回転するこまの動画をuploadしました。結構有名なこまですのでたくさんuploadされているかもしれません。 =空中浮遊のこま= 不均一な反発場の中でも、回転することで、平均として揚力を得ています。独楽は、重力によるモーメントが独楽全体で打ち消し合ってゼロとなることで、角運動量が保存される(回転しつづける)。この宙に浮く独楽は、回転が二つの役割を果たして居ます。(平成25/12/15文章改訂)

2013年8月18日日曜日

日本における善意と恨みの同根性

 一ヶ月ばかり前だったか、JR南浦和駅で、列車とホームで挟まれた女性を、短い時間で集まった約40人の人が32トンの列車を傾かせ、救出した。その様子が海外にインターネットで流されると、一瞬で出来上がった協力体制の素晴らしさに対して、驚きと感動のメッセージが返された。この出来事は、日本国に生きる人々の協調性の大きさと素早さを表していると思う。

 一方、山口県周南市金峰で、10戸ばかりの山中の集落で暮らしている人のうち、5人が撲殺され家が放火される事件があった。犯人は逮捕され、そこでの異常な人間関係が徐々に明らかにされている。逮捕されたとき、ある女性へのインタビューが放送されていた。その女性は、「これでやっと普段の生活が出来る様になり嬉しいです」と発言していた。わたくしは、このコメントに非常におどろいた。何故なら、人里に迷い込んで暴れるクマが、射殺された時のコメントの様だったからである。

5人を殺した人を庇う訳ではないが、そこまで追い込まれた人がパンツ姿で捕まった事実を想像すると、クマ出没の事件より、数段恐ろしく悲しい気持ちに襲われる。つまり、この女性を含め人の想像力というのはこの程度であるということである。

 この犯人は、以前、一人暮らしの老人の家の修理をしてやり、非常に親切な人だったとのコメントもある。また、学生のころ、いじめられた同級生を庇ったという話もあり、多少腕力に頼る傾向があるものの普通の人間だった筈である。( http://danshi.gundari.info/山口5人殺害%E3%80%80「あの優しかった男がなぜ」%E3%80%80事.html )

また、実際犯人は、“自分は村八分にされた被害者である”という意識があるということである。 (http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20130727-1163781.html

 日本人とくに田舎では、日常作業も互いに協力しなければこなせない情況にあった。例えば、昔、“結い(田植えの協力など)”や“講(伊勢講など)”などという協力体制がどこでもあった。つまり、隣人は互いに協力すること、またそれを実現する為に、互いに善意で接することを前提に生きる文化があった。そうは言うものの、人は自分の受けた親切行為と自分の行った親切行為の質と量を自分なりに計算している。その差引勘定に敏感な人もいれば、わざと鈍感になる太っ腹な人もいる。

善意で何かを行う為には、相手に何が不足しているかを想像する力が必要である。その想像力には個人差があり、通常、人は自分側の事情は良く見えるが、相手側の事情は想像力を働かさないと見えてこない為、殆どこの勘定を赤字と見る場合が多い。つまり、濃厚な人間関係の中で、その赤字勘定の不満を飲み込んで生きて行くことになる。また、それが善であると人々は幼少時より教え込まれる(調教される)のである。その為に、「和を以て貴と為す」とか「沈黙は金」などの箴言が多く用いられた。

 しかし、あるメンバーがこの赤字勘定が破産的に膨大になると感じたとき、その人は怒りをあらわにし始める。しかし、廻りの人々には同じ勘定が赤字には見えず、身勝手な奴という烙印を押すことになる。そこで村八分、強力な圧殺行為が、その他の集団の協調関係を維持するために行われるのである。これはまた、上記勘定を無視すること、つまり我を抑えることが如何に大切かを他のメンバーに教えることになる。ただ、その場合には少ない確率であるが、今回の山口事件や八墓村のモデルになった津山事件などが起こるのである。

 以上の考察で判る様に、この種の事件は稀な事件ではあるが、強力な協調的隣人関係を持つある種コストと考えられ、論理的に起こりうるのであり、その意味で異常ではない。(区切りを入れるなど、内容以外の編集をおこなった。2017/10/22)

