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2020年2月5日水曜日

再録)“内なる目”について:意識の発生&善と理想主義の系譜

この10日ほど、「人類は高度に発展した文明に適合する社会を作れるだろうか?」というテーマで考えています。その一環として、「社会の進化論と言葉及び文化の進化のモデル」について、2,3日中にこの欄にアップロードする予定をしています。この問題と関連が深い本に、ニコラス・ハンフリーという動物行動学者が書いた「内なる目」という本があります。過去に書いたその感想文を再録します。この内なる目は、人が「本音と建前」という「二つの自分」に分裂する原因であり、その「本音と建前」の分裂は厄介なことではなく、人が社会を作る基礎能力だからです(これについては2,3日中にアップします)。

 

以下再録部分:

 

1)人間は「自分」という意識を持つ動物である。その意識とは何なのか、何処で生じるのかなどについては、ほとんど永遠の謎である(補足1)。ニコラス・ハンフリーは、意識を“自分の心の中を観察する能力”と解釈し、それを“内なる目”と表現した。“内なる目”は出版された本のタイトルでもある(補足2)。つまり、自分の心の動きを見ることが、意識ということになる。

「意識を持つ動物にとっては、あらゆる知的動作には、それに関与する思考過程の“自覚”が伴い、あらゆる知覚にはそれに付随する感覚が、あらゆる情動には感情がともなうだろう」とハンフリーの本には書かれている(補足3)。自分という意識は、自分を外から眺め、且つ、自分の心の中をも見ることになる。内なる目は自分の全てを内部から見るため、ごまかすことは出来ない(フィルターは掛けられるが、それについては後述)。

2)人間は自殺する唯一の動物である。その根本的原因の一つは、人間は、自分とその心の動きまでも観察対象にする“内なる目”を持つことだと思う。
 人間の心には、自分とそれを取り巻く世界のイメージが投影される(補足4)。そこには重要なものは大きく、そうでないものは小さく、また、好ましいものから悍しいものまで、“色分け”されて投影されるだろう。つまり、人によって独特のフィルターがかかっているのである。通常、“内なる目”で観測された(追補参照)自分の像は中心に大きく存在する。その自分の像が耐えられないくらいに、醜悪且つ大きくなり、投影面からはみ出してしまう時、人は生き続けることが出来なくなるのだろうと思う。 

例えば犬や猫のような動物の場合、脳の中に投影した世界の図には自分は存在せず、自分は単に世界を覗く窓である。これが人間と、明確に自分という意識のないこれら動物との大きな差である。それは決して知能における差ではない。動物にも人並みの知能を持つものもいるかもしれない。因みに、コンピュータが記憶&計算能力では世界一の人間の頭脳よりも上であることを、最近の囲碁ソフトの世界チャンピオンに対する勝利が証明した。

この“内なる目”と自分の頭脳で再構成した自分と自分を取り巻く世界の投影図の中には、当然多くの人も存在する。“内なる目”は、他人の像とその動きを把握することが、社会生活をする人間にとって生存上有利であるため、進化の過程で生じたとハンフリーは考えたのである。つまり、”内なる目”は他人の心のシミュレーションのために生じたのである(補足5)。或いは、“内なる目”が生じた為にある種の猿が人間に進化した(補足6)とも言える。 

3)社会が成立する原理は個人が“利他”の精神を持つことであり、生物が生存する本能は“利己”の追求である。利他の精神を持ち、且つ、利己の本能と共存させることを可能にするのが、高度な知能と“内なる目”である。つまり、社会の構成員の全てが、内なる目で他人の考えと行動をシミュレーションすることにより、社会の中での利他を自分の利益、つまり“利己”、に転化するのである。  たとえば、自分が他を利する行動をとったとして、他の社会構成員が利己的にその恵みを受け取るだけなら、社会は壊れてしまう。従って、利他的行動は他人の考えと動きをシミュレーションしながら、行う必要がある。それが“内なる目”というシミュレーション装置が、高度な社会生活をする上で必須である理由である。

