1)円安が示すもの
最近の安倍政権は、本来の無能をさらけ出し、それを国際的に宣伝することになった。その最も顕著なケースは、新型コロナウイルスに対する対応の失敗である。それは、日本の脆弱性に対する確信を、諸外国に与えたようである。その結果もあって、日本の通貨である円は売られている。
この問題をわかりやすく解説しているのが、及川幸久氏のyoutube動画である。この中で、及川氏は日本の経済収縮をデフレという言葉で指摘している。(補足1)あの2019年度第三期の6.3%という大きなマイナス成長と、新型肺炎の対応失敗は、安倍政権とそれを生み出した日本国の脆弱性を、国際経済界に確信させたようだ。
https://www.youtube.com/watch?v=NWxaH62QcWc
本ブログでは、最近、殆ど全てをこの種の問題に費やしている。それらを要約すれば、日本の汎ゆる組織が、専門家が各部門で仕事をする体制を築き上げていないという指摘である。1月3日の記事に指摘したように、その大元にあるのが、日本に対話の文化が無いことである。(追補1)
この文化的欠陥も、政治家が“政治家としての専門的能力”を持って仕事をすれば、徐々に克服される筈である。そしてそれ以外に、日本が国際社会の中で発展し、先進国としての地位を保つ手段はない。
2)ダイヤモンド・プリンセス作戦での大敗
今回のクルーズ船のダイヤモンド・プリンセス号において、大勢のCOVID-19肺炎感染者を出したのは、日本の安倍内閣及びその下にある厚生労働省の責任である。厚生労働省に専門的能力がなかったことによる。そのような厚生労働省を作った責任は、安倍内閣にある。
その原因を象徴的に示したのが、神戸大岩田教授による専門家としての指摘に対して、一顧もしなかった厚生労働省の姿勢である。岩田教授は、船内は危険なゾーンと安全なゾーンの区分けができていないと指摘したが、厚生労働副大臣の橋本岳氏は、その意味を理解せずに「清潔ゾーンと不潔ゾーン」の張り紙の写真を反証のつもりでネットに投稿した。https://www.huffingtonpost.jp/entry/gaku-hashimoto_jp_5e4e1c0ec5b6a8bbccb8b038
岩田氏は、youtube動画で、区分けをしているという厚生労働省の官僚に対して、「危険ゾーンなどの言葉の定義は何ですか」と画面で質問した。勿論、厚生労働省の官僚には応えられる筈はない。この象徴的な言葉が、全てを表している。専門家とは「言葉を定義に従って用いる」人種だからである。(下の補足2参照)
折角、感染症対策の専門家が、知恵を活用しましょうと名乗りを挙げ、患者で溢れるダイヤモンド・プリンセス号に乗り込んで呉れたのである。それを活かすことのできなかった厚生労働者の役人と、現場の副大臣の力量の無さが、低迷する日本を象徴している。繰り返す:近代社会の組織では、専門家が各部門を受け持ち、その能力を十分活かす形にするように、組織のトップが舵取りをするのである。この文化が定着していない我が国が、世界から売られるのは残念ながら当然である。(1月3日の記事参照)
3)専門家と素人の違い
専門家と素人の違いの区別は、上記のように①言葉を定義とともに用いるということで可能となる。更に、その姿勢としては、ある分野の専門家は他の分野の専門家に対する敬意を持つ。(補足2)その前提が成立するためには、②専門家を名乗る人たちが、それに値する能力と知識をもたなければならない。日本はこの②の条件も成立していない。
「最初の言葉を定義とともに用いる」という点について、少し説明する。例えば物理に知識のある者が「力」という言葉を、学問の場で用いれば、それは「(質量を持つ)物体に対して加速度を与える能力」という定義を承知している筈である。質量や加速度という言葉の意味や単位を聞いて、まともに答えられない人と対話は成立しない。感染症対策の分野で、「安全ゾーン」という言葉にも、一定の定義が必要だろう。
それを知らないで、不潔ルートと清潔ルートの張り紙をするだけで、その区分けができていると強弁する副大臣は、自分が専門的知識を何も持たないことを自から暴露したことになる。専門的知識を持つ者なら、「その定義は何ですか?」という岩田教授の問に対して、兜の緒を締め直す筈だからである。
次に②の条件が日本で成立していないことだが、それも副大臣は自ら示した。この厚生労働副大臣は、慶応大学という日本の私立大ではトップクラスの大学と大学院を卒業したという。しかし、専門家の意見に対して聞く耳を持たなかったのである。
大学院の卒業生だということは、その学問分野の専門的知識を有するという証明書である「学位記」を授与された者ということである。しかし、彼は他の分野の専門家の言葉にたいして、敬意をはらわなかった。その学位記は専門家としての能力を証明するものではなかったことになる。https://www.onedrop-cafe.com/hasimotogaku/
勿論、現代は金と力の時代であるから、恐らく金を積めば、米国の大学も同様の学位記を発行する可能性がある。しかし、その額はものすごく高いだろう。また、米国ならその表看板は直ぐに剥がれから、実害はないだろう。専門家として仕事をする場合、数日のうちに実力のなさが暴露されるからである。
日本で仕事をする場合、専門家である必要性は大学と研究所以外には無い。(補足2)既に指摘したように、この国の組織一般(研究機関、特に理系研究機関を除く)では専門家が各部門を担うという体制が取れていないからである。それは、日本の内閣にも当てはまるのである。正に、それを証明したのが今回の出来事である。
(上記は、公人の名前を出しての批判だが、個人攻撃ではない。)
追補1:何度も書いたが、日本には議論はなく、あるのは口論である。「沈黙は金、能弁は銀」であり、通常の議論には銅でも鉄でもない。つまり、日本の文化の中で言葉は、単に依頼や不平の伝達に用いられるだけであり、議論に用いられることは殆どない。
(2月23日早朝、再度編集、追補1追加)
補足:
1)日本は消費増税によりデフレ・スパイラルに入ったようである。しかし、消費増税はピストルの引き金であり、火薬ではないだろう。本質は、日本の汎ゆる組織の効率化が、西欧のようには進まないことにある。それが本稿の主題である。同様の議論を日本の会社を対象に既に行っている。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12564206453.html
2)自然科学は、人間が自然を理解する為のモデル(或いは「モデルと理論」)の集積である。ある分野のモデルは、他の専門分野のモデルと整合的に繋がってこそ、正しいモデルとなる。従って、専門家としての仕事を全うするには、例えば論文審査などを通して、同じ専門或いは隣接する専門の人たちの議論に耐えるモデルを構築する必要がある。専門家(他人)に対して敬意をもつのは、真実を掬い取る際の危うさを知っているからである。つまり、自分の提出したモデルが真実であるという保証の無い世界の住人だからである。自分の専門が孤高の存在であると感じている人やそのように発言する人は、天才かその分野の専門家ではないだろう。
3)経済を除く文化系の諸分野では、国際交流が無い場合が多く、大学でも専門家が教鞭をとっているか怪しい。例えば、東大の憲法学の教授は、日本政府の体制や日本国民の生命の安全とは無関係に、非武装中立の憲法を護持すべきだと主張している。
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