2013年8月15日木曜日

"終戦の日"について

 8月15日を日本では終戦の日と呼んでいるが、より正確にはポツダム宣言受諾を連合国側に通告した日である。厳密な意味で戦争が終わったのは、ミズーリー号上で停戦合意の文書に調印した9月2日である。1945年8月15日の数日前、8月9日に対日宣戦布告の後、満州を経て、南樺太、千島、北海道を占領すべく攻め込んで来たソ連軍は15日以降も南下を続けた。このソ連軍と戦う日本軍や、ソ連軍とそれに乗じた満州人や朝鮮人から多大の被害を被った民間人のことを忘れてはならない。また、ソ連軍は9月2日以降も軍を進め、歯舞色丹島に至って9月5日に戦闘停止したとのことである。注1) ソ連軍の南下の具体的な様子は、ブログなどにも書かれている。例えば、http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h13/jog203.html の記事の中にある、南樺太真岡の電話局で最後を迎えた9人の乙女の話など、胸に迫るものが多い。
 以上のような情況を考えても、8月15日を終戦の日とすることに、政府は疑問を持たないのだろうか。 日本国政府の各大臣は、毎年靖国参拝注2)をするかどうかが、最大の問題として8月15日を迎える。終戦後70年近く経っても、あの戦争の日本国としてのReview(再検討)は無く、連合国側の東京裁判があるのみである。そして、あの戦争に対する “日本国の理解” 注3)が公表されていないため、隣国はおろか国民の間でも、評価は兎も角、事実についても合意が形成されていない。そのため、毎年政府要人はキョロキョロと隣国の様子を伺いながら、靖国の前で足踏みをするとい醜態を演じている。
 あのように壊滅的な打撃を受けながら、政府の決断としてではなく、天皇の決断(聖断という訳の判らない言葉が用いられている)によって、“敗戦”(つまり、連合国側の条件を記したポツダム宣言)を受け入れることになったことが、あの戦争の全てを象徴している。つまり、戦争の指揮を行った主体(つまり主語)が明確ではないのである。日本国総理なのか、日本国軍トップなのか、日本国天皇なのか? 注4) 
 明治以降、西欧諸国に学んで、近代国家建設に邁進した筈である。しかし、いつの間にか日本独自の文化的背景の中に、そのような姿勢も消えてしまい、近代国家に脱皮できなかったのが、あのような無惨な結果に終わった原因ではないだろうか。いまでも所謂右に位置する人たちも、日本の非論理の文化に最高の価値を置こうとしている。靖国神社がその象徴ではないだろうか。

 注釈:
 注1) 尚、ソ連軍の足音を聞いて、満州国からいち早く脱出したのは、軍関係者や外交官とその家族であり、民間人には脱出計画は知らされなかったとのことである。Wikipediaなど参照されたい。
 注2) 注2)戦死者を何故墓地ではなく、神社に祀るのか?その疑問に答えてほしいものである。東京裁判で重要な戦争責任があるとされた者達を、日本国の再検討(上記のReview)なしに、神に仕立て上げたことに靖国問題の本質がある。「以前何も言わなかった隣国が、急に言いだしたのは、戦術として用いる悪しき意図からだ」という理屈はおかしい。異なる文化圏の人間の意図に、気づくことが遅れるのはよくあることだと思う。 注3) 
あの時国の指導者が本来どのような道を歩むべきであったか、それと歴史的事実はそれとどのようにずれていたのか? また、沖縄や本土そして朝鮮半島などから徴兵及び徴用された人に、多くの犠牲者を出した理由は何か? そして、それらの責任者が明確になるように、歴史として公表すべきである。日本国内でも自分の祖父などが戦争の際に日本をミスリードしたとされることになるかもしれないが、その痛みは本来終戦後数年のうちに経験しておくべきことであった筈である。つまり、その後の処理の遅れの責任についても明確にすべきである。以上のプロセスを踏めば、中国や朝鮮半島とのわだかまりの可成りの部分は消える筈であり、それ以上の反日姿勢は、こちらも強硬に反論すべきである。
 注4) セオドア・ルーズベルトの真珠湾攻撃後の対日開戦の演説では、明確に日本国天皇(Japanese Emperor)がオアフやサイパンを奇襲したとなっている。しかし、日本では天皇制の維持のため、この問題に触れないでおこうとする勢力が、政府の中枢にいるのだろう。現在は平成の世である。昭和天皇は歴史上の"人"である。 あの戦争の再評価(レビュー)が出来ない筈が無い。

