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2020年2月6日木曜日

人類は、高度に発展した文明に適合する社会を作れるだろうか?(1):社会と言葉及び文化の同時進化モデル

人類は、高度に発展した文明に適合する社会を作れるだろうか?(1)

ーーー 社会と言葉及び文化の同時進化モデル ーーー

 

人類は、その文明の石器文明、鉄器文明、機械文明、電子文明という発展に伴って、その社会を部族、民族、国家、国際社会と拡大且つ複雑化させてきた。人の文化とその表現のための知性や言葉の発展が、この文明の発展と平行して進んだとするモデルを考えてみる。そして、その文明の発展、社会構造の発展複雑化に、文化の発展が追随できなくなったところで、文明の崩壊が起こるのではないかと考えた。ここで、文明の発展を物質的豊かさ及び生活の利便性向上と定義し、文化の発展を、文明の発展により高度且つ複雑化した社会で生きる上での精神世界の複雑高度化と定義する。

 

先ず、社会と個人の接点にある二つの自分、本音と建前(それらの定義)、の議論から始め、今回は民族社会の発生と進化について書いてみる。この分野に属する啓蒙書で読んだのは、ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」くらいだが、ここで書くような議論は無かった。また、言語の発達と社会の発展とを関連付けたような議論は、岩波の科学の特別号「言語の起源(2004年7月号)」には無い。(批判など歓迎します。)

 

1)本音と建前について:

 

人は普通、本音と建前を持つ。本音は個人の私的な空間の中心に存在してその意思と直結した自分(の考え)であり、建前は社会に向けた“表向きの自分(の考え)”である。例えば、「マイノリティーの権利尊重」という考えは、建前として主張して(或いは受け入れて)いるが、それは本音と必ずしも一致しないだろう。しかし、自分もマイノリティーになる可能性があり、そうなった時(そうだと気づいたとき)、その建前の重要性に気付くだろう。

 

両者を比較した場合、建前の方が、普通、論理的整合性が維持されている。それは、建前が主に先人の賢者たちにより形成され、幼少期から受けた教育により植え付けられているからである。従って、建前は社会の構成員(の多く)により共有される。一方本音は、自分の個別の事情や欲望から離れない“リアルタイムの自分”なので、その正当性をその文化の中で主張することが困難な場合が多い。

 

人は自己の生物としての本来の行動に抑制を掛けて、社会を作って生きている。生物としての欲望には予定表はない。しかし、自分も受け入れている社会の要請或いはルールは、予定表に従って行動するように規制する。後者を肯定する建前と、リアルタイムの自分に支配された本音との間に、乖離があるのは当然である。

 

その社会の要請とは、社会を構成する多くの人の本音を、秩序を保って達成するためのものである。多くの人がリアルタイムの本音の自分に支配されて行動すれば、社会は崩壊し、結局自分の基本的要求さえ永遠に満たされなくなるだろう。(補足1)

 

最近、「建前と本音の二重らせん」という表題の原稿を再録し、建前は嘘の羅列ではなく「社会の基礎としての地位」であることを再確認すべきだと書いた。勿論、本音は自分の個人としての権利の主張と不可分であり、社会の中でも自分が行動する上での動機やエネルギーの源泉である。建前と本音は生きている個人において「二つの自分」(補足2)として保持されるべきであり、融合して単眼的になってはならない。

https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/07/dna.html

 

今回は、社会の成長を進化論的に考えて、それと本音や建前の変遷について考察してみる。

 

2)民族社会の発生と成長

 

人間は社会を形成して豊かに生きている。人々は、その社会の文化と文明に学び、専門的な能力を身につける。自分が専門的に身に付けた能力を用いて多数の他者に恩恵を与え、それと引き換えに、異なる多くの分野において、他のメンバーの専門的能力から恩恵を受ける。

 

社会が、どれだけの専門分野に細分され、夫々がどれだけ深い知識と高いレベルの技術を要するかは、社会の発展の程度による。社会の発展過程と要求される文明と文化の関連について以下少し考えてみる。

 

太古の時代の小さい群れ(原始的社会)は、力の強いボスがリーダーとなる単純な大家族的構造を持つだろう。そこでは強い力を示すことで、その群れのリーダーに相応しいとメンバーから信頼される。それは類人猿の世界のリーダーシップのあり方だろう。言葉の無かった時代、人もこのような群れ或いは社会で生活していただろう。

 

農耕などにおける技術の発展や、鉄製の武器の出現などにより、人の集団は、部族から民族となって大きく且つ複雑化する。集団が大きくなることは、二つの面から部族の生存に有利である。その一つは、多くの活動を分業することで、それぞれの専門のレベルが高くなることである。もう一つは、大きな武力を持てることである。(補足3)

 

部族・民族間には野生の戦いの原理が働き、たとえ部族内のメンバー間に殆ど付き合いの無い関係にあっても、相互扶助の原理が働く。つまり、自分の民族に属する人なのか、対立する民族の人なのかで、対応が全く異なるべきである。構成員が自分の民族の為に行動する際には、リーダーが作った民族のルールに従わなければならない。その結果、人は内なる私の空間と、外の社会的空間(公的空間)の両方を持つことになる。私的空間では本音に戻れても、外では公のルール(建前)を大事にしなければならない。