その複雑なシミュレーションを互いに繰り返して社会で生きる中で、発生した概念が“善”であり、それを元に多くのルールが積み重ねられ“人間文化”となったと思う。“善”の定義と行動の物差しとしての応用は、複雑なシミュレーションなしに社会を安定に維持できるので便利である。しかし、その一方で人間のシミュレーション能力を衰えさせる危険性がある。 

従って、“善”は人工的な概念(約束)であり、生命にとって本質的な“悪”(利己を追求すること)とは、本来真正面から対立する概念ではない。また、社会における善の体系を中心に置く政治姿勢を“理想主義”というが、それは従って“現実主義”とは真正面から対立する概念ではない。つまり、政治家にとっての原点は本来、現実主義であるべきである。 

4)“内なる目”は、醜悪なる他人だけでなく醜悪なる自分にも向けられることが多いかもしれない。醜悪な、つまり、利己的な行動は生命に本質的だからである。それを善良なる姿に変えるには、つまり社会を維持すべく紳士的(人工的(artificial))に生きる(補足7)には、エネルギーを要する。 

そのエネルギーを減少させるために、ある人はその“内なる目”に後天的な(学習の結果としての)フィルターをかけるだろう。また、ある人はそのフィルターを真っ黒にすることすらできるかもしれない(補足8)。地理的なある範囲での宗教や文化の存在は、その地域の人が独特のフィルターを”内なる目”に持つと言い換えられる。

また学校などは、教育とか暗示という言葉で形容されるフィルターを構成員に与える為の機関という面もある。例えば、軍隊における訓練などでは、”内なる目”には、極めて偏ったフィルターが掛けられるだろう。この“内なる目”という心理学的な考え方は、人間と社会を考える上で非常に便利な人間の意識のモデルである。

追補:(2016年5月15日の翌日の編集)


内なる目と意識では、意識の方が概念として広い領域を持つだろう。しかし、ここでは同一視して総合的に「内なる目」を用いる。二番目のセクションからは、ハンフリーの本を参考にして、独自の考えを書いた。

補足:

1)意識は魂の作用と考え、物質界の存在である人体と霊界の存在である魂を考える人も多い。もしそうなら、人間の意識を使って霊界が物質界に作用を及ぼすことが可能となる。現代その考えは否定されていると思う。ニーチェの言葉として、「ツアラトストラ」の第一部に「自分はどこまでも肉体であって、それ以外のなにものでもない。そして魂とは、肉体に属するあるものを言いあらわす言葉にすぎないのだ。」という文章がある。
2)内なる目、ニコラス・ハンフリー著、垂水雄二訳、紀伊国屋書店(1993); 原著はNicholas Humphrey著、“The Inner Eye”, 1986.
3)ここで、知覚と感覚を分けている。信号が脳におくられて、なんらかの感情を伴って感覚となり、思考のプロセスとともに、内なる目の対象となるのだろう。例えば、人間は何かが手に触ったという知覚を持つ。その信号は脳に送られて、手を引っ込めるとか、触ったものに攻撃を加えるとかの動作となる。しかし、刺激を受けて、それを知能で解析して行動するだけなら、その解析のプロセスを内なる目で見る必要はない。脳の視覚野に損傷を受けた人や猿は、“見たという感覚”なしに見て、その知覚情報を利用する。(pp68-72)
4)「内なる目により、心の面に自分をふくめ世界の像が投影される」という考えは、ハンフリーの本にはありません。本稿のオリジナルです。
5)チンパンジーやイルカの一種は、鏡に映る自分の像をみて、他の個体ではなく自分であると理解できる人間以外では例外的動物である。しかし、自分のこころの動きまで観察対象にはできないだろう。
6)“内なる目”は、進化論的心理学と呼ばれる分野の一つの成果である。
7)人工的とは紳士的と言い換えても良い。紳士(淑女)とは社会生活を営む人間が、生物としての本性を抑えて“内なる目”に美しく映る姿の人間である。社会とは本来無力な人間が地球上に君臨すべくつくられた人工的な構造である。そこでの人の振る舞いはアート的(artificial)でなくてはならない。ナイーブ(naïve)に振る舞えば、社会は破壊されるからである。
8)典型例を挙げる。https://www.youtube.com/watch?v=Gc9rsvBIh9U この動画は、内なる目に真っ黒なフィルターを掛けた、米国の知性の姿である。

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