2013年8月12日月曜日

沖縄と基地


 沖縄で再び、米軍のヘリコプターが墜落し、米兵一人が死亡した。
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00251252.html;また墜落現場から数キロ以内に市街地があり、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130805-00000065-mai-soci;沖縄では、「沖縄の空がいかに危険か改めて証明された」そして、「この上オスプレイの配備を進めていくことは許されない」と云う様な怒りの声が上がったとのことである。私はこの記事を読み、以下のような違和感を持った。
1)先ず、人一人が死亡していることに、何の弔意も表されていない。
2)まるで、「近くにいる敵軍をなんとか早急に退去させたい」というような反応である。
 このような沖縄の反応は、島民全てのものではないだろうが、最近の沖縄の知事や市長などの意見と大差がないことから、それらを沖縄の反応として、以下議論する。先ず言いたいのは、沖縄の人たちも日本国民として日本国の中で生きているという事である。また、どこでも地域的特殊性があり、その地方独自の日本国行政への協力の仕方があると言う事である。私は以前航空自衛隊基地のとなりに住み、そこには巨大な弾薬庫があった。しかし、そこに住む以上、頻繁に飛ぶ航空自衛隊のヘリコプターや弾薬庫の危険性を引き受けて生活してきた。また、例えば木曽三川の流域では、伊勢湾台風の時の様な水害の危険性がある。しかし、その地域の人は承知の上で農業や製造業に従事して、国の経済に貢献している。沖縄県には他国の軍隊が極東拠点の一つとして駐留するのであるから、地方の特殊性の中でも特別であることは十分理解できる。また、米軍や日本政府も、沖縄の負担を軽減すすべく、基地の移転や米軍の訓練の仕方等を常に考えるべきであると思う。そうは云うものの、日米の同盟関係に影響を及ぼすような運動を不用意に広げるべきではない。この件、他国のオルグもあるものと考えられるので、1報道する人々は慎重にオリジナルな議論をしてほしい。
 日米同盟は、沖縄をふくめ日本全体にとって現在非常に重要であることは云うまでもない。米軍基地内での事故やオスプレイ問題を、米軍を邪魔者扱いする方向で議論するのは、従って、日本全体の利益に強く反する行為である。 2 地球が狭くなりつつある現在、我々が再度確認すべきことがある。地球上に現存の人種と人口は、何が決めて来たのか? 経済成長という空間の拡大があったものの、大規模な戦争や侵略によって決まって来たのである。つまり、南北アメリカ大陸、オーストラリア、そのほかの至る所で、激しい戦闘や無差別虐殺により、我々現存人類が生きる空間を確保してきたのである。それらがなければ、この地球はずっと前に人で満ちていた筈である。この歴史のプロセスは遠い過去のものでは無い。戦争や虐殺はどのようなものか?先日の中日春秋で、「最愛の大地」という映画で描かれているボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の悲惨な情況が紹介されていた。僅か20年前の人類の姿である。そのような情況が、日本国を舞台に起こらないという保障は全くない。日本国という温暖で緑に覆われ、水の豊かな大地は、黄色い大地の他国から見れば垂涎の的であろう。例えば、地球規模の気象変動などが起こった場合、3生きる土地を失った核兵器を持つ民族の指導者は、日本国に対する敵対心を民衆の間に喚起し、防衛出動であるとして、日本国民の虐殺と国土の略奪を行うかもしれない。4 一般市民の想像を超えた脚本が、5いろんな前提を背景にして既に創られていると思う。もちろん、そのような情況は、考え過ぎだと云う意見が大多数だろう。しかし、為政者はそのような大きな視野で歴史を眺めなければならないと思うし、一般市民も政治家とは高度に専門的な仕事であると考えるべきである。6


注1)日本共産党の政治活動がモスクワで決められていたことを思い出すべき。(http://ja.wikipedia.org/wiki/コミンテルン)
注2)対米依存せずに、日中友好で平和と経済的安定が実現できるのなら、それでも良い。しかし、その方向で舵をとれる政治家が日本にはいない。日本は、未だに戦後の親米政治家の敷いたレイルの上を走るしか選択肢がない。
注3)大きな気象変動は歴史を変えることを知るべきである。
注4)既に尖閣諸島や南沙諸島で序章が始まっている。
注5)過去、オレンジ計画というのがあったことを想起してほしい。
注6)現在の政治家の質が低いのは日本国民が能力本位で選ばないのが原因である。国民は自分と子孫の生命を守るため、知的レベルを上げる努力をし、選挙に臨むべきである。

