“美”という言葉或いは概念は不思議なものだと思う。“美人”の美と“美しい光景”の美を同じ美という漢字で表わしている。何故なんだろうか?本当に同じ美と言う言葉で良いのだろうか?その点について少しかんがえてみた。
今道友信という方の「美について」という新書が本棚にあった。一寸めくってみると、その第一章“美の発見(11-34頁)”に、幾つかの美の定義らしき文章があらわれる。出現順で、“真と善と美は人間の文化活動を保証し、且つ、刺激してやまない価値理念である”、更に、“存在するかぎりのものは、何らかの意味で美しい”とか、“知性の転機とも言われる思春期の前後から、芸術への開眼も生じ、深い美についての理解が始まる”と最初の数頁に書かれている。そして、美は、“理性により発見される、とか、知性により十分味わうことが可能になる”、という記述を見て、手に取ったこの本は再び本棚に戻ることになった。(1)
そして、ガイドブックを失った迷える羊は、自分で美について考えることになった。しばらくして、次のような回答を得た。
つまり:美は、ある存在に於ける、幾何学的、機能的、文化的、性的、健康的などの側面から得た、視覚的、聴覚的に感じられる“良きもの(2)の証”である。例えば、女性の“美”は、男性にとって良い恋愛の相手であり、健康で聡明な子孫を残すであろうと、本能的に視覚などの感覚器で得る、女性の顔やかたちに貼付ける“良きものの証”である。一方、ピカソのゲルニカは、見る人に第二次大戦で経験した独裁者による圧政を思い出させることで、平和の価値と未来への希望を想起させる(上記新書32頁)。従ってその美は、ゲルニカが人々に与えたそのインパクトに対して、人々の感覚が与えた“良きものの証”である。
つまり、美女に与えられた“美”と、ゲルニカに与えられた“美”は、全く異なる分野の二つの存在に対する、その分野における“良きものの証(或いはしるし)”である。繰り返しになるが、美は本質ではなく、認識の対象となる存在が“良き本質”を主張して獲得する、”良きものの証”なのだと思う。
この考え方は、ひょっとして最近読んだ三島由紀夫の金閣寺の中に出てくる、放火犯溝口の友人柏木による美の定義を変形したものかもしれない。柏木は、「美的なもの、君の好きな美的なもの、それは人間精神の中で認識に委託された残りの部分、剰余の部分の幻影なのだ」と放火直前の溝口にいった。剰余の部分の幻影と”よきものの証又はしるし”は、評価としては違うが、剰余の部分と言う点では一致していると思う。 ”良きものの証”の方がよりポジティブな評価であると思う。
注釈:
(1)つまり、著者の論理を、一読者として評価できないということ。
(2)”良きもの”も曖昧な言葉である。ここでは、”大多数の共通の感覚において、自分が近づきたい感覚を持つもの”と定義する。”悪しきもの”は、その逆で”感覚の主が、遠ざかりたい感覚をもつもの”となる。一神教の世界では定義は簡単で、”良きもの”は、”神が誉めたたえるもの”である。どのようなものを良きものと神が評価されるかは、聖書にかかれている。創世記に第一章の最後に、”神は造った全てのものを見られたところ、それは、はなはだ良かった。”とある。
(2014/7/29;午前初稿、7/31/21:40修正)
美とは、感覚器官で認識したものに対し、良きもの(自分側に置きたいもの)と評価した場合につける、しるし(標、証)のようなものである。
0 件のコメント:
コメントを投稿