1)中華人民共和国建国後の日中交流
日中国交回復のとき、毛沢東は日本に感謝すると言った。その意味の詳細を田中角栄は知っていたのだろうか? 年齢から考えると知っていただろう。しかし、戦後生まれの我々には、知らない歴史があったようだ。私は、毛沢東によるこのお礼の言葉は、単に日本軍が蒋介石と戦ったという事に対する謝意の表明だと思っていた。しかし、今回そうではないということが解った。(関係する日本の首相及び米国大統領については補足1参照)
一言で言えば、日本の敗戦後、満州在住の旧軍人や医師ら一部は、毛沢東の共産軍と一緒になって蒋介石軍と戦ったのである。その事実を中国のユーチューバーのMOTOYAMA氏が語った。https://www.youtube.com/watch?v=RhNiF7_shN8
手元にある中島嶺雄著の「中国(中公新書)」の中には一切書かれていない。しかしそれは事実である。中国の政権幹部はこの事実をよく知っていたようだ。
1990年4月に、人民解放軍47軍団のトップの「ろう」という人(以下老と書く)が、特別な任務を受けた。それは、日本から久しぶりに中国を訪れた、中共軍と伴に戦った人達を接待するという任務である。
戦後の国共内戦の際、中国人民解放軍の第4野戦軍に大勢の日本人が参加していたのである。その日本人が久しぶりに中国を訪れるというので、人民解放軍の上層部からの指示で、老氏が接待することになったのである。中国の国民はそれまで、日本軍人が蒋介石との戦いに参加していたことを知らなかったという。老が連絡をとった人たちは、現在の陸軍病院院長など軍の幹部であった。
彼ら日本人は、1956年にも一度訪問しており、そのとき周恩来が言ったという:「日本の方に感謝します。解放戦争のとき、たくさんの日本の方が参加してくれました。このようなことがあり、中国人民は日本人民と仲良くなる自信があります。」と。周恩来は、日本のその人たちを戦友と呼んだという。
周恩来死去から30年たった現在、中国共産党はそのようなことは言わなくなった。1990年の訪問のとき、中国の老陸軍病院院長は、「もう年を取りました。会いたいです。もう合う機会が無いかもしれないです。この歴史は隠してはいけないです。」と言った。日本から来た同志とは、中村義光さんをリーダーとする17名だった。
1972年の国交回復後初めて、自腹で中国を訪問したという。「里帰りという感覚だ」という言葉は、その事実と整合性がある。そして、中国側もその実現に協力する重大な意味があった。天安門事件による国際社会からの孤立と、それによる経済の疲弊である。
日本は中国の悲惨な状況を見て、そして、鄧小平の要請もあって、G7で中国制裁を解くことを提案したようだ。そして、その先頭にたって、中国支援を再開した。この件、現在では、日本側の「弱腰或いは愚かな外交」と理解されているが、その背景には「卑怯な米国」の存在もあった。後者が表題の二度のニクソンショックの意味である。
それを上手く利用して、日本から支援を引き出したのが当時の最高実力者(つまり、中国共産党中央軍事委員会主席)鄧小平であった。党総書記には、民主化要求に同情的だった胡耀邦が死亡し、天安門事件で後任の趙紫陽が失脚し、江沢民が就任していた。中国も動乱の次期だった。
2)日本人の共産軍への参加:
MOTOYAMA氏の語り以外で独立した文献を探した。それによると、中国共産党は、日本の敗戦後満州(現在の中国東北部)に残留した日本人に蒋介石と戦うことを要請し、それを受けてその戦いに青春をささげた若者も大勢いたという。http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/fangtan/200601.htm
この記事は2006年に書かれ、その記事の著者である武吉次朗氏は、その後中国の中日関係史学会の編集した本を翻訳している。『新中国に貢献した日本人たち』の題で出版されたのは、2019年10月1日である。この日付も何か中国の国際社会での位置を反映しているようにも見える。それは兎も角、上記記事は以下の文で始まる。(補足2)
「留用」という言葉をご存知だろうか。「一定期間留めて任用する」という意味の中国語だが、「留用」に人生を賭け、青春を捧げた日本人が、60年前の中国東北部におおぜいいた。
そして、「中国側の史料によると、東北に進駐した八路軍の医療要員は千600人だったが、「留用」された日本人の医師・看護師など専門職は3000人いたという。「留用」者は全部で1万数千人、家族を含めると2万数千人にのぼった」と書かれている。
それに続いて:
人民空軍創設のためパイロットと地上勤務要員の育成に協力したのは、林弥一郎氏の率いる元関東軍第四錬成飛行隊の300人だった。また民主連軍の蕭勁光副総司令官の運転手は元日本兵だったし、筆者の友人も、ある兵団司令官の運転手を務めた。
上記林弥一郎氏は、MOTOYAMA氏の動画では、中国人民解放軍で初めて空軍を作った人として紹介されている。そして、中国空軍の指令官の王海(ウイキペディア参照)という人は林氏の生徒だという。http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200603/zhuanwen64.htm