2013年8月10日土曜日

敬語の愚

ドナルドキーンさんが司馬遼太郎さんに尋ねた。「おとうさん、おかあさんという言葉は何時頃できたのでしょうか?」司馬さんが答えた。「明治時代、文部省が決めたのです。」この話は、何処で読んだか忘れた。ひょっとして、書棚にある「日本人と日本文化(司馬遼太郎とドナルドキーンの対談)」にあるかもしれない。

明治時代に多くの単語が創られたことは知っていたが、お父さん、お母さんという基本的な人間関係を表す言葉まで明治政府製だとは知らなかった。1) 父上と母上という言葉はあっただろうが、その“上”という接尾語がつかない言葉が必要だと日本政府が思ったのだろう。

日本政府の試みは、少なくとも関西圏では成功していない。私をふくめ、関西人が「おとうさん」を用いることは少ない。私は子供の頃、父と母を呼ぶ際、地方の方言を用いていたが、その後、それらが幼児語的であることを知り使えなくなり、父と母を失う前に、父と母を呼ぶ言葉を失ってしまった。(補足1)こんなことを、外国の方に説明できるだろうか?

一般に、日本語は話をする相手と自分との上下関係が、名詞、動詞、接尾語などの選択を要求し、その結果文章全体が複雑に変化する。例えば、「言う」という動作を表す動詞では、話す、話される、仰る、仰せになる、言う、言われる、喋る、などと変化する。(注2) これらを臨機応変に選択できなければ流暢には喋れない。

何故このような複雑な敬語体系を必要とするのだろうか? それは、国内のあらゆる組織が共同体(ゲマインシャフト)的色彩を帯びている国だからであると思う。社会が色んな共同体で作られた国では、存在する上下関係は仕事上だけでなく、永続的である。従って、それに相応しい言葉を持たなければならない。仕事場での上司は私的なあつまりでも尊敬語の対象となる。このような情況は、おそらく儒教文化圏に共通なのだろう。

つまり、日本では“身分”で人間集団を多層状に分け、その間の情報交換を(言圧を弱める)敬語で制限して、「和」を保つ社会を完成した。そして、個人は分をわきまえ、所属する“層(身分)”での責任を果たすことで、共同体全体のパーフォーマンスを挙げるという社会である。 

上下方向に多くの層状構造で構成された社会では、人事なども常にその層を意識して行われ、入省何年後で課長といった適材適所とはかなり遠い基準が用いられている。(注3) 層状構造を持ち込むことで社会は安定化し、トラブルを避けることで活動度を上げるのであるから、その視点からは当然の人事基準である。(補足2)

結果としてそれほど有能なトップを選べないので、“つつがなく任期を全うする”ことを最善とする上司の下、激しい変化の過去(明治時代)に混乱の末に英傑により創られた前例を、ただ踏襲する“結果としての保守主義”が殆どの組織の特徴である。

特に、消滅の危機のない組織、例えば全国の地方公共団体や国立諸機関では、その傾向が著しい。ただ、変化すべき時にも舵を切れずに、益々情況を悪くするのはどこも同じである。そして、カタストロフィーが起こるのである。

その段階になると、その社会は英雄を必要とするが、それは全階層を見れば一人や二人必ず居るのである。その英雄は前例を破壊し、新しい共同体運営モデルをつくる。以前の前例もそのようにして創られたことを完全にその時代の社会は忘れているのである。

その後、2−3世代トップが交代して行く中で、創られた新しい前例を踏襲する何もしない保守主義が復活するのである。明治時代は変化の時代であった。そこで活躍した英雄達は、この複雑で風通しの悪い層状社会を改善(敢えてそう呼ぶ)することを考えたのだと思う。

そして、父上、母上に代表される上下でフランクな対話を妨げる言葉に代わって、おとうさん、おかあさんという言葉を創ったのだろう。母上、父上ということばはほぼ追放できたが、それに代わるものには「お母さん」「お父さん」はなっていない。

