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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

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2020年9月28日月曜日

井上陽水の「ワカンナイ」と宮澤賢治の「アメニモマケズ」

1)モチーフ:

 

陽水は日本の産んだ世界トップクラスのシンガー・ソングライターである。サイモンとガーファンクルなど多くの世界的アーティストと同レベル(日本ではそれ以上)の評価がされるべきだと思う。(補足1)以前、「傘がない」と「氷の世界」の歌詞について分析してみた。今回は陽水の歌詞の全体に見える「原点思考」について、考えてみる。(補足2)

 

この視点から最初に取り上げたいのは、「ワカンナイ」である。陽水に「君の言葉は誰にもワカンナイ」と歌われた対象は、宮沢賢治の遺作「雨ニモマケズ」である。今は知らないが、昔は義務教育の中で必ず教育されていたので、多くの日本人はこの詩を覚えているだろう。

 

以上は、最初に浮かんだモチーフである。しかし、ネットで調べ、色々と考えて行くと、途中で計画変更せざるを得なくなった。この部分をそのまま残すのは、以下の文章を含めて、全体としてわかりやすいと思うからである。

 

2) 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」について

 

一般には、「雨ニモマケズ」は不完全な形で引用され、議論されている。この詩は宮沢賢治が病床にあっても携帯していた手帳にメモ書きしたもので、発表することを前提に書かれたものとは断定できない、死後発見された作品(遺作)である。この発見に至るまでの情況も、この詩を鑑賞する上で欠かせない。

 

井上陽水が「ワカンナイ」のは当たり前である。60年ほど前に、私もこの詩を学校の国語の授業で習ったのだが、陽水同様に全く理解できなかった。その理由が今漸く解った。上記モチーフを抱きつつ、パソコンに向って

調べ、初めてわかったのである。

 

一般に引用されるこの詩の言語的な内容は、簡単である。つまり、「元気な体を持ち、自分の暮らしは質素で良いから、弱い人、困った人を助け、地域や社会の為に役立ち、目立たない人生を送りたい」という意味の詩である。

 

ただ、この詩を青空文庫でみると、最後に南無無辺行菩薩 南無上行菩薩 南無多宝如来 南無妙法蓮華経 南無釈迦牟尼仏 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 が付け加わっている。しかも南無妙法蓮華経だけ大きく書かれているという。この事実は非常に重要である。つまり、この詩はこれらを含めて鑑賞しないと解らない。不完全な形で提供された詩が理解可能な筈がない。

 

つまり、仏教を信じていた宮澤賢治が、その実践として、清楚な人生を送り徳を積みたいという気持ちを詩にしたのである。その祈りの文章の前半がこの詩であり、それに続いて七行のお経が後半というか本体として存在するのである。この詩の記事や感想文などは多いが、宮澤賢治はこの詩を発表していないこと(発表する気は無かっただろう)、及び、この念仏の七行を無視している場合が多く、それではまともな鑑賞とは言えないと思う。(補足3)

 

ウィキペディアによると、この詩の評価について論争があったようで、戦前から戦中にかけて谷川徹三(哲学者で、宮澤賢治の研究家)は高く評価したが、戦後中村稔(詩人)は、過失のようなものと評した。二人の論争は、ウィキペディアの「雨ニモマケズ」や「谷川徹三」の欄に書かれている。

 

私は、論争そのものを資料で読んでは居ないのでわからないが、恐らく、上記七行のお経を含めないでなされた論争の可能性が高い。もし、手帳のままにこの詩を提供されていれば、論争など起こらないだろう。そして、秀作であるという谷川徹三の評価が多くの支持を得る筈である。中村稔は、後に不毛の論争であったと何かに書いたようだ。

 

資料を探しているうちに、優れた解説を見つけた。「あゆレビ」というブログである。そこには、七行のお経のことも、「宮澤賢治は発表する気がなかったのではないか」ということも書かれている。更に驚くべきことは、宮沢賢治が「こう言う人に私はなりたい」として「雨ニモマケズ」のモデルとなった人が実在したというのである。https://i-revue.com/amenimomakezu-arasuji/

 

その人とは、岩手県東和賀郡笹間村(現・花巻市)出身でキリスト教徒の、斎藤宗次郎であるとそのブログに書かれている。一部を再掲する。

 

斎藤は明治10年2月20日の生まれで昭和43年1月2日に亡くなっており、ちょうど賢治の活躍期と重なっている。斎藤は花巻市で小学校の教員をしていたが、キリスト教徒という理由で職を追われ、のちは新聞取次店を営みながら福音運動に励んでいた。賢治と斎藤は同郷の出身であり、日蓮宗(国柱会)の信者だった宮沢賢治とは宗派を超えた交流があったといわれる。

 

 

3)井上陽水の詩「ワカンナイ」

 

ここで、井上陽水が宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」を取り上げ、「ワカンナイ」という詩にして歌った背景などを考えてみる。非常に”硬い話”から始まるが、最後まで読んでもらいたい。

 

以下は近現代史を視野においた歴史の4段階である。

 