 

この段階では、部族或いは民族のリーダーは、他の部族や民族との競争を勝ち抜いて生きる方法を、戦略として言葉で示し、部族全体でそれを実行する必要がある。言葉の発生と進化は、この小さな部族から大きな民族への成長・生き残りと同時進行的に生じたと私は考える。それは、①言葉の支配者が、部族や民族のリーダーであることを意味する。このような考え方を示したのが、昨年6月中頃の記事「言葉の進化論」である

https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/06/blog-post_18.html

 

言葉に魂を感じるのは、或いは言霊が存在するのは、上記モデル①の証拠の一つである。現在の言語学は、言葉の進化に関しては五里霧中状態である。言葉は、定義を緩くすれば動物も持っている。問題は、言語の進化である。言語は、社会のリーダーが主導権を持って改良し、社会の高度化(組織化)の要請により進化したという本稿での考え方は、何処にも無いだろう。

 

3)社会による神の創造:

 

聖書の記述にあるように、神がこの世の創造を言葉に従って行ったのである。つまり、この社会との関係における自然界や人間界の全てを命名し、それらの相互のあるべき関係などについて、神が記述したのである。神とはその民族のリーダーのことである。多くの神話などでは、世界は混沌のなかから生じたという考えが多い。しかし、混沌から秩序は生じない。(補足4)

 

その部族或いは民族のメンバー間の関係や生き残り戦略などは、言語で体系化されて文化の一部となる。その文化の重要なコアの部分を言語で表現したのが道徳と倫理であり、それらは後世になって宗教と呼ばれる。従って、宗教と言葉は不可分である。(この不可分の関係が壊れ、宗教が言葉から分離したとき、宗教は堕落を始めるだろう。)

 

宗教は、上位下達の社会秩序形成の方法である。優れた文化を築き上げた民族は、分かりやすい論理的な言語と体系的で優れた宗教を作り上げた筈である。優れた宗教とは、その宗教を信じる人々の集団を大きく成長させる宗教である。

 

以上の理解は、言葉が神から授けられたと考える聖書の世界観と整合性がある。つまり、聖書の記述は、その宗教と言葉が本来一体として存在したことを示している。ただ、宗教的に統合された民族の社会から、複雑な組織とルールを持つ国家にまで社会が高度化したとき、旧来の宗教や聖典ではその運営ができなくなる。その矛盾の一定の解決は、宗教改革とかユダヤ教=>キリスト教のような宗教のバージョンアップによって為されただろう。

 

現代、国家の上に、もう一重の国際社会が出来つつ在る。所謂グローバル化は、人類がもう一重の国際社会を“重ね着”する代わりに、これまでの国家という社会を破壊して社会の拡大を図る。それはこれ迄の国家単位の文化も破壊するだろう。国際文化など、多くの人種の絶滅が無ければ出来ないだろう。世界の破壊が始まる筈である。それを期待する人たちの謀略だろう。この問題については次回考える予定である。

 

 

補足:

 

1)これは、犬と人間の関係も同様である。犬は「待った」という命令を聞いて、自分の食欲を抑制する。その秩序ある関係構築の結果、飼い主は犬との信頼関係を確認し、犬は日々の食料や自分の住処を獲保できる。犬は建前として、飼い主の「待った」を、本音よりも上位に置くことで、人と犬との“社会”を保存出来る。

 

2)建前としての自分は、外向きの自分であり、ニコラス・ハンフリーが書いた「内なる目」により創造される。この外向きの自分、つまり建前という衣を着た自分だからこそ、外つまり社会に出て活動できるのである。現在、二つの自分の融合はかなり進んでいる。それは本音重視が自然であるという主張が、マイノリティーの権利という樹一種の主張の一般形として現れた。同性結婚やLGBTが、まるでノーマルな人間のように社会に登場したのはその一例であり、それらは社会崩壊の兆しである。

 

3)日本で分業を大きく進めたリーダーとして織田信長が挙げられる。信長は、僧侶から武力を取り上げて宗教家に専念させ、農民を戦に徴兵せず農業専業とさせ、傭兵として武士を育てた。更に、楽市楽座など、社会の規制を緩和して経済発展を目指した。既得権益を持つ者に暗殺されたが、以後、その考えは豊臣秀吉や徳川家康に継承された。

 

4)世界の始まりを混沌と考える人が多い。そこに秩序が生じ、世界が出来と言うのである。https://www.kokugakuin.ac.jp/article/83479

しかし、それはあまりにもひどい簡略化である。言葉とそれによる世界の創造とは、人間社会の創造とその際に創られ成長した言葉(と文化)による世界の理解である。それには、民族を拡大し維持するという膨大な民のエネルギーと、それを指揮した天才的なリーダーの例えば数万年の努力が無ければならない。

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