それは、「万機公論に決すべし」も同じ運命である。日本語の構造を変えること無しに、日本の社会構造など変えることはできない。依然として「和を以て、貴となす」が、日本国を縛っている。分を弁えて保つ和、対話でなく沈黙で保つ和に価値はないのに、である。

注釈)

1)私は理化学を専攻する専門バカの一人だったので、それまでは横目で文科系の学問を眺めていただけである。従って、素人としてこの種の文章を書くことになる。

2)助動詞「れる」「られる」が4種類(「受け身」「可能」「自発」「尊敬」)の意味を備える。

3)国会議院には政治的名家の子供が当然のように国会議員になる。能もないのにである。

補足:(2019/6/22編集時に追加;編集はhtml方式から通常に戻すことと2,3の語句の修正のみである)

1)父を「おとさん」、母を「おかちゃん」と呼んでいた。この記事をかいたのは2013年8月10日だが、その時には恥の感覚が強すぎて、この注釈が書けなかった。

2)このような人事では、他の国、他の文化圏との競争には非常に不利となる。

2013年8月6日火曜日

広島平和祈念式典での市長挨拶に対する疑問


 広島への原爆投下から68年過ぎた。一分間の黙祷は、エノラゲイから落された原爆の爆発の瞬間と一瞬のうちに火傷で死ぬ人の苦痛を想像しながらおこなった。テレビに映る原爆記念碑には、「安らかにお休みください。過ちは繰り返しませんから」という誓いの文がかかれていた。過ちは日本が第二次大戦において悲惨な負け方をし、その結果敵国に原子爆弾を落されたことである。松井市長のあいさつの中で以下の様な話が紹介されていた。終戦後、嫁を迎えたある家の姑が、その嫁が被爆者だと判ると、「被爆した嫁はいらん、直ぐ出て行け」と言って追い出したという話である。一般市民にとっては消化しきれない出来事であったと思う。

 松井市長の話はその後、「終生にわたって心身を苛み続ける原爆は非人道的兵器であり絶対悪である」「核廃絶に向けて努力しなければならない。」更に、原爆とは関係の薄い、原子力発電所の東北での事故へ及んだ。原爆が絶対悪なのか?むしろ、絶対悪は原爆を街の真ん中に落す行為ではないのか?ピストルが絶対悪ではなく、ピストルで罪の無い人間を殺傷することが絶対悪ではないのか。もし仮に、原爆そのものが絶対悪だと断定されるなら、何故、その絶対悪を多量に保持し、外交の武器に使っている米国、ロシア、中国、フランス、イギリスを非難しないのか?それらの国々の中で、絶対悪を広島で使った米国を何故強く非難しないのか?私には、さっぱり判らない。

 一般市民はともかく、地方であれ中央であれ、行政のトップに位置する者は、原子爆弾といえどもその軍事的意味、外交的意味については冷静に考えて、ことの本質を把握しなければならないと思う。つまり、ピストルが絶対悪なら、ピストルを持つ警察官も絶対悪ということになる。そうではなく、悪は正しくピストルを使わないことであって、ピストルを持つ人ではない。バカみたいな話だが、もし地球を攻撃するエイリアンを核兵器で追い返したとしても、核兵器は悪でしょうか? 実際、米国は広島と長崎での核兵器使用を悪とはしていない。理由をしつこく聞けば、日本国が当時エイリアン1)の住む国に等しいと考えたと云うであろう。 このような機会に、為政者が考えるべきは、そして、言及すべきは、複数の周辺諸国が核兵器を持つ環境下で、そして経済的混乱が起こるかもしれない東アジアで、どのように隣国の持つ核兵器の脅威を緩和するかについてである。それに対してある程度のビジョンがあれば披露するよい機会である。そのようなものが無いのなら、「核兵器の威嚇からどのように日本国民を守るかについての方向を見いだす努力、そして、現在も続く被爆者の苦痛を緩和する施策の実行について、国は全力を尽くしてもらいたい」位にしておくべきである。それが、碑文にある誓いを果たすことにつながるのではないだろうか。