この歴史は日本も中国も喋りたくない歴史のようである。ただし、国交30周年を記念して2002年にNHKで放送されたという。
3)天安門事件後の中国に対する日本及び米国の姿勢
中国人民解放軍第4野戦軍で戦った日本人17名が中国を訪れ、中国側からも篤い接待を受けたのは、1989年6月4日の天安門事件の次の年の事である。日本記者クラブのサイトに、その直後の日中関係の動きを解説するある記事を見つけた。その一節を紹介する。https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/35017
7月、フランスで開かれたG7アルシュ・サミットでは、中国を非難し制裁を実施する政治宣言(閣僚などその他ハイレベルの接触、武器貿易停止、世界銀行の新規融資の審査停止)が採択された。賛同した日本は第3次対中円借款を凍結した。宇野政権が短命に終わり、海部政権の下で、対中制裁に加わった日本と中国との関係は当然ながら悪化した。こうした中、日中修復への第一歩として白羽の矢が立ったのが、伊東正義だった。
伊東正義の訪中は、事件から約3ヶ月後(9月17日)のことである。その日、李鵬首相と会談したが、そこで李鵬は以下のような内容の話をした。① 米国が対中制裁の先頭に立つ一方で、「友好のシグナルを送ってきている」こと、②「西側の対中封鎖を打破するのに日本は大きな役割を果たせる」ことの二つだった。
前者は、ブッシュ米政権が天安門事件後いち早く送った大統領の親書であり、それをもって極秘裏に進められたブレント・スコウクロフト(米国家安全保障担当大統領補佐官)の訪中(7月1日)を指していた。その前日、米政府は対中制裁措置として「政府高官の接触禁止」を世界に向けて高らかに宣言したばかりだ。自らその「禁則」を破ったのである。
中国は、西欧諸国の作る制裁網の中に孤立していたが、最も修復したい米中関係の前に、西欧先進国の輪の中で、最も連携の弱い日本を標的にして、制裁網の破壊を企んだ。(補足3)日本は中国の積極的なアプローチに応え約2年後、他国に先駆けて対中円借款の凍結を解除する。中国の戦略は、1992年の天皇訪中までも視野に入れたものだった。当時の外交部長(外務大臣)銭其琛の回顧録にそう書かれているという。
現在の日本では、この宮澤喜一など自民党の一連の対中政策を愚かなことと一刀両断にする。しかし、この米国の動きを見て、この記事の筆者である鈴木美勝氏は、三度目のニクソンショックもあり得ると書いている。
1度目は言うまでもない1972年のニクソン大統領の電撃訪中(2月21日)であり、同年9月田中角栄は中国を訪問した。https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/25230
毛沢東は田中に、「日本には4つの敵がある。米国、ロシア、ヨーロッパ、それに中国である。それでは今後大変だ。我々と手を組まないか」と言ったこと、ニクソンに随行したキッシンジャーが日中国交回復を知って「ジャップめ‼」と怒りと憎しみに震えたことなど、過去のブログにも書いた。
そして、2度目のニクソンショックとは、今回のテーマの「天安門事件の後でいち早く裏で動き出した米国のブッシュ政権」のことである。そして、あり得るかもしれない三度目とは、今年或いは来年のトランプ或いはバイデンによる米中の電撃和解である。
全てに関係するのは、キッシンジャーなる人物と、その背後の「ロックフェラー+ユダヤ系グローバル資本」などだろう。米国を、第一の反日国家にしてしまった不幸は、日本民族が滅びるまで続くのだろうか?その原因は、やはり満州利権を米国に一歩も譲らなかった明治の藩閥政治なのだろうか? 吉田茂の売国奴的政治も、破滅へロックインされた日本歴史の一里塚に過ぎないのだろうか?https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12560835048.html
補足:
1)日本の総理大臣とその任期: 竹下登、1987/11/6〜1989/6/13; 宇野宗佑、〜1989/8/10;海部俊樹、〜1991/11/5; 宮澤喜一、〜1993/8/9;
米国大統領とその任期:George H.W. Bush, 1989/1/21〜1993/1/20; William J. Clinton,1993/1/20~2001/1/20;
2)『新中国に貢献した日本人たち』中国中日関係史学会編、武吉次朗訳、日本僑報社刊 http://duan.jp/item/57.html この本の推薦の言葉として、日本から後藤田正晴氏の言葉と、中国からが厲以寧氏(中国中日関係史学会会長)の言葉が掲載されている。
https://www.value-press.com/pressrelease/229202
3)中国は日本となら、政治的に配慮すべき借り貸し関係を無視して利用できると考えた。しかし、中国側が弱みを抱えたまま米国と制裁解除の交渉をすれば、その外交的貸し借り関係が発生すると考えたのである。如何に軽く日本を考えているか判るだろう。(日本を軽く見る第一の理由は、日本の非武装中立主義であり、非核宣言である。軍備は基本的に野生の関係で動く国際関係において絶対的である。)
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