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2020年4月7日火曜日

新型コロナ肺炎:命の選択の問題

1)はじめに

 

昨日の「お詫びと訂正」の記事では、小池都知事の「軽症者を退院させて、ホテルなどに収容し、そこで養生してもらう」という方針に、憲法違反の疑いがあると書いた。

 

そのブログ記事に、「chukaのブログ」さんからコメントをいただいた。そこには、その方法を取ることが正しい判断であると書かれていた。その中には非常に有用な知識が含まれているので、全体を引用させていただく。

 

現在の病院は患者には必ずしも安全な場所ではない。たとえば人口呼吸器を数日つけているだけで、免疫度の弱い患者はMRSAに感染している。20世紀前後にはこれが猛威をふるい、多数の犠牲者が出たのは医療側の常識となっている。その上、人間は寝てばかりいると体もなまってしまい感染に弱くなります。もう一つは精神上の悪影響が大きい。病院のベッド数には限りがあり、特にこれはICUに顕著です。最初の患者優先より、必要者優先です。手術などで長期療養が必要ならばリハビリに送られます。

 

人工呼吸器を数日つけただけで、MRSAに感染することが医療分野の常識であるという話は他人事ではない。ただ、そのコメントは、法的にはどうであれ、差し当たり出来るだけの人命を助けることが肝腎だという考えだと思う。それは尤もなのだが、日本の現状は、法治国家としての体裁を整えていないので、表の論理で反論をしたい。

 

コメントありがとうございます。内容には全く同感です。ただ、その手法を日本がとり得るのかという問題です。つまり、部分と全体という2つの視点があり、全体からみて正しい判断が、部分が受け入れ難い場合、その解決をするのが法です。法を受け入れるという了解の下に、我々は国家に私権の一部を渡しているからです。

 

その法の一部に、国家非常事態の宣言と、非常事態特別法の発動により、個人の私権の一層深い部分からの制限が掛けられます。それが不備な場合、非常時には国家は成立しません。部分の視点を一切持たないのが、独裁です。独裁は、法の不備で困ることはありません。日本は民主国家を標榜していますので、現在、国家非常事態なのです。

 

 (補足:ここで国家とは、国の一部を構成する「国家組織」の意味)

 

2)トロッコ問題

 

上記は、命の選択の問題であり、サンデル教授の熱血授業で有名になったトロッコ問題に似ている。それは、「前方の5人が将にトロッコに轢き殺されようとしているとき、トロッコの進路を変更出来るポイントに居る人は、2人が線路上に存在する方向にトロッコの進路を変えるべきだと思いますか」という問題である。

 

確かに5人の命よりも、2人の命の方が、被害としては少ない。従って、そのような場面にあれば、トロッコの方向を変えて、5人の命を救うべきであるという答えが優勢かもしれない。しかし、それは翌朝の新聞記事の表題を、5人の事故死から2人の殺人事件に変更するだろう。

 

上記軽症者は命の危険性は2であり、後から病院に運ばれる重症者は命の危険性が5であると考えれば、上記トロッコ問題と酷似している。このまま、先に取得した病院での治療権を奪われる人は、より大きな死の危険性という負担を強制される。これは、人のすることだろうか? このトロッコ問題は既に1月15日の記事に書いた。

https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2020/01/blog-post_15.html

 

もちろん、軽症者が簡単に了承するのなら、話は別だが、軽症者の定義は非常に厳しい状況の人も含まれる。https://forbesjapan.com/articles/detail/33415

 

このような状況は、通常、近代国家の姿ではない。ましてや国家非常事態の定義が憲法に無い国では、非常事態だからという言い訳はできない。普通の国では、非常事態宣言がなされたのち、そのような措置がゆるされるという特別法が発動されて初めて可能なことだろう。西欧諸国でも、このような議論は、恐らくなされていないだろう。

 

日本では、非常事態の定義が憲法になく、従ってこの種の非常事態にのみ起こり得ることが発生した段階で、超法規的措置が取られることになる。それは、国家の一時的崩壊と同義である。このような事になったのは、オリンピックと習近平の国賓としての招聘を優先し、この新型コロナ肺炎への備えを怠った安倍内閣の責任である。その点を今後明確にしなければ、日本国民にとって、国家とは単に支配者の道具であり、国民は被支配者に過ぎないという状況が続くだろう。その状況は明治の時代から続いている。

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