 有限な地球の中で、技術の進歩などにより殆どの国が経済的に膨張して来ている。有限な海や陸の資源の争奪戦は、今後益々激しくなると考えられる。実際、尖閣諸島に対する中国の主張は、太平洋に拡大する政策の一端に過ぎない。そんな外交環境の中、出来もしない核兵器廃絶なんて台詞を簡単に行政府のトップが挨拶に盛り込むことは、その方のトップとしての資質に疑問を抱かせることになる。「(核兵器による)威嚇で国の安全を達成できると思うのですか?」と問いかける市長。思い違いも甚だしい。核兵器を持とうとする国、そして持っている国は、全て「核兵器による抑止力」を信じているのである。米国やロシアが核兵器の数を減らすのは、維持管理費の削減を目指すという経済的理由であり、決して核廃絶を達成する一里塚としてではない。

 ところで、この種の挨拶を聞くたびに感じることは、このような式典で単に儀礼的(祝事であればのりと)に挨拶をするのが、日本文化の一つの特徴ではないかということである。何かの何周年式典で出くわす意味のない挨拶は、次の日にはそんなこといったかな?と当の本人も忘れる類いの挨拶である。今回の挨拶はもちろんある程度シアリアスであったろうと思うが、その日本的文化の片鱗が、大きく中身の文章に影響したのではないかとも思う。その場合は、「きれいごとで済まされますか?」と市長にいいたい。 以上が、今回の広島市長の挨拶を聞いての感想である。

注1)殆ど戦争が終わったも同然であったが、それでも本土焦土作戦や一億玉砕などと、とんでもないことを言うエイリアンと思ったのだろう。因に、エイリアンには異星人の他、異国人という意味もある。

2013年8月1日木曜日

子供達の成長に携帯電話は有害である


 小学校6年生が自殺を図り、その原因に苛めを受けていたことの可能性があるとの報道があった。また、この10日程16歳の少女達が集団でリンチ殺人と死体遺棄事件を起こしたという報道が日本中を憂鬱にさせた。報道によると仲の良かった友人間のネットでの口論が出発点にあり、その後自首した犯人達には確固とした罪の意識がなかったということである。このような事件の報道を視聴すると、今の若い人たちの人間関係がガラスのように壊れやすく、しかし彼らはその人間関係に強く依存して生きていることが判る。何故このような情況になったのか?その原因或は誘因となって居る筈の、過去と現在の子供達の環境に関する違いは何なのかを考えてみた。
 大きな差の一つとして誰もが考えつくのが、携帯電話或はその最新型のスマートフォンを殆どの子供達(を含めて若者達)が持つ様になったことである。その結果、同世代の会話らしきものが瞬間的に仲間内で広がるようになり、未熟な同世代間の電話でのつぶやき(或はTwittering、つまりさえずり)が日常の人間関係の中で大きな部分を占め、それにより形成された同級生同学年の生徒間の平面的(或は層状)な人間関係が、大きな意味を持つ様になったのではないだろうか。親は常に必要なものを供給してくれる存在ではあるが、それを厳しい労働などにより得ていることを子供達が知る機会は少なく、その結果殆ど空気のような存在になっていると思う。その為、脆いがガラスの様に硬い層状の人間関係の中に入って、我が子との人間的接触を取り戻すことが困難な場合が多くなっているのではないだろうか。また、学校の先生たちも子供を指導するというよりは、問題を生じないことに神経のほとんどを使うはめに陥り、子供達の人間関係の外に存在している場合が多いのではと想像する。
 本来人は、幼少期より親を含めて回りの人間との接触により、自分を意識し、成長して独立した人格を持つ様になる。その機会を子供達から奪っているのが、上記のような環境と教育ではないだろうか? 従来、子供達であっても人間関係は3次元プラスアルファにわたって広がっていた筈である。同世代がつくる平面の人間関係の他に、子供達が成長し、且つ、社会の秩序を守るために必要な(親、祖父母、先生、近所の方々との)上下に広がる人間関係、そして、異質ではあるが、本の中で出会ったり、過去の人に学んだり、或は、聖典による神や仏との出会いなども一方的ではあるが、過去に広がる人間関係と言えなくもない。そのような子供達を育てる役割をしてきた人間関係が、上記平面的な人間関係に置き換わってきているとしたら深刻な問題である。この国に未来は無いと思う。早い段階から同世代間の二次元的人間関係の中にとじこもると、正統な言葉とその中に含まれた思想道徳等も学ばずに、子供達は大きくなってしまう。あの16歳のグループ間の会話として公開された言葉は、それを裏付けているように思う。解決法は差し当たり、十分な言葉を持たない若者に携帯を持たせないことであると思う。