① 言語、社会、宗教は、3点セットで発生発展した。

宗教は社会の形成(別の言葉で、人々の集団としての団結)を目的として作られた。その宗教と同時に発生したのが言語であると私は考えている。それら言語、社会、宗教のセットは、太古から古代に大きく成長した。”眼に見える”社会の成長のみが歴史学として注目されるが、言語と宗教の成長も同時に注目すれば、全体が一括して理解できると思う。(補足4)

 

② 宗教から科学へなど、宗教からの解放の時代:

宗教から科学へ(バートランド・ラッセル)は、近代の合言葉となった。これは、ルネッサンスに始まり、産業革命で加速される。

 

③ 言語、社会、法律という新しい3点セット:

社会が成長して、宗教に取って代わるものが出現した。それが「科学と法」である。このモデルは既に本ブログ全体の基本的考え方として、明確に書いている。しかし、ここでは抜けている重要な視点がある。それは「大衆の反逆」(オルテガ著、岩波)という視点である。(補足5)

 

④ 脱近代化の時代:新しい社会主義が、今後10年間で議論される筈である。資本主義とそのグローバル化は既に破綻の時期である。限界に近い自由主義&民主主義へのアンチテーゼが中国の独裁だろう。トランプ米大統領は、その止揚のプロセスを模索しているようにも見える。勿論、単なる米国のエゴイズムの可能性もある。米国のエゴイズムなら三度目のニクソンショックとして、欧州と日本を驚かす筈であるが、今回は三度目の正直だろう。(23日の記事参照)

 

「科学と法」の論理では、個人の大部分(行動と時間)は社会(法で定められた社会)から解放される(③)。その結果、獲得されたのが「人権と自由」であり、束縛として残されたのが「公共の福祉に反しないという義務」である。井上陽水は、「科学と法」の世界に生まれ育っている。そして、新しい世界(近代と呼ぶ)の中に残る残渣としての宗教臭強い宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」に反発を感じたのである。

 

近代はあくまで近代であり、現代でも未来でもない。「科学と法」が万能かといえばそうではない。法は網に過ぎず、連続した空気のような媒体ではない。科学はモデルあるいは仮説に過ぎず、真実とはいえない。宮澤賢治が歌った宗教的思想は、その弱点を埋める連続した媒体あるいは「空気」として社会に充満させる道徳として存在し得る。

 

近代西欧人は、人類を解放した。宗教改革やルネッサンスである。しかし、その結果作り上げた法と科学の世界は、行き詰まりかけている。大衆の叛逆を裏底の政府(ディープステート)で誤魔化したものの、限界である。人間は神には程遠いからである(②)。その事実を”これでもか”と確認するように見せつけているのが、行き過ぎたグローバル経済であり、それを共に築き上げた中国の共産党政権である(④)。

 

井上陽水の「ワカンナイ」は、「雨ニモマケズ」へ疑問を呈したものだが、陽水のこの詩に返答するべきなのは、我々現代人である。つまり、上記④の段階の歴史構築である。

 

歴史は周る。近代は宗教から人間解放への方向に進んだ。そして、現在の世界の政治経済は原点を通過し、ウォール街の巨大資本などの暴走の結果としてのグローバル化経済と、中国の厚黒学(厚かましく腹黒く生きよ)や超限戦(あらゆる角度から戦争を行うべき)を産み出した。従って、原点に回帰し、再度新しいバージョンの宗教(たかい教え)への方向、或いは、新しい科学的政治の構築を目指すべきである。そうでないと、人類は死滅するだろう。

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=OKHZpLffhZQ

(編集あり、17:12;再度編集、9月29日午前9時)

 

補足:

 

1)本当はビートルズと比較したいのだが、ビートルズの詩は陽水のように斜めに構えた詩ではない。yesterday にしろ、let it be にしろ、楽曲は美しいし、歌詞の意味も明快である。サイモンとガーファンクルの例えば、明日に懸ける橋(bridge over troubled water)は、意味深長だが若干解りにくい。堅牢な常識に挑戦するには、斜めに構えるしか方法がない。従って、ビートルズと井上陽水は比較の対象にはなりにくい。

 

2)このモチーフで進めば、「夢の中へ」を取り上げる筈だった。「探しものはなんですか?」尚、斜めからという視点ではない名曲に、「少年時代」や「心もよう」などがある。

 

3)先日のテレビ番組「プレバト」で、俳句に前文をつけることがあると言っていた。この「雨ニモマケズ」という詩では、後のお経が前半の詩の理解に不可欠だと思う。

 

4)この「言語の進化論」については、このブログでも書いている。:

「言語の進化論(1)」https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12482529650.html

この着想は、既に5年以上前にあった。そこには以下のように書いている。

 

人間の進化も、言語と文化および社会の進化と、不可分だと思う。その人間と文化(文明)の相互進化は、人間の文明(文明化社会)に対する家畜化という形で理解できる。(2015年3月12日のブログ記事:「文明により改造、家畜化される人間」)https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/03/blog-post_36.html

 

 

5)重要な誤解があれば、後に記事として書きます。二冊の本を読んだ次期が10年以上離れており、検証するには多少の時間を要しますので。

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