1)中国と西欧の学問と伝統:
中国文化の基礎をなす学問は観念論的であり、西欧の合理主義とは大きく異なる。孔孟の思想は、人間社会の基礎を築く知恵を含むが、朱子学など後世の儒学は、自然界や人間界の成り立ちを観念論的に追求している。朱子学の理気二元論では、理は全宇宙を支配する法則であり、気はそれを構成する具体的な要素である。この天の理(天理)として、中華帝国が存在すると考えるのが中華思想である。
漢の武帝が司馬遷に書かせた史記は、天命によって皇帝となった漢王朝の正統性を示すための歴史書である。天を最高神とし、皇帝をその命によって地上を支配する神と考えることの要請を、被支配民にはどのように映ったかは分からない。しかし、1000年以上経って、中華思想が出来、それが被支配民を含めた知性の中に固定化したのが朱子学だとすれば、天の理に反する人物が皇帝に座れば、その帝国が滅びるのは当然であるとして、漢の武帝の正統性も易姓革命も自然に理解される。(追補1)
つまり、漢民族にあっては、中華思想が皇帝よりも普遍的であることを意味する。何千年も蛮族との戦いの中で、支配された時間の方が支配した時間より長い中国人にとって、中華思想は今や民族のアイデンティティではないだろうか。それは、日本にとっての伊勢神道と天皇のようなもの、或いはそれ以上だろう。
中華思想は、自国だけでは完結しない。周囲の蛮夷の族の直接或いは間接の支配が不可欠であるところが、国民の安寧を祈る日本の天皇とは異なる。自分たちにはあまり興味のない土地の国は、朝貢国とし、利用価値の高い土地の国は、直接支配して蛮夷の族として成敗し、土地を取り上げることになるだろう。(補足1)
また、高度な観念論的学問は、互いに相容れない学派を為す。そして、それは議論を通して成長するということはない。朱子学と陽明学は、永久に統合されない。つまり、中国の学問とは、宗教と科学が未分離の状態にある。(補足2)従って、議論を通して成長することなないし、より真理に近づく動機も目処もない。成長のない学問では、秀才ほど疲弊し思考力を失う。日本独自の文系学問も同様である。
一方、西欧の学問には学派はあっても永続的ではない。真実は一つだからである。世界は、完全に記述可能であると仮定されるが、その本質を一人の思考だけでは決定しない。西欧の学問体系は参加者全てに開かれており、多くの参加者の提案と検証により、徐々に定着し、成長する。 参加者の考えを同じプラットフォームに載せるために、言葉は必ず定義とともに用いられるなど、論理には特に注意を払う。
自然界の理解に於いても、無限に近い人数の研究者が、自然に対して実験という手段で教えを請い、大きなジグソーパズルをつなぎ合わせる形で発展した。そのピースそのものも連続的に精緻化される。科学的議論の場では、権威ある人と学生の区別はない。学問の境界も、その分野の権威も、議論に影響する形では存在しない。文系理系という分類もない。(補足3)
2)現在の中華思想
中華思想は、自国が地上の頂点だという思想である。他国の利益を侵害してまで、自国の利益を追求することは、現代の国際社会の考え方では通常は受け入れられない。現在の中共政府は、中華思想を共産党の世界革命の考え方で強化して、国際的合意を受け入れない。
理解を容易にするため、個人の場合を考える。個人が、自分が最も大事だと考えるのは当然である。しかし、その主張が、同じ国内に居る他人の権利を侵す場合には、その権利の主張は抑えなければならない。それを強制するのは、国家権力である。国家権力の及ばない領域では、問題は複雑になる。(補足4)
主権国家体制が受け入れられている現代の国際社会でも、国連の常任理事国が関与するケースでは、国家間の紛争を解決する権威も権力も存在しない。従って、外に主張する中華思想として具体化された一帯一路構想や、その手始めに国際条約を無視してなされた南シナ海の岩礁の軍事基地化は、東南アジア諸国等への侵略行為であり、国際社会への挑戦である。西欧文化として成立した国際秩序を破壊する戦争である。
西欧文化としての国際秩序を無視するのは、中国のアイデンティティと言うべき中華思想に由来すると思う。それを明確に示す中国高官による発言が幾つも存在する。
何度も紹介したのは、国家元首格を有した朱徳元帥の外孫である朱成虎(国防大学の防務学院院長)による、核戦争こそ人口問題を解決するもっとも有効で速い方法であるという発言である。そのターゲットとして考えているのは、どうやら日本やインドのようである。(ウイキペディア参照)
もっと、直接的な中華思想を主張する発言もある。それは現在の副主席の王岐山が、2015年に中国を訪問したフランク・フクヤマとの会談で語った言葉である。フクヤマの質問から紹介する。http://heiwagaikou-kenkyusho.jp/china/734
https://www.zakzak.co.jp/smp/society/foreign/news/20161205/frn1612051530004-s2.htm
フクヤマ: 「法律の精神源は宗教にある。宗派間の衝突から一定の相互監督作用が生まれ、最後に神が真理を判定する唯一の基準となり、統治する力となった。だから法律(神)の前で人は平等である。法の支配、司法の政府からの独立はこのようにして実現された。」 (補足5)
そして王岐山に対して、中国で法の支配、司法の独立を実現できるかと尋ねた。
王岐山:「それは不可能である。司法は絶対に党の指導下になければならない。これは中国の特色である。憲法は人が書いたものに過ぎない。憲法は神聖でなければならないが、神ではない。公衆の法である。中国の皇帝は神であり、天子と呼ばれた。日本には天皇があり、英国には女王があり、ともに立憲君主であるが神ではない。」と答えた。
(編集:本文最初の部分を修正 10/1/5:00)
補足:
1)李氏朝鮮の悲惨な状況の一因は、朱子学を受け入れ仏教を排した事だと言われる。支配層の両班以外は、文字の使用などは禁じられ、弱く且つ無学の存在であるべきとして抑圧された。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/09/blog-post_27.html
2)性善説の孟子と性悪説の荀子もぶつかったままである。善と悪は、社会の安定と機能保持のための概念である。野生動物に善も悪もないのと同様、生まれながらにして、というなら善も悪もない。
3)学問とは哲学であり、哲学に境界は無い。哲学者デカルトは数学者でもあったし、多くの箴言をパンセに残したパスカルは、圧力の単位パスカル(気圧では百パスカル=ヘクトパスカル)に名を残す科学者でもある。博士号はPh.D(doctor of philosophy)と書き、日本語で哲学博士である。
4)難破船から救命ボートで脱出した3人が、弱った1人を犠牲にして食べ生還した事件があった。結局刑法では裁くことが出来ず当時の国家元首ビクトリア女王の特赦により禁錮刑とされた。https://ja.wikipedia.org/wiki/ミニョネット号事件
5)法治が定着する土壌として、一神教があるということである。日本も法治国家とは言えないのは、加計問題などで明らかである。伊藤詩織さんを強姦した山口敬之を、司法を私物化して助けた安倍前首相の悪行は後世に語り継がれるだろう。
https://news.livedoor.com/article/detail/13187244/
追補
1)この部分はざっと現在の私の理解を示したもので、深くはない。荒川紘という方(同じく理系の方のようだ)による、世界の「天」に関するより深い解説は、(荒川紘 天の思想史)で検索して見つけてください。
0 件のコメント:
コメントを投稿